双子の天使後日談  
 
 
「結局、我々三合会はおとりに使われた訳だ」  
いつもの様に気の利いた身なりの張は、バラライカとの会見にこう切り出した。  
そうは言うものの張はさして気を悪くしていない様な口振りだ。  
「悪かったわね、ベイブ。対面が傷ついた?それ相応の対価は支払うわよ?」  
とても後味の悪いお仕事だったわ‥。葉巻をくわえたバラライカは彼女らしくもなくつぶやいた。  
「事の真相を知ってる奴らは他に無し。満足いくお支払いさえしてくれれば香港にも顔が立つさ」  
張はにやりと笑って二本目のタバコに火をつけた。  
「そうだな、これから個人的に二人で映画館てのはどうだい?」  
バラライカの葉巻をもつ手が止まった。ほんの軽口のつもりだったが張はヒヤリとした。  
俺の頭はまだついてる。スナイパーに吹っ飛ばされても文句は言えないな。苦笑した。  
バラライカは携帯を取り出した。  
「同志軍曹、これから二時間程オフにする。その間私に連絡を取るな」  
「おい、ちょっとした冗談だ、本気にしたのか?」  
驚く張にバラライカは笑った。  
「いいのよ、時々気張らしっていうのも必要よ。貴方の車でいいかしら?」  
どうした風の吹き回しだ?内心いぶかいつつも張はバラライカの誘いに乗った。  
好奇心が勝ったのだ。  
 
「なあ、少し立ち入った事を聞いていいか?」  
「何?」  
車の中でバラライカと二人きりになり、張はあえてタブーとも言える話題を出した。  
「その顔の傷な‥どうしてそのままにしておく?あんただったらさぞ綺麗になるだろうに」  
「‥‥アフガンでの古傷よ。でもどうしてそんな事を聞くの?」  
「女なら綺麗な方が幸せだろうと思ってさ‥」  
車の中が極上のバハマ産葉巻の香りで充満する。  
「まあ、ベイブ、”あっち側”の人みたいな事を言うのね」  
この世界で綺麗な女は売春以外に使い道があるの?  
夜の街の光に皮肉な笑みを浮かべるバラライカの顔が浮かび上がった。  
「美しくて愛を信じていれば幸せなんて、”あちらの側”の女達の幻想、夢ね。  
正義と同じよ。一皮めくればなんの意味も実体もないわ」  
「‥あんただって好きな男の一人や二人いたろうに」  
ハンドルを握る張は言う。  
「ふふ、男なんてお仕事がなければ女はただの性器でしかないわ。  
ねえ、張大人、好きな女とただ抱くだけの女、どっちがどう違うの?」  
私は男も女も意味が無くなる、いや女で有ることはむしろマイナスでしかない戦場から戻ってきたのよ。  
淡々とバラライカは言った。  
「そうね、映画館が終わったらホテルでもどう?面白いモノを見せてあげる。  
たぶん、ロアナプラのろくでなし共が見たがってるモノだと思うわ」  
「おい、本気かバラライカ!?」  
「本気よ、ホテルは良い部屋をお願いね」  
楽しそうにバラライカは笑った。  
 
見た映画は「ドクトル・ジバゴ」。  
どうしてロアナプラにそんな作品を上映している映画館があったのかと思うくらいだ。  
バラライカがボリスに連絡した時間はとうに過ぎている。  
さぞ同志軍曹は気をもんでいるだろう。夜の観客がまばらな映画館、薄暗いなかで張は思う。  
隣のバラライカは可でもなく不可でもなく、肩肘をついて映画に見入っている。  
ロシア人特有の透き通るような白い肌に、否応もなく浮き上がる右側の火傷跡を  
細く長い金髪が飾っていた。一種凄絶な美貌ではあると張はバラライカの横顔を盗み見た。  
 
『私、フィデル・カストロって好きよ』  
 
映画館を出る時、バラライカは誰に言うでもなくつぶやいた。  
 
「マフィアのボスが社会主義にシンパシー持ってるの可笑しい?」  
 
バラライカは悪戯っぽい表情を張に向けた。  
 
「さあ‥、あんたは旧ソビエト連邦の人間だったんだろう?いろいろ思うところはあるだろうさ」  
 
「そうね‥」  
 
タイの繁華街は夜も眠らない。夜の光の下で売春に薬の密売等々、あらゆる悪徳が渦をまき  
人々の欲望が燃えさかる。南国に相応しく暑く湿気を帯びて粘ついていた。  
 
「社会主義は高邁な思想なの。でも人間は愚かで欲望に満ちているから偉大な指導者でも  
いなければ成立しないのね。フィデル・カストロ、毛沢東、ホーチミン、彼らがいなければ  
国家として持ちこたえられないの。チトーが死んだとき旧ユーゴスラビアの国民すべてが  
嘆き悲しんだわ。今考えれば、それは未来のユーゴ内戦を予感して泣いているみたいだったわね」  
 
車の中、再び張はハンドルを握りバラライカの話を聞いている。いつにもなく雄弁で  
彼女らしからぬ述懐とも思えた。  
 
「じゃああんたは、どうしてクソみたいな市場主義経済世界へ参入する気になったんだい?」  
 
うふふ、バラライカの笑いに張はぞくりとした。欲情にも似た感覚だ。  
 
「でも結局同じなの。社会主義では粛正が、資本主義では搾取が。どちらも人間がする事  
ですもの。理想で人を殺すより、利害で戦争をする方がましだと思ったのよ。ここはいいわ。  
戦争をする相手は金の亡者の悪党共だもの。弾をぶち込むのも罪悪感が無くて済むわ」  
 
「‥ホテルに着いた。いいのか?ミス・バラライカ?」  
 
「良いホテルね、さすがに趣味の良いミスター張だわ」  
 
そのホテルは繁華街から少し離れ、小さく趣味の良いホテルで有名だった。  
泊まれる者は政治家や世界の富豪、そして金に困らない裏世界の人間だ。  
サービスは万全、口も堅い。そういうホテルだった。  
 
「タイは植民地になった事ないのに、ホテルはコロニアル風が人気なのよね」  
バラライカはホテルのスイートに足を踏み入れてそんな感想を言った。  
その後ろで張は迷う。バラライカの肩に手をまわしていいものか、否か‥。  
 
「まあ、綺麗な蘭の花束!シャンパンもあるわ。ミスター・張、貴方も普通の男みたいに  
気が利いててありきたりな事するのね」  
 
「男は馬鹿なもんでね。女が喜ぶ事となると花束か宝石くらいしか思い浮かばないのさ」  
 
紫やピンクの豪華な蘭の花束の前で、張は大げさな身振りで肩をすくめた。  
 
「じゃあ、私クリュグをいただくわ。貴方が先にシャワーをあびてらっしゃいな」  
 
「‥今日はあんたにリードされっぱなしだな」  
 
さして反論もせずに張はバスルームに向かった。  
 
バスルームで服を脱ぎかけながら、張は自分はひどくまぬけな罠にはまったのではないかと思った。  
脳裏に浮かぶ、バスルームを出た処に待ち受けるバラライカの遊撃隊‥。  
銃をシャワーの水にかからず目の届く場所に置く。  
裸で銃撃戦は様にならない事この上ないが、少なくとも生きのびる可能性は出てくる。  
バスルームの鍵はかけなかった。馬鹿げているが、それは張のプライドだ。  
このホテルの石鹸はブルガリのプールオムだった。  
その香りに包まれながら張は、外の気配に神経を研ぎ澄まさせた。  
 
『セックス以外にも男と女の戦いはあるもんだ』  
 
欲情よりバラライカとの銃撃戦の方がましかもしれないと思った。  
 
張はシャワーをとめた。  
水音が聞こえる様な安普請のホテルでは無いが、今はかえってそれが災いした。  
ホテル・モスクワ、仁義を守ってくれよ?鉄火場だったらいつでもやりあってやる。  
バスルームの入り口に立つ。殺気も違う人間の気配もないか‥。  
張はガウンを羽織り、しまらない事に下着ははいて、銃を隠し持った。  
バラライカがくつろいでいるであろうリビングルームへと足をむけた。  
毛足の長い絨毯に足音が吸い込まれる。それは刺客も同じだろう。  
ぴろぴりと神経が張り詰める。とても女と逢い引きに来たとは思えない。  
 
「あら、ブルガリね、良い香り。私、ブルガリも好きよ、宝石も香水も」  
「‥‥」  
 
バラライカはシャンパングラスを手に、張に向かって微笑んだ。  
 
「どうしたの?シャワーでリラックスしたって顔じゃないわね?」  
 
「ホテル・モスクワのボスと二人きり。並の男は玉が縮み上がる」  
 
一応の緊張がとけた張は、がっくりとソファへ沈み込んだ。  
 
「俺もシャンパンをもらうか。口が乾いちまった」  
 
「ふふ、安心なさいな。ホテル・モスクワは仁義を守るわ。  
それに私、軍では特殊工作員じゃなかったし。戦争はもっぱら現場だったのよ」  
 
シャンパンで落ち着きなさいな。  
そう言ってバラライカはバスルームへ消えていった。  
 
バスルームのドアが開いた音がした。バラライカは髪を下ろし、濡れた髪をバスタオルで  
拭きながら張の目の前に現れた。  
ガウンからのぞく、白い素肌の脚や手首に近い場所まで火傷跡があるのがわかった。  
どうりでいつも長袖のスーツに厚手のストッキングという装いという訳だ。  
 
「東洋人の綺麗な肌を見慣れているだろうから、私の身体には驚くわよ」  
 
化粧を落としたバラライカの顔は、本人が言うほどでもなかった。  
細い金髪に透き通るような白い肌。若い娘ではないにしろ十分美しい女の部類だ。  
張の前に立ったバラライカはガウンの襟元に手をかけた。  
 
「!?」  
 
銃を構えたのはわずかに張が早かったが、バラライカもそれに勝るとも劣らない。  
 
「‥‥良い銃ね、ミスター・張。でもそれはロシアの冬将軍に負けたのよ?」  
「トカレフは良い銃だ」  
「何のつもり?張」  
 
バラライカの怒気を含んだ低い声が張の耳をうった。  
 
「ふ、ははははは」  
 
張は銃を投げ出して笑い出した。バラライカは笑い続ける張に呆気に取られた。  
 
「なんの冗談よ?張」  
 
くっくっく、腹を押さえて張は笑いを抑えようとした。  
 
「気をわるくしないでくれ、ミス・バラライカ。あんたとは寝るより”こっち”の方が  
ずっと良い。イっちまいそうだ」  
 
バラライカは気抜けした様にソファへ座り込んだ。  
 
「私、馬鹿にされてるのかしら」  
「違うぜ、ミス・バラライカ。男の習性でね、尊敬する相手のスカートは”めくれない”のさ」  
「呆れた人」  
 
バラライカは脱力して飾ってある蘭の花を弄んでいた。  
 
「あんたの身体の傷、相当酷いのか?」  
「だったら見れば良かったのに」  
 
帰りの車の中、バラライカは呆れた様に助手席でバハマ産の葉巻をふかしていた。  
 
「そうねアムールタイガー並に火傷跡があるわ」  
「痛まないのか?」  
「もう随分昔の傷よ、多少引きつる時もあるけど痛みはないの。  
 顔の傷も身体の傷も私の人生の一部になっているの。だから消そうとは思わないのよ」  
 
誇りも後悔もこの傷が思い出させてくれるから。そう言った。  
 
「でも私、ちょっと期待してたのよ?しばらくぶりだったし」  
「あんたの傷跡見て同情でもしたら殺されそうだ」  
「そうね、そんな男は撃ち殺すわ」  
 
空が白みかけていた。バラライカを送った場所には、すでにボリスが車で向かえに来ていた。  
 
「ま、興味深い体験だったわ。シャンパンだけでも良しとしてあげる」  
「あんたと”やりあう”日がくるかな?同志バラライカ」  
「『ホテル・モスクワ』の前を遮ったらね」  
 
にっと笑って張はバラライカに手をふった。  
 
 
終  
 

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