軍曹がバラライカに告白をした、数日後である。
「まったくやり切れない季節だな、同志軍曹。
我々の行く場所は寒すぎるか暑すぎるかのどちらかだ。
この季節さえなければロアナプラもまあまあ良い所なのにな」
バラライカはバハマ産の葉巻に火を付ける。
「蒸すを除けば、今日は穏やかな午後のお茶という算段でもい
いくらいだ軍曹。
で、また個人的な話があるとか。お前が珍しいな、何事だ」
バラライカの口調は心なしか、普段よりも寛いでいるようだ。
あの告白を拒んだ自分と軍曹の間に、もうわだかまるものは何
もないと思うからなのか。
軍曹は重たげに口を開く。
「……自分の故郷は、南部の小さな農村です。父親は既になく、
年老いた母が一人で雑貨屋を切り盛りしております」
「なんだいきなり。思い出話なら仕事が終わってからにしろ」
バラライカは苦笑していう。
「先日、母が倒れました。幸い命には別状ありませんでしたが
、一人で商売を続けていくのは難しいだろうと」
「ああ、それで一時里帰りをしたいと」
「いえ、お暇をいただきたく」
「!?」
葉巻を持ったバラライカの手が、傍目にも分かるほど大きく震える。
軍曹の言葉は、さすがに淀みがちになる。
「……先日の告白は……自分にとって一つの賭けでありました……大尉殿がもし、自分を受け入れて下さるのなら、留まる。そうでなければ田舎に帰ろうと……」
その語りを聞くバラライカの顔つきはみるみる険しくなっていく。
先刻の動揺が幻のように、そこにいるのは誰よりも冷たく恐ろしい一人の軍人だ。その面差しはひどく白く、まるで雪と氷と鋼でできた人型の兵器のようだ。
「……貴様……私を試したのか」
「いいえ……試したのは、私自身です。先ほどは言葉が足りませんでした。拒まれてもなお、あなたの側に居ることのできる自分であるかどうかを……試したのです。あれから三日間考えた結果、『できない』と判断しました……」
軍曹の物言いは、いつのまにか軍人のそれではなくなっている。
だが口ごもりつつも、軍曹の目はバラライカの目を見すえて揺らがなかった。
バラライカはふっと溜め息をついた。
マスクを脱ぐように冷たい表情が消え、いつものゆったりした顔つきになった。
「まあ、引き止める理由はないな。別に秘密結社というわけではなし、せいぜい親孝行をするがいい」
「ありがとうございます」
軍曹は頭をさげる。そのまま踵を返し、ドアに向う。バラライカは言う。
「後の事は心配するな、お前の代わりなどいくらでもいる」
軍曹は軽く会釈をし、部屋を出る。
一人部屋に残ったバラライカの手が、再び小刻みに震え始める。
お前の代わりなどいくらでもいる
軍曹に投げつけた言葉がブーメランのように戻ってきて、
弾丸よりも激しくバラライカの心をえぐるのだ。
「それにしても、お前がこんな形でこの組織を離れるとはな」
「まったくだ。お前が雑貨屋の主人に収まっている姿など想像できん
だがふるさとに帰っても俺たちのことを忘れるなよ、ボリス」
ホテル・モスクワ、ロアナプラ支部の建物の一室で、男たちが
歓談している。
軍曹―いや、元軍曹というべきだろう―ボリスは、仲間達の
言葉に愚直に応じていた。明日になれば彼は機上の人となり、
故国ロシアの実家に帰る身だった。
「大尉殿を頼んだぞ、わざわざ言うまでもないことだが」
「ああ、だがカピターンはお前を引き止めなかったのか?」
軍曹は曖昧な微笑を浮かべて、答えない。そのときドアが開き、
仲間の一人が入ってきた。
「ボリス、大尉殿がお呼びだぞ」
「……却下だ」
「は?」
「貴様の除隊願いは却下だと言ったのだよ、同士軍曹」
執務室には西日が射しこみ、明かりもつけない室内の調度を朱色に染め上げている。
開け放たれた窓からは、郊外にあっても聞こえてくる市街の喧騒が今日のこの日も
流れ込んできている。
その中でバラライカは、椅子にかけることもせず、壁にもたれて苛立たしげに
葉巻を吸っている。白皙の面差しが、少し疲れているように見えたが
それは夕陽による錯覚かもしれなかった。
彼女の左脇が少し膨らんでいることに、軍曹は気づく。却下の理由を尋ねるでもなく、黙然とたたずんでいる。
バラライカはいっそう苛立たしげに部屋を横切り、机の上の灰皿に煙草の火を押し付けて消す。
そのまま言う。
「……軍曹。お前は、軍に入って以来、何人の人間を殺した?」
「……それは、数え切れないぐらい……」
「そうだろう。そして国が崩壊してからはマフィアになり、れっきとした犯罪行為
に加担してきたな」
「……」
「勘違いするな、それを責める気は毛頭ない。なにせこの私が、そのリーダーなのだから……
だが、戦線離脱となれば、話は別だ」
バラライカはきっと振り向く。つかつかと軍曹に歩み寄る。
「お前の手は血に塗れている。罪を犯したものは、安逸を選ばずさらに罪を重ねて
いくしかないのだ。償えんほどの罪を犯しながら今さら孝行息子づらをして、雑貨屋の
親父に収まろうなどと、そんな偽善は、許さんッ!」
バラライカの怒りは、いつも冷たかった。その憤りが深いほど言葉も顔つきも冷え、
怒りの対象になったものには無惨な結末が用意された。だが今のバラライカは
まるで炎のようだった。軍曹はようやく口をひらいた。
「…それが、あなたの本心ですか」
「何だと」
「偽善とおっしゃいますが、後ろめたい行為を正当化するために
関係ない理屈を持ってくるがごときは、あなたのもっとも憎むところだったと思いますが」
バラライカの切れ長の目が、怒りに見開かれた。
左ジャケットに右手を差し込み、拳銃を引き抜く。軍人らしい流れるような動作だったが、
軍曹は一瞬早く、手刀で相手の拳銃を叩き落した。
顔をしかめるバラライカの両上腕部をわしづかみ、むりやりに壁に押し付ける。
「貴様っ……」
「あなたは!」
軍曹は自分の顔をバラライカの顔に近づける。その目は激情に燃え、ほとんど
怒り狂うといってもいいほどにたぎっている。
「私の気持ちに気がついていなかったとは言わせない。想われながらも応えない
という状態を、あなたは当たり前のように甘受してきたのだ。応える気がないのなら、
私を縛るのは止めていただきたい。私も人間です。自分で考える頭も、感じる心もあるのです。
ただ押し殺してきただけです」
軍曹は手を離す。バラライカは震えながら手の平を壁に当て、つぶやく。
「私……私が……お前の告白を拒むのに何の痛痒も感じなかったと思うのか……
私はリーダーなのだ。部下の中に一人だけ、特別な人間がいてはならんのだ……」
それはこの誇り高い女にとり、ほとんど屈辱的なまでの最大限の譲歩だったはずである。
だが軍曹は無情に答える。
「その痛みに免じて、私にも耐えろとおっしゃるのですね。無理です。とても無理です」
彼は床に落ちた拳銃を拾い上げ、バラライカに手渡す。
「もしどうしても撃つというのなら、なさるがいい。だがその場合にも、
私は魂になって故郷に帰るだけです」
軍曹は踵を返し、ドアへと歩み寄る。
その背中を、バラライカは呆然と見る。銃を持った手はだらりと垂れ、引き金に
指を添えてもいない。
去ろうとする男を引き止めるのに必要なのはたった一言であることを、彼女は知っている。
だがそれを言ってしまえば最後である。
自分に尽くしてきてくれた人間たちを裏切ることになる。
自分が倒し、殺してきた人間たちを裏切ることになる。
そして何より、切り捨てたくなかったものを切り捨て、鋼鉄の自己を形成してきた
自分の人生を、裏切ることになる。
言ってはならないのだ。
「行くなボリス。行かないで」
唇は理性を裏切った。
行くなボリス、行かないで……
言葉がスイッチになったかのように、バラライカの目から大粒の涙が溢れ出る。
一切の音が消え、視界がぼやける。
拳銃が床に落ち、軍曹が怒ったような表情で振り向き、足早に近づいてくる。
すべてが別の世界の出来事のようだったが、軍曹の長く太い腕に抱きすくめられ、
その圧力と熱を感じたことで、現実感を取り戻した。
茜に染まり、彫像のように身じろぎもせず、窓辺で抱き合っている。
並よりは大柄で逞しいものの、軍曹の腕の中に入って、バラライカはやはり
女の身体だった。その身体を抱きしめながら、軍曹は自分の願望の正体を再認識する。
世の常の男女のように、恋人や夫婦としての生活を送りたいわけではなかった。
身体を重ねたいわけでもなかった。
甘い言葉や、眼差しを投げてもらうことすら、望んではいなかった。
自分は、ただ彼女の心が欲しかっただけだ。
冷徹で強靭な鎧で覆われたその心が一瞬ほころびる。
鎧の下に隠された誰よりも熱く、こまやかな思いがほとばしり出る。
自分を今浸している感情がなんなのか、軍曹はわからなかった。
単純な喜びではなく、「怒り」や「悲しみ」に似た感情が含まれている
と思えないこともない、複雑な思いだった。
だがたった一つ確信をもって言えることがあった。
今この瞬間に息絶えたとしても、自分は何の悔いもないということだった。
どちらからともなく力を緩める。
バラライカは照れくさそうに苦笑い、目の下をぬぐって背を向ける。
そのまま少しの間たたずみ、やがて振り返り、言う。
「……ボリス。言葉をさっそく覆すような真似はしたくないのだが……
やはり、私はリーダーだ。部下の中に、一人だけ特別な人間をもつわけにはいかん」
「……」
軍曹は黙っている。すでに夕闇が忍び寄りはじめた部屋に、バラライカの
低い、深みのある声だけが響く。
「……だから、もしお前がホテル・モスクワに残り、そのまま活動を続けたとする。
そうだとしても、私はお前を、特別扱いには、しない」
バラライカは落ち着いた声音で言う。
「お前とまた別の部下が危機に陥り、どちらか一人しか助けられない
という状況になったとする。……そうなった場合、私はお前を見捨てる。
必ず、必ずお前の方を見捨てる」
そう言うバラライカの表情は、軍曹が今まで見たどの時よりも優しかった。
たとえ火傷があっても、これが元軍人で今はマフィアに携わる女の表情とは
とても思えないほどの優しい顔だった。
「……不満か?」
「いえ……光栄であります」
意識してかあるいはせずにか、軍曹の口調はまた軍人のそれに戻っている。
バラライカは微笑し、そして表情を引き締め、いつもの厳格な口調で言い放つ。
「……よし、説明は以上だ。了解したなら、業務に戻りたまえ」
「はっ」
軍曹は敬礼し、二人はお互いに踵を返す。
軍曹はドアに、バラライカは執務机に向かい歩き出す。
そのまま、一度も相手を振り返らない。
廊下を歩きながら、軍曹はバラライカの先刻の言葉を反芻する。
言葉を弄ぶということをしない女だから、言ったとおりの状況になれば
必ず軍曹の方を切り捨てるだろう。平然と。たとえ心中で血の涙を流していようとも。
そして血涙さえ流し尽くしたあと、バラライカの心を支える者は、その時こそ誰もいないのだ。
だがそれでも彼女は実行するのに違いない。そういう女なのだ。
本当に彼女のためを思うなら、田舎に帰るべきだったのかもしれない。
だが―――すべては、バラライカが望んで、決めたことだ。
自分はその選択を尊重し、そしてついていくだけだ。地獄の釜の底までも―――
ロアナプラの街に、ようやく夜が訪れようとしていた。
この街が真に熱狂し始める、夜が。
(完)