病室のストレッチャーに手足を拘束されたヨーコを見つけたアリッサは、その光景に愕然とした。
致命傷のような傷は見当たらないが、意識を失っている様子のヨーコは何も身に着けていないのだ。
下着やソックスに至るまで全て取り払われ、両の手首、足首には太いベルトが巻きついていた。
それは手足の他に首にも頑丈に巻かれている。精神系の病気を患う”患者のため”の拘束具である。
アリッサは駆け寄った。
ヨーコの体には赤い痣が幾つも伺え、顔から足先にまで乾きかけの唾液と滾りの匂いが伝わってくる。
「…こんな……」
ヨーコがどんな目に遭ったのかは、それだけで十分理解出来た。
くたっと顔を横に向けるヨーコの傍らで、アリッサは拳を硬く握り締める。
……何て事を。
アリッサは唇を噛み締め、そっとヨーコに手を伸ばす。
その手が一瞬躊躇するが、一度深く瞬きをし、ゆっくりと締め付けた拘束具を取り払っていく。
蜘蛛の巣が張り巡らされた薬品棚から蒸留水をタオルに浸し、ベッドに軽く腰掛けて丹念に体を拭いてやった。
小さな体は痛々しく赤みを帯び、アリッサは極力そっと触れるような力加減で顔、首筋、腕から脇の下、そして
下腹部へと上から下に撫で下ろす。朱色に染まった彼女の股間が何とも見るに辛い。
全て吹き終えるとアリッサは目を細め、ヨーコの頬に手を添えた。
「…ヨーコ」
再び小さな呟きを一つ。
あの時、自分は触手に撒かれた。続けざまに現れたゾンビに追われたのは確かだったが。
男に対しての怒りよりも、それは寧ろ自分に対しての怒りではなかったか。
───あの時、助けにいけなかったのか。
それは悪夢の様に、華奢な彼女の体を這い回り、心はずたずたに引き裂かれた事だろう。
どんなに辛い思いだったろう。
同じ女という立場として、その辛さは身に染みる思いだった。
行く手を塞いでいたそれら障害を掻い潜れば、自分は彼女を助けられたのではないか。
そんな後悔が後から次々に浮かび上がり、アリッサは頭を抱えた。
───彼女が目を覚ましたら、どんな顔で接してやればいい?
どんな言葉をかけてやればいい?
どうやって謝ればいい?
「私は……何て事を」
ゆっくりと、彼女が瞼を上げる。
そのまま朽ちた天井を見上げる事、数秒。
アリッサの存在に気付いたヨーコは首をゆっくり向けて安堵したような表情を浮かべる。
「アリッサ…?」
その表情に、アリッサは思わず顔を背ける。
……やめて。
「ヨーコ。…私は…」
ヨーコは痛む体に顔を歪ませながら、ゆっくりと起き上がる。
「大…丈夫。……命が、あるだけ。幸運だと、思わなきゃ」
和らいだ表情にもどこか硬さが見える事は、彼女の声の震えですぐにわかった。
自分が何をされたかなど、二度と思い出したくない気持ちで一杯に違いない。
恐怖を押し殺しているに違いない。合わせる顔が無い。ありふれた言葉など、反吐が出る思いだ。
彼女の体に、触れられない。
彼女の声に、応えてあげられない。
「…大丈夫、だから」
その言葉を最後に、会話はぷつりと途切れた。
据えられた時計も時を刻まなくなったこの部屋に、無音の静寂が訪れる。
アリッサは覚悟を決めて、喉の底から言葉を搾り出した。
「……何も……私は、何も」
「…え?」
「…私の責任だわ」
「そんな……」
ヨーコは痛みと困惑の入り混じった表情をアリッサに向ける。
……私は、何を言ってるんだろう。
……起きた傍から、結局彼女を困らせてる。
───どうすればいい。
───わからない。
「……ごめんなさい……!」
ようやく漏らした謝罪の言葉。
顔を伏したアリッサには、これが限界だった。
しばらくその様子を視界に焼付け、ヨーコはアリッサの手を取ると、ありがとう、と。それだけ残した。
そのほんの些細な行動が、アリッサの心をどれだけ救った事か。
アリッサは静かに顔を起こし、少しだけ涙が伺える顔で一言、ええ、と呟いた。
「…伝えなきゃ、いけない事が」
ヨーコがゆっくりと柔和だった表情を、終わりはまだやって来ない、
そう言いたげにすうっと真剣な表情に変えていく。
「あの山小屋で会った人が……?」
「…ええ。私に全て告げていった」
ヨーコはその時の情景を再び思い返さねばならなかった。
───植物の前に力尽きたヨーコは、男に抱えられ、この病室に連れて来られた。
「…お前は私の虜となったのだ。残りの女達はともかく、お前には特別に話してやろうか。
逃げ出せる事もないのだからな」
男は覆面を脱ぎ捨てると、その人相を彼女に明かした。
「……あな…たは…」
「驚いたかね。お前達を誘い込んだのも、全ては私の愛する妻の為…ドロシーの為だ」
「何を…言ってるの」
男はストレッチャーにヨーコを拘束しながら、さらに続ける。
体を拘束される状態が何を物語るのか、ヨーコはその意味を知り戦慄した。
一つに、逃げられぬという事。
両の手足の自由が利かなくなれば、自力での脱出は不可能であるのは既に既知の事実であった。
更にもう一つ。男が再び行為に及んだら、という懸念である。
もしこの状態のまま行為を強要されれば、自分は一切の抵抗を許されないという事だ。
男の意のままに自らの体を弄ばれる。拘束される以前、先程の状況であれば気持ち的にまだ幾分ましだったろう。
ささやかな抵抗を見せるヨーコの体の上に覆いかぶさり、男は一切の動きを封じて見せ付ける様にベルトを巻きつけていった。
男は泣き啜るヨーコの頬を舐めた。
「今から5年前、廃業に追い込まれたこの病院の院長はこの私だ。世間の間では別の名目で報道されたようだが…真相は
全く異なるものだ。当時、私と接触したある男達がいてね。その男達はとある製薬企業の関係者だったのだよ」
「…アンブレラね…」
「奴らの条件とは。なるだけ人目に違和感のない規模であり、立地であり、そして私のような代表に
弱みがあれば尚良しというものだった。正面からはっきりと言われたときには思わず笑ってしまったよ。
まさか私の妻が病に侵されている事も調べ上げているとはな」
「…っ…だから、あなたは実験の誘いを飲んだの」
「お前が問う必要は無い」
男はヨーコの胸を掴むと、ぐにゃりと力強く揉みしだく。
「あ…うっ!?」
「……折角だ。ここから先は、私を愉しませながら聞いてもらおう」
彼女の首筋に舌を這わせ、男は愉快そうに唇を吊り上げる。
「い、いやっ…」
「用件は到って……シンプルなものだった。試薬を患者に投与し、その後の経過を……っ…逐一報告するというものだ。
私達はまず最初に送られてきた…サンプルを幾つかの適合性候補の選出の後、……複数の”実験体”に投与した。」
脇の下を丹念に舐めながら続ける。ヨーコは聞きながらも顔を真っ赤に歪ませ、いやいやをするように
拘束具のベルトを引き伸ばした。
「ふっ…だ、駄目っ」
「経過は当初良好だった。しかし突然実験体が意識を失うなど以上を来す。私達は血液採取やスキャニングにより、その
要因たる経過を目の当たりにする。それは紛れもなく通常の細胞組織だったものだ。それが次々と増殖を始めていた。
まるで癌細胞の様に形態変化を起こし、その増殖能は宿主の核たる遺伝子から情報を読み取って進化を促したものだ」
「ああっ…」
脇腹にこそばゆい感覚が駆け巡る。
「意識が戻ってからも、実験体の細胞は変化し続けた。度重なる細胞の増殖の影響でエネルギーを消費する
細胞組織は、次第に食欲が旺盛になる。一日に何度も食物を強請り、時には発狂した例もあった。
それを押さえつけるために用意したのが、お前の横たわっているモノというわけだ」
「くう……そ…んな」
太腿に螺旋を描くように、内股から舌を伸ばされる。抵抗により手首や足首が摺れ、徐々に赤みを来していく。
舌の柔らかい、不気味な感触にヨーコはつま先をぴんと伸ばす。
そこへ男の唇が回りこみ、口内に足先が含まれていく。
「やっ、…ちょっ……くん…っ……」
「その内代謝機能が激しくなる肉体のうち、脆くなった体細胞及び脳細胞が壊死し始める。段階的に重ね、物忘れが
酷くなった患者は最終的にただ食欲に飢える発狂者となり、手に負えなくなった私達はその実験体を放棄、
また次の投薬へと移行したのだ。……奴らから送られてくる薬品はどれも恐ろしいものだったさ。
それ一つで劇的な遺伝子の改変を伴い、化け物に変えてしまうものや他の有機体と融合してしまうものまで
様々な薬品を持ち込んできたものだ。空想事でしか語れない事象を目の前で実現してしまう気分は複雑なものだよ。
神の行いと例えるべきか」
「…そんな……ものは、間違っています」
臑から脹脛にかけて、円を結ぶように舐める。
全身に広がるざらりとした肌触りが粗暴だった先程までとは違い、柔らかに、そしてじわじわとヨーコの快感を煽る。
息を徐々に、静かに乱し、素肌には熱が篭っているものの、その背筋にはどこからか寒気がなだれ込んで来る。
びりびりと尖らされた神経からは、その言葉すらも感覚として受け取らざるを得ない様な印象を受けた。
「そう。間違っているさ。だから私は奴らには内密に薬品を分析した。…全ては妻の為に。
妻はどのみち長くは持たなかったのだ。だが無限の可能性を持つその試薬ならば、その
細胞変異を制御する事が出来たなら。……彼女は化け物に変貌する事なく助かるかもしれないと。
そう考えるのは必然の事だとは思わんかね」
「……」
「さて、ここで質問だ。妻が冒されていた不治の病とは何か、…わかるかね」
「……っ」
何も言わぬヨーコの股間に手を伸ばし、男は肉芽を軽く摘み上げた。
「やあっ!?」
「…答えろ」
「……っ……癌」
「……そうだ。妻は放射線治療や抗癌剤の投与で毎日を過ごす状態にあった。検査を進めるうち偶然に
気づいた事でもあったのだが、この実験で選出された被験者のほとんどが癌のキャリアだ。
条件から考えれば、そうなるのはまず妥当だろう。問題はその後だ。試薬を投与した被験者は生ける屍と
化す代わりに、その癌細胞に関しては一切無効化出来るといった特性がわかったのだ。
もっとも屍となっては癌も何もないが、細胞の増殖からして例えるなら全身が癌化しているようなものだ。
…その増殖能や変異を押さえ込めれば。…どんな形でもいい。彼女が生きてくれさえすれば、私はそれで構わない」
男は乳房に顔を寄せ、ちゅっ、ちゅっといやらしく先端を吸い上げる。
ヨーコの腰が浮き、全身に痙攣が走る。耐えるように強く瞼を閉じて、そのうわずったい感覚に思わず叫び声を
発してしまうのであった。声を上げる口から白い犬歯がちらつき、頬は赤く、
男の陰湿な愛撫にとうとう根をあげたヨーコの姿があった。
「や、あああんっ!…は…ひゃあうぅ…っ」
「ははは……!随分と可愛らしい声で鳴くものだな。………直に言うが、ドロシーの投薬は”失敗”だった。
他の実験体と同じ運命を辿ったドロシーだが、いつしかその亡骸は消えていたのだ。私は必死に調べた。
ドロシーの居た病室に薬品の影響で肥大化した植物を見るまで、私はそれがドロシーだとは思いもしなかったのだ。
…その日から、私はドロシーと離れないと心に誓った。
私が狩ってきた獲物を摂取し、彼女は美しく成長していったのだよ。……彼女は生きているのだ。
そういった意味ではまさしく私の行った行為は”成功”していたのだ」
狂ったように大笑いする男は、息を荒げて怯えるヨーコを見据えると、彼女の体を跨ぐ様にベッドに乗り
両手でさわさわと彼女の内股を弄った。
「…ひっ…!」
「……だがドロシーは、お前を殺さなかった」
指にぎりぎりと力がこもる。肉を拉(ひしゃ)げ、激痛にヨーコは顔を歪ませた。
「いっ、痛……ああっ!」
「……私はお前が憎い。……殺せぬのなら、せめて私を満足させてみろ。泣き叫んでみろ」
男は臀部を鷲掴みにし、彼女の陰部に顔をこれでもかというほどに押し付け、音をあげ女肉を啜った。
「くく……さあ”ドロシー”。私と愛し合おう」
ヨーコのくたびれた悲鳴が、静かな部屋に響き渡った。
そこまで思い出し、ヨーコは全身が粟立った。
アリッサは上着を脱ぎ、未だ裸のヨーコの体に被せる。何気なく視線を逸らしていく。
そこでようやく自分が何も着ていない事に気付いたヨーコが、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「あっ」
「……体は拭かせて貰ったわ」
最初狼狽していた彼女は暫らく黙り込んだあとでありがとう、と告げた。アリッサの上着を羽織り、
ヨーコは解き放たれた手で震える両肩を抱きしめる。
「服は……傍に置いてあるわ。…取り合えず、着替えるまで待ってるから」
男が残したのだろうか。ベッドから手の届かない位置に服が乱雑に重ねられている。その一番上に置いてある
彼女のリュックサックからは武器の類は全て持ち去られていたものの、所持していたお守りだけはしっかりと残されていた。
何故だろうか。アリッサはリュックの下から服を抜き取りながら、男の行動に一抹の疑問を抱き始めた。
それはヨーコにしても同じである。もっとも、狂人の気持ちなど知りたくもないのだが。
ご丁寧に残されていた服を身に着けていきながら、ヨーコは時折覗かせるあの屈辱の瞬間を頭の片隅に蘇らせ、
瞳をうっすらと潤わせている。
「…武器は取られちゃったみたいだね」
「……大丈夫よ」
「…あの植物には、”核”があるの」
「…核?」
「私が落ちた下には巨大な植物が存在していた。おそらくこの病院に張り巡らされた植物はあれが原因だと思う」
「その厄介な植物の所為で、外に繋がっている筈の物品庫の扉が開かないのよ」
「ええ。だからそれを何とかしないといけない。……実は私その植物を枯らす有機溶剤を持ってたんだけど…
どうも取られちゃったみたいね」
「有機溶剤ね」
「……恐らくは、地下の薬品庫に保管されてると思うんだけど。……それにあそこには」
「……ええ。わかってるわ。人を襲うって言うんでしょ」
「……シンディは?」
「……まだ、どこにいるか……」
「そう……じゃあ取り敢えずは」
立ち上がろうとするヨーコに手を添える。アリッサもベッドから立ち上がり、歩き出そうとした時である。
急な頭痛がアリッサを襲い、バランスを失いかけた両足を踏ん張った。
それは最初は立ち眩みかと思ったのだが、ひどくなる頭痛は一行に収まる気配はなかった。
……この感じ。
「く……」
───まだ何か見せようっていうの?
ふらふらとよろけたアリッサはそのまま地に手を突き、床に伏せてしまった。
アリッサは白く輝く視界の中で、懸命に顔を上げた。
音が、無くなる。
───別世界。
…時間が巻き戻されたようだった。
腐食した壁や部屋の設備はまっさらに整えられ、ぴかぴかに磨かれた窓からは眩しい光が屈折し、光の筋を演出する。
頭痛は嘘の様に消えていた。不思議な光景にアリッサはゆっくりと体を起こす。
辺りを見回しても、部屋には蜘蛛の巣一つ張られていないよく整頓された薬品棚が、部屋の背景を薄く映し込んでいる。
「ここは…」
さっきまでいた部屋には違いない。だがこの様子はどうだ。淀んだ空気は何事も無かったように澄みきって、
部屋の空調が小さな電動機の音を響かせる。後ろのベッドにはヨーコの姿は無かった。
その変わりに唐突に飛び込んできた、棚に映るベッドに体を起こした女性の姿がある。
……どういうこと?
女性は日の差し込む窓の外を眺めている。室内にも関わらず帽子を被り、表情はわからない。
ただ一つ気になるのはヨーコが拘束されていた”それ”が、彼女のベッドにも取り付けられていたと言う事だ。
女性は微動だにしない。
鳥のさえずる外の空気を顔に浴び、腕からはリンゲル液のパックから垂らされたチューブの点滴管が
一定の時間を置いて静かに雫を滴下させていたのである。
───それは何故かひどく神々しい、普遍に見えるものが夢の中にいるような錯覚。
同時に心のどこかで感じる懐かしさ。
全て理解したような気がする。
……ああ、
これは5年前の風景。自分がまだ新米記者であった頃。
……カートが生きていた頃。
短い嗚咽と共に顔を手で覆った。
何故だか体が熱いと感じた。
肌に触れる風はこんなに涼しいのに。
悲しい訳じゃないのに。
私自身が透き通ってしまいそうな感じ。
風が撫でるうなじがくすぐったい。全身がむずむずしている。
……懐かしさ?
後ろでノックの音が聞こえて、ゆっくりと扉が開かれる。その扉の影から出てきたあの人。
もう会えない筈だったのに。
「……カート」
様になるだろと自慢していたスーツ姿まで、何一つ変わっていない。
あのネクタイは私がプレゼントしたものだ。
……やっぱり似合わない。変な柄。
ただ、嬉しかった。またこうしてカートに会えたから。
「カート!」
私は彼の前に駆け寄った。
病院だというのに場所もわきまえず、つい大きな声を出してしまった。
……彼は、振り向かなかった。
聞こえてる。聞こえてる筈なのに。
目の前の私が見えないかの様にそのまま足を踏み出していく。
「……え?」
私は立ち止まった。
妙な不安がちくちくと胸を刺していく。
その所為で鼓動が彼に聞こえる位に早まってしまう。
「……カート?」
声が震えてしまう。
そんな私の様子さえ彼は気に留めず、ゆっくりとこちらへ向かってきた。
……駄目。
……このまま進んだら駄目。
背筋にある予感が駆けた私は、この時何故かそう思ってしまった。
何故だかは思い出せなかった。
代わりにまた頭痛が鳴り響いて私の記憶を呼び覚まそうとする”何か”がいる。
───やめて。
───もう見せないで。お願いだから。
「駄目……」
途端に顔が青ざめていくのが自分でもわかる。抵抗しようとしても何一つ変わらない。
そんな事しなくてもいい。……もう見たくないんだから。私は。
私は必死に彼の目の前に立ち塞がった。
彼をこれ以上近づけさせたくない。
それは思い出の”終わり”を意味しているのだから。
「…カート!」
彼は何も知らない。
この先に待ち構えている運命など予測できないのだから。
何としても私が食い止めなければ。彼を守らなければ。
彼の胸元がゆっくりと私を包み込む。私はそんなカートを精一杯抱きしめた。
その体は私の意志に反して、抱きしめようとした私の腕をすり抜けていく。
……待って。
体が私の全てを通り抜けていくと、そこには私だけが取り残された。
広げた腕で自分の体を抱きしめる。
切なさと寂しさが自分の中にどっと押し寄せてきた。
耐え切れなかった。
喉の奥が熱い。
目を開けていられない。
孤独が私の体を蝕んでいく。
私は最早彼を抱きとめる事など出来ないのだ。
…私はそれを知っていた?
彼に置いていかれる事が耐えられなかった。忘れられる事が耐えられなかった。
───そう。私は最早彼に触れる事も適わない。
…わかっていたのに。
後になってこみ上げてくる涙を抑えられない。
背中で向き合った彼との距離が、次第に離れていく。
…これは記憶の映し出した幻。
私は女性のベッドの前で立ち止まったカートの背中を追う。
一歩、また一歩、今は亡き背中にその身を預けた。
───私自身の、そして彼への最後のお別れを告げる為に。
「……じゃあね、カート。…逢えて嬉しかった」
私はその背中に縋りついて泣いた。
「……さようなら」
「ドロシーさん、ですね?この病院の治療についてお聞きしたい事があるんですが」
涙が頬を伝う。
やがて霧散したその背中を、私はいつまでも抱きしめていた。