ピノコが白血病だと判明した時、それでもまだブラックジャックには余裕があった。  
あの日嚢腫を切り取ったピノコの姉に当たる女を探し出し、輸血用の血液を提供してもらえばいい。そうすれば間違いなくピノコは助かる。極秘を条件として扱った患者であったから住所も電話番号も居所を知ることができる記録は何一つ残されていない。  
当時女を連れてきた唯一繋がりのある背の低い医者を捕まえるべく、ブラックジャックはあちこちの集まりに顔を出した。  
ここはお前みたいな奴が来る所じゃないよ──何やらモグリの臭いがプンプンしますな──どこへ行っても囁かれる侮蔑、嫌悪、嘲笑。彼の味方は一人だっていやしない。  
ついにあの時の医者を発見しブラックジャックは駆け寄った。  
うちの子が苦しんでるんです、どうかあの患者の居場所を教えてください──  
しかし医者は何のことだかわからないとしどろもどろに言い訳するとそのまま会場を出て車で走り去ろうとした。  
ブラックジャックもすかさず自分の車に飛び乗り後を追う。混雑した道路に紛れ込み、見失いそうになる己に叱咤しながら神経を張りつめる。  
ここで逃げられてたまるか!奴はピノコを救う、たった一つの鍵を握っているんだ──  
 
やがて渋滞の波が押し寄せ亀の足ほどにも進まないすし詰め状態となった。  
しめた、とブラックジャックは車から降りると狭い隙間を縫って前方でやはり身動きができないでいる目的の医者のもとへたどり着いた。  
開いた窓から体を突っ込み、相手の襟首を掴みかからんばかりの猛勢で詰め寄る。  
「人間の命がかかってるっていうのにあんたそれでも医者か!?さあ、教えてもらおう。あの患者はどこにいる?」  
ブラックジャックの迫力に圧され叱られた子供みたいに身を縮こまらせた医者は幾度かどもりながら言葉を返した。  
「あっあの患者は…残念ですが、も、もうこの世にいません…。一年前、自殺したのです…」  
「……なんだって……?そんな馬鹿なっ!!」  
「ほ、本当です…。わたしだって医者の端くれ、病人が助かるというなら何とか手を使って再びあの時の患者を連れていきます。…でも、彼女はもういないのです。亡くなった方を連れていくわけにはいきませんので…」  
この男は小心者だが医者としての良心は持ち合わせている。わざわざこんなくだらない嘘をついたりはしない。  
現実感を欠いた空間でブラックジャックはふらふらとその場から離れていった。  
 
そんな…なんてことだ…。  
じゃあピノコはもう…死ぬしかないのか……。  
 
 
 
ピノコの体調は日を追うごとに悪化していった。  
儚い望みをかけた血液銀行からの輸血パックも恐ろしい早さで進行する病魔の前では気休めにすらならなかった。  
「ちぇんちぇえ…ピノコちぬんでちょ…?」  
死を目前に控えていながらピノコは全く取り乱す様子もなく、抗う術のない己の運命に実に淡々と身を委ねている。  
「…ああ、そうだ」  
こんな返答しかできない自分が悔しくてたまらなかった。  
「そう……。じゃね、ピノコちぬ前に一回らけ大人のかやだになりたい」  
「…18なら18らしく死にたいというわけか…。…だが大人の肉体に作り替えたところで、数週間もすれば…お前は死ぬんだぞ」  
「そえでもいいの…ほんのちょっとでも大人になえたら、我慢すゆ…」  
窓の外に眼差しを向けるピノコの小さな横顔はかわいそうなほど肉が削られ色味がなかった。  
“元気"という成分に包まれて日々駆け回っていた無邪気な姿など欠片の面影もなく。  
 
 
 
ブラックジャックは合成繊維で造形した大人の女の肉体にピノコの脳や目鼻、内臓、神経、血管をそっくり移し替えてやった。  
 
 
 
縫った傷口が塞がり動いてもいいと許可を得た時、ピノコは真っ先に鏡を求めた。  
慣れぬ新しい体は一歩一歩が重く、ゆっくりと床をたどりながら近づいていく。汗を浮かべてようやく自分の全身が姿見の視界内に映し出されると、ピノコは疲れも忘れ囁くような歓喜の声を洩らした。  
「……こえがピノコ……?」  
淡いピンクの寝間着は明らかに大人用であり、すらりと伸びた手足を包んでいる。  
長く白い指先を頬に這わせ、そして胸に張りついている双つのコブを持ち上げてみる。  
腰をひねると丸く突き出した尻が胸ざわめくほどに円熟でとても女性的であった。  
ピノコは振り返り、ふるふると感激で瞳を潤ませたままブラックジャックに抱きついた。  
「ちぇんちぇえ、ありがとう〜!!らいちゅきっ!ピノコ、ボインになったよのさ、ちゃんと18ちゃいのかやだになったんらよ!」  
口調は相変わらずだったがその声質は、どんなに甲高く叫ぼうとももう幼女のそれではなく。  
「ね、ちぇんちぇ、ピノコきえい?結婚ちたっていいぐやい?」  
「ああ…綺麗だよ」  
「ほんとにっ!?ピノコと結婚ちてくれゆ?」  
「…ああ、してやるよ」  
「やったあー!こえでほんとの夫婦らねっ」  
 
ピノコはブラックジャックの頬にチュッとキスして幸せそうに頭をもたせかけた。  
ブラックジャックはくびれた腰に腕を回し髪を撫でてやりながらも表情は暗く沈んでいた。  
 
 
 
平穏な幾日かが過ぎると再び狂った悪魔がピノコの体内を占拠し暴れ始めた。  
うっすらと淡く紅色を乗せていた弾力のある頬も見る間にひしゃげ、落ち窪んだ目の下の辺りには細かいシワと濃い陰影が刻まれたままだ。トイレに行くのにも杖の力を借りてやっとの状態になってしまい、もはや歩けなくなるのも時間の問題であった。  
少女が自分の意思で身動きできなくなった時、それは“最後"を意味する。  
そこから先は昏々とただただ一定方向に落ちていくだけ。……死へと。  
体力が奪われていくにつれ次第に黙っていることが多くなっていったピノコだったが、それでも根底にある明るさは決して消えず一度だって愚痴や泣き言を漏らしはしなかった。  
ピノコ、お前は死ぬことが怖くないのか?  
ブラックジャックの問いにピノコは緩やかに微笑んだ。  
 
「だってピノコはホントなら一度ちんでゆもんね…。  
そえをちぇんちぇえが人間にちてくえて、いよんな楽ちいことを経験できたかや…だかやピノコ充分なのよさ。  
短かったけろ、ちぇんちぇえのおかげでピノコは人並みのちあわせを味わうことができたもん。…ちぇんちぇえ、ホントにあいがとね。愛ちてゆ…」  
 
 
 
ちぇんちぇえ…お願いがあゆの…  
真夜中、明かりを落とした寝室に響く消え入りそうなピノコの声。  
なんだ?  
ちぇんちぇえと裸んぼになって抱き合いたいの…  
……なぜだい?  
ピノコ見たんら、姉たんのお腹ん中にいゆ時、姉たんちゅきな男の人と裸んぼになってぎゅうってちてた…。ピノコもちぇんちぇえとそうちたいの、らって夫婦らもん…  
…わかった、…しようか  
ほんとぉっ!?嬉ちい!  
ブラックジャックは全て衣服を脱ぎ捨ててから隣りのベッドに移動しピノコのパジャマのボタンを外していった。  
腕や背中を浮かすささいな動作すら弱った彼女にとっては大儀そうであった。  
ズボンと下着を下ろし小さな豆電球の光の中、成熟したピノコの裸体が晒される。  
 
例え造り物でもふわりと球を描いた柔らかそうな胸、先端に乗っかっている愛らしい乳首。  
中央の窪みをなぞっていくと産毛すら生えていない肉厚の丘に秘められた一本線が横切っている。  
「ちぇんちぇ…、ぎゅうちて…」  
震える腕を伸ばし、切なげな表情で求めるピノコ。  
姿形がいくら変わろうとも彼女の純粋さは永遠であった。  
ブラックジャックは優しく腕を回し、苦しくない程度にピノコと体を密着させる。  
脈打つ心臓の声が、命の宴が、皮膚を通して滑り込んでくる。  
こんなにも生きたいと訴えている鼓動があと少しもすれば、いくらかき抱いても反応しなくなるなんて──  
ピノコ、お前は本当に幸せだったのか。18年間もこの世から拒絶され、ようやく人間として生まれ変わることができたのに、これからという時に逝ってしまうなんて。  
お前はまだ友達の温かさを知らない、恋人の愛おしさを知らない。  
人生で最も大切なものを知ることもなく短すぎる生涯を終える、一体お前はなんのために生まれてきたというのか。  
 
 
 
わたしのことなら何の心配もいらない。また元のひとりぼっちに戻るだけさ。  
……寂しいがな。  
 
 
 
 
 
 
 
おわり  
 

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