満月の夜だった。  
自室に入ったルカは、明かりを灯そうとして、やめた。窓から差し込む月の光は、  
十分歩ける明るさをもたらしている。少年は扉を閉め、苦もなくベッドまで歩き、腰掛けた。  
家族は皆、寝静まっている。もうひとり、血の繋がりはない家族にも、お休みの挨拶を交わした。  
ルカが冒険を終えた後からこの家にやってきた少女、マルレイン。  
(そろそろマドリルまで連れて行ってあげようかな)  
そうして多くの人に出会い、人に混じって暮らす生活に慣れていって欲しい。  
僕も、テネルを出てわかったことがたくさんある。  
 
テネルを出ることになった原因にまで思いをはせそうになり、ルカは頭を軽く振る。  
靴を脱ぎ、薄着になった。上掛けをはがすために、一度ベッドを降りた。窓明かりの中に足を落とす。  
窓枠の影を踏み、ベッドへ上がる。足を布団の中へ押し込んで、頭を枕へ落とそうとした時、  
目に入った。  
直線の窓枠の影を、長く末広がりの影が斜めに横切っている。  
影の発生する元はルカが足を付けた床部分だ。しかし、もちろん、ルカの足は今やベッドの中。  
実体のない影である。  
 
静かな部屋に少女の声がただよった。  
 
「うーん、あー。今日も平和な一日だったなー。ボクは、魔王とは関係ない、ただの少年だー。  
今日もいい夢が見られますようにー! ……なんてことを、思ってるな?」  
 
マルレインでも、妹のものでもない。母や祖母の声、父の作り声でもない。  
 
「クックック、クックック……。それは、残念だったな!  
……これは、まぎれもない現実! おまえは、一生、この魔王スタン様の子分、召使い、部下なのだ!」  
 
ヒョコン!  
一年前からずっと背後から聞こえていた、だがもうずいぶん聞いていなかったあの音が、  
今、目の前で起こる。  
ただし、現れたのは見慣れた厚さのない影ではない。黒い衣装に身を包んだ少女だった。  
 
「おいコラ! ご主人様が目の前にいるのに、なにノンキに寝っころがってるんだ!」  
さっさと起きろ! と、少女がベッドの縁を足蹴にした。ルカは振動にベッドの上へ飛び起きる。  
それから、ベッドのかたわらで月光を浴びながらふんぞり返る姿をまじまじと見た。  
(揺れた……でも夢から起きてない……。これは、夢じゃない!)  
「スタン!?」  
「そうだと言っているだろう、この子分子分子分!!」  
久々に聞く連発子分も耳が痛まない。口調に、どこかしら懐かしさが含まれているように  
感じるからだろうか。  
 
「ど、どうしたの、こんな夜中に!?」  
「ふん! おまえは余の子分にして召使いにして部下なんだぞ! 自由時間があると思うか!」  
「そういうことじゃなくて……。夜はみんな寝てるから、会えないじゃないか」  
「おまえは起きてるだろーが」  
「僕も寝るところだったんだよ」  
言いながら、ルカは少し笑った。  
「明日の朝、また来なよ。きっとおとーさんもおかーさんも喜ぶし。  
あ、そうそう、マルレインも今一緒に住んでるんだ。紹介するよ」  
「……ほう? あの小娘の本体か」  
「本体って……。そういう言い方は……」  
「こんのバカたわけ子分!」  
少女の金色の瞳が、ささやかな光を跳ね返して怒りに燃える。  
 
「どーも遅いと思ったんだ! これだからバカな子分は困る! 余はおまえの主人として寛大だから  
教えてやるぞ、よく聞け青二才子分! いいか、確かに余は過去におまえの所有権を『多少』手放してやった!  
だがあの小娘は今向かいの部屋で寝ておる小娘とは別人だろう!」  
「え? うーん、そう……かなあ?」  
「そうだ、このダメ子分! したがって、あの話はナシ! 解約! おまえの所有権のすべては  
余に戻ったということだ! つまりおまえは余一人のものなのだ、わかったか、このグズ子分!」  
 
一気にまくし立てる間に、少女はベッドの上まで前進してきていた。  
まるでルカにのしかかるように迫っており、気圧された少年は、末語の「グズ子分」で後ろ頭を壁に軽く打った。  
しばらくの静止。  
目と鼻の先の、距離感が狂う一歩手前にある少女の顔。ルカの眼前で輝いていた目が、ふと伏せられた。  
「だからおまえは、小娘など捨て置いて余をたずねてよかったのだ……」  
「たずねるったって……」  
そっちが、どこにいるか知らせないでいたんじゃないか。あの最後の戦いの後だって、いち早く去っていったのは――。  
そういった少年の思いを、魔王はふくれ面で遮った。  
「言っただろーが! 余が世界に君臨した後、たずねてきたら遊んでやらんでもない、と!」  
胸ぐらを捕まれ、揺すられた。頭をゴチゴチと壁にぶつける。  
「ちょ、いたっ、痛いって!」  
「うるさいうるさーい! 子分の分際で逆らうな、最上級詞子分!」  
ついにはルカの頬を横に引っ張り始めた。痛さでルカの手も反射的に上がり、ちょうど向かい合う相手の頬に触れる。  
そのまま手探りで少女の細い首を支え、もう片方の手で柔らかな口を覆ってしまう。  
「静かにしてってば! みんな起きちゃうだろ!」小声で言う。  
真正面で暗がりの中に浮かぶ目と見合った。うっすらと涙ぐんでいるようだった。  
ルカはぎょっとし、思わず口を覆った手を離してしまう。  
早速大きく開いた口に、「しーっ!」と素早く自分の口の前に指を立てた。少女の口から声が引っ込む。  
ほっと安堵をついたが、少年はすぐに腕を強ばらせた。まだ、首に添えた手がそのままだ。  
ルカの体が緊張する。誰に手を固定されているわけでもない、  
そのままベッドへ落としてしまえばいいのだが、それができない。  
 
長いまつげ、うるんだ瞳、褐色の肌、柔らかな頬の線、ふっくらとした唇、  
その合間にちらり見える小さな白い歯――赤い舌が見えそうで見えなくて、  
こじ開けて見たくなるような……そのために、自分の舌を押し込んでしまいたく……。  
 
(――これは、スタン、だってば!)  
一年前、父が拾ってきた奇妙な壺から現れたのが、このスタンだ。  
その時は真っ黒で薄っぺらく、顔とおぼしき黄色くて大きな、楕円の目と裂けた口が配置されているだけの、  
『自分の影』だった。  
その彼が、――そう、彼。『彼』なのだ。ルカはスタンをずっと男だと思っていた。  
なぜならくぐもった声で尊大な性格そのままに始終自分をののしり倒していたのだから!  
その『彼』がまさか女だなんて、それもこんな美少女だなんて、思えるわけがない!  
ではこの目の前にいる美少女は誰なのか? スタンらしい。だがルカの思っていたスタンは男で――。  
 
思考が堂々巡りしている間に、事態はさらに深刻になる。  
少女の頬が、腕にすり寄ったのだ。ルカの心臓が大きく跳ね上がる。  
 
頬の触れる腕の内側の肌が熱い。少女の体温と唇からの吐息で熱せられる。  
熱が腕をしびれさせる。麻痺は腕から体中へ染み渡り、頭をも熱くさせた。よく、考えられない。  
心の内が、自然とこぼれた。  
 
「スタ、ン……」  
「……なんだ」  
「きみ……」  
「うん……?」  
「なんで女の子なの?」  
 
顔面にチョップがきた。痛みに両手で顔を覆う。あ、腕外せた。  
「お・ま・えぇぇ……! 『なんで』『女の子』『なの』『?』だと!?  
『なんで』!? 『?』!? 余のナイスバディのどこを見たらそんな低脳な言葉が出てくるんだ!?」  
「だ、だって……スタンが女の子なんて、思ってなかったから……」  
「なーーにーーーぃ!?」  
「しー、しー!!」  
 
少女は首を絞めんばかりに両指をかぎ爪にしたが、途中で息をのんで停止した。  
ルカが見守る中、わなわなと震えている。  
「そ、そーか……! だからポスポス雪原の温泉にも平気で余を連れ込んでいたんだな!?」  
連れ込んだ覚えはない。光あるところに影ができるのは必然で、その時も一緒にいなければならなかっただけだ。  
(……ん?)  
ルカは少女を注視した。  
(この子……あの温泉に入ったんだ……)  
『影』であったスタンと一緒にいた記憶、ルカと共通の思い出を、この少女も持っている。  
いや、違う、この少女『が』、スタンの記憶を持っているのだ。  
 
「おい待てよ、そういえばリシェロの水遊びの時だって」  
「スタン」  
「はっ! な、なんだ!? まだ疑うのか!? なんなら証拠を見せてやらんでも」  
「ごめん、ずっと気づかなくて。きみが女の子だってこと」  
「!? そ、そうだ! おまえが悪い! 全面的に絶対的に究極的におまえが悪い!!」  
 
そこまで言われると、初めに女だって言えばよかったじゃないか、と反論したいところだが、  
思えば「ルカです。僕は男です」などと自ら説明することなど、まずない。  
だからまあ、反論は飲み込もう。  
 
「うん、僕が悪かったよ。ごめん」  
「!!? そう簡単にこられると逆になにか企んでいる気がしてならんな。なんだ一体!?」  
「そんなことないって」  
ルカは苦笑した。顔面のチョップ跡を指でなぞりながら首を傾げる。  
 
「うーんと。まだスタンがそうやって女の子の格好でいるのを見ると、なんだか変な気分だけど、  
そうやって僕のことを『子分』って呼んだり、怒りっぽかったりするのは、スタンそのまんまだし。  
それに今、きみが言っただろ? 僕と一緒に温泉に入ったって。  
僕も覚えてるよ。僕はスタンと一緒に温泉に入った。  
だったら、きみはスタンだ。僕の知ってるスタンだ。  
今それが本当にわかったから、勘違いしてたこと謝ろうと思ったんだ」  
 
最後の戦いで、元のこの姿を取りもどしたスタン。  
戦いの最中は、少女であったことを気に掛ける余裕がなかった。  
戦いの後は、少女の方が会話もさせずに『世界征服』へと旅立って行った。  
家に帰った後は、マルレインを見守るのに精一杯で彼女のことを考えることはなかった。  
もう会うことはないだろう、そう思っていたから。  
だが、違った。考えなかったのは、考えても無駄な問題だったからなのだ。  
現に今、少し考えただけでわかってしまった。たったそれだけの、問題にもならない『問題』だったのだ。  
 
スタンはスタンだ。それでいい。  
 
ルカは顔をなでていた指を止めて、スタンを見つめた。  
対する少女は、拳を膝に乗せて、うつむいていた。  
前髪を後ろへすべて流した髪型は、その目元をさらしている。  
月明かりと、暗がりに慣れた目のおかげでよく見えた。  
 
「ぷっ!」  
「な!? なんだ、この! なにを笑ってる!!」  
「笑ってない、笑ってない」  
「嘘付けー! その手をどけてみろ! いやどけろ! 主人の命令だ!!」  
「あはは、やだってば! あはは!」  
「く、くそー! このミジンコ子分めがー!!」  
 
もみ合う内に、ルカはスタンに押し倒されていた。ベッドの上で、腰に馬乗りになる少女を見上げる。  
ルカはやっぱり、笑いを抑えられない。  
枕元の窓から差し込む淡い光の中で、褐色の肌は今や尖った耳の先まで真っ赤になっていた。  
ルカの鎖骨に置かれたスタンの手は、その色を伝えるように熱い。  
(照れてる、あのスタンが)  
少年は、少女の指に片手を滑り込ませて握る。  
 
「スタン。元の姿に戻れてよかったね。僕の影だった頃より、ずっといいよ」  
 
影だった時も、十分すぎるくらいに自己主張して感情を伝えてきていたけれど。  
こうやって向かい合って表情を伝えあえる今の方が、ずっと身近に感じられる。  
実体と影の一対としてあるより、別々になって体温を感じあえる方が、ずっと。  
 
途端、鎖骨にパンチがきた。両手で痛みを押さえ、うつぶせになる。あ、スタンと離れた。  
少女は現れた時と同じように、部屋で仁王立ちになっていた。  
「バカバカバカバカ百万バカ子分!! 余はっ、余は世界を統べる大魔王、スタン様だぞ!!  
そ、それを、人間の女を口説くようにたぶらかしおって……! 身の程を知れ、億千万バカ子分!!」  
「く、口説いてなんかないよー……」  
「うるさーい! ふっ、不愉快だ、余はもう帰る!」  
「ええ!?」  
 
真夜中に怒鳴り散らしてチョップとパンチを食らわせただけで帰る。なんて意味不明ではた迷惑な。  
それでも、  
「スタン、待ってよ!」  
ルカは鎖骨の痛みを押して身を起こした。呼ばれた当人は、すでに足のすねまでを、床に落ちる窓枠の影と  
同化させていた。  
「きみ、今どこにいるの?」  
もう膝頭まで影に沈み込んでいる。  
「今度は僕がきみをたずねにゆくから、教えてよ」  
腿まで床に溶けている少女は、ベッドの上で身を乗り出すルカを見上げる格好で振り返った。  
「……マドリルだ」  
「あれ、近いんだね」  
「おまえがちっともたずねてこないから、しかたなく……!」  
「え?」  
「!! なんでもないわ! まあ、あの地はすでに余のものだからな!  
マドリルの門を通るにはメチャメチャ通行料が必要だぞ! さーて、貧乏子分に払えるかなー!?」  
「通行料?」  
それより、マドリルが魔王に征服されたという話も知らない。  
「なに!? このチンケ村がそこまで遅れているとは……!  
ということは、余がリシェロや新世界で行った征服行為も知らんのか!」  
「うん」  
「っかーー! 主の偉業を知らずしてなにが子分だ、こんっのアホノロマ子分!!」  
スタンは胸から上だけを出している床を、ダンッ、と拳で叩いた。  
「再教育だ! 魔王の子分としての心構えを徹底的にたたき込んでやる!!  
ククク、楽しみにしているがいい! 恐怖で震え上がらせてやるぞ!」  
青い月光を受けて、金色の瞳が、床の上で、キラリとひらめいた。  
そして、もうあの魅惑的な唇は見えないのに、最後の一声を部屋に放り上げる。  
「だから……早く余をたずねてくるのだぞ、ルカ!」  
ヒュコン、と。影が水面の波紋のように床に広がり、収縮した。跡には窓枠の影だけが残っている。  
 
■□■□■  
 
翌朝、マドリルでオバケ研究を続けるキスリングから便りが届いた。  
主目的は父に当てた論説で、別封筒でルカ宛の手紙が入っていたのだ。  
ルカは、家の中の大階段に腰掛けて封を切る。  
母とマルレインの働く台所からそのうち飛ぶであろう、おつかい指令待ちの態勢だ。  
手紙は、『いわゆる手紙』というものを正しく再現したものだった。  
気さくな挨拶の後に己の近況、それについての感想と、相手への近況を尋ね、  
結びの一言で締める、といったもの。実にキスリングらしい。  
 
さて、そのキスリングの近況の中で、彼の住まうマドリルについて書かれた部分があった。  
新世界発見を記念してコインを発売しているのだという。  
その収益で、マドリルの歯車門を新しくする計画が立ったそうだ。  
それを推進したのが、なんとスタンらしい。  
なんでも、「余の膝元がみすぼらしくては困る」と、オバケを駆っては賞金をもたらし、  
資金補助として住民向けの集金活動を速やかに行い(住民側が乗り気だったので  
余計な騒ぎもなく終わったそうだ)、無事に門を成す歯車のひとつを新調できるということだ。  
その歯車にはスタンの功績を讃えて、名が刻まれるとも書かれていた。  
 
ルカは手紙から顔を上げる。  
スタン式でいうと、魔王自ら『征服予約』したマドリルを意のままに動かした結果門ができあがり、  
その門には自分の名が刻まれるのだから、『征服済』と考えているのだろう。  
さらにいずれは通行料を取ろうと目論んでいての、昨夜の言葉なのだ。  
(つまり、スタンはまた、勝手に人助けをしたんだな)  
 
少年は手紙をたたみながら、口を緩ませた。  
(あー、やっぱり、スタンだなー)  
昨晩の最後に見た、床上の金色キラリが思い出される。  
続いて脳内に現れた、吸い込まれそうな唇については、  
たたみ終えた手紙を頭上斜め上でパタパタと扇いで、散らした。  
「ルカー」母の呼び声が聞こえた。おつかい指令だ。ルカは応える。「はーい」  
階段の手すりに手を掛けて立ち、台所へ向く。  
赤味のある金の髪の少女が歩み寄ってきていた。ルカはその場で、彼女を待つ。  
「テネルの村の、パン屋さんまで、おつかい、って……」  
「うん」  
「……ル、ルカ!」  
「うん」  
「私も一緒に行きたい。……いい?」  
ルカは笑顔で答えた。  
「うん。一緒に行こう、マルレイン」  
 
母に言い置いて、2人は玄関をくぐった。明るい太陽が目に眩しい。  
ルカはマルレインに先んじて、庭階段を下りていく。そして思った。  
鉄門に着いたら、言ってみよう。今度マドリルへ行かないか、って。  
リシェロや新世界で成したという人助け――いや、『征服行為』を、聞きに行こう。  
地面の濃い影はルカに遅れず付いてきて、鉄門の前で実体と一緒に止まった。  
 
■■THE END■■  
 
 

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