タイ、ロアナプラ7月。雨季の最中、スコールが汚れた街を洗う季節となった。  
スコールは一時間程度で止むが、蒸し暑い季節だ。  
西日がホテル・モスクワの事務所に差し込む。  
最も暑い暑気よりはましだが、太陽の光はじりじりと部屋を焦がし  
ボリスは部屋のブラインドを調節して影をつくる。  
 
「まったくやり切れない季節になったな、同志軍曹。  
我々の行く場所は寒すぎるか暑すぎるかのどちらかだ。  
この季節さえなければロアナプラもまあまあ良い所なのにな」  
 
バラライカはバハマ産の葉巻に火を付ける。  
 
「まったくです、大尉殿。それに加え乾きすぎするか、湿りすぎるかの場所しか憶えておりません」  
 
同志軍曹とロシア語で呼ばれた壮年の男は、バラライカの机の横に立ったままで応えた。  
楽な姿勢であったが、一定の緊張感を保った立ち方は彼が兵士である事を物語っている。  
 
「戦争はそんな土地に芽生えるのかもな」  
 
バラライカは葉巻の煙をはく。高級なタバコの葉の香りが事務所を満たした。  
紫煙がゆっくりと天井扇の旋回に巻き込まれていった。  
 
 
「蒸すを除けば、今日は穏やかな午後のお茶という算段でもいいくらいだ軍曹。  
で、個人的な話があるとか。お前が珍しいな、何事だ」  
 
「ええ‥」  
 
ボリスが珍しく言い淀む。肩肘をついて葉巻を吸うバラライカは不審に思う。  
妙な緊張感を感じた。造反か?まさかとは思いつつ、バラライカは銃の在処を確かめる。  
 
「これは本当の墓場まで持っていこうと思っていた事です、大尉殿。  
しかし一度は申し上げておこうと決めました。私は貴方をお慕いしているのです‥」  
 
「‥それはどういう意味か?」  
 
「個人的にという意味です、大尉殿」  
 
この部屋は空調がきいているから、外の空気よりは格段に過ごしやすい。  
しかしボリスは冷や汗が浮くのを感じていた。空気は重く、西日に照らされて濁っている。  
 
「‥そんな感情はホテル・モスクワ、しいては戦争に必要ない種類の物だ。  
 忘れたまえ、同志軍曹。私も今の君の言葉は忘れる。今日は充分に休め」  
 
「はっ!」  
 
ボリスは軽く敬礼を返して、部屋を退室しようとした。  
 
「男と女の絆は世界で一番脆いモノよ。  
だから私と貴方がそんな絆で結ばれる訳にはいかないの。  
わかって頂戴、ボリス‥」  
 
事務所の部屋を出ようとドアノブに手をかけたボリスの背中に  
バラライカの言葉がなげかけられた。  
ボリスはそのまま振り向いてバラライカを見たが、彼女は椅子に座って背中を向けたままだった。  
葉巻の紫煙だけが、空気の中を動いて天井にのぼっている。  
 
「わかっております、大尉殿」  
 
ボリスはそのまま部屋を出た。  
 
 
完  
 
 

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