「怖くなった?」
少年の肩に、彼女の両手が置かれる。
「怖くないです」
きっぱりと答える少年。
「男の子、だから?」
からかうようなその口調に。
「悪いですか?」
心なしか、口を尖らせてむきになって言う少年、カント。
それが可笑しくて、彼女は…源野三尾は微笑む。
何となく、彼らしくないその行動が。
マイペースで、周りに無頓着。
自分の知的好奇心を満たすことにしか興味がなさそうな天才少年。
それがカント・ケストナーに対する周囲の認識。
ほんの数時間前、彼と初めて対面した三尾も、そんな第一印象を持った。
もっとも女性にとっては、それよりもまずその愛らしい容貌の方が強く印象
に残る。
たとえ研究一筋の三尾にしてもそれは変わらない。
いや三尾が決して研究だけに没頭している朴念仁ではないことは、今の彼女
の出で立ちに現れていた。
軍港の街、佐世保で開かれた「オルファン対策会議」
ノヴィス・ノア計画に関与する政財官絡みの肝いりで開かれた政治的意図の
ある催しという多少特異な状況とはいえ。
研究者にとって晴れ舞台とも言える学術的発表の場には変わらない。
そこへ桑原教授の補佐とはいえ招かれたからには、いつものようにボサボサ
の髪に汚れた白衣というわけにはいかないのは当然だが。
それにしても今日の三尾の服装は特に気合が入っていた。
友人の美容師任せとはいえ丁寧にブラッシング&ブロウしてアップに纏めた
ヘアスタイルも。
同じくスタイリストの友人に用意してもらった、スカーフなど服飾や色使い
が少し派手すぎるとも言えるカジュアル・ワンピースも。
気合が入りすぎて、やや場違いとすら言える物だった。
三尾は決して容姿が劣る女性ではない、むしろ顔立ちは整っている。
そしてフィクションでよくあるような、自分の魅力に気づかずに勝手に容姿
にコンプレックスを抱えているようなタイプでもない。
今日の出掛けに準備を整えて鏡を見ての感想は。
「わたしも捨てたものではないわね」
特に過信もしていなければ卑下もしていないものだった。
そんな彼女が今いるのは、佐世保のホテルの夜景の見える部屋。
本当なら桑原博士と共に日帰りする予定だった彼女が、夜景の見える時間に
まだ佐世保にいるのは、今目の前にいる少年・カントが原因だった。
特に尊敬しているわけではないが、師事し助教を勤めているという関係を
抜きにしても優れた学者だとは思う桑原教授。
彼女が今、学術的視点から深い興味を寄せている、生意気だがどこか憎め
ない少年である伊佐未勇の父親だという点を考慮しても人間的にはまったく
好感がもてないが、研究者としては認めざるを得ない伊佐未研作博士。
その二人の相反するがどちらが間違いと指摘するのは困難に見えた論を、
いとも簡単に論破してしまった。
そして現れたグランチャーと、迎撃に出たブレンパワード。
今彼女が最も興味を引かれている二つのものがぶつかる場に平然と近づき、
己の理論の正しさを実践して見せた。
そんな少年、カント・ケストナーと話をしてみたくて。
グランチャー襲撃の混乱が収まったところで、桑原博士にこの場に残る事を
伝えた三尾は即座にカントに接近した。
先ほど壇上で顔をあわせてはいたが、言葉は交わしていないので自己紹介を
すると。
「先ほどは突然失礼しました」
礼儀正しく会釈するカント。
どうやら思い立ったら行動に移ってしまう性格だが、決して礼儀知らずなど
ではないらしいと見て安心する三尾。
興味深い話を聞くためとはいえ、自己中心的な人間と接するのは苦痛だから。
そもそも彼女が学究の世界、それも研究者の少ない分野に入ったのも、人間
関係のわずらわしさから逃れたいという思いがあったからでもある。
もっとも実際には彼女自身が自分の興味を最優先しがちな実に自己中心的な
性格の持ち主なのだが。
それはともかく、思ったよりも素直そうな性格の上に。
初めて見たときからある程度わかってはいたが、こうして近くによって見る
と本当に美少女と見紛うような可憐な美少年。
(天に二物も、三物も与えられているわね…)
そう思いつつ、先ほどカントが述べた理論や、ブレンやグランチャーに実際
に接してみた感想を聞きたいと率直に申し出ると、カントは快諾した。
「そう、ありがとう、じゃあまずは食事でもご一緒しながらお話しましょう」
言いつつ彼女はカントの腕をとった。
思いの外あっさりと希望が叶えられた嬉しさ。
そして多分知力では自分が勝てないであろうことはわかっていても、やはり
相手はまだ子供であるという無意識の気安さ。
その二つが相乗効果となっての行動だった。
場合によってはいきなり気安いと怒りかねない、少なくとも伊佐未勇ならば
絶対に怒るであろう行為。
だが温厚なカントは怒らないどころか、軽く頬を朱に染めた。
(悪い気はしないわね)
カントが自分に腕を組まれて、頬を赤らめたのを見た三尾の、それが第一の
感想だった。
こんな風に「女」として意識されるのは滅多に無い経験。
たとえ相手が、天才とはいえまだ幼さすら残る少年であろうと。
いやむしろ、少年であるからこそ嬉しいのかもしれない。
そう、彼女が無意識に遠ざけてきた、悪い意味での男性的なところがこの
少年にはまるでないのだから。
(ううん、悪い気がしないどころじゃない、わたし、嬉しいの、いえこれは
ときめいているの?)
容姿には不自由していない三尾が今まで男性に縁が無かったのは。
研究に没頭している生活が主たる原因だが、彼女自身のパーソナリティにも
大きく起因している。
性格が悪いからではない。
確かに容姿に問題が無い上に、性格にも瑕疵のない女性がフリーなどという
ことはフィクションの世界にしかありえないことであり、実際に三尾は少し
自己中心的性格の気があり、かつ何かに夢中になると回りに目もいかず気も
つかなくなる難儀な性格だが。
そういった性格は、むしろ男性と関係が出来た後、その関係を維持すること
を困難にする要因である。
無意識のうちに男を倦厭する態度、問題はそれに尽きる。
自分の方から積極的に関係を持とうとしないのでは、ただでさえ出会いの
少ない生活環境にいるのだから、いかに三尾が容姿には不自由していない
とはいえ男性に縁が無くてもあたりまえだ。
これで同性愛嗜好だったり、もっとはっきりとした男性恐怖症や嫌悪症が
あればまだ自覚出来ただろう。
積極的な「男嫌い」ではなく、消極的な「男なんてどうでもいい」という
投げやりな感情だから自覚がしにくいのであった。
だが今、三尾は今まで自分が積極的に男性との交際を求めなかった理由が
さながら天啓を受けたようにはっきりと感じられた。
単に、好みのタイプが周囲に存在しなかったのだ。
他人の目などさほど気にしない彼女でも多少の見栄はあり、いい年をして
彼氏の一人もいないことに引け目を感じてはいる。
だがそれは「モテないイケてない女」と見られることへの屈辱感だけで、
男がいなくて寂しいという感情を覚えたことは無かった。
だから、今カントが自分の存在を意識して頬を赤らめたことを嬉しく思う
この気持ちは、決して男日照りで飢えていて、子供相手にも見境いも無く
反応しているわけでは断じてない。
初めて「好みのタイプ」に遭遇し、しかも実にいいシチュエーションへと
突入しているのだ。
少年趣味。
自分にそんな嗜好があることは今の今まで気づいていなかった。
だがこの胸の高鳴りは、自分自身でも知らなかった真実を語っている。
そう、これはもう少年趣味とか、少年愛好などというものではない。
本格的な恋愛感情、その予兆だ。
今まで美少年の類に出会ったことがないわけではないのに、この嗜好に気
がついていなかったのは、本気になれる相手がいなかったからだろう。
可愛い、だけではダメだ。
どこかに自分より優れて、尊敬できる点が無ければ愛玩動物と大差ない。
その点で、初めて相応しい相手が目の前に現れた気がする。
カント・ケストナーは。少女と見間違う美少年でありながら、その知性は
三尾にひけをとらないどころか勝ってさえいるのだから。
カントの頬の赤らみを視認してから三尾が結論に至るまでほんの数秒しか
経っていなかった。
その短い時間の中で、彼女の感情はこのように推移し、結論し。
そして自らの頬をも赤く染めた。
ホテルのサパーフロアで食事を取りながらカントの話を聞いている間。
三尾はさきほど感じた胸の高鳴りを抑えていられた。
彼の口から語られる興味深い話に、知的好奇心が刺激されるおかげでそちら
の方に気をとられるから。
本来、それが目的で彼に声をかけたのだから当たり前といえば当たり前だが。
とりあえず食事を終え、食後の喫茶も終えたが、カントの話は尽きない。
三尾が話を聞きたかったのは事実だが、どうやらカント自身も話をしたかった
らしい。
にこやかに、楽しそうに、語る学究の美少年。
自分の知識と慧眼を誇るような口ぶりではまったくなかったから、純粋に話を
理解できる相手が欲しかったのだろうと、三尾は思った。
話相手が自分だったから嬉しそうなのだ、と自惚れられるほど幸せな思考回路
は彼女にはついていない
どこか別の場所で続きを、と切り出した三尾にカントは答える。
「それなら僕の部屋に来ませんか、どうせ一人ですら」
事も無げに。
何の邪気もない声で。
そう、若い女性を夜に自分の部屋に呼ぶということがどういう意味を持つか。
それがわからないほどに幼くはないカントだったが、咄嗟にそういう選択肢を
避けるほどには大人ではなかった。
「………」
「…あの?…あっ!」
自分の提案に対して、三尾があっけにとられているのを見て、ようやく自分が
何を言ったかに気づいたカントは、再び顔を赤らめる。
「ご、ごめんなさい、別に変な意味は…」
ずっとマイペースで喋っていたカントが初めて見せた慌てるさまに三尾の中で
も、学術的興味で抑えられていた感情が蘇る。
「可愛い」という感情が。
自分の頬も赤く、熱くなりそうなのを驚異的な自律能力で抑制した三尾はその
かわりカントに微笑みかける。
精一杯「大人の余裕」を演じながら。
ローティーンの男の子に、部屋に来ないかと誘われて顔を赤らめる。
四捨五入すれば三十の女として、流石にそれは憚られた。
先ほどは、カントのような穢れのない少年が好きなのだと自らの秘めたる性癖
を認識したばかりだったが。
それが即、行動様式・思考形態のシフトに繋がるほど人間の心理というものは
フレキシブルには出来ていない。
年下の少年から秋波を寄せられても、あからさまに喜んだり、逆に拒否反応を
示すのは避け、まずは余裕の態度で受け流す。
浮き足立ってはいけない、それが大人の女の嗜みというもの。
仕事柄、そして本人の性格的な物もあって浮世離れしている三尾も、こういう
場合はそのような認識から来るステレオタイプ的リアクションをしてしまう。
だが、実はそれ自体が彼女が浮き足立っている何よりの証拠だった。
なぜなら別にカントが三尾に対して好意を示したわけではなく、単なる失言を
したに過ぎないのだ。
失言の後で頬を赤らめはしたが。
にも関わらずそのような構えた態度をとること自体、彼を過剰に意識している
という証拠なのだが、今の彼女はそれに気づいていなかった。
思わぬ失言に慌てふためいたカントだったが、三尾の微笑を見て少し落ち着く。
だがその代わり、急速に心が痛くなっていた。
(…この人も、僕を子ども扱いする方の人なの…学者としては認めてくれても、
大人の女の人から見たら、やっぱり僕は子供なんだ…)
日頃から感じる周囲とのコミュニケーション齟齬。
だが今夜のカントは、今までのようにそれを天才少年という立場ゆえの代償と
して甘受する気にはなれなかった。
これによってただ学術的会話をして終わるはずだった二人の縁が絡み合うこと
になるとは知らずに。
「いいんですか、初対面の相手を信用して」
余裕の笑み、正確には余裕を装った笑みを浮かべていた三尾だったが、落ち着き
を取り戻したカントが、妙に取り澄ました顔で言った言葉に面食らう。
普通なら「子供」がこんなことを言えば、生意気と思うか、背伸びをして可愛い
と思うだろう。
しかし先ほどのような狼狽もなく、しかも真顔で言われてはどう受け止めていい
ものやら。
何しろ相手は天才少年、外見がどれほど子供らしくても、知能だけでなく精神的
にも成熟していないとは限らない。
思わず相手の様子を伺うような顔になってしまった。
自然体で大人の余裕ではなく、実際は余裕を装っているだけなのが如実に現れた
形だ。
だが相手のカントも、知能とは裏腹に子供らしい心根の持ち主。
旺盛な知識で無理に大人びた態度を形作っているだけ。
自らが無理をしているのだから、三尾の無理を見抜くことは出来ない。
彼女の顔から余裕の笑みが消え、なにやら訝しげな表情になったことで焦燥感に
かられてしまう。
「い、いえ、嬉しいんですよ、信用してもらえるのは…ただ」
ただ、ただなんなんだろう。
自分でも明確な答えのないままに話し出したため、とりあえず思いついたことを
そのまま口にしてしまう。
「ただ、あなたみたいに綺麗な人は迂闊なことをしない方がいいですよ」
言い終わってから、カントは顔を赤らめる。
(な、何を言ってるだろう僕は…)
子ども扱いされたくないと背伸びしたはいいが、その背伸びがあさっての方向へ
向いてしまっているのを彼の優れた知性は経験値なしでも理解していた。
だがそれは偽らざる気持ちでもあった。
客観的に見ても、今夜の三尾は元々悪くない容姿を精一杯に飾り立てていて少年
の目には眩しいほどだったのだ。
(あらあら、顔を赤くしちゃって、気障な台詞もそんな顔で言っちゃ意味ないわ)
男女の機微に詳しいとはお世辞にも言えない三尾だったが、そこは年の功。
先に相手の無理を見抜いたのは彼女の方だった。
少年の精一杯の背伸び。
それを促したのが自分だということが、自尊心をくすぐる。
ましてや自分がカントのような少年が好みだと自覚した後である。
いささか愚かしいともいえる自尊心の満足は、すぐにより真摯な想いへと姿を
変える。
再び薄化粧越しに、頬が赤くなっているのをカントに悟られまいと焦る。
(もしかして…)
自分自身も期待しているのか、これから先に何が起こるかを。
そう考えて三尾はなおさら顔が熱くなる。
もしこれから先にそういう展開になるとしたら。
客観的に見れば自分のやっていることはかなり痛い。
日頃はしない精一杯のお洒落をして、年端もいかない少年を誘惑する女…。
自己嫌悪に陥りたくなるほどの痛さ。
だがその一方で開き直った感情もまたある。
別に男に相手にされないから少年に走ってるわけじゃない。
少年が好きだから、少年に迫る。
それのどこが悪いの?と。
青少年育成保護条例に思いっきり抵触していることには気づかず、自らの性癖
を少なくとも心のうちでは隠すことをしない三尾だった。
しばしの沈黙の後。
無言のままではあるが、同意を得たかのように部屋へと足を運び出す二人。
三尾とカント、二人の考えていることは同じ。
このまま夜が更けていくに連れて、二人がどんどん親密度を増していき、最終
的には…。
そんなことへの、期待と不安が同時に湧き上がっていた。