ガッ・・・!
サロンに響いた鈍い音が、まるで他人事のように俺の耳に届く。
一瞬遅れて、ズキズキなんて言葉では生ぬるい痛みがほほを襲う。
くっそ、思いっきり殴りやがって。でも・・・これもわかりきっていた結果だ仕方ない、
と思っていると、あいつはなぜだか、あのむかつく面でにっこりと笑った。
「・・・よし、これで気が済んだ。異国の王子様はこれにて退場、ってね」
「・・・ちょっと待て。どういうことだ、蒼太。」
「言葉通りだよ。僕はもうこれで身を引くから。・・・お前と菜月ちゃんとの絆に、
割り込んじゃって、悪かったね。」
いつもの軽い調子だが、最後の言葉を搾り出すとき、微かに俯くのを俺は見た。
「おい。・・・菜月はお前になんて言った!?」
「・・・お前がいちばん良く知ってるんじゃないの、元泥棒さん?」
仮面がはがれた。
「振られたの、きっぱりと。」
いつものこいつなら絶対に見せない悔しさと悲しみがない混じった顔に、おれは
菜月がこいつに真実を伝えることをしなかったと知る。
やっぱりね、と心のどこかでこの状況を、醒めた目で眺める自分がいた。
やっぱりこの二人の二年間に、自分の入り込む余地はなかったらしい。
「ごめんなさい・・・蒼太さん・・・」
感情の読めない表情で、でも目をそらすことなく、僕を見つめる菜月ちゃん。
その首筋には虫にでも刺されたような赤い痕跡。どこの虫に刺されたかなんて、
明白だ。沸き起こったどす黒い情念を、必死で押さえ込む。
「・・・それ、真墨?」
つとめて軽く聞いたつもりだったけど、たぶん僕は失敗してしまったんだろう。
菜月ちゃんの肩が震えた。ああ、そんな顔しないで。君にそんなカオをさせたかっ
たわけじゃない。ただ、確かめたかった。僕では役者不足だったんだということ。
「僕は・・・やっぱり、勝てなかった?」
誰に、とは言わない。彼女は、目をそらさない。
胸の前で握り締めた手に、力が入ったのが、離れて立っている僕からでもわかる。
「あのね・・・真墨ね、菜月がいないとだめなんだって・・・菜月も・・・真墨じゃないと、
やっぱりダメ、だって、わかった・・・から」
ああ、一言ずつ区切って言わなくてもいいよ。俯いてしまった顔を上げて、
いつもみたいにその顔を見せてほしい。わかってるから。わかってたから。
「全部、菜月が悪いの・・・ごめんなさい、蒼太さん・・・。」
そう言ってきびすを返す後姿を、引き止めたかった。あのときのように、
後ろから抱きしめたかった。激情のままに引き寄せて、噛み付くように口付けて、
縛り付けて、閉じ込めてしまいたかった。
でも、それは僕には赦されていないことらしいから。
サロンを出て行く彼女に、僕は、何も言わなかった。
気づくと僕の右腕は、真墨の頬に力いっぱい二発目を叩き込んでいた。
「・・・・・・っ!!」
勢いよく吹っ飛び、カウチを蹴散らした体に、でも同情する気はさらさらない。
真墨の、そして何より自分自身の馬鹿さ加減に、怒りを通り越して涙が出そうだ。
たったいま、真墨から聞かされた事の真相。
真墨に犯されながら、僕の名前を呼んでいたという菜月ちゃん。
どうして僕は気づかなかった?
あのときの菜月ちゃんの表情は、北米の川原で見たものと同じだったじゃないか。
アクセルラーを返して走り去っていこうとする、あの顔と同じだったじゃないか。
腕を隠すようにかばっていたのは、どうしてだ? ああもう、気づけよ、僕。
(全部、菜月が悪いの・・・ごめんなさい、蒼太さん)
「くそ・・・っ!」
ガン、と壁を殴りつけた。
ああ、もう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
ただひとつだけわかるのは、
僕は今すぐ菜月ちゃんを探しにいかなければいけない、ということだ。
「・・・菜月ちゃん!!!」
鉄砲玉のような勢いでサロンを飛び出した蒼太の後姿に、おれは今度こそ、
初恋とやらが終わりを迎えたことを知る。
きっとあいつは、菜月を見つけるだろう。
菜月に跪いて許しを請い、あの胸に優しく抱きしめられるんだろう。
おれの前では子どもみたいなあいつが、蒼太の前ではきっと、女神のような
微笑を見せるんだろう。
そして、蒼太の腕の中で、まだ涙のあとの残る顔で、乱れるんだろう。
ま、いいさ。菜月、お前が選んだやつだ。
そう心から思えるには、まだもう少し時間がかかるかもしれないけど。
でも、お前が流した涙と、悲しい嘘の償いには、きっとこれでもまだ足りない。
二人の行き違いに付け込んで、強引に奪うこともできた。それでも。
「・・・・・・おれは泥棒じゃなくて、トレジャーハンターなんだよ。」
まだ痛む頬をそのままに、おれは精一杯強がって、嘯いた。