薬品庫から手に入れた有機溶剤を注入すると、赤く鼓動するその植物の塊はみるみるうちに萎縮していった。  
伸びていたツタは次々と干乾びて、細胞組織諸共枯死し、次第にその色を茶色に変色させていく。  
アリッサはその経過を食い入る様に見つめていた。  
 
未だシンディの姿は見つからない。  
ここに来る道中、部屋という部屋を隈なく見て回ったが、どこにも彼女が居た形跡は見当たらなかった。  
捜索に平行して植物に溶剤を投与してきたが、彼女を残したまま脱出するわけにはいかなかった。  
アリッサの頭の中に、考えたくもないとある疑念がこみ上げてくる。  
 
それらを払拭するように唇を噛み締める。  
枯れ行く植物に踵を返すと、部屋の隅で待つヨーコの元へ歩き出した。  
三度目の地響きが建物を揺らした。それは恐らくあの巨大な植物の悲鳴だろう。  
二人は同時に頷くと、音を立てて萎む植物から遠ざかっていった。  
 
二階へと足を進める。  
床にへばり付いた窓枠は先程よりも僅かに日の通りを良くし、少しばかりの安堵感を生み出した。  
手元に残る溶剤の注射器は底をついていたが、アリッサの手には代わりに重量のあるハンドガンが握られていた。  
全弾装填されているその銃のグリップに、掌から滲み出た汗がこびり付く。  
密閉されたこの空間の空調は滞っており、肌寒さと熱気が交互に折り重なって肌に纏わりついてきた。  
 
階段を上りきった二人に会話は無かった。  
辺りの病室とは異なった木製の扉に向けて耳を澄ませ、じっとその息を押し込んでいた。  
徐々に近づいていく二人の中で、それは確実に確信に変わっていった。  
 
中から聞こえるのは人の声。  
男のくぐもった声に、重ねて女の嗚咽が微かに響いてくるのだった。  
二人は黙って頷いた。ゆっくりと木製の扉を押し開く。  
軽い軋みと共に、扉はいとも簡単に開かれた。  
 
 
 
 
「……」  
声が近づく。  
アリッサは息を呑み、薄い壁一枚隔てたその部屋へと一歩を差し入れた。  
 
 
 
 
シンディは椅子に座らせられている。  
コンクリートの壁が続く病院内としてはどこか特別な木製の壁。それに伴うように設えられた  
大きな木製のデスクに、同じく木製の書類棚。木製の椅子。  
その様子はあの山小屋を想起させる。  
 
シンディは立ち上がらない。もとい、立ち上がれない。  
両手を背もたれの後ろに括り付けられ、両の足首は手すりにそれぞれ、足を開かされて固定されていた為だ。  
床に滴る雫がある。その雫を辿れば、丁度開かれた彼女の股の間から流れ出しているようだった。  
彼女はぐったりと顔を背けたまま動かなかった。時折力の無い吐息を漏らす以外は体をふるふると震わせるだけだった。  
暗がりの中で、彼女の体が影に暗く染まっていく。  
目の前に立ち尽くした男は満足げに笑みを零して、口の端から唾液を垂らしていた。  
その手には愛液に濡れた柑子が握られている。  
男は指に付着した水滴を丹念に舐めながら、項垂れるシンディに声を掛けた。  
 
「くく……いい光景じゃないか」  
「あ……う…」  
「拘束される気分はどうだ」  
未だ余韻を残す彼女の陰部を寛げながら囁く。  
 
「あ……はっ!」  
 
「……お前も、命乞いをするか?…この女のように」  
男の声はシンディに向けられず、入り口で銃口を向けるアリッサに届けられた。  
男はゆっくりと首を向けると、机に立掛けてある斧に手を伸ばした。ぎりり、と音を立て斧の柄を握り締めると、再び男の  
体内で爆ぜる昂ぶりが体中に迸った。  
 
「…っ…何故……!」  
視界の隅に映ったのは、先程拘束したはずの女の姿である。  
男は怒りに震え、斧を床に何度も打ちつけた。咆哮と衝撃が床を伝ってくる。  
アリッサはそれでも、頑なに姿勢を保ち続けた。  
 
……何故だ。  
……何故、誰もわかってくれない?  
 
「うあああああああああ!」  
斧の柄に小さな亀裂が走る。  
机の書類を引っ掻き回し、男は発狂した。その形相は獣のように凄まじく、辺り構わず喚き散らした。  
空気を伝う男の感情がびりびりと全身を駆け巡った。怒りと悲しみが交わった声が頭の中に何度も木霊した。  
怯えるヨーコを庇う様に、アリッサは体でしっかりと二人の間に立ち塞がった。  
木の破片が辺りに飛び交い、男の暴れた周囲からは煙がもうもうと立ち込めていく。涙が零れていた。  
やがて衝動に収まりが見えた男は肩で息を吐きながら、ゆっくりと視線をアリッサ目掛けて移動させる。  
充血で赤く染まりふらふらと動く目の玉と視線が重なった。  
その気迫に、異常さに、意識せずアリッサの目の端がひくついてしまう。  
 
「…っ…斧を捨てなさい!」  
男は聞き入れず、煙を纏ったままアリッサの方へと足を踏み出した。  
……一歩。  
……また一歩。  
じりじりとその距離を縮め、両手で斧を力強く握り締める。  
歯が砕けるほどに音を立てながら、男は短い呼吸を繰り返していた。  
 
男の背筋がだらりと垂れ下がる。両手に持たれた斧はだらりとその腕を足先まで下げ、全身が脱力していた。  
顔は見えなかった。しかしながら、男の足は止まることなく先程と変わらぬ歩調で床を踏みしめてくる。  
アリッサは恐怖に駆られた。尋常ではない男の行動が読めなかったのだ。  
埃を浮き上がらせ、少しずつ摺り足で後退していく。  
唇が震えている。ほんの僅かな時間ながら、喉の渇きを感じた。  
耐え切れず、アリッサはごくりと喉を鳴らした。  
そのほんの些細な行為が揺らめく男の口火を切ったかのように、唐突に男は体を起こすと、アリッサ目掛けて斧を振り上げた。  
 
「あ……ああああっ!」  
意表をつかれたアリッサから思わぬ悲鳴が漏れた。  
無我夢中でどこを狙っているかもわからず、ただ指に力を込めただけの単純な意識。  
気がつけば引き金を何度か連続して引いていたのだ。  
 
瞬間に凄まじい衝撃が彼女の腕を押し上げ、火を噴く銃身から立て続けに押し出される銃弾。  
その軌道は悟られぬ事無く刹那の空間を切り裂いていった。  
そのうちの一発が唸りをあげ、男の脇腹に深々と突き刺さる。  
肉に触れた瞬間、その弾力の一切を相殺した弾丸の破壊力は男に致命傷を与えるに容易いものだった。  
至近距離からの一撃は肉体内部をえぐり、背中から突き抜ける。男は激痛に再び咆哮した。  
脇腹の小さな弾痕からは止め処なく血が溢れ出す。  
勝負は決していた。  
よろよろと数歩後ろに下がったかと思うと、男は血の滴る脇腹を抑えながら背中を見せる。  
足を摺らせ部屋から逃れようとするその後ろ姿は、年相応の老人の虚無感を漂わせていた。  
 
 
アリッサは消え行く男の後姿を目で追いながら、糸がぷつりと切れたようにその場に尻餅をついた。  
荒げた呼吸を抑え、抑えても震えの止まらない右手で頭を抑え、その金の髪に指を食い込ませる。  
今自分がした事など頭の中から吹き飛んでしまっていた。  
 
ただ例えようのない恐怖だけは、今もなお鮮明にその姿を映し出し、アリッサの挙動を蝕んでいる。  
あれは、人間ではない。  
立ち込める硝煙の臭いが、彼女の視界を徐々に現実へと導いていく。  
あれは、人間ではない。  
あんな表情をする人間が果たしているだろうか。少なくとも、自分は見たことがなかった。  
憎悪、嫉妬、憤怒、…愛情、そして悲哀。感情で表せるのならばどんな表情にだって見て取れる。  
歪曲したその本心から、一度だけ覗かせた男の姿が鮮明に頭に焼き付いていた。  
 
…これで良かったのだ。  
アリッサは深く息を吸い込み、目を閉じた。  
 
脅威が去って、ヨーコはふらふらと立ち上がった。  
呆然と震えるアリッサを横目で伺いながら、部屋の奥、シンディの拘束されている椅子へと近づくと、  
硬く括り付けられていたその戒めを解いていった。  
シンディの体ががっくりと崩れ落ちる。  
両手で倒れぬよう支えてやると、自分の上着を脱いで何も身に着けていないシンディの体に被せる。  
肌に触れた。熱はとうに冷め切って、乾いた汗が体温を著しく奪っていた。  
 
そのせいであるのかどうかはわからないが、シンディもまた小刻みにその体を震わせていた。  
ヨーコは何も言えなかった。自分もまた、言わなくともその理由は十分理解できていたのだから。  
自由になった三人には安堵の一言も言葉がなかった。  
あの男の叫び声が、リピート再生のように何度も何度も頭の中で響いていた。  
猛る肉体。響く怒号。振り下ろされる光。…悲しみ。  
理解できない思考が、同時に片隅のほうへなだれ込んで来る。  
 
…放っておけばいい。後は脱出するだけなのに。  
アリッサは立ち上がった。ヨーコはシンディを抱え、アリッサの疑問を深める言葉を口にする。  
 
「まだ終わってない」  
伏目がちにアリッサは葛藤に苛まれた。  
ヨーコの発言の意味はわかっている。それは、自分と同じ考えを持っているということだ。  
それにもうひとつ。あの植物の根を絶っていないことである。  
自分を見つめるシンディの弱弱しい瞳が、同意を訴えていた。  
 
「行きましょう。まだ、やれることが残っている」  
 
 
 
 
ロッカールームから適当な大きさの制服を持ち出し、シンディは袖を通した。  
衣服に微かに残るエタノールの臭いが懐かしさと切なさを醸し出した。もう昔のような生活には戻れない。  
手元に残る銃火器は一つになっていた。  
ハンドガンが一丁、その他は心許ないモップなどの鈍器、劇薬の瓶が数個残るのみである。  
その中で、ヨーコだけは一つだけ違った色の瓶を手に取った。  
濃色のそれは、先程使った有機溶剤が注がれた瓶である。  
効果は確認済みだ。これならば、あの巨大な植物にも通じる可能性が高い。  
ゆっくりと階段を下りると、狭い地下の廊下に繋がっている。瓦礫の中に汚れた”特別病室”のスペルが伺えた。  
一同は頷いて、ゆっくりと軋むドアを押し開ける。  
 
どくん。  
地下だというのに、うっすらと光が漏れていた。  
蛍光灯の明かりではない、ごく自然な微光が扉の淵から廊下を照らし出した。  
ぽっかりと開いた天井からは靄の晴れた光が差し込んで、不規則に脈動する巨大な核を照らし続けている。  
戦慄を覚えた。  
不気味さと神々しさが二重に重なり合い、平静を掻き毟っていく。  
どくん。  
神が成した、この世に生れ落ちた異物。魔物。  
無数の触手を宙に漂わせ、自らの身を守るとともにいつ来るとも判らない獲物を待ち焦がれているのだ。  
こんな地下で。  
どくん。  
生命が潰えたこの場所で。  
どくん。  
それは儚くも、絶やされようとしている自らの命を守る、最後の手段だったのかもしれない。  
植物は光を浴び、穏やかにその傷ついた体を横たえて眠りについていたのだ。  
どくん。  
足が竦んだ。  
ここは魔物の棲家。  
踏み入ることは即ち、魔物の眠りを妨げるという事。  
どくん。  
鼓動が近い。  
自らの鼓動と、植物の鼓動が次第に周期の差を縮めていく。  
緊張が全身にびりびりと、指の先に至るまで一気に駆け抜けた。  
アリッサは銃を胸元に身構えた。ヨーコとシンディも、気持ちは一つだった。  
 
━━━目覚める。  
 
どくん。  
鼓動が重なる。  
激しい空気の震えが、植物の蠕動(ぜんどう)する裂け口から吐き出された。  
部屋内に閉じ込められた空気の塊が渦を巻いて、全身至る所に襲い掛かった。  
鼓膜を突き抜ける振動が、脳の中で模索していた思考を跡形なく溶かしていった。  
こんな化け物の命を絶たなければならないのか。  
攻撃の姿勢を取れない。  
巨大な力に見る本能的な”恐れ”。  
目の前にすれば、それは前触れもなく現れる。  
相手はその場から動けないというのに。  
 
……怖い。  
 
シンディは目をゆっくりと閉じてしまっていた。目を背ける訳にはいかないのに。  
立ち向かわなければならないのに。  
 
閉じた瞼からは一切の光を捉える事なく、やがて目の前には一面の闇が広がっていた。  
シンディは耳から伝わる振動にその感覚を委ねていた。  
 
目を背けた自分は一人、卑怯者だ。  
それでも構わない。  
私は卑怯者でいい。早くここから逃げ出したい。  
 
ごめんなさい。  
みんな、ごめんなさい。  
 
シンディは叫んだ。瞼の隙間から涙が零れ落ちる。  
その声をかき消すように、再び怪物の咆哮が響いた。  
様子が違った。その声は激痛に呻く様な苦痛を訴える断末魔に変わっていた。  
 
シンディは恐る恐る目を開いていった。  
正面に映し出されたその姿。先程とは変わらないと思えたその姿はぐにぐにと蠢いている。  
その表面の一部、液体が滴るその範囲で火傷を負ったように爛れ、煙が噴出しているのだ。  
 
何が起こったのか、わからなかった。  
 
横を向いた。ヨーコの手から、溶剤の瓶が消えていた。  
それに続くように、アリッサが銃の引き金を引いていく。二度、三度。  
真っ直ぐに構えられた銃口から、次々に植物の体内に弾丸が食い込んでいく。  
植物は体を捩じらせた。それに伴った崩落が起き、天井の瓦礫が霰(あられ)のように降り注いだ。  
室内に張り巡らされた触手や根が壁からびりびりと剥がれ、一斉に動き始める。植物の防衛本能。  
部屋の床や壁、天井に次々と亀裂が走った。  
煙が活火山のように吹き上がり、地震のような振動が部屋を揺らした。  
凄まじい状況だった。双方とも死に物狂いで生き残りを賭け、その手を休める事は無かった。  
 
アリッサは弾が無くなるまで、地面が揺れても、天井が落ちてもその銃口を下ろさなかった。  
ヨーコは絡みついた触手をナイフで切り落とし、溶剤を当りに撒いていた。頭から血が筋を引いていた。  
 
シンディの頭上から、抜け落ちた天井が降り注ぐ、その破片がシンディの皮膚を裂く。  
その場に倒れた体を弱弱しく起こし、こめかみの辺りを手で押さえた。  
暖かな感触。手を離すと、赤い液体が手のひらにべっとりと付着していた。  
 
痛い。  
このままでは、三人とも殺される。  
死ぬ。  
 
 
シンディは呻いた。  
最初は静かに、やがては喉が枯れるまで叫び、手にした薬品を力任せに投げつけた。  
 
……死ねない。  
……こんな所で死ねない。  
……死ぬのなら、最後まで足掻いてから死んでやる。  
 
植物に当たった瓶は砕け、中の液体が裂け目に浴びせられた。  
植物は絶叫した。凄まじい量の水分を裂け目から放出し、一際大きく脈動した。  
 
───枯れていく。  
根が、次第にその色を変えて縮んでいく。  
茎が、めきめきと弱弱しく折れ曲がっていく。  
 
怪物の”核”が、大きく揺れた。  
大量の体液と共に、最後の力を振り絞り何かを吐き出した。  
 
───女性の亡骸。  
茶色に萎んだその遺体は、しっかりと目に映さなくともそれが誰であるのかはっきりと理解できた。  
 
「これが……」  
 
 
 
「……ドロシー…」  
 
 
銃口をゆっくりと下ろしながら、アリッサは呟いた。  
 
 
ドロシー。  
あの男が全てを賭けて愛した女性。  
この場所で起こった狂気に巻き込まれた、はじまりの女性。  
表情はわからないけれど。  
姿はこんなに醜くなってしまったけれど。  
この人は、紛れも無くあの時の女性、カートが訪ねた女性───ドロシーに違いない。  
 
どれだけ疲れたろう。苦痛だったろう。  
5年の歳月を掛け、今、彼女はようやく開放されたのだ。  
 
「…終わった……?」  
 
シンディが頭を抑えながら立ち尽くしていた。  
彼女の問い掛けに、アリッサが頷く事はなく、じっと女性の亡骸を見つめていた。  
 
ヨーコが俯いた顔をあげ、ぽつりと呟いた。  
 
「……ここはもう………早く脱出しましょう」  
 
 
天井からは更に階上のコンクリートが降り注いでいる。  
枯れ果てた植物の前に残した女性に振り返りながら、三人は部屋を後にした。  
 
 
建物全体が地響きをあげている。  
地に張り巡らされた植物が枯死し始めているのだ。  
崩壊の前兆である。  
 
三人はぐらつく階段を一気に駆け上がった。崩壊が近い。  
早い所、この建物から脱出しなければならなかった。  
 
「物品庫から、外に出られるのよね!?」  
走りながらシンディはヨーコに向かって叫んだ。  
ヨーコも軽く頷くと、痛んだ体に鞭を打って必死に前進する。  
目の前には石が降り注ぎ、走る足に大胆さを損なわせる。  
長い廊下を抜ければ、物品庫の扉はもう目前に迫っているのだ。  
 
 
アリッサは走る足をいつの間にか止めていた。  
自分でそうした訳ではない。  
何か、自分の中にもう一つの意識があるような感じだった。  
 
自らの意識から、次第に辺りの音が消える。やがて視界も奪われていった。  
振り向いたシンディが、何を叫んでいるのかはわからない。  
くぐもった、自分という体の殻に一人、置き去りにされていくようだった。  
 
「………あ」  
言葉が出ない。  
そして始まる耳鳴りと頭痛。それはあの時の感覚とまったく一緒だった。  
シンディとヨーコが駆け寄ってくる。やがてその姿は、一際大きな落盤に遮られ、見えなくなった。  
廊下が斜めになっている。何故だかはわからない。  
 
「……あれ…」  
 
…視界が低くなったような気がする。音が聞こえない。耳鳴りだけが延々と響く。  
頭に衝撃が走った。視界に飛び込んだのは、拳大ほどの石の塊だった。  
視界が床と平行になる。  
床の剥がれたタイルの様子まではっきりと見て取れるようになると、反転して何も見えなくなった。  
 
……まずい。  
……早く、目を開けないと。  
 
 
意思とは裏腹に、アリッサの意識は次第に遠のいていった。  
 
 
 
 
気がつけば、蛍光灯の明かりが視界に広がっていた。  
 
何が起こったのかはわからない。  
ただ、ぼろぼろだった天井はやはり染み一つ無く、原型を保ち煌々と輝いていた。  
途端、アリッサは理解した。この世界が何であるのかを。  
……また。  
記憶。  
 
意識はあるものの、今度は体が言うことを聞いてくれなかった。  
体に違和感を感じる。  
体の中に体があって、その身動きが取れないといった感じに近いものがあった。  
そんなものは生まれてこのかた体験したことなどないが、実際にこの状況を思えば何故かそう納得できてしまった。  
一方で視界の自由も利かず、体は呼吸にあわせ上下し、視界は自分の意思とは関係なくぐらぐらと揺れていた。  
それが他人の体を介しての意識であると気付くには、そう時間はかからなかった。  
 
体が熱かった。  
血液が沸騰し、体内から燃え盛るような灼熱の熱さだ。  
喉は渇きを覚え、発狂しそうなほど何かに飢えを感じていた。  
アリッサは耐えられず、助けを求めようとした。だがその言葉は喉から発せられる事無く、宙に霧散した。  
ひゅうひゅうと、空気だけが漏れていく。  
その呼吸さえ漏らすのが惜しく、その”体”は目を見開いた。  
 
 
……どうなってるの?  
……誰か、助けて!  
 
 
……助けて、お願い…  
 
視界が何度も振れる。  
喉の奥まで乾き、吐き気を催しそうになった。  
焼けるように全身が熱い。  
どくん、どくん、と鼓動が尋常ではない速さで刻まれていく。  
 
───死んでしまう。  
 
瞬きを忘れた目尻から、涙が溢れてきた。その目に映ったのはあの男だった。  
 
「……ドロシー!」  
男はそう言った。この体の主を”ドロシー”と呼んだのだ。  
アリッサは絶望感に苛まれた。同時に、心の底で怒りがこみ上げてくる。  
この”体”はドロシーのものなのだ。  
 
……こんな。  
……こんな地獄を、この男は。  
……自分の愛する女性に。  
 
手足に痛みが走る。ベルトの巻かれたそこからは血が溢れていた。  
 
 
「大丈夫だ、ドロシー。落ち着くんだ」  
 
 
男が視界に近づく。  
アリッサは耐えられなかった。シグナルの意識の中で悲鳴をあげていた。  
歯をかちかちと鳴らし、近づく男の手を噛み切ろうと”彼女”は首を伸ばした。  
口からは絶叫にも似た唸り声をあげ、”彼女”は既に理性を失った存在となっていたのだ。  
 
アリッサは恐怖した。その”彼女”の視界に映るものに。”彼女”の挙動一つ一つに。  
”彼女”の視界を、自分が体感している事に。  
 
……う、あああ…、ああ、……ああああ…  
 
かすれた悲鳴は、誰にも聞こえない。  
 
───もうやめて。  
───もう見たくない。  
───何も感じたくない。  
 
正気の沙汰じゃない。  
気が狂いそうだ。  
どうして私に、こんなものを見せようとするの?  
 
混同し、走馬灯のように流れる意識の中でふと、彼女の亡骸の姿を思い浮かべたような気がしていた。  
それは何度も何度も現れ、目の前の男の姿と交互に折り重なる。  
 
醜く風貌を歪めた、女性の姿が自らに近づいていく。  
 
……いやあああああ!  
 
瞼を閉じようとしても、閉じることは出来なかった。  
 
───死にたい。  
───もう、楽になりたい。  
───だからお願い、もうやめて。  
 
「君は生まれ変わる。不死の体にね。  
だから我慢するんだ。そうして、二人だけでまた暮らそう。誰も居ない場所で、二人で食事をして、二人で笑って、二人で」  
───やめて  
「あともう少しの辛抱だ。癌は完治する。君は助かるんだ。死ぬことはな」  
───やめて  
「これからもずっと二人で生きていけるん」  
───やめて  
 
 
”彼女”の肩を掴むと、男は屈折した笑みを浮かべ、揺さぶった。  
アリッサは彼女の亡骸を目前に迫らせながら、いつ終わる事のない混沌に吸い込まれていった。  
 

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