漆黒のビロードに散りばめられた幾多のダイヤモンドの粒、  
その輝きすべてを集めても、かの人の栄誉には適うまい――。  
 
「――讃えよ、その名。勇者ポラック」  
呟きと共に吐き出された息は白く変化し、湯船から上がる湯気と溶け合い、星空へ消えていく。  
しんと静まりかえる夜、雪原のただ中に立つ温泉宿から見上げる空は、冴え冴えと美しかった。  
 
頭上を見上げて、しっくりくる表現が思い出され、続けて出てきたのが、勇者の名だった。  
思い出したのは勇者ポラックの活躍を謳った冒険譚の一節だ。  
どうやら、温泉につかって心を安らげようとしても、自然の美しさに触れたとしても、  
結局行き着く先は、勇者に関連することでしかないらしい。  
(これも職業病ってヤツかしら)  
女勇者・ロザリーは、ふう、とため息をもらした。  
 
自ら勇者たらんとはしているけど、なんていうの、22歳の乙女が温泉に入ってほっと一息、  
星空見上げて思い返すのが歴史上の人物ってどうなの?  
(しかもひとりで温泉……その上こんな夜中……)  
ひとりでいることは苦ではない。今は同行者がいるが、その前はひとりでオバケ退治を行っていたのだ。  
ひとりで入っているのは、同行者たちが全員男性なので、混浴温泉に遠慮した……それも理由だ。  
だが一番の理由は『今が夜中だから』である。  
夜中だから――明かりさえ消してしまえば、影ができない。  
自分の影を、他人に見せることなどできやしない。だからひとりで夜中に温泉に入っている。  
 
ロザリーは目元がひくつくのを自覚する。自覚したので、ぱしゃりと湯を顔にかけた。  
(ダメよ、ロザリー。リラックス、リラックス。  
あんっなバカでアホで外道でスットコドッコイなんちゃって詐欺魔王のことなんか考えちゃ、  
お肌に悪いわ!)  
自分の影をピンク色に染め、今こうしてひとり真夜中温泉の運命に落とした憎き張本人のことは、  
この癒しの時間くらいは忘れていたい――もちろん、自分のふざげた影のことも。  
今だけはフツーの、22歳の美人温泉客になるのだ――。  
 
手のひらで水面をかき、湯を肩にかける。肩から腕へ手を滑らせて湯の感触を楽しむ。  
胸元に湯を寄せて、そのままヘソをなで、腰を両手で挟む。  
両手の距離は、覚えの限り変わっていないように思う。  
ロザリーは納得してから、手で胸のふくらみを下から支えた。  
こちらも同様、変わっていない。  
なにかと一言多い魔王に、スタイルのことをとやかく言われていたので、  
もちろん信じたわけではないが、自己管理は必要だと思い、  
それで今やっているだけだ。信じてなんかない、決して。  
(……ほーら見なさいってのよ、あんのセクハラ魔王めっ)  
若干顔を誇らしげにそらして胸を張るが、はたと思い返した。  
ヤツが言っていたのは、尻に関してだったか? 尻タレだかなんだか……。  
ロザリーは手を湯船に沈めた。そろそろと尻をなでてみるが、座っている状態ではいまいちわからない。  
確認するには立つしかないのだが、立って自分の尻をぷにぷにと押す光景は、  
はた目から見ておかしくはないか?  
(はた目って。今、誰もいないじゃない!)  
ロザリーは早々に温泉から立ち上がった。その分、星の明かりに近づいた。だから、というわけではないだろう。  
けれど、動いたからこそ、気づいたのは事実だ。  
 
女勇者の動いた拍子に、視界でなにかが動いた。  
岩石で構成される温泉の端、温泉を囲む雑木林の一本にほど近く。  
うずくまる個体があった。ロザリーの肌があわ立つ。  
どうする、動くか? レイピアは脱衣所の扉の前に立てかけてある。  
(そこまで駆けて戻る。背中を向けて、追いつかれずにたどり着くことが……)  
ロザリーさん、と。  
少年の声が湯気を揺らめかせ、女勇者の思考をとどめた。  
声自体も震えていたが、声色で聞き慣れたものだと判別できた。  
 
呼びかけにならない言葉を口にしかけたロザリーは、湯船に勢いよく身を落とし込んだ。  
両手で肩を抱き、固形の闇を凝視する。  
ちゃぷちゃぷと音を立てる湯が、白いもやも揺らすようだった。  
その白いもやから声がする。  
「あの……説明させて下さい……」  
「……どうぞ」  
「だ、誰もいないと思ってたんです。こんな真っ暗な夜中に、温泉に入る人なんて、って……」  
「……そうね、私と、きみ以外」  
そうだった、明かりを欲しない人間は、自分以外にもいるのだった。  
その筆頭が彼――魔王に影を乗っ取られた少年、ルカだ。  
影ができない暗闇でなら、魔王はこの世界へ現れることはできない。  
「あの、本当にごめんなさい」  
「いいわ、私より先に入ってたんでしょ?」  
ロザリーは脱衣所に一番近い場所に陣取っている。後から誰かが入ってきたら、いくら暗闇でもわかるはずだ。  
ならばこの場合、先客に気づかなかったロザリーに非があるだろう。  
脱衣所から出て温泉に入るまで、月光で影が出はしないか、気が散っていたのだ。  
(それにしたって、人の気配に気づかないなんて……!)  
女勇者の指が、己の不甲斐なさで力が入り、肌を痛めつける。  
しかし、湯気の向こうは心中知らず、声をより一層哀れにさせている。  
「いえ、僕が悪いんです。僕が、ロザリーさんが入ってきたことに気づいてれば」  
「ストップ、そこまで。このまま責任を取り合っててもしょーがないわ」  
ロザリーはなんとか場を普段の空気に戻そうと声をはねさせる。  
「もう出ましょう! えっと、私の方が近いわね、じゃあ私から出るから、ルカくんは扉の音を」  
「あ、あの、ロザリーさん、僕が先に出ます!」  
「へ?」  
「こ、ここからだと、ロザリーさんが上がるところ、見えちゃいます。その、月で……」  
ロザリーは天上を振り仰ぐ。ああ、本当だ、幾多のダイヤモンドの粒……。  
「あ……あ、じゃあ、目をつぶってて、ね?」  
「……」  
「……ル、ルカくん?」  
「……そっち、行きます」  
「へ!??」  
 
ざん、ざん、ざん、水をかき割る音が迫ってくる。ロザリーは体をさらに強く抱いて、床から尻を浮かせた。  
右に体を二歩、三歩とずらした。やがて目に見えてきた真っ黒い物体は、赤毛の少年に変わっていた。  
湯に身を沈めてやってきた彼は、そのまま温泉の縁石へ衝突する。  
「あいた!」  
「!? だ、大丈夫!?」  
近づこうとしたが、やはり近づけない。ロザリーはルカから半円を描くように、縁石から少し離れた。  
「ロ、ロザリーさん? ケガありませんか?」  
「え? ええ……」  
答えて、少年の背中を見た。まさか、目をつぶったまま突進してきたのか? 自分の言いつけたとおりに?  
ロザリーが目を瞬かせると、ルカの肩胛骨は安堵したように下がっていた。  
「よかった。あの、ごめんなさい、今出ます」  
「あ、そうね、お願い」  
(お願いってなによ)  
内心でツッコんでおいて、ひとまずはこの状況が解消されそうなことに気が緩んだ。そこに、また一つ、声が。  
「その前に、言わせて下さい」  
「っ!? な!?」  
ナニ、と意味を示さない音で促した。  
「ロザリーさんは、そんな、気にしなくてもいいと思います」  
――気にしてる? 私が? それこそ、「なに?」だ。  
「さっき……あの、僕がロザリーさんに気づいたのは、ロザリーさんが、声を出したからなんです」  
――讃えよ、その名。勇者ポラック。  
ロザリーは、湯とは別に顔が温められるのを感じた。  
「き、聞こえちゃったー!? まっ、聞こえちゃうか、こんな静かだし!!」  
独り言を聞かれていた恥ずかしさを紛らわそうと、無理に声を高くする。だがルカは場にそぐわないほど、神妙にうなずいた。  
「僕は、すごいな、って思いました。こんな一日の終わりにまで、勇者のことを考えてるなんて」  
「え? いやー……」ええい、笑ってごまかしちゃえ。「ホ、ホホホホ……ありがと」  
「だから、影がピンクだとか、スタンからなに言われようが、ロザリーさんが気にすることなんか、ない。  
ロザリーさんは他の勇者より、ずっと勇者らしいです」  
水面は凪いでいた。水音もなく、声もなく、ただ聞こえるのは森を渡る風音のみ。  
湿った髪は細かい束となって、ロザリーの頬にかかった。  
柔らかな肢体を抱いていた指は緩み、そっと胸の肌に触れている。温かい。  
その指が、顔にかかった一筋の髪を耳に戻す。  
「それを……言いたくて! じゃ、じゃあ出ます!」  
「待って」  
「!!」  
ルカくんが驚いていた。……私も、驚いている。  
(なんで呼び止めたんだろう?)  
わからないけれど、まだ胸に残る指が感じている。身の奥で打つ、心臓の速度。戦いの時より、緩やか。心地いい、幸せな音。  
音に合わせて、ロザリーの口が動く。  
「ありがとう……」  
お礼で合ってるのかしら? わからない、それもわからない、でも間違ってない、この音に合う言葉。  
「ありがとう、ルカくん」  
 
 

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