初めて、彼と交わったのは、そう……あの嫌らしい月が笑うような夜だった。  
あれから、数ヶ月。再び自分達が出会ってから、ちょうど一年くらいになるだろうか。  
――――それでも。あの夜の事は、今この時においても鮮明に思い出すことができる。そう、それが全ての始まりだったのだから。  
あの日から、自分の中ではある感情が育まれていった。彼に対する全ての感情が、正負を問わずそれの餌になっていく。  
――――それの一部になっていくのだ。  
それは名を、不安といった。その内情については、思いつく限りでも、こんなものがある。  
一つは、彼が私を嫌ってしまったらどうしようか、とか。  
また、父がここに来ることで、再び私達の生活が一変してしまうのでは、とか。  
そして――――人形に宿った半身とはいえ自分はつい先日まで、分類世界という、同じ次元上にありながら異なる世界形態と理に縛られて生きてきた。  
時の流れも、彼らとは違った。つまり、自分は既に人間が立ち入ることのできない領域を生きているのだ。  
もしかしたら、明日にでもそのしっぺ返しを喰らって、死んでしまうかもしれない。  
彼との永遠の別れ………それが、なによりも怖い。  
そうしたら、彼はどうするだろうか?   
自分のことを忘れて他の女の子と共に生きるか、逆に自分を追って死ぬか?   
理想的なのは後者だが、勿論生きていてもいい、ただ最悪でも他の女の子には見向きはしないで欲しいのだ。  
そんな思いが、心の底に日々を重ねるごとに蓄積をしていたと、説明するのは簡単だ。  
しかし、表に出すとなると話は別。それは、何か引き金がなければ作用しない。  
………だが、もしもその引き金を引いてしまったら、私はどうなってしまうのか。  
――――それを考えるのが、怖い。……貴方はどうなの? ルカ――――?  
そんな思考を、星の輝く海の波間にぼんやりと漂わせる。ひらけた窓から見える今日の空には、月がなかった。  
――――なんとなくだが、安心する。  
自分は、ルカの上にまたがって、腰を振っている。結合部からは色々な液が遠慮という言葉を知ることなく流れ出ていた。  
自分と向き合った状態でルカが、自分と唇を重ねて右手を、自分の胸に当てその感触を楽しむかのように、動かしている。  
「ん……んんっ……あ……んくっっん……」  
 後背位は、顔が見えないので嫌いだ。確かに気持ちいい事は気持ちいいが、嫌なのだ。  
「ねえ……マルレ……イン……」  
「いいよ……きてッ、ルカ……!」  
何度目かはわからない、精の放出が自分の内臓を叩く。迸るような熱い衝撃は、いつ感じても甘美なものだ。  
悪しき習慣、これをそう呼んでしまうかは微妙なところだが、実際習慣の方はまぎれもない事実だ。  
少し前までは存在したはずの恥じらいや理性は、既に欠片とも呼べないような大きさになりやがて快楽の中に解けた。  
ルカも、自分を貪欲に求めてくれている。暫定とは言っても、もう殆どルカは自分のものだと決まっている。  
頭ではそうわかっているはずなのに……いや、本当はわかっていないのかもしれない、暫定という単語を拒絶しているのもまた頭だからだ。  
「どうしたの……マルレイン?」  
「ううん……なんでもないわ」  
いまだ熱を帯びている体をくっつけるようにして、自分達は寝る。  
そうだ、眠ってしまおう。そうすれば、自分の中で脈動を続ける、この異質な力も、消えてしまうはずだ――――。  
――――彼女は、そう願っていた。  
 
 
目覚めて、着替えて、彼を起こす。そして二人台所で遅い朝食を取った。  
母が作る食事よりも、少し拙い腕だが、それでもそれがおいしいのは事実だ――――と思う。  
彼の反応を伺いながら、自分も食べる。  
あれこれしていると、アニーが降りてきた。  
母からの伝言でパンを買ってきてほしいとのことだ。あとついでに、マドリルの本屋に予約していた本を買いにいってほしい。  
……との事だ。どうやら彼女は今手がはなせないらしい、マルレインが食事を作ったのもその所為だ。  
「お願いできるかしら?」  
仕草がだいぶ母に似てきたアニーに快い返事を返し、二人でまずマドリルに向かう。理由は本よりもパンの方がかさばるから、そしてその途中、自宅を出てからすぐのところで、自分はあるところで目を留めた。  
小さいひびがところどころ入った墓石だった。  
――――図書館の知に触れたもの。  
「…………」  
「マルレイン?」  
「………私も、明日にはこうなるのかも……」  
平気だよ、という彼の言葉には、それを恐れているという感情が、ありありと伝わってくる。  
肩を抱き、自分の震えがおさまるまで大丈夫といい続けてくれた。  
「……ごめんね、私……いつからこんな性格になっちゃったんだろう」  
「――――行こう、か」  
昔サーカスのテントがあった場所には、もうその面影は数えるほどしかない。それでも、その面影――――ストーンサークルを使って……。  
できれば、彼とゆっくり歩いていきたいが。恥ずかしくて、声が出ない。  
おかしいものだと思う、もっと恥ずかしい姿も何も、自分達は見ているどころか実際にやっているのに。  
ともかく、ストーンサークルを……。  
「……使えないね」  
「……そうね」  
自分の願いどおりになった、しかしおかしい。昨日までは光も出ていて使えたのに、今このときになって使えないとはどういうことだ?  
まさか本当に、自分の願いが通じたのだろうか? ――――まさかね?  
仕方がないので、歩く。……だが日が高く上り、マドリルについたときにサークルは復活をしていた。本当に何なのだ?  
ともかく、いわれた本を買う。タイトルが夜の………………読んだら赤面するようなタイトルだった。  
サークルを使ってテネルに行く、パン屋の中に入る、パンをもらって帰ろうとする。そしてそこでまた一悶着。  
――――もしかしたら今日は、厄日なのかもしれない。  
「ルカ君、またそんな女の子と……!」  
ジュリアだ、どう見ても不機嫌そうなジュリアだ。  
そういえば、この前アニーからジュリアに苛められたという話を聞いた。  
理由はわからないが、恐らくルカがらみの事。もしくはテネルの美少女達の一角を担う彼女のプライドゆえか。  
実際、アニーの成長は急速な伸びを見せ始め、大人と少女の中性的な雰囲気が好ましいという奴も増えてきたらしい。  
恐らくその中に、元ジュリアのファンでも居たのだろう。女の嫉妬というのは、恐ろしいものだ。  
「ジュリア」  
ルカの言葉に、何かもやっとしたものを感じたマルレイン。はたから成り行きを見ているものにはただ名前を読んだだけにしか聞こえないが、彼女はそれすらも嫌だったのだ。  
無理難題を言うジュリア、困ったような顔をするルカ。その光景が、何故か気に障った。  
「ルカ、帰りましょ?」  
「う……うん」  
「ちょっと! ルカ君!」  
ルカを振り向かせずに、家族が待っているからと早足で、腕を引いて家に帰る。  
女の嫉妬は恐ろしい、先程までそう思っていた自分が、その感情を抱くとは。そしてその感情が、まさか引き金になるとは、思わなかった。  
その時に、夕日を二人で見た。血のような色をしていた事を、今でも思いだせる。  
 
 
――――おかしい、どう考えてもおかしい。  
あの日以来、彼女からにじみ出る違和感が自分の本能を刺激する。  
「ねえ……マルレイン?」  
「なあに? ルカ?」  
「辛かったら、何でも言ってよ?」  
「ありがとう、大好きよ」  
そうして、彼女は散歩に出かけてしまった。自分も、言われた仕事をする。  
日が傾いてから、少しして。自分は、家の前で風に当たりながら、汗を引かせていた。  
――――と。  
「ルカさん」  
いつか何処ぞで聞いた事のある声、その声の主の方に体を向けると、喪服というにふさわしい格好をした女性が、こちらを見ていた。  
その高さは自分の腰あたり、数年前のアニーと同じような背だ。  
「け……K、……Tさん……?」  
昔見たサイズとは明らかに違うので、疑問符を付ける。  
「お久しぶりですね」  
「お、お久しぶりです」  
どうやら、本人らしい。  
マルレインとトリステに行った時、多くの人々が商業や引越しの準備をして世界に戻ろうとしていた中で、唯一居なかった人物。  
砂漠の方に消えたと誰かが話していたが、それが何故ここに居るのだ?  
「そうです、私がここに居る事自体が既に変なのです」  
わけがわからない、まるでとんちでも聞かされているような気にさせられるが、何しろ相手がこの人だ、その可能性はありえないといってもよい。  
「失礼、順を追って説明するべきでしたね。まず私は、人間ではありません」  
「……はあ、そうなんですか」  
自分も、スタンをはじめとした魔族を何度も見ているので、彼女が人間で無いといわれても、あまり驚かない。むしろ、魔族よりも性格の濃い人間が近くにいたせいで、その感覚が麻痺しているのかもしれない。だが、彼女が魔族ですらないと言われれば話は別だ。  
――――彼女は、世界に生じた歪みらしい。その姿を歪みの度合いとして表する彼女はあらゆる世界で存在し、多かれ少なかれ程度はあるが、あらゆる理由によって自らという事象を拒絶し、消し去ることで世界を修正し、均衡をもたらすらしいのだ。  
彼女が世界から外れた者たちに、そしてルカに目をつけて、トリステに保護したのも歪みに対する策を設けるためだったという。  
故に、ベーロンの力が消えて、世界図書館が崩落したとき、あるいはその順序が逆かもしれないがともかく、分類の力という作用が消えたため、彼女もまた消えた。――――そして、サイズは違えど戻ってきた。  
大まかな結論としては、この世界に小さい歪みが発生しているという事か?  
「今また、分類の力を。超小規模の範囲ながら行使しているものが居ます、その人物は貴方も知って……」  
「嘘だ……止めてください……!」  
 彼女の言葉をさえぎり、ルカは声を絞り出した。  
彼女にも、恐らくルカはもう全て判っているのだろうと言う事は察しがつく。  
分類による世界変革の前兆か何かを、その分類世界から一番遠い人間の一人である彼が、気がつかないはずがない。  
だが、むしろそれ故に、彼女はルカの逃げ場をなくすかのように、至って丁寧に、確認するように話し続ける。  
「……ベーロンは、既に世界の垣根を越えて行方知れずになりました。つまり彼にはもうこの世界で力を奮う理由も、そもそもその力自体もない」  
「ですが……そんな馬鹿な事が……!」  
「冷静に、そして論理的に考えてみれば、答えは限られてきますよ? ルカさん、この世界の中で、今最も分類の力に近いのは、誰ですか?」  
 ――――マルレインが、分類を?  
「……………何のために?」  
「さあ……、しかし彼女はあの男の娘です、あの男と同じように我々には理解できないような理由かもしれません。ともかく、何とかして彼女の力を封鎖もしくは消失させなければ、分類力に飲まれておそらく彼女の自我は消えますよ?」  
 そして、歪みが肥大化すれば、いずれこの世界は滅ぶ。元々、人一人に余る力ではない。核である世界図書館を作り、そこで働くもの。  
即ち命令を伝達し、それを演算及び実行する者をつくり、それによる分類表という最適化されたシステムやプロセスを一切踏まないで行使するのだ。無茶どころか、無謀。精神には大きな負荷が掛かっているに違いない。  
「彼女を、探さなければ……!」  
ルカは、走る。彼女を具して、彼女の言うとおりにそこへ向かった。  
 
 
――――赤い夕日が映えている。  
ルカは、テネル入り口の前まで来ていた。  
「…………」  
家族には、何も言わなかった。  
恐らくお婆さん以外は気がついていない筈だ、だから気がついていない内に、この事をなかった事にすればいい。――――だが。  
「本当に、できるのかな」  
ボソリと、呟いた彼の言葉が、彼の気持ちを余すところなく伝えていた。自らの愛しいものに、もしかしたら剣を突きつけるかもしれない。  
そして、その場合仲間もいない今の自分が、果たして自分の望む結果を得られるだろうか?  
しかし彼らを探すには、今の自分には時間がなかった。サークルは彼女の力の所為なのか、ただの石柱に変化しており、使えない。  
歩いてマドリルまで行くとしても、そのとき既にマルレインが暴走していないという保証は何処にもない。  
少ない可能性としてあるのは、キスリングさんが研究という名目でここにきているかもしれないということだが、それはない。  
根拠は、昔。ベーロンの存在していたときに自分が世界から消えたとき、彼は研究所でロザリーさんが来るのをただ待っていた。  
自分がそこへ行って彼に話しかけることでその呪縛は解けたが、逆に言えば話すまでその呪縛は解けないということでは無いだろうか?  
そして、それは今同じ事が言える。超小規模の分類世界、恐らく街道ではなく町だけ。それもテネルとマドリルだけにかけているのだろう。  
今マドリルの新聞には魔王再来とか言う三流記事が踊っているに違いない、そしてこの事態を真に打開できる力を持った勇者も、そこに縛られるはずだ。  
つまり、スタンとロザリーさんとキスリングさんと、もしかしたらいまだに歌手見習いとして路上で歌っているリンダちゃんも、駄目かもしれない。  
「ルカさん」  
後ろを振り向くと、先程は子供ほどだった彼女が、自分の背と同じくらいになっていた。歪みが大きくなっているということだ。  
扉を、開ける。鬼が出るか、蛇が出るか。鼻を突く異様な臭いに誘われて、恐れと冷や汗が背中を伝った。  
最初に目の中に入ってきた色の名は、白。そして次に確認できたのは、金色だった。  
「ジュリア……!?」  
目を疑うような光景、それが待っているという事は、自分でもわかってはいたが、まさか彼女が多数の男達に、陵辱されている場面に出くわすとは。  
「ルカ……君?」  
「ジュリア、待って、今――――!」  
「貴方も、こっちに来る? とても、気持ちいいのよ……」  
「!?」  
そうして彼女は、右手に持っていた男性器を、口に含む。  
筋を、袋を丹念にチュバチュバといやらしい音を立てて口の中で弄び、彼女はそれがさも美味な物であるかのように、目を輝かせていた。  
彼女の美しい髪にも、胸にも顔にも、既に生臭い臭いを放つ馴染み深いものがかかっていた。  
男達に対し、恥じらいもなく股を開き、金髪の少し薄い陰毛に男達の怒張をこすりつけ、穴という穴すべてに挿入することを、犯されることを自ら望み、嬌声を上げている。  
恍惚に果てる男、それを膣内で受け取って体を震わせる女。  
一瞬だが、目の前が、真っ暗になった。  
それでも反射的に、倒れることはせず視線を移動させる。窓から半分身を乗り出した女性と、その後ろにくっついて恐らく腰を振っている男  
…………ジュリアだけではない、この村にいる女性達は全て犯され、男性達は犯している。  
女に群がる男の数は、たしかにばらつきがあるようだが……。  
ともかく、家にあった剣を振りかざして、男達を掃おうとする――――が。  
 
「やあ、ルカ」  
「――――父さん?」  
その声で、腕から力が抜けた。  
「お前も混ざらないか? ……ああ、お前にはマルレインちゃんがいるんだったね。じゃあ、とーさんはジュリアちゃんと仲良くやっているから。  
……ああ、家に帰ったら、母さんに今日の晩御飯は、シチューにしてくれと言っておいてくれ」  
まさか、自分の父親に初恋の人を寝取られるとは。愛妻家の父、浮気などする筈がないとと感じていた自分には正に夢にも思っていない状況だった、今度こそ掃おうと言う気は芯まで萎える。  
聞こうと思わなくとも聞こえる、父さんとジュリアの肉がぶつかる音、砂利の少し湿った音、……父の果てた声。  
「落ち着け、落ち着くんだ」  
父さんの話では、母さんはここにはいないらしい。……アニーも、デートで多分いないはずだ。それだけでも良いと思う、思え、思わなければ――――!  
「すぅー……はぁー……」  
深呼吸をして、胸が腐るような空気をその胸いっぱいに吸い込む。とたんに吐き気がして、正気に戻った。  
じゃあ、マルレインは――――?  
酒場、パン屋、武器屋、ここにいるとしたら場所は限られてくる。どこだ、どこだ!  
彼が道具屋の扉を開けようとした時に、その答えは見付かった。  
「……あら、ルカ? 来たんだ?」  
彼女の声、役場の方から聞こえてきたそれに目を向けると、マルレインは階段の上で、無邪気にきゃらきゃらと笑っていた。  
まるで、この惨状を楽しむかのように。  
「マルレイ……ン?」  
「うふふ、楽しいでしょ? ルカ?」  
否、楽しむかのようにではない。この惨状を本当に楽しんでいるのだ。  
「何故、こんな事を――――?」  
「?」  
「何故君は、こんなに酷い事を!」  
「酷いのは、貴方よ」  
「え?」  
予想もしていなかった答えに対し、自分は目を大きく開く。その双眸に映った彼女は、美しく、そして恐ろしいと感じるほどに、静かに笑った。  
「私が居るのに、他の女のことを考えるなんて。他の女を見るなんて、他の女と話すなんて。  
――――嫌よ、嫌。私だけを見て、私だけのものになって、私だけを愛して、私だけを考えて」  
「マルレイン」  
「他の女に近づいては駄目、話しては駄目、触っては駄目、見ては駄目、考えては駄目。  
貴方は、私だけのものなの!」  
彼女がおかしいこと、即ち彼女の命に対しての心配については墓の前をはじめとして、最近の行動から大体は――――マルレインの持っていた分類の力を除いて知っていた。  
しかし、それ故に何も……いえない。自分には、出す言葉が見付からない。  
こうなったのは、一体誰の所為なのかと、ただ単純に責任のありかを探しても、見付かるはずもない。  
時を歪め、彼女の心配の種となった分類世界を造ったベーロンが悪かったのか、それとも今その力を行使しているマルレインが悪いのか。  
はたまたこの自分という存在があったからこそ、彼女は狂ってしまったのだろうか。もしも、あの時出会わなければ――――。  
 
「――――そして、かつてのベーロンと同じように、この世界自体彼を閉じ込めるための、檻にする気ですか?」  
自分を縛っていた思考の縄が、その言葉で綺麗に断ち切られる。  
何処にいたのか黒服の彼女は、鋭い視線をマルレインに向け、侮蔑を込めるかのように言い放った。  
だがマルレインはそれすらも笑って受け流し、まるで諭すかのように返す。  
「違うわ、私はただルカと楽しく過ごせる世界を、永遠に続く二人だけの世界を造るのよ」  
――――ああ、やはり。彼女の願いは、それだったのか。  
「詭弁ですね、貴方のやっている事は、あの愚かな支配者と同じ、歪みである私には、それがどれほど滑稽な物なのか、よくわかる」  
マルレインの眉間に、少し不機嫌な印が入った。声色も、トーンを落とし敵意を見せ始めている。  
「………貴方に、何がわかるというの? 貴方には、何もわかっていないわ。貴方は人を愛した事があるの? それゆえの甘美な恐ろしさを味わったことがある? ……無い筈よね、だって貴方はこの世界の全てが、美しく計算どおりに成り立っていると思っているんだもの。  
……それこそ傲慢じゃあないかしら? 世界の全てを知ったような顔をして、少しでも歪みが生じる――――貴方の思い通りにならないと、有無を言わさず排除する。  
貴方と私とベーロンと、一体何が違うというの?」  
「確かに私は私を消すことで、無理に世界を美しくさせようとしているのかもしれません。貴方の言う事は、もっともです。……しかしそれもそこまで行けば、ただの狂気なのですよ! ――――目を覚ましなさい!」  
「うるさい! 消えて!」  
その刹那、自分は何かに吹き飛ばされた。眩い光と共に一瞬の衝撃が自分の中を通り過ぎ、息をすることを忘れた。  
まるで打ち上げ花火の爆発を至近距離で受けたようなこの衝撃には、一度覚えがある。世界図書館での最後の戦い、あの時スタンが真の力と、自らを立証する偽りの使命ともいえる余計な物とを取り戻したときの事だ。  
だが、その後に強制分類なるものを当てられたので、この衝撃が、あの時と同じように自分を縛るものでないという事はわかる。  
「じゃあ……」  
まさか、そしてその考えは正しかった。あろう事か、マルレインはKTさんに対して分類を課したのだ。  
彼女はやがて一本の木となり、紫色の葉を付けた。  
歪みに対し、さらにその原因となっている力をぶつけてしまったら、一体どうなってしまうのか、はたまた既に歪みではなくただの木なのか、もうわからない。  
「ルカ……」  
しかしその光景を満足そうに彼女は受容し、微笑んだ。そしてこちらを再び向いたかと思うと重力などお構いなし、まるで羽が舞う様に、彼女はふわりと降りてくる。  
その細い指が顔を抱き、爪を立てて、血を求める。頬から数センチの傷が両側に広がり、痛みで歪んだルカの顔を、彼女は紅い瞳で捉えた。  
「これで、邪魔するものはもういない……」  
安堵か、それとも一種の自己暗示か。ともかく、口を開く。  
「もう……止めよう……」  
「ルカ?」  
「僕は君のそばにいるから、ずっと君だけを見ているから……」  
「そう、わかったわ!」  
嬉しそうな声で、彼女は再び悪しき正方形を作り出す。これで、分類が解けるのだ。  
ジュリアを始め、皆の心に大きな傷は残るだろうが、本当の日常へと返れるはずだ。  
――――そう、思った。  
 
しかし、その考えがとても甘いものであることを知るのはそう遠くなかった。安堵した彼の耳にテネルのあちこちから先程とは違う色の声が上がっているのだ。一言で言うのならば、色情とは無縁の、黒い叫び声が。  
「じゃあ、もういいわ。貴方にはあんなものいらないもん」  
「あんなもの?」  
「――――少し、眠っていて」  
ボソリと彼女が呟いた、その一言。その一言で自分の視界が歪み、闇へ意識を捧げる。……このまま、目が覚めなければと頭の隅で考えながら。  
 
 
大地の脈動、大気の震動。今世界に起こっていることを大別するのならば、これ以上大きなカテゴリは無い。自分は、その大地の揺れで目覚めた。  
「う……」  
意識を取り戻して最初に見たものは、狂った色の空の彼方。そしてその層よりもはるかに高いところにあった、巨大な多角形。  
正方形を組み合わせたようなそれは、明らかに分類の力だ。それが、有機無機問わず世界に存在するすべてのものを吸い取って、分解していた。  
「あ、起きたの?」  
後ろを振り向いて、彼女が今どのような状態かを知った。  
顔や服をはじめ――――むしろ全身と言ってもよいかもしれない、彼女はその身を紅く染め、うっとりとした目で世界を壊していたのだ。  
金属臭から、それが罪無き者の血なのだと結論付けるまでに時間はかからなかった。  
「マルレイン……?」  
「これで、この世界は貴方と私の二人だけ」  
その言葉を、信じるわけにはいかなかった。そうだ、彼女が目覚めてからまだ時間はあまり経ってはいないはず。  
まさか彼女の力がそんな短時間で肥大化をするはずが――――。  
「……分類の力というのはね」  
「?」  
「誰のためにその力を使うかで、……どれだけそのものに強い感情を抱いているかで、その力が決まるの。言い換えれば、この力は……貴方への愛の象徴」  
――――その愛が、世界を壊すのか。ああ、考えてみれば、ベーロンも始めは彼女のためにこの世界を切り分けたのだ。そして、その目的が一人歩きしてしまった。  
世界が、闇に還って行く。舞台は、一度壊されて、作り変えられる。まるで、薄い幕間を一度引っかいて破り、それから新たなそれを舞台に掲げるように。  
「今度はどんな世界にする? まず私はねえ……私達の世話をする人形を作らなくちゃいけないと思うの?」  
否定をするべきか、肯定をするべきか。……そもそもその両方共にどんな意味があるのだろうか、彼女を止めるには、もはや言葉など大海の砂のように無力なものだ。  
自分の体は鎖が巻きついたように寸分も動かず、持っていた剣は既に空の多角形へと消えていた。  
そこで、ふと考える。もう止める意味もあるまい、と。世界の半分が、闇に還ったのだから――――と。  
すべてに対しての、絶望。自分は命を絶つ事もできずに、このまま彼女と共に偽りの永遠を生きるのだ。それを拒絶する、資格は自分には無い。  
仮にも家族が殺されているときに睡眠という形で蚊帳の外におかれ、助けられるのは自分だけであったにも拘らず、みすみす逃してしまった。  
……この罪を、自分はどう裁き、罰するべきか?  
 
「わかったよ、マルレイン。僕は、君の……君だけのものだ」  
そういうと、彼女は今まで見た事が無いくらいに明るく笑い、全霊を持って自分を抱きとめた。  
彼は、世界の悲鳴を聞きながらこれ以上無く冷静に考える。  
――――ベーロンですら、この世界の地殻を根底から変えるような事はしなかった。元々有った世界の外形に、役者を振付けて行っただけだ。  
だからこそ、KTさんは長い年月を経てもあの大きさだったのだろう。  
……しかし娘のマルレインは今、大地を空に変え、空を海に変えるほどのことをしている。ベーロンとは比べ物にならない速度で世界の歪みは大きくなっていくだろう。  
 ――――おそらく、彼女が新しい舞台を作り上げてから、そう遠くは無いはずだ。歪みであるKTさんが肥大化をして、この世界を飲み込む。  
その時こそ……いや、その前にマルレインの精神が壊れるのが先かもしれない。でも――――。  
「たとえ、未来が闇しかなくても、僕は君から離れない」  
堕ちて行くのならば、とことんまで墜ちよう。これは自らに支払う贖罪でも他者により討たれる罰ですらない、ただの自己満足かもしれないけれど、それでも――――。  
「ルカ……? 寝てしまったの?」  
「余計なこと、考えるのを、……止めただけ」  
手は動かない、足も動かない。僕はただ彼女に抱かれ、犯されるだけ。狭い世界の中で、ただ互いを求めるだけ……マルレインと、KTさんと、どちらに転んでも悪い方しか残らない終末を待ちながら。  
 
……そうして、二人の男女は歴史と時とにうずもれて、やがて世界から消えていってしまったのでした。  
――――永遠という名の、偽りを求めて――――。  
 

テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル