最近、よく同じ夢を見る。
『さあ、おやりなさい。本能の示すがままに」
『ああ―――』
夢の中の自分は、ある組織で一人の男を監視、その男に組織で得た情報を提供する、いわゆるウォッチャー、もしくはメッセンジャーと呼ばれる存在で
『生きている気分はどう?』
『悪くない』
その、監視者であるところの自分は、その世界の技術であるのだろうホログラフとやらで自分の姿を偽りの異形へと変え、幾度と無く彼に接触。
彼の望む情報、あるいは自分の所属する組織にとって彼が有益に動いてくれるように誘導する情報を渡す……いわゆる、協力関係に彼とはあるようだった。
『あら? 拗ねてるの?』
『……何で俺が拗ねなきゃいけない』
『何も知らされていないのが口惜しいのではなくて?』
……とは言っても、お互いにとってそれがどういった利益を生むのか。否、そもそもお互いの目的がなんであるのかも自分はおぼろげにも覚えてはいない
なにしろ夢の中の出来事なのだ、いちいちその中で起きた細かな出来事や思考など記憶に残っているわけがない。
とりわけ印象に残っているのは『審判の日』『悪魔憑き』『国の誕生以前から存在する組織』等のおよそ現実では口にしないような単語ばかり……我ながらなんと壮大で自分らしからぬ夢だろうと思う。
こんな現実性の一片も無い夢を見て喜ぶのはせいぜい精神の熟していない子どもぐらいのものだ。
だから、そんなものをこの自分が、例え自分の意思でなくとも何度も繰り返し見るなどと、少しばかり気を落としてしまいそうだった……そう、美しくない
『それでザーギンを止められる可能性が、少しでも上がるのなら』
『殺すのではなく、止めたいのね。やはり不思議だわ、貴方は』
少し救われたのは、自分が日常の中でも口癖となっている『美しい』を夢の中の自分も常用していたことであろうか。
あのような出鱈目な世界観の中にあっても自分が己の性質を失っていないというのは、何か小さな誇りのように思えた。
……ただ、自己の性質を失っていないがために、あまり覚えてはいたくなかったことまで覚えていることを考えると、差し引きはゼロなのだろうか
『だが負けるつもりはない』
『正直ね。でも貴方のそういうところ―――』
……そう、彼とのほとんど覚えていない関係性の中で、唯一鮮明に覚えていることがこれだ……なんだろう、とてもではないが美しくない気がしてならない。
確かに、自己の性質を変えられることは例え夢だろうと嫌ではあったとも。
しかし、何もこんな感情までそのまま夢の中に持ち込まなくともよいではないか。ましてや……
『―――嫌いじゃないわ、ジョセフ』
『それはどうも―――エレア』
それを……そんな感情からなるそんなやり取りまで克明に覚えていなくともよいではないか
『―――嫌いじゃないわ』
そんな、彼への態度まで、いちいち現実と同じでなくともよいではないか。
そして……それを自分がいちいち気にする必要などない……ないはずではないか。
……ああ、美しくない。まったくもって美しくない。
と、少女―――エレアは、まどろんでいく意識の中でひたすらに己に対して呟き続けた。
エレアがまず感じたのは消毒液独特のツンとする匂いが鼻腔を刺激する感覚だった。
「ようやくお目覚め?」
次に声。
妖艶、と形容するほかに表現できないその声は、清潔なシーツの上で仰向けになっている彼女の頭上からまるであやすような響きを持って聞こえてきた。
「……ベアトリス……先生」
「おはよう、エレアさん。いいえ、時間的にはそろそろこんばんはでも差し支えないかもしれないわね。2限目から放課後の5時半まで熟睡した気分はどんなものなのかしら、私も一度体験してみたいわね」
「…………」
脳がまだ覚醒しきってはいないことを感じながらも、エレアは少しずつ今の状況を把握しようと思考を走らせる。
保健室、呆れ顔の保険教諭、未だまどろみ続ける自分の視界、そして夕日の差し込む窓……
「……授業、終わったんですね」
それらを総合した結果、エレアはそう結論付けた。
「つい二時間ほど前、貴方が気持ちよさそうに寝息を立てている頃にね」
どうやら自分は体調不良を訴えて訪れたこの保健室のベッドの上で熟睡してしまっていたらしい。とエレアは己の少し乱れ気味の黒く長い髪を手で撫で付けながら、まるで人事のように思った。
保健室の担当教諭であるベアトリスが半ば呆れたような、半ば諦めたような表情でため息をつきながら、まだ寝ぼけ気味と思しきエレアに少し嗜めるような口調で言う。
「貴方ね、ことあるごとにここを休憩室にするのはやめなさい。貴方が体が強い方ではないということは知っているし、貴方のお父様であるヴィクター理事長からもよろしくと頼まれてはいるけれど、流石にそれにかこつけて何度もズル休みされても困るのよねえ」
「ひどいですわ先生、私はそんなズル休みだなんて……」
先ほどの寝ぼけ気味の顔から一転、目の端に涙をため、すがるような表情でベアトリスに乞うエレア。
しかし、彼女をよく知るものであれば気づいただろう。その涙は先ほど彼女が欠伸をしたときに溜まったものだと。
そして、エレアの目の前にいる保健教諭、ベアトリスはその彼女をよく知るものの一人であった。
「……それで、今日の体育はなんの授業だったの?」
「マラソンです」
「……確かに、楽しい授業でないことは認めるけれどね」
「美しくもありません」
ベアトリスはその彼女の台詞に「またか」という表情をして額に軽く手を据えた。
「エレアさん、美しさで単位は取れないのよ?」
「美しく走りきれる自身のある時は出ます。けれど、今日は美しく走れそうになかったんですもの」
「……でも、出られないほどではなかったでしょう?」
「息を上げながら疲労困憊で走る姿なんて美しくないですわ。そんな姿を見せるぐらいなら、私は出席日数ごとき捨てることに躊躇いは持ちません」
「持ちなさいな、躊躇い」
ベアトリスはもう一度ため息をつくと、保健室に備え付けられた机に歩み寄り、机の上に散乱した用紙などを己の私物であろう皮製のバッグにつめ始めた。どうやら帰宅の準備を始めているらしい。
「貴方は座学の成績がいいから進級自体は余裕でしょうけど、落とした単位は成績として残るのよ?それは、あまり美しくないのではなくて?」
「先生、私がなんの考えも持たずに欠席をしているとお思いで?どれほどの欠席で単位を落とすか、どれほどの欠席であれば単位は落とさないのか……そのぐらいは計算済みです」
「……そんな計算をする意欲を、少しでも授業に出る意欲に分けてあげなさいな」
机の上の用紙を全てしまい終えたバッグを肩にかけ、この保健室のものと思しき鍵を指にひっかけながらベアトリスはエレアに、自分のものとは違う手持ちの鞄―――学校の指定鞄を手渡した。
「委員長のアマンダさんが持ってきてくれたわ、明日にでもお礼を言っておきなさい」
そう言うとベアトリスは踵を返したようにエレアに背を向け、この保健室の出入り口である扉へと歩きだす。
その行動を「今からここを閉める」という意味だと理解したエレアはローファーの靴を履き、手渡された鞄を持ち直しながら、ベアトリスの背を追って少し早足に、先ほどまで自分が眠っていたベッドから駆け出した。
『調子が快調ではないことは事実なんだから、速めに帰宅してコレを飲んで休みなさい』
そう言ってベアトリスに渡されたカプセル薬に目をやりながら、夕日の差し込む校舎をコツコツという足音を響かせて歩く。
「……どうしてあの先生の渡す薬は飲んではいけない気がするのかしら」
などとどうでもいいことを呟きながら薬を鞄の中に直した。
ふと窓の外から見える向かいの校舎を見ると、そのほとんどが明かりを落としている。部活をしている生徒たちもその多くが帰り始めている証拠だ。
どうやらこれは本気で寝すぎてしまったらしい。いつもならば終礼のチャイムが鳴る前には必ず目を覚まして自分の教室に荷物を取りに戻るのだが、今回は完全に起きるタイミングを逸してしまった。
先ほどベアトリスの前では開きなってみせたエレアだったが、改めて思いなおしてみるとこれは中々に美しくない。
「……あの夢のせいかしら」
また今日も見たあの夢。
無駄に大きな世界観、聞き慣れない、言い慣れない言語の羅列、およそ生きるうえで拝むことのできないであろう、非現実的な風景の数々。
あの夢を見るとき、決まっていつも眠りは深い。それはその壮大な世界観に飲まれているのかもしれないし、逆に眠りが深いからこそあれほどのスケールの大きい夢を見るのかもしれない。
そう、無駄に話が大きい……そのくせ、自分と『彼』、そしてその関係性や会話にまるで変化の見られないあの夢。
初めて見たのはいつごろだっただろうか、結構に前だったような気がする
……そう、見始めた当初からずっと夢の内容は同じようなものの繰り返しで、その中で繰り広げられる彼とのやりとりも同じようなことの繰り返しで
……その夢から覚めた後に考えることもまた、同じことの繰り返しで……
「ジョセフ……」
エレアの中で、『彼』に対してふつふつと理不尽とも言える怒りが沸いてきた。
(そうだわ、元はと言えばジョセフが夢の中でまであまりにジョセフのままなのが悪いのよ)
もちろん、エレアの中に芽生えたその感情はまったくの逆恨みであり、その意中の彼は彼女の見る夢の内容など知るはずもないのだから、彼女の怒りを買う理由はないはずなのだが……
(暗いし、物好きだし、身勝手だし、自分の身を省みない上に、私の言うことなんて聞きもしないし……)
ふと、エレアの足が止まる。
「……どちらがかしら」
その言葉の意味を聞き、理解し得る人間は、今現在この場には一人もいない。
いや、もしこの場に何十人の人間がいたとして、彼女の今の心情を理解はできないであろう。
誰あらん、エレア自身がその気持ちを持て余しているというのに、一体誰が彼女の気持ちを理解しうるというのか。
「……美しくないわね」
この夢を見るたび、何度言ったか分からない言葉を、やはり今回も小さく呟く。
ああ、わかっているのだ。
たかが夢になにをムキになっているのかと。
そんな怒りを彼に向けたところでどうしようもないだろうと。
……問題は彼よりも、自分自身にあるのだろうと。
「…………帰りましょう」
そんな、あまりにも後ろ暗い、彼女的に言うならば「美しくない」考えを振り払うために、エレアは先ほどよりも早足で歩き出す。
しかし、数歩進んだところで、その足がまたも急停止した。
「明かり?」
そう、明かりだ。
エレアが足を止めて見つめる先、その校舎のある一室から未だに光が漏れている。
(こんな時間に?)
もう部活も確実に終了しているであろうに、誰がこんな時間までのこっているのだろうか。
(あの教室は、確か……)
第二校舎の2階、左端から4番目の、明かりが漏れる教室……あそこは確か……確か……確か……
「……!」
エレアが走り出したのはそんな、何か得心が行ったような表情を見せた、すぐ後だった。
いつからそうなったのかはエレア自身にも分からない。
強いて理由を上げるならばお互いの家が家族ぐるみで仲がよく、それ故に一緒にいる時間が長かった……ということぐらいであろうか
そう……長かったのだ。
だから自分がいつ、何がきっかけで、ジョセフを『そういった対象』として意識し始めたのか、それがエレアには分からなかった。
ジョセフの背が自分を追い越してから?
自分の翻弄するような話し方にジョセフが飄々と対応するようになってから?
……それとも、最初からきっかけなどなかった?
少なくとも幼かった頃のエレアにとっては、ジョセフは弟のような存在であった。
すぐムキになる性格は挑発がたやすく、いじめるのがそれはそれは楽しくて仕方が無かった記憶が今も彼女の中にはある。
また、強がりなくせにどことなく頼りのないところなど「私がついていなければ」と姉貴風を吹かせるには絶好の相手だったのだ。
……それがいつからだろうか、エレアの言葉を柳のように受け流すことを覚え、性格的にも落ち着いた冷静な少年に成長していたったのは。
別に、エレアとてそれを不満に思うことはなかった。
むしろ彼女は喜んだ。あのあらゆる意味で拙かった弟のような存在が、いつしかそれほどまでに成長したことを……そう、『美しい』とさえ思った。
ただ、エレアにとって不幸だったのは、柔軟に対応を変えていったジョセフに対し、彼女自身はジョセフへの対応を変えることができなかったことだ。
『意識していないから変わらない』ではなく、『意識しているからこそ急には変えられなかった』のだ。
それはエレア特有の意地の張り方であったのかもしれないし、もしくは引っ込みがつかなくなってしまっただけだったのかもしれない。
……もしかしたら彼女にとっての真の不幸は、自分の気持ちを意識し始めた後も、動じず今まで通りの対応をし続けられたエレア自身の器用さにあったのか。
なんにせよ、エレアがそのような対応しかできない自分に下した評価はただ一つ……『美しくない』であった。
そして今現在も、彼女の中では自らをひたすらに『美しくない』と断ずる日々は続いている。
少しだけ乱れた息を整え、髪を整え、服装を整える。
これは彼の前だから云々というわけではなく、ただ単純にエレアが美しくない姿で人前に姿を現すことなど我慢なら無い、というプライドからであるが。
心なしか、いつもよりその時間が長く、慎重になっていることは、エレア自身も認めざるを得なかった(もちろん、その自覚した分だけ不満が顔に表れていることもまた事実ではあるが)
『美術室』
そう明記された札の直下にある扉をくぐると、そこにはやはり、エレアが予想していた通りの情景があった。
「ジョセフ」
その短くいい加減に切られた黒髪を夕日に反射させ、こちらに気づく様子もなく手元で一心不乱に彫刻刀を繰り返し前後させる少年……エレアはその光景に軽く……本当に軽くだけ息を呑み、彼にそう言葉をかけた。
「……エレア?」
手元の彫刻刀で削っていた木片(恐らく彼の所属している美術部で出された課題か何かだろう)から目を離し、視線をエレアに向けるジョセフと呼ばれたエレアの幼馴染であるところの彼の表情には、若干の驚きが含まれている。
その表情が、どことなくエレアに彼の不意をつかせたような気分にさせ、意味も無く気分がよくなった。
「どうしてここに?」
「あら、私がここに来てはいけない?」
単純に疑問をぶつけてくるジョセフにわざと意地の悪い聞き返しかたをするエレア。
といっても、これは本当に幼い頃からの彼女のくせであり、ジョセフもそれを熟知しているので、特に不愉快に思うことも無い。
「そういうわけじゃないが……もう、下校時間だろう」
「その台詞、そのまま貴方にお返しするわ、ジョセフ」
「俺は……もう少しで課題が完成しそうだったから、部長に鍵を預けてもらって仕上げるために残ってるだけだ」
やはり、とエレアは少し得意げな表情をする。
ジョセフがこういった、作業を中途なところで止めてしまうことを……とりわけ美術のことでそれをするのを嫌がる人物だということは、エレアは幼い頃からの付き合いで知っている。
というのも、彼がこうやって一人で部室に残って作業を終わらせようとすることはこれが最初ではないからだ。
何かにつけて作業が煮詰まったとき、もう少しで作業が終わりそうで微妙なところで終わらせたくないとき、彼はいつも美術室の鍵を預かり、遅くまで……それこそ学校の門限ギリギリまで居残って作業をする。
エレア自身も以前に何度か一人美術室に残って黙々と作業を続けるジョセフの姿を見たことがあるが、あれはなんともシュールというか、如何とも言い難い光景であった。
たまたま彼と同じ時間まで残っていた生徒が、美術室から聞こえてくる木を削る音に怯えて、学園七不思議のひとつ『彫刻おじさん』と勘違いするのも、仕方のないことであろう。
閑話休題。
「というか、お前、二限目の体育の後から教室に戻っていなかっただろう。俺はてっきりまたいつものように早退したんだと思ってたんだがな」
「あら失礼ね、私がそんな何度も早退を繰り返すような不真面目な者に見えて?」
「……じゃあ、どうして残ってるんだ」
「保健室で眠っていたのよ。どうせだからと思って、今日はゆっくり夕方まで眠らせてもらうことにしたの」
本当は放課後にすぐにでも帰るつもりだったが、この時間まで寝過ごしてしまったことは言わない。美しくないからだ。
ジョセフはそんなことでエレアを笑いはしないということを彼女自身もわかってはいるが、それでも彼女のプライドが彼にそれを言うことを許さなかった。
「……エレア」
「なあに?ジョセフ?」
「…………いや、いい」
あからさまに「保健室でサボるのは不真面目じゃないのか?」という表情をエレアに向けた後で小さくため息をつくジョセフ。
これ以上エレアに何を言っても笑顔で流されるということを理解しているからだろう、そのため息の中には少しばかりの諦観も含まれているようだった。
昔なら、ここでもっと反論してきたのに……などという思考が一瞬エレアの頭をよぎったが、さして重要なことではないので切り捨てる。
「お前は、まだ帰らないのか」
ため息をついてから視線を手元に戻したジョセフは、エレアの方を見ずに彫刻刀で木片を削りつつエレアに問う。
「あら、随分な言葉ではなくて?こんなところまでわざわざ来てあげた幼馴染に向かって」
「……頼んでいないんだがな」
ちくり
一瞬、本当に一瞬だけ、エレアの胸を小さな痛みが走りぬけた。
「……あら、そう」
かけぬけた鋭い痛みは一瞬だったというのに、その痛みがつけた傷が徐々に大きくなり、また鈍い痛みを新たに広げていくのがわかる……あんな程度の軽い言葉ごときで……情け無いことこの上ない。
ああ、しかもなんだこのあからさまに機嫌を悪くしたのがわかる声は。
これではまるで自分が彼の言葉に気を落としたようではないか。彼のそんな些細な言葉に傷つくような弱い女だと思われてしまうではないか。
……これもいつからだろうか、自分が彼の一挙一動に、心を大きく動かされるようになったのは。
彼が自分を見れば気持ちが高揚し、彼が自分を見てくれなければ不愉快になり、彼の行くところに、無意識に足を運んでしまうようになったのは。
(何をやっているの……私は)
夢見のせいだろうか、今日の自分は本当にどこかおかしいようだ。
やけに昔のことを思い出す。いつもより更に無駄に彼のことを意識する。
さっきのやり取りにしてもそうだ、いつもの自分ならばもう少し上手く流せたはずだというのに……
いつも以上に彼の言葉に心動かされ、こうやってまた延々と悩み続ける姿が、自分から見ても滑稽に思えてならなかった。
これならばいっそ、(いい意味でも悪い意味でも)自他共に認める思慮深さなどない方がずっと格好もついただろう。
少なくとも、今の自分の姿はエレアにとって美しくないと思うほか無かった……と、唐突に
「ありがとう」
その言葉が、先のジョセフの言葉の続きであるということに気づくのに、少しの時間を要した。
「……あら、私の訪問など頼んでいなかったのでなくて?」
完全なる不意打ちだった。まさかそんな言葉がくるなどとは予想だにしていなかった。
だから、エレアの脳内はこのとき、軽くパニックになっていたと言っても過言ではない。
「だが、わざわざ来てくれたんだろう、それ自体には礼を言うさ。来てくれたことは嬉しいしな」
ああ、まずい、嬉しい。エレアは柄にもなくそんなことを思う。
自分のそんな状態と、自分をそんな状態にしたジョセフの言葉ににひたすら戸惑っていた。
先ほど胸に痛みを感じたのと同じぐらい自分の胸が高揚しているのが分かる。心臓のあたりが少し痛い。
何か顔も赤いような気がして、慌ててジョセフに背を向ける。これなら、少し機嫌を悪くしてそっぽを向いたように見える筈だ。
「変わった風の吹き回しね、昔のあなたなら、こういう時、大声を張り上げて私に反論したものだけど」
今度こそ先ほどのように己の内心は晒さず、いつものように飄々と振舞う。
わざとこういった捻くれた言い方をしたのは、もし感情そのままの言葉を出してしまったら、今の心のうちまでジョセフに悟られてしまうかとしれないと思ったからだ。
「もう何年も前の話だろう……やめてくれ、もうあの時とは違う」
背中越しに、少しジョセフがむくれているのをエレアは感じる(その顔を確認したかったが、今目を合わせるのはこちらとて危険だ)。
どうやら子ども時代の話は彼にとってあまり思い出したくない過去であるらしい……その原因のほとんどは自分のせいなのだろうなとエレアも自覚していた。
「あら、いいじゃない。なんなら幼少期からの貴方の美しい成長記を私が時間をかけて語ってあげても……」
「っ、帰るぞ、エレア」
顔を赤くして、照れ隠ししているジョセフの顔を想像して思わず少し吹き出しそうになった。
ああ、こういうところは子どもの頃とやはり変わっていないのだなと少し感慨深くなったところで、ふとエレアは気づく。
「帰るの?」
「何を言ってる。そのために来たんじゃないのか」
「それはそうだけれど……いいの?今帰ると課題を美しくないまま残して帰ることになるのではなくて?」
脇に置いてあった手持ち鞄を持ち上げ、今まさに帰り支度を始めているジョセフに、しかしエレアは問う。
そう、帰り支度をしているジョセフの目の前には、明らかにまだ完成してはいないであろう木片がある。
そもそもこれを完成させるために残っていたのだから、今帰っては意味のないような気がするのだが……とエレアは疑問に思う。
しかし、ジョセフは逆にそのエレアの疑問の表情の方が不思議だと言わんばかりにためらい無く言う。
「だからといって、お前を待たせる理由にはならないだろう」
先ほどまでではないが、また顔の温度が上がるのを感じるエレア。
だからどうして彼はこういったことを油断したときにさらりと言うのだ
準備もしていない時に不意打ち気味になど卑怯だと思う。
「……いいの?」
最終確認。
正直なところ、まだエレアは少しジョセフのことを疑っていた。
普段の彼は他の美術部員が何を言っても、それでも梃子でも動かないほどに作業に没頭し、課題を完成させるまでは部室に残り続けるのだ。
そんな彼が、本当にそのような理由で帰ることを決めたのかという思いが拭えなかった。しかし……
「ああ、俺はいいが、これ以上遅くなるのはエレアが危ないだろう」
ジョセフはまたも、そのようなことをさらりとのたまった。
「……そう」
気づけば、先ほどまで感じていた胸の鈍痛は、いつの間にか跡形もなく消え去っていた。
ジョセフのささやかな言葉で痛めた胸は、今はジョセフのささやかな言葉のおかげで小さく弾み続けている。
(ああ、美しくない。本当に美しくないわ……)
そんな言葉をひたすらに頭の中で繰り返しながら、エレアはジョセフから顔を背け、後ろ手に持った鞄をただゆらゆらと揺らせることしか出来なかった。
「妙な夢だな」
そのことを、校舎の階段を下りる道すがらジョセフに話したのは、高揚していた気分のせいかもしれないし
ジョセフが課題で彫っていたマリア像―――夢の中で何度も登場するそれと、やはりほとんど同一のもの―――のせいで、数十分前に見ていた夢のことを思い出したからかもしれない。
どちらにしても、いつもその夢のせいで陥るローなテンションには、今日のエレアは不思議となってはいなかった。
「笑ってくれても構わないわよ……現実感のない美しくない夢だと」
「いや、夢なんてそんなものだろう、俺もそういったデタラメな夢を見ることは少なくはない」
「そう」
無人の校舎の中には、ただジョセフとエレアが階段を下る音だけが響き、本当にほとんど人が残っていないのだということを二人に実感させた。
そのことが意味も無く、エレアの心臓の動機を僅かに上げさせる。
「だが、面白い夢だとも思う。現実の人間が想像もつかない立ち居地で登場するのは、中々楽しいんじゃないか」
「どうかしら、よく分からない立ち居地の人や、はまりすぎで笑えない人なんかもいるから」
「はは、確かに、ベアトリス先生ははまりすぎだな。あの人は本当にそういう研究をしていそうだ」
本人が聞いていたらヤクザキックを思い切り鳩尾に食らわせられそうなことを言いながら、ジョセフは笑う。
自分の夢で彼を笑わせられたということで少し気分がよくなったエレアは、一段二段と
まるで跳ねるようにぴょんっと階段を軽やかに降りていきながらジョセフに同調するように僅かに笑った。
「あの人に渡される薬、何か飲んではいけない気がする時がなくって?」
「ああ、何か分かる……どうしてだろうな、ちゃんと利くんだが」
音の響く校舎内に、二人の笑い声がしずかに反響していく。
その声が聞こえなくなったのは、二人が駐輪所にほど近い出入り口にさしかかり、エレアが唐突に話題を変えた時だった。
「その夢にはね……ジョセフ、あなたも登場するの」
「……俺も?」
「ええ」
やはりまだ心のどこかに気恥ずかしさは残っていたらしい(ジョセフ本人の前で夢の中の彼の話題を振るからというのもあるのだろうが)。
エレアはどこか駆け足な感じで、時にスキップのように跳躍し、時にくるりと体を回転させて、ジョセフよりも数歩先をジョセフとは目を合わせないように、彼の見慣れた黒い自転車を目指して歩いた。
ジョセフは最初、そのことを聞くか聞くまいか躊躇していたようだったが、エレアがそれほどに拒否の姿勢を見せていないと察したのか、エレアがジョセフの自転車の傍にたどり着いたときに、数拍の間を置いて尋ねた。
「……俺は、どういう立ち位置なんだ?」
「……笑うわ、きっと」
「そんなにもデタラメな役割なのか?俺は」
「まあ、そこそこにね……」
エレアはジョセフの自転車の荷台に腰を預け、語り始めた。つらつらと……エレア自身とのことも含めて
ブラスレイター、ガルム、奇妙な共闘関係、アンドロマリウス、ツヴェルフ、お互いの利害……
エレアの感覚では、それなりに長く話していたつもりだったが、ジョセフはその間、何も言わず彼女の話を黙って聞き続ける。
それが、エレアにはなにか嬉しく感じられて、全てを話し終わったとき、エレアの表情には計らずとも笑顔が浮かんでいた。
「どう?おかしいでしょう」
そう問われたジョセフは、エレアの言うようにおかしそうに笑うことは無かったが、少し困ったような笑顔を浮かべながら彼女の問いに答える。
「……確かに、俺にしては少し扱いが大きな」
「あら、自分でそれを言うの? もっと喜ぶものじゃない? こういう時は」
「いや、少なくとも俺は、エレアの夢の中の俺のようには振舞えないよ。そんな出来事があって、そんな体になって、それでも人間に絶望せずに、人間のために戦い続けるなんて……俺じゃきっと、最初の段階で人を憎んで終わりじゃないかな」
そんなことはない。という言葉は、エレアの口をついては出なかった。
言ってしまってもよかったのかもしれないが、何を夢ごときに真面目になっているのだと思われる可能性があったし、何より、そんな美しくない必死さから、彼に何かを悟られてしまうことは御免こうむりたかった。
ただ、その言葉はエレアの喉をゆっくりと嚥下し、腹の底に留まり、そしてゆっくりと消えていった……そう、感じられるほどに、その言葉は、少なくともエレアにとっては真摯なものであった。
「……いくか」
「ええ」
特にきっかけなどはなかった。
二人の話が終わったから自転車を出す。ただそれだけだった。
エレアを荷台に乗せたまま走り出すことに対しても、お互いから異論らしい異論は出はしなかった。
自転車の揺れ、少し冷たい風、遠くに見える夕日。
それらが全て些事に思えてしまうほどに、ジョセフの背中は大きく感じられ、またエレア自身もその感覚をよしとしていた。
ジョセフの荷台に乗ることは、何もこれが初めてではない。
今までも何度か今日のようなことはあったし、それ以前から、二人でこうしてどこかに赴くこと、帰路につくことは珍しいことではなかった
(これを目撃したクラスの女子からは度々「ジョセフくんと付き合ってるの?」などという黄色い質問をされるが……そんな簡単な関係であればどれほどよかったであろうかとエレアは思わざるをえない)。
ただ、今日はあのような話をした後だからであろうか
その感覚が妙に鮮明に感じられてしまって、エレアも自身の鼓動が、いつもそれなりに高鳴っているそれよりも、さらに大きく高鳴っているのを感じていた。
この鼓動が聞こえてしまわないだろうか、そんな少女漫画然としたことまで思ってしまう。
ただ、それ以上に今の感覚が心地よいと自分が感じていることも、エレアは自覚していた。
「……エレア」
少しビクリとなる。といっても、自転車は揺れない、それこそエレアだけに分かる微細なものではあったが。
「何かしら?」
内心、何かを悟られてしまったのかと怯えていた。
美術室での反応、駐輪場で話したこと、今現在高鳴っている自分の鼓動。
その全てが心当たりとして有力すぎた……しかし、ジョセフの言葉はエレアの想像していたそれとは違うものだった。
「夢の中でも、こんな感じか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「え?」
「ほら……ガルムとかいうバイクで、よく一緒に走ったって言ってたろ……もしかしたらこんな感じなんじゃないかと思ってな」
「……もう、忘れなさいよジョセフ。私だって、あまり思い出したくないのだから。あなたに話したのだって、胸の内に残して渦巻かせておくのが美しくないと思ったからなのよ」
「そうか?俺は嫌いじゃないがな、エレアのあの夢」
嫌いじゃない……こんな言葉にまでいちいち反応する自分が、少し嫌になってくる。
しかし、ジョセフがこの話題にそこまで食いついてくるとは意外だった。
昔のジョセフならいざ知らず、今のジョセフは自分と同じで、あまりこういった趣向のものは好かないと思っていたから。
その辺りは、やはりオトコノコというものであるということだろうか。
「ジョセフ、言っておくけれど、あの夢のこと、私以外の人間に話したらただではおかないからね?」
「分かってるよ、エレアがそういうのを人に知られるのは絶対に嫌だってことも……少なくとも、その点に関してだけは俺のことを信用してくれてるんだろうなってことも」
「……そう」
「だから、別に俺とエレアの間でだけなら構わないだろう?」
「…………」
ああまずい、また顔が赤くなっているのを感じる。
今の体制では絶対にお互いの表情を伺えないことがエレアにとっての救いだろうか。
気恥ずかしさをごまかすためか、少し場を改めるような咳払いをしてから、エレアは話し出した。
「……そうね、少なくとも私は、貴方とともに、同じ視点を走っていたし……そのことを……心地よいと感じてはいたわ」
心地よい、という単語は自分でも驚くほどにするりと唇からこぼれた。
今の雰囲気ともう夢のことを語ってしまったという勢いに当てられたのだろうか。
いつもこうであればいいのに……という言葉は流石に声としては出なかったが。
「そうか」
「でも……夢の中の貴方はどうだったのかしら」
「……エレア?」
自分でも表情と声色が暗くなったのを、エレアは感じた。
そう、確かに自分は……夢の中の監視者たる自分は、ジョセフといることを悪くないと……好ましいと思っていた……今の自分と同じように。
だが、ジョセフは?
「さっきも言ったけれど、夢の中の私たちは決して仲良しこよしの美しい関係という訳ではなかったわ
……ましてや、貴方は全ての現況である私たちツヴェルフに利用されている身で、私はそのツヴェルフの使徒……
そんな私と走ることを、夢の中のあなたはどう思っていたのかしらね」
そう、ジョセフはただ自分たちの所属する組織に利用されているだけ。
あまりに鮮明な設定は覚えていないが、そこだけは動かざる事実として自分の中に残っていた。
彼は……夢の中のジョセフは、自分などといて楽しかったのだろうか、いや、むしろ苦痛だったのではないのか……
もし自分なら? もし自分が彼の立場なら、ツヴェルフのこと、そこに属する自分のことを好ましく思うだろうか?……否だ。
そんなことがあるはずが……
「少なくとも、悪くは思っていなかったと思うがな」
正直、エレアはかなり驚いた。
ジョセフがいきなりそのようなことを言ったことに対してもそうだったが、そんな言葉が出るとも予想だにしなかったからだ。
その驚きを悟られないように、エレアはできる限りの平静を保って「どうして?」と一言聞き返した。
「俺がそうは思っていないからな」
「……なんなの?それは」
「いや、なんとなくだが、俺が悪く思っていないんだから、夢の中の俺も悪くは思っていないんじゃないのか」
「……言ってることがあべこべよ、ジョセフ。美しくないわ」
いつもならばなら鼻で笑い飛ばしていたところだったろう。
しかし、今日はそうやって精一杯冷静さを装って誤魔化すことしかできなかった。
「いや、まったく根拠がないわけじゃないだ……そうだな、エレアの話だと夢の中の俺は、誰とも関りを持とうとせずに一人で戦い続けていたんだろう?
例え心でどれだけ強がってはいても、人が孤独に打ち勝つことはそう簡単なことじゃない。そんな、ひたすらに孤独で、しかも戦いで徐々に心を磨耗していっただろう夢の中の俺にとって
……唯一そういう遠慮など一切なく話し合えるエレアの存在は……きっと、大きな支えになっていたと思う……それに」
「……それに?」
「もし俺なら、例えどんな協力関係であれ、エレアが味方でいてくれることを頼もしいと思う……きっとな」
今度こそ、本当に言葉も出なかった。
それほどまでに衝撃だった。それほどまでに予想外だった。それほどまでに……嬉しかった。
彼の言葉が、彼の声が、彼の背中が、先よりもより一層に自分の心臓を跳ね上げさせているのをエレアは感じていた。
彼のブレザーを掴む手のひらに力が入るのが分かった。それゆえに手の平が汗ばむのが分かった。彼の背中に僅かに寄りかかった自分の体の温度が上がったのも分かった。
それら全てが、彼に悟られてしまわないかと疑うほどに大きく、激しいものになっていることも……痛いほどに分かった。
「エレア、坂を下るぞ。しっかりつかまっていろ」
「…………」
エレアが頑ななまでに口を開かなかったのは、下り坂で舌を噛むことを懸念しただけ……というわけでは、決してなかっただろう。
「エレア、ついたぞ」
二人の乗る自転車がエレアの、およそ豪邸と呼ばれることになんら違和感のない家の前に到着する頃には、エレアの様々な感情も一応の平静を取り戻していた。
といっても、それはジョセフの前であるから取り繕っているというのがそうできている理由の大半であり、もし誰にも見られていなかったなら、恐らくこれほど早く平静を取り戻すことが出来なかっただろうなとエレアは思う。
「それじゃあジョセフ、今日はたすか……ぇ」
「ッ! エレア!」
ガシャンッ!!
一つ目の声は、荷台から降りた瞬間
恐らく、長時間脚を曲げていた反動が来たのであろう(普段の彼女ならそんな下手は踏まなかっただろうが、今日は体に余分な力を込めすぎた事が災いしたようだった)
上手く立つことができず地面に倒れこみそうになりながらも、その状況を自分ですぐには把握できなかったエレアのもの。
二つ目の声はエレアが倒れそうになったのをいち早く察知し、彼女をすんでのところで抱きとめたジョセフのもの
三つ目の音は、ジョセフ、そしてエレアという支えを失い、倒れた自転車が立てたもの。
順序立てて一瞬で起こった出来事を説明するならば、こうである。
「……あ」
「大丈夫か?エレア」
後に残ったのは、未だに足がしびれて上手く立つことができないエレアと、そんな彼女を抱きしめるような形で支えているジョセフの姿だった。
「エレア……?」
「…………」
『ボッ!』
もしジョセフがこの瞬間のエレアの顔色を見ていたなら彼女のことをこう評していただろう。
「顔から火が出ると思った」……と。
「だ、大丈夫っ、ジョセフ、離れ……」
「なに言ってる、今離れたらお前が倒れるだろう」
「それは……っ」
それはそうなのだ。確かにそうなのだが……しかし、これは……
「う、美しくないわっ」
「……いいさ、それでエレアが怪我をするよりは……ずっといい」
なす術もなく説き伏せられてしまった……否、もしかしたら、本気で反対する気など、元々エレアの中にはなかったのかもしれない。
しかし、今のこの状態でいつまでもいることができないのもまた事実であった。
頭の中で何度も早く戻れと念じるも、中々脚に力が入ってくれない。
そうやっている内にも刻々と時間は過ぎて行き、だんだんとお互いの間に流れる空気まで重くなっていった……エレアが唐突に話題を切り出したのは、その空気に耐えられなかったからに他ならないだろう。
「じ、ジョセフ……っ」
「? なんだ、エレア」
「さっきの言葉……本当なのかしら?」
「?」
ジョセフは、エレアの言った『さっき』というのがいつのことかすぐには分からなかったらしい。
しばらく思案をするような顔になった後で、ようやく事態を飲み込んだような様子を見せた……そして、次の瞬間には柔らかい笑顔で、エレアの問いに答えた。
「ああ、本当だ……もし夢の中の俺が、一人でも諦めずに戦い続けることができているなら……それはきっと、エレアのおかげだ……少なくとも俺なら、間違いなくそう思うさ」
……脚の痺れが……とれた。
「……ごめんなさいジョセフ。送ってもらっただけでなく、こんな美しくない姿まで……」
「構わない、どちらの行動も、俺が好きでやったことだ」
「……そう?」
「ああ」
「……ありがとう、ジョセフ」
普段なら多少の気恥ずかしさを伴ってしかるべきその台詞は、なんの違和感なく自然と口から出すことが出来た。
ジョセフはその言葉を聞いてしずかに笑みを浮かべると、エレアからその体を離し、倒れていた自転車を持ち直した。
「もう大丈夫だな? エレア」
サドルにまたがり、そう優しい笑みで問うジョセフに、エレアもまた自然な微笑で返していた。
「ええ、ジョセフ」
「そうか……俺はそろそろ行く。理事長にもよろしく伝えておいてくれ……じゃあエレア、また明日」
「ええ、また明日、ジョセフ」
ジョセフは軽く手を振ると、脚に力をこめてペダルをこぎ始め、ここから程遠くない自らの帰路につく。
30秒もするころには、そのどこか大きく見えた背中は、夕日の中に消えていった。
「……まったく、美しくないわ」
ああ、今日は最悪の日だった。
保健室で寝過ごす、ジョセフに夢のことを聞かせてしまう、脚に力が入らずあのような姿を人目にさらしてしまう
……まったく美しくない一日であった。
(けれど……)
こういう日も悪くはない。
そう、エレアは自分でも意識しないほどに自然に……流れるような思考で、そう思えていた。
「ああ、美しくない。本当に美しくないわ」
くるりと体の向きを換え、自宅の扉へとエレアは弾むような足取りで進む。
その脚からは、先ほどまで痺れて動けなかったなどということをまるで感じさせない、踊るような軽やかさ何故かがあった。
――――――今日の夢見は、いつもほど、悪くはないかもしれないと……
エレアは、小さな笑みを口元に浮かべながら、ふと……本当に、ふとそう思った。