今日の手術がようやく終わった。
大して難しいものでは無いのだが、患部が散らばり、患者が高齢で気遣う事が多く、時間が掛かった。
深呼吸をして背を伸ばすと、いつものようにピノコが笑いかける。
「先生、お疲れ様!」
「お前もよくやってくれた、助かったぞ」
「うふふ、お腹減っちゃったわのよ」
「暖かいココアでも飲むか?」
「ううん、苦ーいコーヒーがいいの」
おやおや、また大人ぶろうとしてるんだな。
ついクスッと笑ってしまったのを、見咎められた。
「お砂糖もミルクも入れちゃ嫌よ、先生とおんなじのがいいのよさ!」
つんと口を尖らせて私を睨む。
その仕草の,何処を大人扱いすればいいんだい?
はいはい、と返事をして私はカップを用意する。 …と、コーヒーが見当たらない事に気付いた。
「ピノコ、豆は他所にしまってあるのかい」
振り向いた時、私の眼に映ったのは… ピノコが床に倒れている姿だった。
「ピノコ!?」
「気が付いたか?」
診察台の上で、静かに眼を開いたピノコに、そっと声を掛ける。
「あ、先生……」
「すまなかった、このところ厄介な手術が続いていたものな。
助手のお前も、相当疲れているだろうに、気付いてやれなかったとは…
身内にこんなに無理させて、医者失格だよ…私は」
「大丈夫なのよさ、こんなの平気」
「いや、微熱がある… とにかく今夜はゆっくり休みなさい」
診察台からふらついて降りるピノコを、私は抱え上げて寝室まで運んだ。
ベッドに寝かせてやると、キュウウ、と小さく音がした。
「やだ、お腹空いてたから…」
「そうだな、スープなら入るだろう。 待っておいで」
ピノコがいつも用意しているお陰で、裏漉ししたジャガイモのスープもすぐに作れる。
「先生、お塩が足りないみたいわのよ」
「参ったな、いつもの台詞をお前から聞かされるなんて」
屈託無く笑う顔は、普段と一緒だ。 安堵して、私はベッドから離れようとした。
すると、その小さな手で、ピノコが私の指先を掴んだ。
「あのね、もう少し、ここにいてほちいの…」
急に不安そうになった顔で、じっとこちらを見詰める。
「どうした、まだ他に具合が悪いのか?」
「ううん、違うのよさ、でも、でもね」
熱のせいで火照った掌が、更に私を強く握り締める。
「ピノコ、普通の身体じゃないのよね、先生」
「…そう、無理がきかない。 でも気を付けていればいいんだ」
「ずっと色んなこと諦めて、大きくもなえないのよね…」
寂しそうなその表情が、私の胸を突く。
「ね、先生? 約束してくれたわのよね、いつかピノコを大人にしてくれゆって」
「ああ、でもこうも言ったはずだ、すぐにまた元に戻る事になる」
「本当だったや、彼氏がいたり、結婚してもおかしくない年齢なんれしょ」
答えに詰まった。
「奥たんになゆなや先生しか嫌だけど、レンアイとかって憧れゆわ」
無邪気な願いを、ただ聞き流すふりをする。
「そえが無理なら、世界一の美人にして欲しいのよさ…」
…世界一の美人。
それを聞いて私が思い出すのは、ただ一人。 あの優しかった母の面影。
ピノコに、その顔を再現する事など、出来るわけがない。
だが、駄目だとも言えず、つい眼を逸らした私を誤解したのか、ピノコは急に泣き出した。
「先生、この頃全然ピノコのお願い聞いてくれない、きやいよ、大嫌い!」
「分かったよ、良い子にしていたらな、いつかきっと…」
「ピノコ、いっつも良い子よ、ずっと良い子にしてゆわのよ!!」
どきりとした。 そうだ、その通りだ。
「先生がいない間のお留守番だって、寂しくっても我慢してゆわ、
他のお約束も、ちゃんと守ってるんだかやね、頑張ってるんだかやね!」
ピノコが正しい。 いい加減な言葉で誤魔化してきたのは、私だ。
この家の家事全般、患者の世話、治療や手術の助手。
並の大人にも難しい事をこなしてきたピノコに、私が反論する権利は無い。
「そうだな、でも私もお前を大事に思っているんだ、そうは見えないだろうけど」
これは真実だ。
お前に危険が迫れば、この命と引換にしても守りたい。
誰よりも身近な私の理解者、大切な存在。
とても言葉で表せるもんじゃない。 代わりに、その躰をぎゅっと抱き締めた。
すっぽりと腕の中に収まりながら、私の胸に頬擦りをしている。
「それなやね、先生。 ピノコにキチュしてくれゆわのね?」
額にキスを一つ落とすと、いかにも不服そうにピノコが見上げる。
「そういうんじゃなくて、テエビとか映画で…大人が、してゆようなキチュよ」
大人がしてるような。 それを私に望むのか、お前は。
もう誤魔化せない。 両手で顔をそっと挟んで、柔らかく唇に割りいる。
まだほんの小さな唇、中に入り込むのも一苦労だが、「お願い」を聞かずに納得しそうもない。
小粒な歯が、かちんと当たる。 舌でぐいと押し開くと、ピノコの躰が固くなったのを感じる。
「…これでいいか?」
絡めた唇を離し、その耳元に囁くと、予想外に甘い吐息が私の顔をかすめた。
不覚にも、妙に頭が痺れていくのが自分でも分かった。
「ううん、まだ足りないわのよ…」
蕩けた様な瞳で私を見上げ、息が少し早くなったピノコの表情は、妙齢の女そのもの。
さっき強張っていた躰は、もう力が抜け、私に凭れ掛かるようにしている。
誘われるように私は手を伸ばし、指を髪に差し入れ、反対の手で首筋を愛撫しながら、またキスをした。
薄く眼を開けると、うっとりとした様子のピノコの顔が、ぼんやり見える。
この状態を味わっているのは、…どうやら私も一緒らしい。