体が揺さぶられているのを感じる。アリッサはまどろむその意識を揺り起こそうとした。  
何もない空間で上下の感覚が掴めなかった。妙に息苦しかった。  
体中に走る体温の上昇を感じる。  
 
 
先程までの苦痛がいつ終わりを迎えたのかは判らなかったが、代わりに神経に走る余韻に支配されていた。  
打って変って穏やかな、上擦った感覚が全身を駆け巡っている。それはリズムをつけ断続的に、彼女の  
体に流れ込んできていた。  
彼女は少しだけ、吐息を漏らしていた。自由になった体を曲げて、その感覚に抵抗する。  
 
何が起こったのかは把握していなかった。記憶の筋がその跡をぷつりと途絶えさせ、記憶からの脱却を促している。  
体が浮ついていた。  
 
彼女は未だ戻れない事を悟って嘆いた。いつ晴れてこの陰湿な世界から逃げ出せるのかはわからない。  
戻った所で、そこはまた死臭の渦巻く廃墟である事はわかっていた。それでも、二重に張り巡らされたこのトラップから  
抜け出せる事が出来れば、それがほんの少しだけでも鈍鬱な気持ちを楽にさせると信じていた。  
手足の自由が利いた事で、先程の状況とはまた一つ一転している事は理解出来た。  
一つ一つ、確かめるように指を動かした。そこから関節を遡り、その筋肉の収縮をはっきりと覚えていく。  
その疼くような刺激は何度も彼女の感覚を蝕み、熱を生み、身悶えさせる。  
 
「……あっ…」  
外の情報が欲しい。今圧倒的に足りないものは自分の置かれている状況、そしてその把握だった。  
感覚を蝕む正体が掴めなかった。  
彼女はゆっくりと瞼に力を込め、久しぶりに視界を押し広げていった。  
 
間近の、蠢くものが視界に輪郭を残す。  
それは一定のリズムで大きく揺れ、彼女の体をすっぽりと包み込んでいた。  
人の視界を介してではなく、今度こそは神経を繋ぎ止める感覚を身を持って感じていた。  
自分の体を揺さぶっているのは、どうやらこれが原因のようだった。  
だが、それが何であるのかははっきりしない。寧ろ、アリッサにとってはどうでもよかったのだ。  
漸く苦痛から逃げ出せた開放感は、彼女の体に走る快感とも言うべきそれは、アリッサの心身を緩ませるには  
十分な逃げ道だったのだから。  
 
不審を十分に感じ取ってはいたが、早く楽になってしまいたかった。  
アリッサは再び目を閉じ、ただその全身を妖しくねぶる快感に身を任せた。  
荒い人の息遣いが耳元まで迫り上がって来た。  
熱いほどのその息は躊躇なく耳の穴に吹きかけられ、鼓膜から脳に激しい振動を伝える。  
ぴんと張った薄い皮を擦る様な音が、大音量で頭蓋骨に響き渡る。  
アリッサは不快感に顔をしかめた。  
ノイズのハウリングに似たその音は、その振動は全身を震え上がらせ、彼女の溜息を誘うのだ。  
 
「んぅ……ああ…」  
愛しむように、アリッサはその色鮮やかで滑らかな髪を何度も何度も撫で擦られていた。  
子供をあやす様に優しい手つきだった。  
熱の気配がそこに近づくと、ざらりとした感触と粘膜の感触が同時に耳穴を襲った。太い舌の感触だった。  
頭を横に置き換えられ、耳元を覆う髪を掻き揚げられる。ほんのりと赤みを増した耳朶が姿を現した。  
深々と舌を差し込まれ、耳朶を甘噛みされる。  
アリッサは無抵抗だった。  
ただその感触に体を丸く屈め、声を押し殺し、時折口元に指を持っていっては爪を噛み、堪えていた。  
自分の体も心も、全てが丸裸にされたような気分だった。  
 
”何者か”は動かないアリッサの頬を、優しく撫で回した。  
彼女が抵抗しない事を改めて確認した上で、僅かに開き、甘そうな吐息を漏らす唇に己の唇を圧し当てた。  
その濃厚な感触に、嫌でもアリッサは寒気を覚えていった。  
 
「んっ」  
分厚く唾液に塗れた舌が口腔に差し込まれ、思うが侭に辺りをねぶった。  
彼女は困惑していた。口内を満たしていた自分の唾液が、何の断りもなく絡めとられていく。  
歯茎、舌の裏、円を描くように全てが貪食(どんしょく)される。  
間近に聞こえた、喉の鳴る咽下音。アリッサは首を左右に振ったが、その舌はどこまでもついて来た。  
滑らかな金の髪に指が通り、頭を固定され、物凄い圧力で蛞蝓のような舌をねじ込まれていく。  
 
───ああ  
呼吸が苦しい。振動が激しくなる。耳に聞こえるのは荒い呼吸音と、それに続く女性の名前だった。  
───これは、あの男だ。  
薄々は気付いていた。だが、あの凄まじい光景と感覚の後で、アリッサの思考は戻ってこなかった。  
酷く汚らわしい。  
口を開いてしまったら、今にも耐えかねて嘔吐してしまいそうだった。  
吐寫物(としゃぶつ)が喉元まで迫ってきている。両の手の平に指が絡んだ。  
掌にどっと汗が滲み出てきた。指を複雑に絡め、逃げようとするアリッサの細い指を捕まえた。  
そのまま腕を上方にずらされていくと、広げられた体の振動と快感がより直に伝わってくる。  
脱力だったアリッサの内に、次第に怒りの感情がこみ上げてきた。  
自分は成すがままに、この男に抱かれているのだと悟った。  
自分に失った妻の姿を重ね合わせ、妄想のまま己の欲望を果たそうとしている。  
自身の愚かな行為で失ったかけがえのない妻の姿を。  
 
アリッサは手に絡みつく指に力を込めた。  
自分は何をしている?  
植物は、絶った。  
後は逃げるだけの筈だ。逃げる間際にシンディとヨーコが、私に駆け寄った。  
それからどうなったのかは自分にもわからない。ただ、残る記憶を辿ればいつまでもあの女性の顔が、網膜に  
焼き付いて離れてくれなかったのだ。  
臆病に閉じかけたままの瞼を、精一杯に引き剥がす。  
自分はここから逃げ出さなければならないのだ。  
 
目の前には男の恍惚とした表情が一杯に迫っていた。  
両の手を床に押し付け、男はアリッサの上で揺れている。  
 
「気がついたか」  
未だ朦朧とする意識の中、アリッサは必死に自分を奮い立たせようとする。  
アリッサが最後に見た先程自分の倒れた場所ではなかった。押し倒されているそこは、ベッドなど気の利いた所ではない。  
埃塗れ、剥き出しの床のタイルの上だった。辺りには枯渇した植物の抜け殻と大小のコンクリートが散らばっている。  
ごうごうと高鳴る地鳴りは収まってはいなかった。ぱらぱらと天井から流れ落ちる煙と礫がそこら中に見て取れた。  
男は自分を道連れに、死を選んだのだという事が伺えた。  
表情に逼迫感が高まった。男の脇腹には、うっすらと赤く染まった包帯が何重もきつく巻かれていた。  
 
「……っ…!」  
「…ああ、ドロシー。…ようやく二人きりになれた」  
男は一心不乱に腰を突き動かしていた。  
アリッサが身に着けていたスーツは下着ごと膝の位置まで下ろされ、男は嬉しそうに彼女の胸元に顔を埋めていく。  
 
「あ……うあ……っ」  
弱弱しい瞳を懸命に凝らし、手に力を込め男を往なそうとしたが、暫くの間意識が飛んでいた体には力が戻ってこなかった。  
逆に男により凄まじい力で押さえつけられ、ぎこちなく揺らめく目が彼女の四肢を睨めつける。  
気を失っていたとはいえ、自分が少しの間でもこの男を受け入れていたことが許せなかった。  
この男の欲望のために、その行為を享受して悶えていた自分の愚かしさを何度も蔑んだ。  
 
 
「く……っ…ふ……う…!」  
歯を食いしばって腕に力を込めてみても、男の体は石の様にぴくりとも動かない。  
圧倒する死地の男は一切の容赦なく、その下で足掻く彼女の中身をどんどん侵食していくのだ。  
 
 
 
「くく……もう離さないよ、ドロシー」  
男は更に圧力をかける。  
くたっとその僅かな力が折れ、無言のまま彼女の顎がわなわなと震え、徐々に反り返っていく。  
頂点まで達すると、うっ、と僅かに苦痛を漏らしアリッサの体は再び床に落ちた。  
顔を投げ出して肩で息をする彼女の衰弱した姿に男は哄笑していた。  
 
 
横に向けられたその悔しさに溢れる頬を、男は愛しそうにねっとりと舐め上げた。  
アリッサの口からかすれた嬌声が吐き出された。  
体を密着させると、その途方もない肉の狭間へ自らの塊を押しやった。  
 
「………離して」  
そう呟く網膜に描いた女の表情は堪らなかった。この世で最高の娯楽に出会えたものと感じた。  
怯えて今にも泣き出しそうに、降伏の意を見せて流れる瞳。苦痛に歪み、垂れ下がる眉。蒸気して紅潮した頬。  
桃色に震える唇。どれをとっても絵画のように、全てが非の打ち様がなく、自分を愉しませるに値する要素で  
埋め尽くされていた。これ程の美しさはこの状況でしか描き出せないものだと感じていた。  
 
肉を打ち付ければ、女の唇から震える悲調な旋律が奏でられる。  
気の強そうなこの女からは想像もつかない、弱弱しい雌の泣き声だった。  
陰茎が密着する。女肉の襞が隙間なく陰茎を銜え込み、ざわざわと波打った。  
収縮を繰り返す女の秘部は、自身の陰茎を絞り上げてくる。快感が全身を流れる中、この女をひどく愛しいと感じていた。  
相手は自分の愛した妻であるのだから。それとも逆に、過去に追いやった記憶を再び呼び覚ましてやろうか。  
あの男が死んだときのように、再び絶望を蘇らせてやろうか。  
 
手中に収めた今、この女の運命はまさに私の思いのままだ。  
 
 
女は断続的に吐息と小さな悲鳴をあげていた。開いていた瞳はぴたりと閉じられ、涙が伺えた。  
何もかも奪い去ってやりたかった。  
この体の熱も、柔らかい肌の感触も、艶容なその脚も、滑らかな肩も、波打つ体液も、蠕動する秘肉も、  
指をすり抜けていくこの綺麗な金の髪も、揺れ動く唇も、指も、折れそうな心も。  
全て自分に取り込んでしまいたい。  
誰にも渡したくはなかった。  
 
男は勢いよく陰茎を差し入れると、熱い欲の塊を奥へ、さらに奥へと解き放った。  
繋がった陰茎を激しく痙攣させながら、男は絶叫していた。  
 
「………っ……んううぅ……っ……!」  
アリッサの喉から、かすれた声が漏れ出た。  
鋭く放出された男の欲望が、じわりじわりと彼女の内部を穢していく。  
腰を仰け反らせ、どれだけその侵食から逃れようとしても無駄だった。  
男が手を離すと同時に、アリッサの体は地に付く。  
 
「ああ……」  
目の前に白い光の筋がいくつも走りぬける。絶望が頭の中に広がっていった。  
悔しさで瞼に涙が溢れてくる。潤ったその目で、アリッサは目の前の男の笑みを盗み見た。  
力が入らないその腕で、宙を仰ぐ。  
男は果てたばかりの体をゆっくりと引き起こし、すすり泣くアリッサの腰を掴み、うつ伏せに体勢を変えさせた。  
 
「……っ!触るなぁっ!」  
アリッサは泣きながら我を忘れて叫び、男の手を振り解こうとする。だがその手は簡単に捕らえられた。  
聞く耳持たず、膨らみのある臀部を両手で掴むと、ゆっくりと目前に引き寄せる。  
股間からは、先程まで男のものであった粘着質な液体がひくひくと蠢く裂け目から静かに滴り落ちているのが伺えた。  
まじまじと眺める男の視界には、今頃は卑猥な光景が広がっている筈だった。  
 
「やめろ、やめろやめろぉっ!」  
アリッサは腰を左右に振り、無我夢中で逃れようとした。自分の言葉使いが破綻している事も気にしなかった。  
男の狙いは明らかだった。アリッサの秘部、辿ってその上方に位置する小さな菊門にその目は向けられている。  
彼女は怯えていた。徐々に近づく男の顔から、周期的に熱い息が吹きかけられていく。  
 
「やめろ……や、……ん……………やめてっ」  
声が出ない。肌を侵食するその鼻息は、小さな隙間を縫って内部に誘い込まれ、何度も体に震えを誘うのだ。  
ひくひくと菊門を蠢かせる。男はその穴に走る、周囲の皺にぴとりと舌を付けた。  
周囲を縁取るように舌を廻すと、男はその舌の力を真っ直ぐ菊門に滑らせる。  
二つに分かれた、張りのある臀部の割れ目に男の顔がすっぽりと潜り込んでいる。  
 
「あ……ひ…っ……」  
肌の表面を流れていた男の息が、今度は菊門内部に直接送り込まれていく。  
びくびくと体を震わせ、アリッサは高く鳴き始めた。  
頬を床にぴったりと密着させ、感覚を擽られるような快感を堪える。  
汗と涙に塗れたその頬には、水分を吸った床の埃が付着した。  
小さな菊門を押し広げ、ざらつく舌はずぶずぶとねじ込まれていく。  
それは根元まで、粘り付くように肛門を蹂躙(じゅうりん)するのだ。  
アリッサは括約筋に残るありったけの余力を込めた。男の手が妖しく内股を弄っていく。  
溜息を漏らす。  
何度も諦めそうになった。体を横に倒しても、男もまた離れる事なくぴったりと密着して離れなかった。  
 
「……ん……んんあああっ!離れっ!」  
嫌悪感に唐突に体を振って、足をばたばたと振ったが  
下げられたズボンが邪魔になり、男を蹴り上げる事は出来なかった。  
男はその張りのある尻を両手で抱え込み、暴れる彼女の動きに合わせてその力を追いやった。  
がっちりと掴まえたその尻肉に指が食い込み、卑猥にその形を歪ませるのだ。  
 
「う…く……くぅ……くは…っ……」  
どれだけ動いても、男の舌は癒着したかのように抜かれる事はなかった。  
疲労だけが、ろくに動けぬ体に蓄積していく。アリッサはついにそのまま沈黙してしまった。  
 
「……っ」  
地鳴りと水音だけが辺りに響いていた。  
 
「……!」  
時折もどかしげにアリッサが小さく動くと、あとは床に擦れた衣服の音が鳴るだけである。  
アリッサは前方に目を据え、やり場のない辱めを必死に耐え抜いた。  
”そこ”を舐められているという事実だけで、全身に灼熱の熱さが蘇って来る。  
横になった視界には亀裂が走る壁と、伸ばした自分の腕が横たわっているだけだった。  
その指は、男の舌が動くたびに併せて揺れている。  
筋肉が硬直し、そのまま徐々に動けなくなっていく。  
 
「あッ……!」  
男の愛撫は陰湿で、また粘着質に、執拗に続けられた。恐らくは自分が気を失っている間も続けられていたに違いない。  
自分を撃った代償としてなのか、又は男の見た妻のためであるのかはわからない。が、ただこうしている間にも  
院内の崩壊の手は休むことはなかった。轟いた悲鳴は衝撃にかき消された。  
 
…自分はこのまま、男に蹂躙されながら死んでいくのか。  
…いやだ。  
…いやだ。  
 
男は床に膝をつき、立ち上がった。ぐったりとしたアリッサの体を持ち上げ、再び尻を突き出させる。  
男の手には短時間で再び昂りを迎えた陰茎が握られていた。  
 
「あ……あああ……っ……」  
「さあ、今度はこちらで一つになろうか」  
 
───駄目だ。  
アリッサは覚悟を決めて、襲い来るであろう刺激に身構えた。  
それは死んでしまいたい程屈辱的な選択。呼吸が早まる。  
男の肉が時間をかけて敏感になった菊門に触れる。ゆっくりと腰を進めれば、それは少しずつ窪みに埋もれていく。  
 
「さあドロシー。いい子だから力を抜くんだ」  
アリッサは無言に勤めた。寧ろ、声は全て届いていなかった。  
顔を真っ赤に腫らし、伝わってくる不気味な感触を忘れようと必死だった。  
男は見えるアリッサの後頭部に軽く手を添えると、髪を優しく掬い上げる。彼女は首を  
ふるふると左右に振り、その手を振り解こうとした。  
男は仕方ないといった感じで息を一つ大きく吐くと、力任せに絡みつく肉を押し広げていった。  
 
「………んあああっ…!」  
アリッサは大きく広げた口から、舌をぴんと張らせた。激痛が走り、眩暈が一気に襲い掛かってきた。  
誰も咎める事のないこの残酷な状況に、全身の感覚が大きく揺らぎ始めた。  
構わず男は深々と陰茎を差し込んでいき、締め付けて狭い穴の深層まで辿りつくと、そのまま抽送を始めたのだ。  
「やあっ……ふ…うんっ……ひああっ」  
思い切り陰茎を締め付けてくるアリッサに男は歓喜しながら、己の欲望を自在に高めていく。  
赤らんだ肌に汗がじわりと浮かび上がっている。その先には艶美な尻からラインを描き、括れた腰、肉の薄い背中、肩、  
そして切迫して子供のように甲高く喘ぐ愛しき妻の姿が伺えた。  
男はそれだけで今にも果てそうになった。  
 
「さあ、どうしたんだドロシー。先程までの態度はどこへ行ってしまったんだ?」  
男はにやにやと笑みを零しながら、辛そうに表情を隠すアリッサの顔に迫った。  
その態度に怒りを覚えるが、抵抗を抑えられたこの状況では最早如何しようもなかった。  
 
「うう……うううううっ………!」  
「何時からあんな言葉を使うようになった。許して欲しかったら、私に謝り、私の言う事をよく聞くんだ。  
さあドロシー、どうした。早く言え!」  
男はアリッサの頭を床に押し付け、首筋をでろりと嘗め回した。  
髪からはほんのりと残る甘い匂いが男の鼻腔をくすぐり、男は鼻一杯にその甘美な空気を吸い込んだ。  
「いやあ……」  
全身に悪寒が走る。ずん、ずんと侵攻するその肉棒は、彼女の腸壁に纏わりつき、暴れまわっていた。  
菊門の肉がその形を歪め、肉が捲れ上がりそうな焦りで一杯になる。  
何度も何度も突かれる度に激痛を催し、体は悲鳴をあげていた。  
 
 
 
「……やめて……お願い、やめて……くださ………もう…やめて……ぇ」  
後ろ向きで表情はわからぬとも、少しずつ呟かれるその言葉に男は口元を徐々に吊り上げる。  
食いしばった歯の隙間から唾液を覗かせ、男の心は嗜虐心に満たされていったのである。  
 
「はは……!」  
男は押し殺した笑い声で、一際大きく腰を叩き付けた。ぶつかり合った尻肉が乾いた音を立てる。  
 
「きゃあっ!」  
「可愛らしく鳴けるじゃないか。その調子で私をもっと愉しませてくれ」  
言うと、男の抽送がより激しさを増していく。  
打ち据える衝突音がぱんぱんと響き続け、その結合部からは赤い血が滲んでいた。  
アリッサの秘部から、先程注がれたばかりの男の滾りが押し流され、ぽたぽたと床に滴り落ちていく。  
 
「う、あっ、あっ、はっ…あ、ああっ、かっ……」  
 
もういい。  
早く終わって欲しかった。  
 
アリッサの表情から生気が徐々に失われていく。ただ苦悶に苛まれ、瞳は頼りなく揺れ動き、眉を顰めていた。  
口はだらしなく徐々に開かれていき、突出しかけた舌から唾液が零れ落ちる。  
崩落の地響きと併せ、男からの振動で弛緩した体を激しく揺さぶられていた。  
 
男が二度目の絶叫を上げた。どくん、どくん、と掴まれた尻肉が脈動していた。  
 
「……は、あああ……」  
奥深く、どこまでも深く、アリッサは男の欲望に塗れ、汚されていく。  
陰茎が引き抜かれると、支えを失ったアリッサの体は床に転がっていった。  
男の挙動がおかしくなる。肩で息をしながら、その光景を見下ろしていた。  
横這いになったアリッサの臀部の隙間から、白く光る液体がとろとろと床に流れ出る。  
てらてらと光る陰茎を再び握り締め、男はその力を増していく。陰茎を上下に擦り、血流を呼び戻そうと躍起になっていた。  
 
アリッサは動かなかった。  
呼吸で胸を上下させながら、失った気力と体力の回復を計るのに必死だった。  
着用していた衣服は乱れ、言えば半分脱がされているに等しかった。  
スーツと下着は膝の辺りに残されてはいたが、激しい行為の最中でしわくちゃによれていた。上半身のシャツは  
ボタンが所々、特に胸の辺りからはじけ飛んで、腹部が舐められた唾液により光を受けて輝いている。  
 
股間と臀部がずきずきと痛んでいる。迸った欲望が腹部でぞろぞろと蠢き、口内には男の唾液が混じり、不快だった。  
アリッサは咽ながら、口内の唾液を床に吐いた。男を見れば微動だにせず直立し、手は股間に宛がわれていた。  
まだ終わらせないつもりであるという事は即座に理解した。あの男はまたすぐに、自分を貫こうとするだろう。  
男が命も全て投げ打ち、その覚悟で最後の瞬間まで行為に興じるというのならば  
自分もまたそういった覚悟をもって男に当らねばならないという事を改めて再確認しなければならなかった。  
建物がいつ崩壊してもおかしくはない。  
 
余韻から覚め、徐々に戻りつつある思考の中でアリッサは考えを巡らせた。  
この男を撃退し、ここから逃げ出す事。  
ここで心中なんて冗談じゃない。絶対に生きて出てやる。  
屈服など、しない。それに仲間が待っている筈だ。ここで諦めるものか。  
 
しかしながら、腕力では限界が見えている。それに対抗するに見合う武器が必要だった。  
だが、武器など辺りに見つかる訳がない。アリッサは最初に病院に踏み入った時の状況を思い出した。  
病院に都合よく銃器が置いてある訳がない。確かそんな会話を自分から口にした覚えがあったから。  
 
唐突に、男はアリッサに向けて一歩を踏み出した。アリッサはその様子にびくっと体を震わせ、目を見開いた。  
一歩、また一歩と近づく度に自分も懸命に床を這い、距離を取ろうとする。  
焦りと絶望が、今度は確実に彼女の体を覆っていく。次こそは、もうチャンスはない。  
行為の果ては、即ち死を意味していた。  
 
建物が大きく揺れた。  
目の前にばらばらとコンクリート片が降り注ぐ。ぐらつく空間にアリッサは傍にあったカートを引き倒し、中身を床にぶちまけた。  
床にからからと音を立てて、置かれていた医療用具が眩しく降り注いだ。  
そんな光景を気にも留めずに男は歩幅を早め、逃げるアリッサの足首を掴み、引き寄せる。  
 
「…っ…!離せぇっ!嫌、嫌あああっ!」  
勢い良く男の体がアリッサの体の上に落ちてくる。アリッサはその光景に恐怖した。  
自分の上に覆いかぶさる男を両手で殴りつける。  
死に物狂いで足蹴にしたものの、両足を男に挟み込まれて、ついには身動きが取れなくなってしまったのである。  
アリッサは絶叫した。男の顔を掻き毟ろうとする手をすり抜け、男がゆっくりと自分目掛けて降下してくるのだ。  
アリッサはその顔を掌で押さえつけた。片方の手は、男の指にがっちりと捕らえられてしまっていた。  
残った力を振り絞り、強引に近づく男と力比べになる。顔を覆った掌を、男はねっとりと舐めあげた。  
それでもアリッサは力を抜く訳にはいかなかった。徐々に距離の縮まる男の体を、それでもなお遠ざけようとした。  
 
「……はあっ!う…く……くああっ!」  
力がうまく込められない。男はわざとこの状況を愉しんでいるのだろうとわかっていた。それでも彼女は諦められなかった。  
男の巻いた脇腹の包帯から、赤い液体がじわりと滲んでいた。  
 
「そんなことをしてどうなるというのだ。ドロシー、私とずっと一緒にいよう。  
無駄な事はするな。お前もそう望んでいるのだろう?」  
「く……こ…のぉ…っ…!」  
「…もう諦めろ。お前は私と一緒の運命を辿るんだ。崩壊は止められない……それが何故わからない」  
男が喋る度に、掌に息が吹きかけられた。  
男は何度も押し付ける掌の死角を縫い、アリッサの首筋を狙っていた。一方の手でシャツの隙間から  
手を差し入れ、下着を押し上げ胸を揉みしだいていく。  
 
「いや、いやあああああああ!」  
アリッサは涙を流しながら叫んだ。完全に絶望感が心を包み込もうとしていた。  
男が獣のように首筋にむしゃぶりついて来る。下着を剥ぎ取られ、強引に乳房を歪ませた。  
片方の腕がとうとう床に押し付けられ、残る手で男の顔面を掻き毟ったが何も変わらなかった。  
男は首筋から舌を離し、乳房の頂点の蕾を思い切り吸い込んでいった。胸に顔を埋め、離した手は  
彼女の閉じた太腿を掴み、力でこじ開けようと試みていた。  
アリッサは体を屈め、男の頭に両手を置き体を引き離そうとした。太腿がゆっくりと開かれ、男の陰茎が近づいてくる。  
 
「……うあっ、駄目っ、やめて、いやっ、あっ、あっ」  
アリッサは胸から男の顔を引き離した。正確に言えば、男がアリッサの胸から顔を離していた。  
アリッサは体の隙間から見える陰茎の行く先から、目が離せなくなっていた。  
見開いたその瞳から全くの余力が消え失せ、徐々に近づく男の様子に瞬きさえ出来なかった。  
男がそんな自分の恐怖に満ちた表情に浸っているということなど、もうどうでも良かった。  
 
それは、時間の問題だった。こんなに精一杯押し付けても、男の陰茎は躊躇いもなく近づいていくのだ。  
 
「諦めるんだ、ドロシー」  
男の陰茎が彼女の陰唇に触れた。  
アリッサは腰を浮かせながら、ついに声を失った。  
貫かれる。  
押し返す腕ががくがくと震えていた。  
 
「う、あ、あ、ああ……」  
ずぶ、ずぶ、と肉の塊が進入を果たしていく。明らかに先程よりは衰えているのに、それは静脈がどくどくと  
浮き出て燃えるように熱かった。  
悔しさで涙が止まらなかった。ぽっかりと開いた口からリズムが狂った時計のように、呼吸が吐き出されていく。  
 
「う……ううっ……ひぐっ……な…んで……」  
目を硬く閉じ、アリッサは泣きながら呻いた。手に込めた力が嘘のようにすうっと抜け、床に爪を立てた。  
男は哂っていた。  
 
「…ようやく観念したなドロシー……さんざ手間をかけさせおって…!」  
男の陰茎が根元まで呆気なく女肉に吸い込まれた。男は幸福そうに顔を穏やかに作り変え、その甘美な  
感触に溜息を漏らす。  
アリッサは泣きながら、男の肩に噛み付いた。それはひどく力の篭らない感触だったが、男はその彼女ながらの  
抵抗に顔を歪めていた。  
どこかで、似たような光景を目にした事があった。妻の姿を重ねていた事もあり、それは嫌でも脳裏に描き出されてしまうのだ。  
 
またか。  
またこの光景を目にしてしまうのか。  
牙を向ける妻の変わり果てた姿とは状況が違うものの、男の中に妻の哀れな光景がフラッシュバックすると、  
その感情を蝕んでいくのだ。  
男の表情が曇った。子供のようにしがみついてくるアリッサを振りほどくと、震える声を喉から絞り出す。  
 
「私が憎いか……お前は望んでいないと、そう言うんだな!?」  
「ひっ…あ、あぐっ……うっ…く……ひあ……っ」  
男は怒りに震え彼女を怒鳴り付けた。横を向いたアリッサの頬には、髪が覆いかぶさっていた。  
ひくひくと泣き咽ぶその表情に心を奪われ、男は最後になろう腰の抽送を始めた。  
 
膣内を暴れまわる男の肉が、アリッサの動きと連動していた。アリッサはぎりぎりと歯を食いしばる。  
アリッサの手は、床を這い回る。横目で、何か光るものと、その近く大きな礫(つぶて)のような塊を確認していた。  
そうしてぶつかった何かの塊を掴み、男に向かって投げつけた。  
 
「う……ああああ!」  
落ちてきたコンクリート片が、男の脇腹に突き刺さる。  
包帯を巻いたその部位は、アリッサが弾丸を撃ち込んだ部位であった。  
男は激痛に絶叫した。  
悶える男に目もくれず、アリッサは焦る手で床をまさぐり光る棒状のものを握り締めると、男に向かって  
上体を起こし、そのまま真っ直ぐに突っ込んでいた。  
妙な音が、小さく耳に届いた。  
 
 
二人はそのまま動かなかった。  
アリッサの手を伝い、赤い血液が床に滴り落ちる。  
男はアリッサを包み込むような形で、ぴくりとも動かない。  
腹に静かに食い込んだ手術用のメスが、アリッサの手に握られている。  
小さなその刃先は、男の腹部に全て飲み込まれて震えていた。  
男は静かに、アリッサの髪を撫でる。  
彼女は、ゆっくり男と距離をとった。震える肩を上下させ、上になった男の体から少しずつ這い出た。  
カラン、と、乾いた音が床に響き渡る。零れ落ちたメスは、先程倒れたカートの傍に転がっていく。  
二人と沈黙したまま、互いの瞳を睨み付けていた。  
 
「……そうか、ドロシー。……お前は」  
男が俯いたまま静かに口を開く。  
アリッサは黙って男の言葉に聞き入っていた。  
 
「最後に……一つだけ教えてやろう。……ここのような……病院は、至る所に存在している。  
……忘れるな。……お前たちが知らないだけで……裏では、金さえあればどんな事だって行われている。  
……こことはまた違った生物兵器の開発等がな。……実験体に困らない施設なんだよ、病院というのは」  
 
男が咽た。  
腹部からはおびただしい出血が皮膚を伝い、流れ落ちていた。  
アリッサが警戒を解くことはなかったが、男は構わず続けていく。  
 
「5年前に潰された私の病院だが……未だ実験を続ける箇所もあるだろう。だが今となっては、それも長くは続かない。  
そういう出来事がこの世界には山程あるという事を」  
 
「……あなたは…!」  
アリッサが俯いたまま、感情を露にして呟く。  
 
「……あなたは自分がした事がわかってるの」  
「……そうだな」  
「…じゃあ何故、あなたがそんな事を言ってるのよ!あなたは許される人間じゃない!」  
アリッサの目から、涙が溢れた。  
多くの人の命を奪い、その妻の命さえも奪い。  
自分や仲間を妻に見立て、行為に及んだこと。  
カートの命をも奪っていった。  
許せなかった。  
怒りと悲しみがアリッサの感情を切迫し、言葉に力を上乗せしていった。  
 
「…二人きりになりたかった。私はただ、不治の病を抱えた妻と離れるのが嫌だった。そんな自分勝手な、陳腐な理由さ。  
ただ、人がそういった選択を迫られた時、答えになるのはいつもそういう自分勝手で陳腐な理由だ。  
……それが今現在、この街で起こっている惨事の正体だとは思わないか?」  
「……だから」  
「投薬を望んだのは妻だ。…勿論、持ちかけたのは私だったのだが。  
私は次第に自分が許せなくなった。可能性があるとはいえ、こんな恐ろしい薬を妻に投薬させる事が許せなかった。  
……私は懺悔し、妻に全てを話した。その薬のことを。妻は最初驚いていたが、他の患者への投薬をこれ以降行わない事、  
……今までの行いを全て世に公表すること。そして、世間に償う事を約束してくれと話した。  
そして私の姿に同情を見せた彼女は、少しでも可能性があるのなら、私と一緒にいられるのなら、私が悲しまないのならば。  
改変したその薬を自分に投薬して欲しいと言ったのだ。  
私は困惑した。……どうすればいいのかわからなくなった。……だが、私は妻との約束を守り、全てを世間に公表しようと決意した」  
 
「……」  
「……ちょうどその頃だ。あの記者がこの病院を嗅ぎ回っていたのは。  
最初私は頑なにその男の問い掛けを拒み続けてはいたのだが、妻の一言から葛藤が生まれていた。  
だが、あの男は無礼にも私の妻に接触していた。私は許せなかった。妻が苦しんでいるというのに、あの男は  
何食わぬ顔で妻に語りかけていたのだ。部屋に入るなり私は男を怒鳴りつけた。男がこちらに振り向いた瞬間だった。  
……ドロシーは男の肉に食いついていた。何度も何度も、獣のように血肉を啜っていた。  
私は立ち尽くしたまま、その場から動けなかった。夢を見ているようだった。  
 
この頃のドロシーには、ふとした事で例のその衝動が現れていたのだ。未だ記憶は残ってはいたが、夜中に出歩いて  
食物を漁る癖を封じるため、拘束具を付けていたんだ。それがいけなかった。  
……目が覚めた時、妻は泣いていた。私は死に走ろうとする彼女を何度も咎めた。  
同時に、自分がした事の重大さを、妻を巻き込んでからようやく悟っていた。  
 
……私は何て勝手な男なのだろうと、心から悔いたよ。私は全てを語る事を心に決めた。  
アンブレラの関係者が私の所へやって来た。私はその場ながら、何も口外しないと奴等に約束した。  
その裏で、情報を密かに漏洩するよう仕向けていた。  
同時に、妻の容態も末期を迎えていた。悪化する以前に、妻は癌で死ぬとされている自分なら放って置いても  
大丈夫だと告げたのだ」  
 
「……やがて病院は廃業を迎えた。アンブレラは院内に残るその全ての証拠を持ち去り、さっさと立ち去っていった。  
妻は生きていた。……それは、癌の脅威が過ぎ去った事を意味していた。  
ただ、妻の意識は戻っていなかった。私は他の患者の搬送先のリストから、妻の名前を除いた。  
そうして、人払いが済んだ後、病院には私と妻の二人きりになった。  
妻の意識が戻るまで、私は抜け殻の病院で妻の回復を待った。  
意識が戻った時、私は妻にすがり、誓った。もう離れる事はないと」  
男は顔をあげ、さらに続けていく。  
 
「……妻にあの症状が頻繁に現れるようになった。日に日に減っていく食料と、妻の口数が耐えられなかった。  
それでも意識のある内に、…私は…何度も妻に語りかけた。  
……例え言葉が分からなくなっても、私の事が分からなくなっても、私は何度も語りかけたんだ。  
記憶を失わないように、二人で過ごした日々の思い出を何度も話したんだ」  
男の言葉が震えていた。  
 
「彼女はどんなに辛かったろう……苦しかったろう……そう考えると、夜も眠れなかった。  
どれだけ酒を煽っても気持ちは晴れなかった。  
……彼女は、最後に私の名前を呼んでくれた。…そうして妻はいなくなった」  
 
「……」  
「私は結局、何をやっていたんだろうな。今思い出せば、見当もつかないよ」  
男はその場に凭れ掛かったまま、小さく笑った。  
 
「……」  
アリッサに言葉はなかった。  
そんな事は自分にはわからない。この男は、人殺しに変わりはない。  
罪を認めた所で、この男は全てを償っても償いきれない罪を犯した。  
人体実験という罪を。  
ただ、男の声でどこかその考えにアリッサは影を潜めていたのも事実だった。  
 
 
「……もう、いいだろう。…お願いだ。妻と二人、ここで最後を迎えたい」  
 
 
「………さあ、行け」  
アリッサは黙ってそれだけ聞くと、男の体から足先を抜いた。  
何故だかとどめは刺す気になれなかった。  
一刻も早く、ここから逃げ出そうという気持ちでふらつく足を引きずった。  
やがて、本格的な崩壊が始まる。  
アリッサは廊下を振り返った。  
だが、さっきまでいた男の姿は忽然と消えていた。  
 
アリッサは僅かにその先を見つめたまま、再び前にゆっくり進みだした。  
 
 
病院が崩れていく。  
屋上にその根をつけた巨大な花がぐらりと傾き、ゆっくりと沈降していく。  
階下から崩れていくその建物から、ぶわっと煙が舞い上がり、辺りは何も見えなくなる。  
やがて、頂点まで煙で包まれた建物はその姿を消していった。  
 
三人は崩れゆく建物の様子をじっと眺めていた。誰も、口を開こうとはしなかった。  
どおん、と植物の住処が最後の悲鳴をあげる。その音に三人は黙って聞き入っていた。  
 
全ての思惑の坩堝(るつぼ)は消え去った。  
だが、同時に後味の悪さを言わずとも感じていたのだ。シンディに肩を借りながら、アリッサは微動だにせず一点をじっと眺める。  
男の最後の言葉が、何度も頭の中で響いていた。  
 
───忘れるな。  
 
───人がそういった選択を迫られた時、答えになるのはいつもそういう自分勝手で陳腐な理由だ。  
───それが今現在、この街で起こっている惨事の正体だとは思わないか?  
 
その理由によって起きたヒューマン・エラーと、その背後の要因にあったヒューマン・ファクター。  
この病院に、この街の状況を移し変えてみれば、或いはそうなのかもしれない。全てが再現されていたのかもしれない。  
悲しいほど、愚かしい行為により引き起こされた惨劇。  
 
アリッサは昔取材の際に文献で紐解いた、ヒポクラテスの誓いを茫然と頭に浮かべていた。  
そこにはこのような記述が記されていた。  
 
───私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。  
頼まれても死に導くような薬を与えない。其れを覚らせる事もしない。純粋と神聖を以て我が生涯を貫き、我が術を行う。  
───この誓いを守り続ける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きて全ての人から尊敬されるであろう。  
もしこの誓いを破るならばその反対の運命を賜りたい。  
 
 
「……終わったのね」  
シンディが真っ直ぐ、建物を見つめながら問いかけた。  
ヨーコは手元に残ったお守りを握り締め、静かに頷いた。  
アリッサは頷かなかった。  
ポケットには、カートの残した手帳が入っている。  
アリッサは目を閉じた。  
瞼の裏にあの光景が、あの感覚が、フラッシュバックのように一つ一つ蘇って来る。  
異常な程に屈折した愛情と憎悪の哀れな感情が。  
そして、二人の男の表情。  
裏を返したように、その意識がどっと雪崩れ込んできた。  
 
……カート。  
……あなたの思いは、決して無駄にはしない。  
 
 
 
 
 
アリッサは意思を新たに呟きながら、白煙をあげる魂の住処をいつまでも見つめていた。  
 
 
 
 
 
老人はゆっくりと、特別病室の入り口を潜った。  
 
「……ここにいたのか、ドロシー」  
 
男は血の跡を引きずりながら、ゆっくりと愛しいその妻のもとへ近づいていった。  
妻は美しかった。どんなに色褪せても、どんなに傷ついていても、妻の美しさは自分だけが知っていた。  
よく笑っていた唇。感情を表す穏やかな目。優しさに満ちた表情。  
もう動くことはなくても、その表情は穏やかなものだと人目で理解していた。  
妻の前に立ち、跪いた。  
 
「……もう二度と、君を離しはしない。……いつまでも一緒だよ」  
男は妻の体をきつく抱きしめた。  
これで離れる事はない。  
男に安堵の表情が蘇って来る。  
 
「……ドロシー……ドロシー……!」  
男は最後に、それだけ呟いた。  
瞼から安らかな雫が零れる。  
 
ドロシー。  
出会えてよかった。  
私の、誰よりも愛した女性。  
きっと、これからもずっと一緒でいられる。  
この先に新しい二人の営みが待っている。  
 
 
建物が最後にひとつ、震える。  
崩れ落ちる天井が、二人の夫婦を静かに包み込んでいった。  
 
 
 

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル