その夜、クインシィ・イッサーは寝つかれなかった。  
目を閉じて、ベッドに横たわってみても、なかなか睡魔が襲ってこない。  
昨夜もそうだった。  
ベッドに入ってから起き上がるまでの時間は六時間以上あったが、実際の睡眠時間  
は半分の三時間にも満たなかったろう。  
このままでは今夜も同じことになりそうだ。  
「なんで…気にかかるんだ…こんなこと」  
 
昨夜、クインシィは同じグランチャー乗りであるカナン・ギモスと口論の末に手を  
上げてしまった。  
それ自体は気にかけるような事でもない。  
問題は口論の原因だった。  
些細なこととか、取るに足らないことであればまだいい。  
「わからない」  
それが正直な感想だった。  
何故カナンに急に腹が立って引っ叩いてしまったのか…。  
確かに平素から、カナンは気に入らない方だ。  
リクレイマーのリーダーである自分に従わないから。  
かと言って積極的に反抗するわけでもない。  
反抗的なのは彼女ではなく、いつも彼女と一緒にいる伊佐未勇の方。  
そう、勇。  
(あいつは生意気だ…一々わたしに歯向かうし、人のことを姉貴姉貴と…姉貴?そういえば  
わたしはあいつ…ううん、あの子の姉…伊佐未依々子…」  
クインシィが不意に閉じていた目を開ける。  
昼間の間、好戦的に輝いていた目が、温和な光を放っていた。  
「まただわ…またわたしは「クインシィ」に「なりきって」いたのね…」  
苦渋に満ちた呟きをもらすクインシィ、いや、イイコがそこにいた。  
(もうクインシィでいる時間の方が比較にならないほど長くなってる…)  
自分の内面で起きている現象に慄きながら、クインシィとして体験した記憶を反芻する。  
不意に、イイコの温和な目が、一瞬クインシィよりもギラついた殺意に満ちた目となった。  
昨日の出来事を思い出して。  
 
イイコはここしばらく不機嫌だった。  
最愛の弟、ユウが自分以外の女といつも行動をともにしていたから。  
カナン・ギモス。  
何度かユウとペアを組むうちに、プライベートな時間でも一緒に過ごすようになっている。  
それを見る度に歯噛みするイイコだが、何一つそれに対して打つ手を持たない。  
何故なら彼女は普段、クインシィ・イッサーという別人格に自らの肉体を委ねていたから。  
 
はじめは演技だった。  
親のエゴで可愛いユウと引きはなされ、このオルファンの中でグランチャーを動かすこと  
を強要されたまだ幼さの残る少女だったイイコ・イサミには、自分の運命を儚むことしか  
出来なかった。  
幸い見た目はただの巨像のようなグランチャーには「心」があり、それと触れ合えること  
で多少なりと心を癒せるのが救いであった。  
そして彼女を責め苛んだのは孤独感だけではない。  
オルファンの中にはリクレイマーと呼ばれる人々のそれぞれの思惑が渦巻いていた  
感受性の強いイイコは、その剥き出しのエゴを感じ取って苦悶した。  
彼女には自分自身の弱い心を守る鎧が必要だった。  
そうして彼女は弱い自分を覆い隠す「クインシィ」という鎧を手に入れた。  
クインシィは強い、寂しくないし、他人の考えなんてどうでもいい。  
ただ一つ、自分に対し無償の行為を寄せてくれるグランチャーにのみ、心を開き。  
彼らとオルファンのためには全てを蹴散らし、踏み潰していく。  
それで良かった。  
いつか全てを手にした時に、ユウを迎えに行くその日までは。  
だが。  
会いたい会いたいと願っていたユウが、遅れてオルファンに連れて来られた時クインシィ  
という名の心の鎧は、自ら意思を持っているがごとく、いや、明確な意思を持ってイイコ  
の肉体を支配していた。  
元々はイイコの意志で演技でやっていたことが、そのイイコ自身を無視して勝手に行われる。  
そう、彼女は二重人格に成り果てていたのだ。  
 
ただの二重人格であればまだ良かった。  
イイコの場合、新人格が主として表層に現れ、元の人格は完全に従として深層に引っ込んで  
しまっていた。  
クインシィとして経験したことを、イイコとしての自我を取り戻しす短い時間に思い起こして  
は落胆する日々。  
何故ならクインシィは久しぶりに姉に会えて嬉々として駆け寄ってきたユウを邪険に振り払い  
その後も健気に近づいてくるユウを冷たく拒絶し続けたのだ。  
やがてユウは、姉がすっかり変わってしまった物だと思ってしまった。  
無理もないことだった。  
そして自らも態度を硬化させた。  
イイコだけでなく、全てに。  
殊に自分と姉を引き離した両親への隔意は甚だしかった。  
(もっとも父はそんなユウの態度に眉を曇らせたものの、母はユウの隔意にすら気づいていない  
ようだったが)  
日に日に生意気で気が荒い少年になっていくユウに、イイコは自我を取り戻すたびに煩悶した。  
「あの可愛くて素直だったわたしのユウが…」  
しかもそれが、別人格とはいえ自分が冷たくしたせいなのだから、その苦悩は一際。  
クインシィとしての意識を封じ込めるその度に、ユウの元へと飛んでいって彼を抱きしめたい  
衝動に駆られた。  
だが出来なかった。  
事情を知らないユウに、何を今更とばかりに拒絶されるのが怖かった。  
肉体は自分であっても心は自分ではない、クインシィに対して向けられる敵愾心ある目を後から  
思い起こすだけで泣きたい気分になるイイコ。  
それが直接ユウから罵倒されようものなら、悲しみで悶死しかねない。  
涙を呑んで、諦めるしかなかった。  
そんなイイコの悲しみはいまや主人格の座を乗っ取ったクインシィにも当然のごとく伝播しより  
一層苛立った態度にさせることになる。  
クインシィの慰めはグランチャーで、物言わぬパートナーにだけはクインシィはイイコと変らぬ  
優しい笑顔を向ける。  
イイコにはその慰めすらなかった。  
 
いかに性格に難があっても、容貌が整った少年であるユウ。  
ましてや閉鎖された狭い社会。  
グランチャーとの親和性を見込んで連れて来られた同年代の少女達に、彼はモテた。  
悪友と言うか、悪いことを教える兄貴分のジョナサン・グレーンの存在もあり、ユウは十代半ば  
にしていっぱしのプレイボーイとなった。  
それを見てイイコは嫉妬はしたが、ユウに逢えない悲しみ、クインシィとして彼に嫌われている  
という絶望の前では何程の事でもなかった。  
そんな感情が、カナンという女の出現で、劇的に変化した  
カナンはユウよりもむしろ自分と同年代の女。  
そんなカナンに、ユウが無意識の上に姉の面影を見ているのをイイコは見て取った。  
(わたしという本当の姉がいるのに、そのわたしの目の前で、そんな「代用品」を相手にするの  
ユウ!)  
増幅されていく嫉妬心が臆病な心を打ち払ったのは一週間前のこと。  
クインシィとしての自分を意志の力で屈服させたイイコは、ある夜ユウの部屋を訪ねた。  
イイコの主観としては何年かぶりの対面だった。  
部屋をノックすると。  
「カナン、いいよ、入って」  
プツン。  
比喩で無しに、顔面の毛細血管が数本切れた。  
これが脳の太い血管なら脳内出血になっていたところだ。  
イイコが訪れたのは夜更け。  
そんな夜中の来訪者を、カナンだと考えると言うことは既に何度も夜に逢引をしているということ  
になる。  
煮えくり返る腸を何とか抑えつけたイイコだが、ドアを開けたユウが一瞬驚いた顔をした後に言い  
放った言葉には耐えられなかった。  
「あんたか、何のようだよ」  
その素っ気無い言葉。  
(もう、ダメ…)  
いぶかしげな顔を驚愕に変えるユウ。  
その視線の先にあったのは涙。  
ダムが決壊するが如く、イイコの涙腺は限界に達し、涙が零れ出したのだ。  
 
「俺って最低だよな…」  
自らを卑下する言葉を吐くのは、そうすることで自分の心の重荷を少しでも軽くしたい時。  
そんな話が、今のユウには真理に思えた。  
自分からカナンの部屋に行こうか、来るのを待とうか決めかねている間、彼は自己嫌悪に浸って  
いた。  
カナンと肉体関係になって大分時が経つ。  
初めのうちは何の下心もなかった。  
少なくともそのつもりだった。  
そう、あくまで彼女の豊満な肉体が目当てだった。  
男としてしごく当然、まっとうな理由であり、何のやましさも感じることはない。  
もちろん彼女と一緒に任務を任され共に行動するうちに、その派手目な外見とは裏腹に生真面目  
で奥ゆかしい性格は好ましく思え、一緒にいていやな気分にさせられることはないという要素は  
大きかったが。  
だが今では…。  
「カナンにバレたら…怒るだろうな…」  
今のユウにはわかっている。  
カナンの肉体に耽溺していた本当の理由が。  
 
自分より少し年上のカナン。  
これがもしかなり年上の相手だったとしたら、話は早い。  
研究ばかりで長い間自分を放置し、やっと呼んだと思ったら今度はモルモットか何かと勘違いして  
いるんじゃないかと疑ってしまうような対応をする実母翠に代り、母性を求めているのだろう。  
その場合は話は簡単だ。  
その美熟女に「ママの代り」になってもらえばいい。  
少年、いや男にとって必要なのは「母性」であり、それが血の繋がった実母である必要などない。  
しかも実母と違って肉体関係をもっても何も差し支えはないのだ。  
だがカナンの年代は…ユウが永年慕っていた姉イイコとほぼ同じ。  
そう、ここオルファンに連れてこられるまで、会いたくて会いたくて仕方が無かった最愛の姉と。  
 
豊満で大柄な肉体のカナンだが、心根が繊細なせいかどこか儚げな雰囲気がある。  
それは姉イイコと共通する。  
最初の経緯はどうあれ(無意識のうちに姉の面影を求めていた可能性も否定は出来ないが)いつ  
の間にか姉の代用品としてカナンを見ていた。  
カナンが知ればどんなに悲しみ、怒るか想像もつかない。  
自分が誰か他人の身代わりにされていたなんて。  
だが、それなら母親の代用品でも、姉の代用品でも同じこと。  
何故姉の代用品がマズいのか。  
その理由は当の姉の存在にあった。  
翠同様、同じオルファンに姉イイコはいるが  
そのイイコは自分の知っているイイコではなかった。  
クインシィ・イッサーと名乗る、ヒステリックなプチ・ディクテイター。  
とても甘えさせてくれるような相手ではなかった。  
それでもなお。  
ほとんど疎遠になった母親と違い、祖母の庇護の元とはいえ姉弟二人きりで過ごした日々はそう  
簡単にユウに姉のことを諦めさせたり、嫌いにさせたりはしなかった。  
表面的には仲が最悪の姉弟関係に見える。  
クインシィはもちろん、ユウの方も刺刺しい態度を隠さないから。  
だがそれは姉への嫌悪を意味しない。  
決して演技ではないが、それは姉自身と言うより彼女が変わり果ててしまったということに対して  
の憤りの表れなのだ。  
もし姉がもはや自分のことなど路傍の石程度に思っていなくても、ユウとしては姉の身代りとして  
カナンと愛しあってることに関しては、カナン本人のみならず姉に対しても後ろめたい気持ちを抑え  
きれないのだった。  
「カナン、いいよ、入って」  
部屋のドアがノックされ、自己嫌悪から現実に引き戻されたユウが声をかける。  
反応が無いことを怪訝に感じてドアを自ら開けると、そこにたっていたのは。  
「あんたか、何のようだよ」  
代用品、ではなく本物の姉だった。  
 
ユウの口から飛び出した素っ気無いというよりむしろ冷たい言葉。  
それはここ最近姉に、いやクインシィ・イッサーに接する時はそういう態度が常であったがため  
の反射的言動だった。  
直後にしまったと思う。  
わざわざ自分を尋ねてきた以上何か用があったに違いない。  
確かに態度が一向に軟化しないどころか硬化する一方のクインシィに媚びる気はないが。  
向こうから歩み寄りを見せようというのにこちらが頑なになっては意味がない。  
所詮ユウのクインシィへの冷たい態度など、言ってみれば構ってくれない姉に対するあてつけで  
しかないのだ。  
そしてその失敗したなという感情が、すぐによりはっきりとした後悔に代わる。  
クインシィの、いや、イイコの目から零れる大粒の涙を見て。  
「ちょ、ちょっと、どうしたの姉さん!」  
慌ててクインシィの肩を掴むユウ。  
咄嗟であったので相手に拒否されたり、または怒ったりするなどとは考えもしなかった。  
結果としてそれが良かった。  
久々に弟に触れられたことで、イイコに戻っていた姉は少しだけ気分を落ち着けた。  
涙を掌の端で拭うと、少し恨めし気な顔で自分よりほんの少し背が高くなってしまった弟を睨む。  
(この子がこんなに大きくなる間、わたしは側にいれなかったんだ…)  
改めて弟の成長を確認すると共に、これも改めて寂しさを感じる。  
(そしてやっと一緒の場所にいられることになったのに、今までずっといがみ合うだけで…)  
悲しくなって、一度は涙を拭った目から再び涙が零れる。  
「ああっ、もう何で泣くんだよ、とにかく中へ」  
姉の肩を抱くようにして、部屋へと誘うユウ。  
繰り返すが慌てていたため、この後カナンが来たらどうなるかなどとは考えなかった。  
 
ちなみに幸運にもこの夜は珍しくカナンはユウを訪れなかったが、それは単なる「問題の先送り」  
以外の何物でもなかった。  
 
「どうしちゃったんだよ、いきなり人のところに押しかけてきて泣き出すなんて」  
ユウの問いかけに対し、泣き腫らした目を向けたイイコは答える。  
「ユウ…あんたはもうお姉ちゃんが嫌いになっちゃったの…」  
 
涙を浮かべて、弟の先ほどの冷たい態度に恨み言を言う姉。  
「えっ?俺っ?」  
ユウにしてみれば話が反対だ。  
久々に会ったのに嬉しそうな顔一つせず、逆に自分を邪険にしたのはイイコの方なのだから。  
「何言ってんだよ、姉さんの方こそ、今までずっと俺に冷たかったじゃないか」  
当然の答えではある。  
言い返されたイイコの方でも、ユウの立場からすればもっともだとは思う。  
言葉にしなくてもわたしの気持ちを察してくれてもいいのに…と多少は思いもするが。  
それでも速やかに誤解を解こうと今までのいきさつを話そうとして、ふと思いとどまる。  
クインシィという別人格が生まれてしまったことをユウに話せば確かに誤解は解けるだろうが、  
その後のユウの反応はどうだろうか、と。  
多重人格など精神疾患のようにものである。  
そんな心の病を抱えた姉を、ユウは疎ましく思うのではないか。  
今までの反撥心からの隔意ではない、本当に心から自分を避けるユウ。  
そんな恐ろしい想像が脳裏をよぎる。  
(で…でも…)  
ようやくユウと話を出来る時が来たのだ。  
この期を逃してしまえばもう機会は当分無いかもしれない。  
(ユウはそんな子じゃない…)  
そう自分に言い聞かせ、イイコは口を開いた。  
 
「なんだよそれっ!」  
全てを耳に入れた後、激昂するユウ。  
「いくら専門外といっても、オフクロもオヤジも学者だろつ、娘がそんなになってるのに気づき  
もしないなんてっ!」  
ユウの剣幕に一瞬気圧されたイイコだったが、それが姉である自分を大切に思うが故の怒りだと  
気づくと、嬉しさがこみ上げてくる。  
「いいの、ユウ」  
そう言ってユウの手を握るイイコ。  
「ユウがわかってくれれば、あれがわたしの本意じゃないってわかってくれればそれでいいの、  
ほんとうのわたしはずっとユウと一緒に居たいんだって、それさえわかってもらえれば」  
 
「姉さん…」  
昔、共に過ごした日々のまま変っていなかった。  
そしてずっといじらしく想いを秘めていた。  
そんな姉を、ユウは優しく抱き寄せた。  
「ずっとこうしたかった、姉さん…」  
「ユウ…」  
イイコもユウの首に腕を回してしがみつく。  
「わたしも…ユウと一緒にいたくて…いたくて…」  
「いいんだよ姉さん、もういいんだ…」  
やっと想いの通じた姉弟、しかしユウの感慨は、姉が漏らした言葉によって一気に醒まされる。  
「…ずっと悔しかった、わたしがユウと一緒にいれないのに、カナンがずっとユウの側にいて…」  
「!」  
その言葉で、自分が今おかれている立場を思い出すユウ。  
そう、今の自分はカナンと付き合ってる。  
通常ならば恋人がいることと、姉弟仲良くすることは別に相反しない。  
だが。  
自分は明らかにカナンに対し姉への思慕の代償行為を求めていたし。  
イイコのユウへの感情は、一般的な姉の弟に対するそれを逸脱している。  
カナンの存在をイイコは快く思わないどころか、はっきりと嫉妬するだろうし。  
それはカナンも同じ。  
別に彼女の前で演技をしていたわけではないが、自分に優しくしてくれない「クインシィ」への  
反撥から荒々しく刺々しい態度を取っていたユウを見て、姉が嫌いだと思い込んでいるだろう。  
それが。  
もし今ここにカナンが来て二人が一緒にいる所をみればどう思うだろうが。  
色々と事情はあるが、とりあえず今夜和解したことは事実。  
それを正直に言うべきか。  
いや、それはマズい。  
何故ならユウが本当は姉思いを通り越してもはや姉萌えと言ってもよい属性だったということが  
わかれば、カナンに対して姉の代用品のような役割を期待していたということを感づかれてしまう  
可能性もある。  
それだけは避けたかった。  
 
「ユウがね…」  
動揺を隠し切れないユウに、イイコの言葉が続けざまに告げられる。  
「ユウが女の子と付き合うのは別にかまわないよ」  
自分の胸に顔を埋めたままの姉の言葉にに少し意外な気もする。  
「もう、ユウもそういう年頃だし…」  
「本当に?」  
思わず聞き返してしまうユウ。  
そしてそう言ってしまってからふと思う。  
一体何を聞いているのかと。  
自分とイイコは姉弟であり、゜恋人ではないのだからお互いが恋人や、後々  
には伴侶を見つけてもおかしくないどころかむしろそれが当たり前だ。  
だがユウはイイコが自分以外の男と一緒にいるなど想像も出来なかった。  
そして今夜真意を知った以上は姉もそういう風に思って当然だと感じていた。  
「でも…」  
イイコはユウの質問を聞き流したのか、あえて無視したのか言葉を続ける。  
「でもカナンはだめ、あの女はいや」  
「なんでさ?」  
クインシィの時はともかく、今のイイコがカナンを嫌う理由は思いつかない。  
自分と一緒にいること自体が気に入らないというなら先ほどの言葉と矛盾する。  
しばしの沈黙の後、意を決したようにイイコは言った。  
「だってユウのお姉ちゃんはあたしだけだもの」  
 
 
「ねっ、姉さん?」  
「お姉ちゃんはあたしだよ、カナンじゃないよ…」  
ギクリッ。  
その言葉は一聴して質問に答えていないようで、見事にユウの急所を突く言葉  
であった。  
当のカナン自身も知る由は無いだろう感情をズバリと言い当てられた。  
それはまさについ先ほど、カナンにバレるとマズいと考えていたことだ。  
イイコには見事に見抜かれていた。  
恐らくは表層人格の下から、イイコはユウとカナンの仲睦まじい姿を見ていたの  
だろう。  
そしてユウがカナンに向ける眼差しから、その真意を見抜いていたのだ。  
「な、何を言ってるんだよ姉さん、あたりまえじゃないか!」  
焦りがつい語気を荒げる。  
「だったらどうして、カナンを…」  
「か、カナンは彼女、そ、そう彼女だよ、彼女なら作ってもいいってさっき姉さんが  
言ったばかりだろ?」  
「言ったよ、そう言った、じゃあ聞くけど、カナンのどこがよくて一緒にいるの」  
未だに顔を伏せたままさらに質問をして来るイイコ。  
「そ…それは」  
姉の前で今付き合ってる女の子の惚気を言うのは気が引けた。  
だがふと思い立つことがあってユウは口を開く。  
「そうだね、やっぱり性格と身体、どっちもいいからかな」  
そう口走った瞬間、自分にしがみついたイイコの握力が強まったのをユウは確か  
に感じていた。  
 
再会から既に一年以上は経つのに、今になってやっとこうして抱きしめ合えた姉  
イイコ。  
かつて幼い日々、常に自分のため頑張っていた最愛の姉。  
だが、今の自分はかつてイイコが愛したかわいい弟ではない。  
イイコと引き離された数年、そしてやっと再会した姉にすげなくされた一年余りの  
日々がユウの心を荒ませていた。  
こうしてイイコと抱き合っていても、その場の安らぎは得られる物の既に抉れた心  
の傷は塞がらない。  
もはやイイコ一人では自分の心を埋める事は出来ない。  
既に自分にとってはなくてはならない存在であるカナンとの仲はなんとしても認め  
させなくてはいけない。  
そのためには、自分がカナンに求めている物がイイコに対して求めているものとは  
違うとはっきりさせる必要があった。  
ズバリ、彼女の豊満な肢体が目当てなのだと。  
もちろん性格もいいのだということは言い添えるが。  
しかし、その言葉に姉は思わぬ反応を見せた。  
腕にこめられた力、そして一瞬その目に宿った殺気。  
(…もしかして…姉さん…)  
それは恐ろしくも甘美なる推察。  
もしかして姉さんは。  
自分がカナンを姉代わりにしていたことを怒っていたのではなく。  
カナンと付き合ってたこと自体を憤っていたのかと。  
それならばカナンとの関係が深いものであることを誇示したのは逆効果ではなかった  
のか。  
そういう戦々恐々とした思いとは同時に。  
姉さんは、俺を弟じゃなく男としてみてくれているのか?  
そんな甘美な考えもまたわきあがっていた。  
 
今の今まで、カナンに対して感じていた嫉妬は姉としてのものだと思っていた。  
いや、そう思い込んでいた。  
自分こそがユウの姉なのに、どうして彼女がユウと…という反撥だと。  
だが今ユウが口にした言葉。  
カナンと既に肉体関係にあるということを認める言葉。  
それを聞いた途端、頭の中が真っ白になり、気がつけば俯いたままユウの腕をギュッ  
と強く握っていた。  
 
ユウはまだ16歳の誕生日を迎えていない。  
それで身体の関係のある相手がいるとは確かにませてはいるが、決しておかしく  
はない。  
おかしくはないが、納得できない。  
(そんな…)  
しかし、これ以上は自分で自分に嘘はつけない。  
カナンに対する「ユウの姉はあたしなのに」という対抗意識。  
それが単なるカモフラージュで、本当は単純にユウを取られたことに嫉妬していたのだ。  
そう。  
自分はユウのことを単なる弟として好きなのではなく、異性として愛していたのだと。  
それならば今までの自分の苦しみも理解できる。  
愛する相手に心ならずも冷たい態度を取り続け。  
そしてその相手が別の女と一緒のところを散々見せつけられて来たのだから。  
そして今、決定的な言葉を聞いたしまった。  
イイコの心はざわめく。  
自分が禁忌を犯していることへの畏れりより、女としての妬心の自覚の方が上回る。  
わたしのユウを。  
あの大きな胸やお尻を揺らして誘惑したのね。  
何て女なのカナン。  
そんな理不尽な怒りが。  
 
カナンの豊満な肉体が男性に対してどのような効果を発揮するか。  
イイコにも知識としてはわかっていた。  
かつてイイコと同年代の若い女性の間には不自然で不健康、しかも肝心の男性相手に  
は逆効果としかいいようのない過剰なダイエット信仰が蔓延していたが、オルファン  
の震動による混乱期を経た今ではそのようなマスコミ主導の俗信は消えうせてる。  
ふと、視線を落として自分の年相応で過不足の無い乳房のふくらみを見つめる。  
今の今まで、イイコは自分の女性としての魅力には無頓着だった。  
クインシィの時はもちろん、イイコに戻る時も。  
ジョナサン・グレーンをはじめ、自分にモーションをかけて来る相手はいたが、みな  
リクレイマーの指導者たるイサミ・ファミリーの一員でかつグランチャー乗りの自分  
の権力に擦り寄ってきているのだと解釈していた。  
あらゆる能力が高く、こちら側からも利用価値のあるジョナサン以外はみな手厳しく  
撥ね退けているが。  
ジョナサンにだけは曖昧な態度を取っているのはクインシィとしての意識だけでなく  
イイコ自身も賛成していることだ。  
そのくらいの腹芸が出来ないほどイイコは純真でも子供でもない。  
だが。  
ことユウ相手にはまさしく純真な子供に戻ってしまうイイコ。  
そして一方でそのユウに色目を使ってまんまとモノにしてしまったカナンに関して  
は大人の猜疑心が働く。  
「ユウを誘惑してどうするつもりなのよ…まさか…」  
男達が自分に取り入ってるのと同様。  
カナンはやはりイサミファミリーであるユウに身体で取り入ることで何かを狙って  
いるのでは…。  
用が済んだらユウは捨てられるのでは…。  
それはあくまでも推論というか、ほとんど妄想である。  
しかし頭に血の上ったイイコの中ではそれは確信に変わってしまう。  
(純粋なユウを騙すなんて…許せない)  
それには別の嫉妬が上乗せされていた。  
(胸がデカいからって好き勝手にはさせないわよ!)  
 
イイコが自分の本当の気持ちを認識している間、ユウの方もまた考えることがあった。  
(姉さんはカナンに嫉妬してる、姉代わりにしたことじゃなくて、つきあってること自体…)  
それ自体は実に嬉しいことだ。  
そこまで自分を想ってくれているのだから。  
だが困る。  
既にカナンとは離れ難い間柄になってしまっている。  
カナンといると心が安らぐと言ったのは、決して彼女の肉体を飽食したくて懐柔するための  
でまかせではない。  
ほんの少し前までそれはイイコの代わりだと想っていたが、いざこうして本物のイイコと抱き  
あってみるとその違いがはっきりとわかった。  
イイコにはイイコの、カナンにはカナンの、それぞれに彼女達だけしか持たない独特のオーラが  
ありそれが自分をのささくれた心を和らげてくれる。  
イイコに言われたからといって、はいそうですかとカナンと別れるわけにはいかない。  
じっくりと時間をかけて、カナンの存在を認めさせなくてはならない。  
そして…懐柔しなくてはならないのはカナンも同じだった。  
彼女は自分とイイコの仲は完全に冷え切っていると思っている。  
顔を合わせれば憎まれ口を叩いていたのだから当然といえるが。  
だがそれは決して演技ではない、姉に対しての思慕を胸に秘めつつも、それゆえに自分に優しく  
してくれない姉に苛立ち憎まれ口を叩いていたのは事実なのだ。  
だがもしも。  
たとえばたった今カナンがここに来たらどう思うだろう?  
イイコの二重人格など信じてもらえないだろう。  
自分が疑いもなくその事実を受け入れたのは姉が自分に嘘などつくはずが無いという確信あって  
のこと。  
赤の他人であるカナンがそう簡単にこんな奇怪な事実を受け入れるとは思えない。  
多分カナンは、自分とイイコが今まで共謀して仲が悪いと周囲に思わせていたのだと考えるはず。  
そしてわざわざそんなカモフラージュをする理由は一つくらいしか思い浮かぶまい。  
本当は仲が良い事を誤魔化すため。  
もちろん姉弟が普通に仲が良いことを誤魔化す必要など無い。  
当然カナンは思うだろう。  
「姉弟以上の関係だから、それを知られたくなくて仲悪いフリをしていたのね」と。  
 
全てはユウの脳内シミュレーションに過ぎない。  
だが今まで、カナンの肉体を余すことなく堪能するためいいように操ってきたユウである。  
彼女の思考パターンはほぼ熟知している。  
間違いなく、彼女はそういう結論に達するだろう。  
冷汗がユウの額から垂れる。  
そしてとんでもない状況に自分がいることに気がつく。  
イイコが部屋を訪れた時にカナンかと思ったように、今夜自分の部屋にはいつカナンが訪れても  
不思議はないのだ。  
名残惜しいが、今夜は姉弟の絆が失われていないこと。  
それどころか姉弟の一線を越えかねないあやういラインにまで感情の喫水線が上がっていること。  
それを確認できただけで充分だ。  
「姉さん」  
ユウが意を決して口を開く。  
 
ユウに呼ばれて、俯いていたイイコは一瞬身体を強張らせる。  
きっと今の自分は醜い顔をしている。  
男を誘惑できる肉体を持ったカナンへの嫉妬。  
最愛の弟と既にただならぬ関係にあるらしいカナンへの嫉妬。  
嫉妬心で顔が醜く歪んでいるに違いない。  
だから深呼吸して、心を落ち着かせる。  
ユウに醜い顔を見せたくないから。  
身体も心も緊張したまま、どうにか顔の力だけは抜くことに成功して、イイコは顔を上げた。  
「今夜はこれからカナンが来るかもしれない」  
後頭部をハンマーで叩かれたようなショックがイイコを襲う。  
(もしかして、邪魔だから帰れって言うの、ユウ?)  
涙腺が緩みかけたところでユウは言葉をつなげた。  
「俺たちは仲が悪いと思われてる、こうしてまた昔みたいに仲良しに戻れたのはいいんだけど、  
いきなり他人にそんな姿見せたら変に思われるよ、今まで周りを騙してたんだろって」  
ユウの言葉を道理では理解しつつも、今ひとつ感情では納得しがたいイイコ。  
「だから、こうして仲良くするのは二人だけの時にしようよ」  
 
ユウの言葉に一瞬ショックを受けるイイコ。  
(そんな…ユウはお姉ちゃんと一緒にいるのを見られたくないの?恥ずかしいの?)  
続いて考える。  
(それとも、カナンに見られたくないの?)  
イイコの頬が目に見えて膨れていく。  
ぎゅうっ。  
昂ぶった感情が、再びユウの二の腕を掴む指に力を与える。  
 
膨れ面のイイコが自分の言葉に不満なのは一目瞭然だった。  
だがユウは予定を変える気は無い。  
クインシィという固い殻の下に昔のままの姉がいたことがわかったのだから。  
ユウはイイコに怒られたことは殆ど無い。  
もちろんかつてのユウが今のようなひねた少年ではなく、聞き分けがよい上に姉思いの良い子で  
あったということもあるが。  
基本的にイイコは、ユウのすることは何でも受け入れてくれた。  
それが長い空白期間を経て、弟への渇望に近い思いを抱いていたイイコなら尚更だ。  
クインシィとしての人格を抜きにしても、かなり気が強くはなっているが自分の言うことは結局  
は聞いてくれるだろうという確信があった。  
これはもう理屈ではない、感覚的なものだ。  
それに比べてカナンに関しては慎重な対応が必要だった。  
後ろの処女を奪い、着実な夜毎の「調教」を進めてはいるが、どこまで言っても他人に過ぎない。  
死が二人を分かつまで永遠に切れない姉弟の絆と違い、赤の他人である男女の仲は脆くうつろい  
易い物だ。  
いつかは別れる時が来るやもしれない。  
だがそれを座して待つつもりも無い。  
関係を出来得る限り長く続けるためには今以上の努力が必要になる。  
そのためには姉がいつもいつも側にいては困るのだ。  
(それにしても…)  
頬を膨らませている姉が、無性に可愛く思えて仕方が無いユウだった。  
打算的な感情は一切抜きで、発作的にその頬に顔を近づけると、膨らんだ部分に軽く口付けを  
した。  
 
ちゅぷっ。  
ごくごく軽い物、それも頬にだったが。  
突然の接吻を受けて、一瞬呆然とするイイコ。  
空白の意識の中で最初に再起動した感情は「動揺」だった。  
「な、何するの、ユウ?」  
ユウにしがみついてた手を放し、自らの肩を抱き締めながら警戒心を露にして聞く。  
 
ユウに姉弟の域を超えた感情を抱いていることを自覚したイイコであったが。  
そのユウの方から姉弟の枠を踏み越えてくるとは思わなかったのだ。  
実際には他意はなく、ただ純粋にイイコの仕草が可愛かったせいで辛抱たまらなくなったユウが  
思わず唇を寄せてしまっただけなのだが。  
そんなことはイイコには知りようが無い。  
従って「ユウは姉=わたしに欲情したのだ」と思ってしまっても、決して彼女の自意識過剰とは  
言えない。  
もっとも。  
もしも本当にユウが欲情したのなら、頬へのキスなどという可愛らしいスキンシップなどしない。  
そんなステップはすっ飛ばし、いきなり激しく淫猥な行為を仕掛けてくる。  
それを後には文字通り自らの肉体で知ることになるイイコだが、この時点ではそんなことは想像  
だにしていない。  
 
一方そんな姉のリアクションを見て、彼女がどんな勘違いをしたのかすぐに悟ったユウ。  
しくじったと思った。  
せっかく自分に以前よりも執着している姉の想いを覚ますことになったかと。  
だが。  
「ユウ、悪い子ね」  
上目遣いで睨むイイコだが、その目に恐れと戸惑いはあっても嫌悪の色はない。  
いきなりの弟の行為に困惑しているだけ、そして姉弟の枠を踏み越えて人倫を踏み外すことを  
躊躇しているに過ぎない。  
ならば自分の考えているこれからのプランにとっては何も不都合はないどころか、逆に好都合  
ですらあった。  
 
スッ。  
姉に向けてユウは手を伸ばす。  
ビクッ。  
思わず肩を抱いたまま、目を瞑って身体を固くするイイコ。  
「バカだなぁ姉さん、俺が姉さんの嫌がることをするわけないだろ?」  
そのユウの言葉に、イイコが恐る恐る目を開けると。  
爽やかな笑顔のユウ。  
「今のは印だよ」  
「しるし?」  
「そう、俺たちが昔と同じ仲の良い姉弟に戻った印、だからほら」  
顔を近づけて、今度はイイコの額に唇をつける。  
逃げる間はなかった。  
「ユ、ユウ…」  
イイコの顔がさらに紅く染まる。  
「次は姉さんの方から…」  
続けてイイコに横顔を向けるユウ。  
「ほら」  
ユウが何を要求しているのか、イイコにはよくわかった。  
そして弟が純粋にスキンシップとしてしたことに、よこしまな勘繰りをしたことを恥じる。  
その謝意を、そして愛情をこめてユウの頬に口付けした。  
そしてユウに抱きつく。  
「ごめんねユウ、そうだよね、わたしたち姉弟だよね」  
「ああ、もちろんだよ」  
「…ユウ、大好き…」  
「俺も好きだよ姉さん」  
ユウが抱擁し返す。  
だがイイコは心の中で思っていた。  
(好きだよ、か、でも、でもきっとわたしの好きとユウの好きは違う、きっと、だってわたしは  
ユウのことを…)  
 

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