第二話「鏖の雄叫びを上げ戦いの犬を野に放て」  
 
「いいのかよ、本当に。後戻りは出来ねえぜ、ロック」  
 女の細い声が不意に冷静さを取り戻したように透明に響いた。それでも震えは隠せない。  
「声が震えてるよ、レディ」  
 からかうように返す声も頼りない。  
「おめえもだよ」  
「わかってるさ……でも」  
 言うなり、男は腕に力を込めた。女の喉の奥から、何ともいえぬ声が漏れる。  
 ゆっくりと、ゆっくりと込めた力を強めていく。レヴィの手がロックの腕に近づき、躊躇うように触れた。  
「ん……」  
 声にならぬ声が、レヴィの口からもれる。ゆっくりと唇が動いている。何かの言葉を綴っていた。  
 ロ・ッ・ク……。  
 
 首を絞めたまま、口づけた。間近に近づくレヴィの顔が真っ赤に充血し始めて、ロックの腕をひきはがすように抵抗する。ばたばたともがくレヴィの腕が、男の肩に打ちおろされて、予想外に力がはいってしまう。  
 すっ、とレヴィの体の力が抜ける。慌てて手を離し、かくんと倒れそうになった彼女の体を抱き留めた。  
 胸に手をあて、口元に頬を近づける。脈はある。息も感じ取れた。ふう、と息をついてから、彼女を絞めながら自分も息を止めていたことに、改めて気づいた。  
「おい?」  
 一度声をかけて、首を傾けた彼女の顔を見た。その表情に、胸をつかれた。  
 穏やかで、普段の険などどこにもなく、先程までの情欲すら感じさせない。静謐、という言葉が似合う顔だった。  
 だが一方で、銃を撃ちまくる彼女の姿もまたそこには重なって見えて、彼は不可思議な気持ちを呑み込むように、ごくりと唾をのんだ。  
 なぜだかわからない。けれど、その表情を観た途端、初めて彼はその女をいとしいと感じた。もやもやとしていた霧が晴れたかのように、そんな言葉が頭に浮かんだ。そして、「支配したいか」と問うた女の瞳を思い出し、体中がかっと熱くなった。  
「レヴィ」  
 もう一度だけ名を呼び、意識のない体をベッドに横たえ、頬に一つ口づけると、暝い目で見おろした。彼女の瞳によく似た暝い、けれど燃えるような目で。  
 
 真っ白なシーツの上に横たわった体は、まるでどこかのお姫様のようにも見える。刺青や銃創はあるけれど、それもアクセントだ。それほどに、ロックは彼女を美しいと思った。同時に、なによりもいやらしくも感じる。  
 そうなると俺は騎士の役回りか。ロックはくわえタバコに自嘲の笑みを浮かべながら呟いた。王子様の柄ではないが、騎士になれるほど、自分は力を持っているのだろうか。  
 それは、けして暴力だけではないはずだ。  
 いまは、ない。椅子の上で片膝を抱えながら、彼はそう結論づけずにはいられなかった。それはほぞを噛むような苦しいことだったけれど。  
 だが、目指すことはできる。彼女にロビン・フッドになれと迫るなら、せめて自分はタック修道士にならねばならないのだ。修道士もまた柄ではないけれど、迷いながら進むにはぴったりかもしれない。  
 ふと、自分のこれまでの人生の記憶が白昼夢のように脳裏を通りすぎた。虚しく体をひきずるように歩いていた、あの日々。  
 あの日々に戻ることはもうできない。様々な意味で。けれど……ここで立ち止まることは出来る。昼間の稼業が血にまみれるのは覚悟したけれど、自分ははたして、セックスまでが血にまみれることを覚悟しているのだろうか。  
 凝っと彼は彼女の横顔を見つめた。  
 もうしばらくは目覚めないようにも、いますぐにも目覚めるようにも見える。その顔。  
 鋭い瞳と表情が消えた時、彼女が年相応に幼く見えることに、彼は今更のように驚いていた。  
 もう五分。口の中だけで、そう舌に言葉をのせた。  
 もう五分だけ待ってみよう。その間に彼女が目覚めたなら、苦笑しながら詫びを入れよう。この腹の底でうねくる蛇を押さえつけて。  
 だが……。五分すぎても目覚めないのならば……。  
 俺は自分に従おう。  
 眠り姫の横顔を見つめながら、彼はそう決めた。なにを今更と彼女が聞いたらあざ笑うだろうけれど、それでもなお、迷うことこそが己の性分なのだと、彼は諦観していた。  
 そして。  
 
 永遠の300秒。  
 
 
「ん……」  
 意識を取り戻した時、彼女は自分がまだ暗闇の中にいることに気づいた。不安にかられて体を動かそうとして、それも適わないと悟って愕然とする。手首と足首、それに腹に太股、それぞれに圧迫感がある。  
 しかも、太股の部分には棒のようなものがさしわたされているらしく、ある一定以上、足を閉じようとしてもできない。もともと足首も固定されているから、大の字のまま体は動きそうにないけれど。  
「ん……うぅう」  
 声も出ない。口には固いなにかがぶち込まれて、金具が左右から唇を割り開いていた。ほんの少し声をだそうとするだけでも、その固い革製らしき何かに歯がぶつかり、唇が金具にこすれた。  
「ああ、ようやく起きた」  
 ロックの声に、意識がようやく明瞭になってきた。それまでのことが思い出されて、情欲の炎が再燃し始める。自分が彼の手によって拘束されているということが、ようやくに実感されて、動けないことが不安から諦念を伴った安心へと変化していく。  
 安堵といっしょに、快楽の波が体を走った。気を失った自分を、拘束し、それをじっとながめていた男の視線が体中に感じられてカッと熱く燃えた。  
「スイッチ入るとか言ってたくせに、スイッチきれちゃったじゃないか」  
「んぶ、うぶふぅ」  
 反駁しようとしても声にならない。ぎちぎちと唇の両端に食い込む金具の痛みだけが意識のなかで大きくなっていく。  
「ん?」  
 優しい声。膚の上を滑っていくようなその優しい声の裏側のねっとりとからみつくような感触を、視覚を奪われたレヴィはしっかりと感じ取っていた。  
「なにを言いたいのかわからないよ。レヴィ」  
 パアンッ。  
 高い音と共に、頬に熱を感じた。平手で打たれたのだと気づいたのはしばし後のこと。じんじんと響く痛みに、信じられないような気持ちになる。それは、どこか喜びの色を秘めていた。  
「ちゃんと答えなよ、レヴィ」  
 破裂音。また打たれた。  
「あぐ、うぶぶ、はふっ」  
 ロックロックロックロック。心の中で、彼の名前を呼ぶ。もちろん、それが言葉になることはないけれど。  
 
「わからないってば」  
 パン、パン、パァン。嬲るように何度も打たれる頬。自身で口枷をはめておいて、無理なことを要求するその優しい声。  
 その見せかけの優しさの裏に隠された狂気と、さらにそれを支える心を思い、体の奥底からしびれが這いのぼってくる。  
「はふ、はふう、ふうう」  
「ん?」  
 不意に声が離れ、ロックの気配が下半身に近づいた。懸命に足を閉じようと身をもがくが、縛り上げられた両足は閉じようにも数センチも動いてはくれない。  
割り広げられた股間に、ロックの指が触れる。  
途端に、彼女の身がすくみ、強烈にもがきはじめたが、指がくちゃくちゃと音をたてるにつれて、あきらめたように動きがにぶくなっていく。  
「なんだ、叩かれて感じてたんだ」  
 無邪気な笑い声。くぐもったうめき声を彼女はあげる。ぬめりを確認するようにかき回される。何度も何度も。ぐちゃぐちゃといやらしい音が、脳味噌に響いていく。  
「うぶっ、はふ、はっ」  
「叩かれて濡らしてる……変態だね?」  
 耳元で囁かれる声はとてつもなく柔らかく、温かい。それなのに、その内容が氷のように彼女の心を突き刺し……粉々にしようとする。  
「気持ちいい?叩かれて、なぶられて、自由を奪われてさ」  
 音をたてていじくられ、訊ねられる。彼女はためらいもなく頷いた。こくんと首を動かし、なんとか意志を伝える。  
「おや、素直じゃないか」  
 からかうような声。  
「素直ないい子には、ご褒美をあげよう。目隠しと口枷、どちらかなら外してあげてもいい。どっちがいいかな?」  
 髪をまさぐられる。暗闇の中で、ロックがくれる感覚だけが冴え渡る。  
「目隠しかい?」  
 首を横に烈しく振る。この心地よい暗闇からひきずりだされたら、ロックをぶん殴ってしまいそうだ  
 
「じゃあ、口枷だね」  
 首の後ろに手を回されてベッドとの間に手を差し込まれる。懸命に首を持ち上げて彼の動きをたすけようとした。口の端にかかっていた力がぬけた。  
 だが、歯をくいしばりすぎたせいで、がっちりと歯が食い込んだ口枷がはずれてくれない。舌で押しやって外そうとしていると、優しく外してくれた。今更のように顎がじんじんと痛んだ。  
「ろく……」  
 なにか言いたいけれど、呂律もまわらない。男がどんなことを思い、どんな風に自分を扱おうとしているのか、それだけが気がかりだった。  
 ゆっくりと唇の端を指がはい回った。きっと痕がついているのだろう。そこをなぞられるだけで、体が疼いた。吐息がもれる。  
「なあ、レヴェッカ」  
 心臓が跳ね上がった。はじめて、「レヴェッカ」と呼ばれたのではなかろうか。そして、何より、生まれてからこれまで、こんな風に名前を呼ばれたことはなかった。それはとても気持ちのいいものだった。  
「俺は、お前を抱けてうれしかったし、また抱きたいと思った」  
 言葉が膚に響くような気がする。ドラッグで世界中の音が見えたと思えた時より、もっと強い酩酊感が、脳を襲っている。  
 それがいったいなんなのかわからなくて怖かった。  
 言葉が膚をなで、そして、それが甘美な痛みとして体の芯に届いた。自分から、口元をなでるロックの指に口づけて、音をたてて彼の指を吸った。  
「その気持ちを恋だとか愛だとか口にするには俺たちは近すぎるような気がする。だけど……俺は、お前が欲しい」  
 
 ずきり、とどこかが痛んだ。ずきり、ずきりと響くその痛みが彼女の体中を支配する。それは、怖くて怖くてどうしようもないけれど、欲しくて欲しくてしょうがないものだった。  
「だから、俺は俺のしたいようにするよ。お前を好きなように……する」  
 ぴちゃぴちゃと音をたて、彼の指を呑み込むようにしてなめまわす。本当はもっと呑み込みたかった。いや、無理矢理でも突きたててほしかった。  
 まだ、足りない……。全然足りない。  
「シテ……」  
 がり、彼の指先を軽く噛む。小さなうめきが聞こえた。  
「シテ……好きなように……おかしく……シテ」  
 くぐもった声が響く。指が口元から離れて、首筋をなでた。さっき絞めた痕を、くりかえすようになでた。  
 ゆっくりとまわらない舌を叱咤するように動かし、無理矢理言葉を形にしていく。今、口にせねばもう二度と出来ない、そんな予感があった。  
 ロックはただ黙って耳を傾けている。  
「おかしく……此処じゃないどこか……ロック……の夢の中……いさせて。醒めるまで」  
 愛のささやきのように甘く、苦しく、切ない言葉。  
 煉獄の炎のようなその言葉を、ロックはこれまで聴いたどんな愛の言葉よりもしっくりと己の体に馴染むような気がした。だから。だからこそ彼は、真摯に応えるしかなかった。  
「醒めない夢はないよ」  
 
 くしゃり、と女の顔が歪んだ。そのまま泣きだしそうに心細そうな顔。まさかこんな顔をこの女がするとは。彼は驚愕の中にいながら、なんだかうれしかった。  
「でも。何度でも夢見させてやる。毎晩だってね」  
 表情ははじけるように一変した。見ていておかしいくらいで、ロックはにっこりと笑みをもらす。  
「毎……毎晩じゃあ、こわ、こわれちまうよ」  
 憎まれ口。けれど、口調が蕩けるようでは本心を叫んでいるも同じだ。レヴィの体が急に動き出して、かちゃかちゃと拘束具につながれた鎖が鳴った。  
「ん?どうした」  
 腕をさかんに動かそうとするレヴィ。しっかりと拘束されているから動くはずもないことはわかっているはずなのに、といぶかしげに声をかける。  
「いま……だけ、今だけ外して」  
「おい……厭なのか?」  
「ちが、ちがうっ。腕だけ。なぁ……お願い……」  
 切迫した訴えに、本当はレヴィが俺に訴えられる立場にいまはないんだぜ、とかなんとか言いながらも腕枷とベッドにまわされた鎖をつなぐ金具を外してやるロック。  
 両腕の金具を外した途端、力強い両腕がまわされて、無理矢理引き寄せられた。  
 
 気づけば横たわる体に重なって、彼は抱きしめられていた。強い強い抱かれ方に、彼も両腕をまわして応える。  
 ゆっくりとお互いの背中をなである。二つの膚がそれぞれの熱を伝えてあう。じっとしとした熱帯の夜よりなお熱く、相手の熱が響いて来る。いつかその境目が判然としなくなるほどぴったりと……。  
「……ありがとう」  
 小さな小さな声が、ロックの耳朶を打った。錯覚としか思えないくらい小さなその声に、ロックは我知らず、彼女の膚に強く口づけていた。  
「あうぐっ」  
 苦しい、けれど官能を秘めた叫びが女の唇を割って漏れ出た。その声はどう聴いても錯覚ではない。  
 ゆっくりと自分の体にからまる腕をひきはがし、再び枷をはめる。抵抗は全くなかった。かえって彼に協力するように、その腕は再び拘束された。  
「さぁ……パーティをはじめようか。レヴィ」  
「……Yes ロック」  
 小さな、けれどたしかな服従の声が、部屋に響いた。  
 

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