───悲しみは過ぎ行く時が慰める?  
……馬鹿な。この引き裂かれるような思いは永遠に癒されるものではない。目前には最早絶望しかない。  
 
 
男は満たされなかった。  
どんなに嘆いても、どんなに叫んでも胸に募るのはひたすらな絶望と虚無感。逃げ出せる訳もなく、  
ただその切なる思いと現実から逃避したいという間で揺れ動き葛藤に苛まれ、精神は自らも気付く事なく  
腐れ果てて、男はいつしか狂人と成り果ててしまっていた。  
 
その日から男は現実を捨て、自身の二度と適わぬ思いに向かってひた走る。二人の一時を妨げるものには鉄槌を。  
男は手に余るその鉄の塊を手にし、霞がかる森林の奥で獲物を狩る。  
 
…彼女は喜んでくれるだろうか。  
彼女の笑った顔が見たい。声が聞きたい。  
そしてまた会えたなら、彼女を心から抱きしめてやりたい。  
 
 
全身を返り血で染めた男は、己の頬についた獲物の血を啜った。  
 
 
 
鬱蒼と霧が立ち込める森を抜け、三人は廃れた病院に辿り着く。  
あの老人は気付けばどこかへ消えてしまっていた。  
 
包囲された街中で立ち往生した挙句提案された別ルートは、ラクーンのはずれのアークレイ山地、  
森林地帯を抜けるというものである。しかしマップには大まかな進路しが記されていない事もあり、  
最初はその提案に疑問の声を漏らす者も見られた。  
 
九月からのこの期間は、通常山道の通行は濃霧の為規制されている。何しろその濃霧のせいで  
遭難者が多発しているという情報は、ラクーンの市民なら大多数が周知の事実である事も加えて  
払拭しきれない為であろう。  
だが実際の所その反論は形としてとりあえず口にしてみた、という者が大半であった。  
 
確かに手元に残る弾薬を考えれば、ゾンビで犇(ひしめ)く街中を突っ切るよりは幾分安全だという  
結論が出たのは妥当であると言える。それに何よりも根底に基付いていたものはゾンビの姿である。  
出来れば極力目にしたくも無いもので、またその屍目掛け弾丸を撃ち込みたくないという気持ちが、  
全員の足に楔を深々と打ち込んでいたというのも事実であった。結局の所最終的にアリッサの一声で  
一同は同意に達し、三人は森の中を通って進む事になる。  
 
それまでは良かったのだが、実際に森の中へ一歩足を踏み出せば辺りは日の光さえ届かない木々、  
おまけに濃い霧が立ち込めており、視界の定まらぬ中での移動を余儀なくされてしまったのである。  
ぼんやりと輪郭が浮かぶ木々の姿がどこまでも続き、喉は渇きを訴え、足取りは次第に重くなっていった。  
 
何が霧の中から姿を見せてもおかしくはない、森に生息する動物が襲ってくる可能性も捨てきれない。  
常に緊張が付き纏う、この異常な状況が三人の体力を普段以上に蝕んでいったのは確かであった。  
 
いつもなら自然の景観を目に焼きつけ楽しみたいところではあったのだが、今日のアークレイの  
機嫌はやはり頗る悪かったようだ。  
ちろちろと遠くで聞こえる河のせせらぎは旧山道沿いの川から発せられるものだろう。  
歩を進める度に次第に音が大きくなっていく。  
 
アークレイの街中を流れるエイムズ河の支流である。  
 
街の状況には似つかわしくない、雄大な自然の光景は何一つ変わることはなく、何も知る事はなく、  
穏やかな営みを以て一行を待ち受けていた。支流のせせらぎは緊迫した仲間達の神経に平穏を  
誘い、頬を伝う汗の雫がひんやりと熱を失いながら消えていった。  
 
 
どこまで歩いたか、中腹に差し掛かり河の音が耳にはっきりと聞いて取れるようになる。  
ぼんやり霧の中から古ぼけた山小屋がその影を現したとき、一行は疲弊のピークを迎えていた。  
旧山道沿いにぽつりと佇むこの小屋。  
人が住んでいる形跡もあり、しばらくはそこで休息をとる事になる。訪れた三人はそこで今後のルートを練った。  
壁には一面数え切れぬ量のメモが張られており、飲み干したウイスキーの酒瓶が所狭しと乱雑していた。  
隅には保存食の類であろう木箱に加え、詰まれた書籍、切り取られたノートのページはおそらく壁に  
付け加えられる筈であったのだろう。距離無く新聞紙がダンボールと共に山をなしている。この光景を目にして  
住人の性質を推し量るには容易く、訪れた一行は口を開く事無く、頭の中に住人の風貌を浮かべ表情を濁した。  
棚に置かれた写真立てに手を伸ばし、シンディは言いきれぬ言葉を押さえ込む。  
 
一人の老人が入り口を開く。彼の口ぶりからして、どうやらここに住む住人のようだった。  
彼は道案内をすると告げ外に出ると、老人にしては意外なほど軽やかな足取りで霧の中に消えたのである。  
 
道案内をするといいながらのこの”丁重”な待遇に、アリッサは一人声を荒げて文句を言っていたが、  
吊橋に差し掛かった頃からぷつりとその口は閉じ、何か考えにふけっている様子であった。  
シンディとヨーコはどうしたものかと顔を合わせたが、別段気にする事でもないだろうと先を急ぐ  
アリッサに付いて足を進める。  
老朽化した吊橋は渡る度にきいきいと鈍く軋み、大きくなる振れ幅はバランスを崩させる。三人が渡りきった途端、  
徐々に大きな音を響かせ、吊橋は川底へとその姿を消してしまった。後に残ったのは垂れ下がるロープの切れ端と、  
流れていく橋桁の名残。引き返す道を塞がれた三人は、嫌でも進む事を余儀なくされる。  
それがこの森の意思であるかのように。  
錆に覆われた門を潜り抜け、廃屋の病院内へと三人は踏み込んだ。  
 
「……病院ね」  
静かにそびえ立つその建物は人の気配がすっかり抜け落ち、長い歳月を重ねて森の一部に溶けていた。  
壁中に植物が取り付き、小さな鳥が空を自由に謳歌する。…ただ、そんな自然の作り出した風景がどこか  
不気味に目に映ったのは異常なほど辺り一面に茂った緑の所為だろうか。  
シンディが不安そうに辺りを見回していたが、躊躇いも無く茂る草を掻き分けてずんずん突き進むのはアリッサだった。  
植物に埋もれてどこが入り口かも判らぬのなら、辺りを散策する必要があるだろう。しかし彼女は違っていた。  
アリッサの目前を見れば、腰の高さまで茂った緑の隙間に見え隠れする変色した鉄の扉が位置していたのだ。  
「アリッサはこの病院、知ってるの?」  
シンディが後ろでぽつりと呟くが、当のアリッサはちょっとね、と一言返すだけでまるで耳に届いていない様子である。  
濁った空に浮かび上がる建物の影を捉えながら、後ろをそろそろと歩いてきたヨーコが間を置いて一言漏らした。  
 
「廃棄された病院……ここは…」  
「何か、知ってる事があるの」  
ヨーコの声を耳にした所で、シンディは振り返り表情を伺った。  
「いえ…ただ、さっきの小屋の中で変な記事を見かけたから」  
「ひょっとしてあの新聞……でも、結構最近の日付だったけど。この病院の事?」  
「新聞記事じゃなくて、傍に落ちてたノートに。何気なく捲ってたら記事のスクラップがその中に混ざってて」  
 
「…ふうん」  
シンディは口元をしかめ、そんな所まで見てたの、と苦笑しながら応答する。そんな表情には  
目を向けずにヨーコはさらに続けていった。  
 
「多分、それはこの病院の事に間違いは無いと思うんだけどね。……今から大体5年前位に、  
ここは破棄されたみたい」  
「5年前…」  
「表沙汰には病院の傷害事件、という名目で報道されたみたい。事実、新聞記事にもそうした内容で  
綴られていたけど」  
「…傷害事件?……ああひょっとして、ラクーンプレス記者が死亡したとか何とかっていう……」  
シンディは学生の頃に目にした記事をぼんやりと浮かべた。自分もその事件は覚えがあった。  
 
ここ数年になってまた徐々に発展の手を伸ばしてきたラクーンにとって、当時のニュースでは  
それなりに賑わいを見せた話題である。山奥の私立医院で新聞記者が不可思議な死を遂げたという  
このニュースは一斉にラクーン中の注目を集め、病院はとうとう廃業にまで追い込まれた。  
当時の病院関係者はこの事件の顛末において何も語る事はなく、真相は全くの謎を残したまま、この事件は  
時間と共にうやむやにされていったのである。  
自分の身近な場所で起こった事件なものだから、よけいな興味をそそられた事もある。シンディは日を追う毎に  
書かれるその事件の新情報を毎朝注視したものだった。  
 
「そう。でも、そのスクラップの次のページに書かれていた事が事実なら、…どうも本当は色々あったみたいね」  
ヨーコは視線を下方に下ろして、前方に見える錆で赤茶色に変色した鉄製の扉をじっと見据えた。  
「この病院は、とある非認可試薬を使って、違法な臨床実験をしていた…街の人達がまだ何も知らない頃から」  
「…試薬……実験?実験って何の」  
突拍子なく口から出てきた彼女の一言に、シンディは呆気に取られた。  
 
「詳しくはわからないけど、想像はつくわ。……考えてみて。確かに街から離れたこの場所は、  
晴れた日なら景観も良くて、患者の精神も和らぐでしょうね。山奥の私立病院とはいえ、それなりに  
患者は多かった。実際に資料を見ればわかると思うけれど、患者の流入は頻繁にあったらしいの」  
「じゃあ、何……その患者はひょっとして」  
「……実験体、だったんでしょうね。でも新聞では収容患者の院内死についても一切公表されていない……  
さっきの資料ではそこまでの記述で終わっていた」  
「…でも、何故あの小屋にそんなものが残されていたの…………あのおじいさんが残したもの、って  
ことかしら。確かに近い位置に住んでいるとはいえ、あのおじいさんが病院の事情を把握してたなんて」  
 
「そこまではちょっと……或いは、関係者なのかもしれない。……でもまあ、そこまで拘るような話でもないから……」  
曖昧な言葉で表情を濁す。そこまで言いかけ、ヨーコはアリッサの表情が変わっていたのを見落とさなかった。  
アリッサはヨーコの視線に気付くとすっと平然を装い、ドアに手をかけ鈍い音を響かせる。  
彼女は何も言わない。  
 
「…ヨーコ?……あ、ちょっとアリッサ!」  
ヨーコの顔を覗き込むシンディが声を張ると同時に、ヨーコもまた扉へ向かって歩き出した。  
 
「……何でもない。行こう」  
手にしていたお守りを握り締めて、聞こえないよう呟いた。  
 
「……実験、ね」  
 
 
覆い茂った植物の一部が微かに揺れ動いていた。  
 
 
動きの悪い扉の先は闇。  
まだそんな時間でもないというのに、壁に張り巡らされた植物と濃霧は窓から差し込む  
日の光をも奪い、建物内に居ればとうに夜も更けたような印象を与えてしまっている。  
微かに射し入る光の帯には空気の流れで埃が舞い、重い雰囲気が辺りに立ち込める。  
気が滅入ってしまいそうだった。  
 
病院内はすっかり朽ちており、壁は崩れ、今にも崩壊しそうな様相である。植物が至る所に絡みつき、  
病院特有の薬臭さもすっかり抜け落ち、機材や染みと埃を被ったベッドが所狭しと道を塞いでいた。  
 
先行するアリッサは突き当たりのドアを力任せに押し開いた。ドアを開けたことで部屋に沈積していた  
埃がぶあっと舞い上がり、少し咳をする。今となっては誰も居ない病院受付。書類は倒れたケースから  
散乱し、椅子が転がっていた。目に付くのは巨大に膨れ上がった植物である。天井を突き破り深々と根付く  
その植物は体液循環でどくどくと脈打ち、常軌を逸した成長を遂げていた。  
ここまでの道程、最早これ程の事ではそうは驚かなくなったアリッサに比べ、シンディは部屋に入るなり  
素っ頓狂な声をあげている。  
 
意に止めず床に散らばる紙を見つめながら、どんどん奥に進んでいく。  
「武器なんか、こんな病院で見つからないわよね」  
「メスとか」  
「…そんなモノでしょ。出来れば弾薬なんかがあればいいんだけど」  
言いつつ部屋内を見回していたアリッサの横で、ヨーコはふと目に留まるものがあった。  
部屋に入りすぐ横には棚がある。その近くに置かれた人が入るくらいの大きさの木箱。周りに置かれた  
部屋の品物よりは僅かながらに新鮮さを残すその木箱には、黒く印字された番号と発注品名が剥がされた跡が  
あった。その木箱の隅にチカチカと鈍く光るものがある。  
ヨーコはそれに近づくとその場にしゃがみ、隙間から顔を覗かせた。  
 
「……?」  
何かが落ちている。金具が付いた四角形のそれを手を思い切り伸ばして引きずり出す。  
浮き立つ埃に思わず顔を背ける。  
床に落ちていたのは一つの手帳。埃を払い止め具を外し、何気なく中身に目を通していく。  
ページの上に印字された”date”の欄を見れば、日付はこの病院が潰れる少し前のものである事  
がわかる。最初はスケジュールなどがちらほらと書かれ、幾つかの単語が走り書きで残されている。  
インタビューの内容を書き残したもののようだった。綺麗に整頓された文字が一面に描かれていたが、  
その途中で差し掛かったどこか見覚えのあるスペルに興味を惹かれ、ページを捲る手を一ページ前に戻す。  
目当ての欄に行き着いた所でヨーコはピタリとページを捲る手を止めた。  
 
ヨーコが手にするものを目にして近づいたアリッサは、手帳を見るなり目の色を変え、駆け寄ると、  
ヨーコの横からずい、と覗き込む。  
色褪せた手帳ではあるものの、アリッサにはそれが誰のものかすぐに理解した。それは紛れもなく、  
数年前彼女の同僚であったカートのものである。  
 
「…カート」  
アリッサの脳裏に記憶が蘇ってくる。  
 
 
そこには、この病院における実態を血眼になって追い続けた彼の記録が記されてあった。  
 
 
手帳には非認承薬品の患者への投与、患者の死亡例、更には医療機材の搬入の様子まで  
事細かに記述されていた。  
彼の記述は、とある組織の関与を訴えていた。ラクーン市の要ともいえる大手製薬会社アンブレラである。  
これまでもラクーンの経済の基盤であるこの多国籍企業には常に悪い噂がたちこめていた。  
表では良質な薬品を提供する世界屈指の企業として、しかし裏では違法薬品の開発に止まらず、  
様々な人体実験、生物実験、化学兵器開発、破壊工作や情報工作などと、最早製薬のジャンルに止まらず、  
その手は世界規模での進出に至っている。一連の猟奇事件もこの企業が色濃く関与しているのではないかと  
いう憶測が囁かれたが、しかしながらその権力は既に一つの市が太刀打ち出来るようなレベルではない。  
国権にすらその手が及び、強力な後ろ盾と資産を手にしたアンブレラにはそれが事実だとしても、  
公に事を晒し裁く方法が最早無かったのである。更にはこのラクーンでは住民の大多数がアンブレラ関係者  
と言う事もあり、アンブレラの関与の話題そのものがこの街では忌避されているのだった。  
 
彼は真相を暴く事に必死だった。どれだけ遡っても彼の行う全てにおいてアンブレラの隠蔽に遭い、  
それでも彼は諦めなかった。上司からは圧力を受け続け、カートの周囲の人間もそんな彼を疎ましく  
思うのが殆どであった。  
八方塞りだった彼は、思い切って病院を訪問する事になる。最後のページには、彼の意気込みが綴られている。  
 
ヨーコはその最後のページを黙々と目で追った後で、すぐ横のアリッサの表情をちらりと横目で伺った。  
アリッサの口元が少しだけ震えている。無表情ではあったが、何か思うところがあるのだろうか。  
手帳を静かに閉じると、語る事無く手帳を握り締める。  
 
「アリッサ…あの、それは」  
「5年前。…1993年にこの病院で死亡した新聞記者は私の同僚だったのよ」  
 
一同の表情に影が差し込む。後ろに佇んでいたシンディは顔を上げ、言葉を詰まらせた。  
 
アリッサに気遣いの言葉一つでもかけてやればいいものを、そこで初めて喉が動かぬ事を悟る。  
建物に宿る雰囲気が自分達を磔にしているのかは定かではなかったが、この病院内でそんな事件が  
起こっていたと考えれば考えるほど何とも形容し難い気まずさが二人を包むのだ。  
上手い言葉が見つからなかった。  
 
 
「……この手帳、私が預かってもいいかしら」  
アリッサは手にした手帳の埃を払いながら、他の二人に見せるように軽く振ってみせる。  
無言で二人が頷くのを確認した後で、アリッサはゆっくり手帳をポケットにしまいこんだ。  
 
 
一行は部屋を出ると、暗闇に埋もれた長い廊下を歩き出した。アリッサは胸の鼓動を抑えるか  
の如くスーツの胸元をきゅっと握り締めると、深く息を吐き出して気を静める。後ろの二人には  
伺えなかったものの、彼女の背中から雰囲気はひしひしと感じ取る事は出来た。  
 
「……さっきの手帳の内容」  
「ええ」  
シンディの耳元で囁くような問いかけに、ヨーコは軽く頷いてみせる。  
 
「…彼が裏で入手した機材の搬入リストから見ても、一介の私立病院がここまでの設備を必要とする  
理由がわからない。更にこの患者の収容数…正規の収容数と照らし合わせてみれば病室の許容を  
超えて受け入れを図っている事が一目瞭然だということ。公には秘密裏に、裏で何らかの力がかかって  
いると考えるのは自然な事だわ。ラクーンの住人なら誰しもその恩恵に預かる”クスリ屋”…」  
「……アンブレラ」  
「多分…というか間違いなく、薬品や機材の納入ルートも巧妙な手口で事実の隠蔽を図っている事でしょうね。  
そうして何食わぬ顔で試薬を投与し、死亡した患者については院内工作でやり過ごす。見返りに病院側は多額の  
報奨金を受け取り、そうしてまた次の実験へと…この病院はまさにアンブレラの実験施設に変貌していた」  
「……廃棄が決まったから、後は証拠を残さずに撤退したって事ね」  
 
「多分。……ひょっとしたらあのおじいさんは、ここの人間だったのかもしれない。そうだとしたら、  
病院の内部の情報に通ずる理由に辻褄が合うでしょう」  
 
シンディはそこまで聞くと、全身が粟立つ感覚に襲われた。何かこの病院の空気が豹変したように、  
肌をちくちくと刺す。どこに居ても付きまとうこの空気が晴れるのはいつの事になるのか、  
一抹の不安がその姿を変え、彼女の感覚を蝕んでいくのだ。  
 
───こんな事はもうたくさん。早く逃げ出して、暖かいベッドに包まれ眠りにつきたい。  
 
思いも空しく次の瞬間には、それはまた先の事だと思い知らされるとは知らずに。  
 
 
この朽ち果てた病院内に、自分達の他誰かが生きて徘徊しているとは考えられなかった。  
「何…今の音…?」  
どこから聞こえる音なのかはわからなかった。ドン、と扉が強く叩かれた様な、そんな音だった。  
しんがりのシンディが他の二人に問いかける。  
「…音?」  
前を歩いていたヨーコが耳を傾けるが、それきり廊下は静まり返っているだけで空気の音が耳に響く。  
 
「…しないよ」  
「したのよ!確かにさっき、向こうの方から」  
「…ねえ、アリッ……」  
 
 
「……アリッサ?」  
 
ヨーコが振り返った先には、既にアリッサの姿は見当たらなかった。  
 
二人は慌てて辺りを見回したが、やはり、廊下にはヨーコとシンディの二人しか存在しない。  
目の前で人間が消えるなどという事は、どう考えても信じ難い。おそらくは気をとられている隙に  
どこか別の場所へ移動したのだろうと、そう思い込んだ。  
…耳を澄ませていた事には目をつぶって。  
 
「ねえ……」  
シンディはヨーコの肩を掴み、震えた。当のヨーコも同じく冷め切った表情で固まっている。  
無音の廊下に二人取り残され、二人は言い難い恐怖に怯えた。  
心臓の鼓動が大きくなる。音の無い薄暗い空間の中、互いの鼓動が聞いて取れるのではないかという程  
緊張と恐怖は高まっていった。焦燥感と不安が次第に胸に募っていく。  
 
何しろ、頼りがいのある姉貴分のアリッサが、自分達の目の前で消えてしまったものだから無理もない。  
 
「ど、どうしよう…」  
シンディはごくりと乾いた喉を鳴らし、緊張で張り詰めた口から一言漏らす。  
彼女が見つめる先のヨーコも、掴んだ肩が竦みあがっている事がすぐにわかった。  
 
何も居るはずの無い辺りの視界に、何かが映りこむような、そんな予感がして目を離せずにいる。  
何も動くはずが無いのに。  
 
やがてヨーコは意を決してようやく一つ瞬きをすると、ただの気のせいだと自分に言い聞かせた。  
別に何てことはない。音がしたのも、アリッサが居なくなったのも、この病院の様子を見れば別段  
取るに足らないことだろうと。  
きっとどこかで軽い崩落が起き、その音に紛れてアリッサの移動に気が付かなかったのだと。  
大きく息を吐いてヨーコはゆっくりとシンディの方に振り向き、とにかくアリッサを探そう、と促すと、  
そろそろと足を踏み出した。  
 
空気の流れ一つ一つに注意を払いながら、二人は足音を殺して階段を上がっていく。入り口が開く事はなかった。  
それが意味するものを二人は十分理解している。しかし声に出そうとはしない。  
……閉じ込められた?  
 
だが幸いと言うべきか、先程の音はもう聞こえない。怯えきっていたシンディもどこと無く落ち着きを  
取り戻し、警戒はしているものの足が竦んで動けなくなるという事はなかった。  
アリッサはどこへいったのだろうか。距離からして、そう奥へは行っていないはずだった。階上か、  
それとも一階の角を曲がったのか。辺りは覗いてみたものの、扉が一つに積まれた車椅子などが  
置いてあるだけで、彼女の姿はなかった。扉の存在を考えれば一階から回るのが妥当だろうが、  
二人は何故か逃げるように二階を選択した。  
二人は何も言わない。音を立てたら、すぐ近くにいるかもしれない”何か”が二人の存在に気付き  
襲ってくるような、そんな気持ちで些細な行動にも自ら制限をかける。  
いつしか残ったのは全て憶測の選択。  
 
音の正体はアリッサだという選択肢は、二人の最後の逃げ場でもあった。  
 
階段を上りきる。足元には瓦礫の山と、無惨に風化した人間の死体。ここにもやはりウイルスの  
手は及んでいるのだと眉を顰めた所でヨーコはふと死体が不自然な事に気が付く。  
死体の劣化が激しいのだ。死体の皮膚には皺がいくつも見受けられ、枯れ枝のように水分が枯渇していた。  
しかしその中でも特別目立った外傷は見当たらない。ウイルスか化け物に噛み殺されたのであれば、  
普通こうはならないだろう。  
通常の裂傷等なら出血はあるが、致命傷はない。死因が大量の出血によるものならば、動脈を損傷する  
など色々原因は浮かぶものの、それどころかそんな傷は何一つ見られない。残るはウイルスによる死だが、  
こんな症状は聞いた事もない。ミイラの如く全身の皮膚が変色し、膨らみを失った細胞組織は縮んでいる。  
まるで全身の水分が蒸発してしまったような、そんな印象を受けたのだ。死体は見るも無残に萎み、  
その髄液すら搾り取られたかのような骨と皮になってしまっていた。  
 
「これは…」  
僅かに冷静さを取り戻した頭でヨーコは思考を巡らせた。死体は白さの無くなった白衣を身に纏っていた。  
ここの死体は、街の死体と何が違うというのか。  
一方でそれどころではないシンディが、その場にしゃがみこんだヨーコを促す。  
こんな状況でも死体の観察なんて彼女はとても耐えられなかった。  
とにかくこの場から逃げ出してしまいたかった。  
「ね、ねえヨーコ。早くアリッサを…」  
「え?…うん」  
立ち上がろうとしたヨーコの背後で、何かが聞こえる。  
「…シンディ?…行こう」  
進み出したヨーコは手を掴まれ、引っ張られる。行こうと言った本人に引き止められるのは、ヨーコとしても気分が悪かった。  
それだけならそんなに力を込める必要などないというのに、彼女の手は思い切りヨーコの腕を掴んだまま離さなかった。  
「ちょっ…」  
ヨーコが振り向けば、シンディは真っ青な顔で階段の先を凝視している。  
 
「どうし…」  
どうしたの、と言いたかった。それ以上は声が出ない。喉の先で踏みとどまった言葉は何かを警告する  
ように震えを起こして霧散してしまったである。その音は、彼女の耳にもはっきりと聞こえる。  
扉の音ではなかった。荒い、人の息遣いの様な音が、階下から響いてくるのである。  
ヨーコはシンディの意図しているものを一瞬で理解すると、背筋を凍らせた。竦み上がると呼吸がひきつり、  
ひっ、と声を漏らしてしまった。  
 
シンディは動けなかった。姿の見えない恐怖が確実に迫ってきている。自分が息をしているのかどうか  
すらもわからず、ただ、震える足で懸命に立ち、階下を見つめるしか無かった。それがまだ何者かも  
わからぬうちに、心の中で必死に連呼する声が彼女に逃げろと警鐘を激しく打ち鳴らしている。  
それは自分の命を脅かす敵であると。  
……殺される。  
……殺される。  
……死にたくない。  
───かつん。  
───かつん。  
───かつん。  
その音は、足音とともに迫ってきている。階段の前で止まると、間を置いて一段、一段と踏みしめ、  
こちらに向かってきている事が伺えた。  
 
 
ヨーコは事態を察知し、立ち竦むシンディの手を引いて逃げようとした。  
その時、彼女は見た。足音の正体を。  
血飛沫で赤茶に汚れ、鈍く光るその刃先が壁から姿を現す。  
 
 
 
声を失った二人目掛け、その影は猛然と加速していった。  
 

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