呂后伝
漢の第二代皇帝・恵帝劉盈が死んだとき、その母親・呂后は涙ひとつ見せなかったという。
呂后は、漢帝国の初代・高祖劉邦の正妻であり、恵帝の実母であるから、
廷臣たちは、ただ無表情に座っているだけの皇太后を見て不思議がった。
「――これはまずい」
そう呟いたのは、丞相(宰相)の陳平であった。
陳平は謀将である。
かつて劉邦が、天下を争ったライバルの項羽に包囲されて絶体絶命であったとき、
項羽のうたぐりぶかい性格を利用して、その諸将とのあいだに離間の策をかけ、
劉邦の身代わりを立ててこれを逃がしたことや、
帝国樹立後、匈奴の冒頓単于を討とうとして逆に囲まれた劉邦を救うために、
虚偽の援軍の報と、単于の愛妻の買収によってその包囲を解かしめたことなど、その功績は枚挙に暇がない。
人の心理を読みとり、それに対する策を立てることにおいては、
漢帝国にあまた集まった人間の中でも屈指の才能を持っている。
その陳平が見るところ、今の呂后は危険な状態にあった。
「――呂后は、不安で爆発寸前だ」
この策士は、そう見てとった。
夫・劉邦の死後、呂后は二代目皇帝の母として宮中に専横を振るった。
性質温厚、ともすれば政治に無気力な息子を補佐した彼女は、
実家である呂氏の勢力拡大に非常に熱心であった。
──高祖が天下を取ったのは、呂氏の後ろ盾があったからだ。
呂后はじめ呂家の人々はそう考えている。
たしかに、劉邦が沛から出でて兵を起こしたとき、呂氏の援助は大きかった。
初期の劉邦は、妻の実家の資金や名声でさまざまなものを調えたといってよい。
だが名家であると言っても、呂家は、天下に名だたる、というほどのものではない。
せいぜいが地方の資産家であるに過ぎず、そうした意味での「名家」は天下にいくらでもいた。
劉邦が楚の一将として軍功をあげるころから、すでにその配下に集まった人間は、
呂家の名声などよりも、劉邦その人の魅力に惹かれた者の集団であった。
呂家の名望を過剰評価しているのは、呂后をはじめ呂氏の人間だけである。
──しかし、その呂后が、劉邦の死後に天下の実権を握った。
呂氏を漢帝国の最大の功労者であると思っている呂后が、二代皇帝の母后として実権を掌握したことは、
当然、呂氏重用政策につながった。
呂氏は、粛清されつつある建国の功臣たちに代わって広大な食邑や高位の官職を占有した。
その権力の源は、いうまでもなく、呂后である。
この婦人は、恐るべき政治的手腕と感覚を持っていた。
一代の──いや、中国の文字や民族を「漢」と呼ぶ風習があることを考えるに、
今日に至るまでの中国史の中で最大級といっていい──英雄の死にもかかわらず、
それを継いだ凡庸な二代目時代に、漢帝国がゆるぎなく基礎を固めたのは、呂后の政治力に負うところが大きい。
司馬遷でさえも、呂后の取った政策を大いに認めている。
だがこの婦人は、その性、酷薄であった。
夫に寵愛された戚夫人を「人豚」にしてしまった話ひとつとってもその残虐性はわかる。
建国の功臣たちの粛清にも熱心な呂后の力と性格を、諸将は恐れた。
丞相位にある陳平も、彼女を恐れていた。
もっとも、この策士は自分の保身には自信があったから、恐れたのは、
自分の生命や財産ではなく、彼女の暴走によって帝国が崩壊することのほうである。
「呂后は、帝国を安定させるだけの力がある。それゆえに、滅ぼすことさえできる」
陳平は、そう見ている。
実際、彼女が心の平穏を失えば、とんでもない政策を行う懸念があった。
「まずは、あの婦人を落ち着かせよう」
御簾の向こう側で無言無表情に座る女性の内部に渦巻く不安や恐怖心が、
狂気――それも、今この帝国で最大最悪の狂気――にかわる前に、それを解消してやらなければならない。
そう考えた陳平は、自分を上回る智者の力を借りることにした。
──項羽や冒頓単于すら詐術にかけた策士が及ばぬ賢者は、天下広しといえど、ただ一人しかいない。
劉邦に天下を取らしめた大軍師、張良である。
「――お久しぶりです」
部屋に入ってきた張辟彊がうやうやしく挨拶をする。
「――父上は、ご壮健か?」
「はい。――もっとも政務の場には出られぬ健康状態ではありますが」
「あの方にご出馬していただかねばならん事態なのだがな」
陳平はごちた。
表舞台に出てきてしまったら、自分の強力な政敵──どころか到底かなわない相手──になることはわかっていたが、
そんなことを言っていられない状況にあることをこの策士は悟っていた。
「父は、出てきませんよ」
辟彊は、小さく笑った。
この歳、十五歳の侍従が天下の丞相に呼ばれるのは、彼の聡明さのためではない。
その父・張良との連絡役であるからだ。
陳平が奇策をもって高祖を救った策士ならば、張良は高祖に天下を取る戦略を与えた大軍師である。
その智も、策も、陳平の及ぶところでない。
そして、天下の一大事に関わることには、張良の智こそが解決策であった。
だが、張良は劉邦の死後、俗世から身を引いた。
もともとからだの弱い彼は、劉邦の生前からなかば隠居していたが、あるじの死後、それは徹底的になった。
それでも彼の知恵を借りたがる人間は多かった──呂后さえ、恵帝の即位に関して彼の知恵を借りた──が、
張良は、近年、子の辟彊を通じて天下のために必要最低限の助言を与えるにとどめている。
その「最低限」が必要な事態が来てしまったことに、陳平はため息をついた。
「呂氏に思い切って実権を譲るべきです」
辟彊は、そう語った。
「今でもだいぶ譲歩しているつもりだが──」
現実派の彼は、呂后に迎合した政策を採っていた。
それは、実直な彼の前任者、王陵が詰問するくらいの迎合であった。
「それでも足りません。――呂氏の王を立てるくらいでなければ」
辟彊はさらりと言い、陳平は、愕然とした。
彼とてその策を考えなかったわけではない。
だが、劉邦は、「劉氏以外の姓の王はすべて滅ぼせ」と遺言していた。
それを破るほどの勇気は、さすがにこの男にもなかった。
だが、辟彊は、父譲りの澄んだ瞳で、この老策士の目をのぞきこんだ。
陳平は、うなずく他に方法がなかった。
陳平の部屋を去った辟彊は、その足で後宮に向かった。
途中で与えられた部屋に入り、衣装を脱いで素裸になる。
化粧をし、女官の装束を身にまとった。
女装では、ない。
十五歳の侍従が、実は男装の美少女であることを知る人間は、
親である張良と、もう一人の人物しか知らない。
「――太后さまにご拝謁ねがいたい」
後宮の奥深くを守る呂氏の女衛兵は、軽やかな足取りでやってきた少女に扉を開けた。
彼女たちの主人は、いついかなるときでも、この少女の謁見だけは許している。
たとえ、今、このとき、この後宮の主が、最大級の怒りと不機嫌に見舞われているこの瞬間でさえ──。
いや、だからこそこの少女が現れたのだ。
女衛兵たちは、そう思った。
涼やかな美少女が呂后のもとに現れるときは、天下の一大事の場合に限った。
音もなく呂后の私室に入る辟彊は、まるで神仙のたぐいのようであった。
彼女の父がそう呼ばれたように──。
「……」
辟彊は、広間の半ばで立ち止まった。
あらゆるものが破壊されている。御簾も、装飾品も、壁すらも。
それは、怒りにまかせて引きちぎられ、投げ出され、叩き壊されていた。
破壊物が散乱する部屋の中央に、ぺたりと座り込んだ人影がある。
童女のようにすすり泣く声を、美少女は耳にした。
「呂后様……」
その人影に、辟彊は声をかける。
返事はない。
だが、辟彊は動かず、沈黙を守った。
この相手にどう振舞えば良いのか、彼女はよく知っていた。
──やがて。
のろのろと顔を上げた人影は、当時の基準から言えば、もう老齢と言っていいほどの年齢のはずだ。
だが、その美貌は衰えることなく瑞々しい。その泣き濡れた瞳が辟彊を認識した。
──そして。
「……辟彊……。劉邦が、劉邦が死んじゃったよぉ……」
か細い声で、また泣きはじめた。
「……劉邦がね、……劉邦がね、死んじゃったの……。最後に残った半分までっ……!!」
呂后は、呟きながら泣き続ける。
その口から出ることばは、とりとめもない。
彼女の夫、高祖劉邦は、七年前にこの世を去っている。
だから、「劉邦が死んだ」という呂后のことばは不可解なものであった。
だが、辟彊は、その意味するところを知っていた。
七年前、今のように茫然自失していた目の前の女に、
「劉邦」が「半分」生きていることを教え、立ち直らせたのは当時八歳の彼女であったから。
「……言ったよね、言ったよね、辟彊。「盈が生きているうちは、劉邦は半分生きてる」って……。
盈は劉邦と私のあいだの子供だから、盈の中には私の劉邦が半分いるんだ、って……」
べそべそと泣き崩れる女が、歴戦の諸将が悪鬼邪神のごとく畏れる皇太后と誰が信じようか。
──いや。
「……だから、私、頑張ったんだ。ずっとずっと七年もっ!
劉邦が死んで七年もっ! ……頑張ったんだっ!!」
一言ごとに昂ぶる感情が、部屋の中心で、気の渦を巻きはじめた姿を見れば、あるいは納得するかもしれない。
辟彊は、その渦に「引き込まれ」そうになる自分を、ぐっと抑えた。
仙道の素養のある美少女は、目の前の途方もない感情のうねりを物理的に感じてさえいた。
「――でも、その盈まで死んじゃったっ!! 劉邦、全部死んじゃったっ!!!」
不意に、百万の大軍が吹き飛ぶような爆発が起こった。
辟彊は、数歩よろめき下がって、その幻覚から逃れた。
──彼女以外の人間なら、おそらくは気死、運が悪ければ本当に死んでいたかもしれない。
中国史上最高の英雄の妻の感情の爆発は、それだけの力を持っていた。
「……」
めまいと耳鳴りに耐えながら、萎えた足を引きずるようにして呂后のそばに近寄る。
「劉邦が死んじゃったよぉ……。劉邦、全部、死んじゃったよぉ……」
呂后は、弱弱しく、だが終わることなく泣き続けている。
十五歳の少女よりもはるか年下の童女のように泣く美貌の婦人を、辟彊はその胸に抱きしめた。
赤子をあやすようにことばをかけ、抱きしめ続ける。
辟彊よりはるかに豊満で妖艶な肢体を持つ美女は、大軍師の娘の胸の中で、
えんえんと泣き続けたが、やがて泣きつかれたかのように眠りはじめた。
廃墟と見まがう後宮の奥部屋で──。
「――私の娘に、箒と塵取りを持たせていただきたい」
呂后の父、呂公(呂文)は、劉邦にそう言った。
劉邦とはじめて会った日のことである。
単父の有力者であった呂公は、その地元で人を殺す事件を起こし、
後難をさけるため、沛に一家そろって移転してきた。
沛の人々は、この資産家の移住を喜び、歓迎した。
彼を迎える宴席に出席をした人間は数え切れないほどであったという。
その中で、呂公がもっとも歓待したのは、劉邦である。
この、沛のごろつきあがりで、最近ようやく下級官職についたばかりの長身の男を、
呂公は一目見て、手を押しいただいて奥に引き入れた。
最上席を与えただけでなく、私室に案内して自分の妻に会わせ、
ついでもっとも可愛がっている娘を呼び寄せて劉邦に会わせた。
その時に言ったことばが、「箒と塵取りを……」である。
これには、呂公の妻だけでなく、劉邦も大いに驚いた。
「箒と塵取りを持つ」とは、家の掃除のことを指す。
妾や卑女の仕事であるが、家事全体の意味にもつながる。
それはすなわち、「妻にしてほしい」ということの謙遜表現であった。
「――なにを言うのですか」
呂公の妻は、気でも違ったかといわんばかりに噛み付いた。
「この娘は高貴な相を持っている、よほどの大人物にしか嫁がせまいぞ、
あなたはそうおっしゃっていたではないですか」
──それをこのようなごろつきに──とまでは言わなかったが、
老妻の目は、雄弁にそう語っていた。
(当然の反応だ)
劉邦本人でさえ、呂公の妻の言うことにうなずいた。
このとき劉邦の身分は、亭長、すなわち郷里の官舎管理者兼駐在、という程度にすぎない。
とうてい大富豪の娘を妻に迎えるほどの収入ではなかった。だが、呂公は、
「その大人物がここにおられる。ぜひ娘を娶っていただきたい」
とこともなげに言い放った。
人相を見ることに長けていた呂公が劉邦を見初めたとも言われるし、
動乱の時代に、転居先の一番の暴れ者とつながっておこうという保身、とも言われる。
だが、どちらにしても、この時点で誰もこの劉邦が天下を取るなどとは考えていなかったであろう。
──こうして呂雉、後の呂后は劉邦の妻になった。
「……」
その初夜。
劉邦は、この男らしくないことに、戸惑っていた。
正確には、二人きりになったとたん、抱きついてきた呂后に対して、である。
「劉邦、劉邦、劉邦!」
子猫ですらこれほどじゃれ付くまい、と言うくらいに身体を摺り寄せてくる小娘を、
劉邦は、唖然として眺めた。
さきほど──つまり、婚礼の儀の間、他の者がいるとき──までの、
いかにも富豪の娘、といった木で鼻をくくったような小面にくさはどこにもない。
「――劉邦!」
自分の額を、相手のそれにくっつけるようにして劉邦の顔を覗き込んだ呂雉の瞳は、
夜の帳の中でさえ、きらきらと輝いていた。
「私を、劉邦のものにして──」
妻になった少女のことばは、ひどく直接的だった。
「――私、わかっちゃった。劉邦を一目見た時から──。
私のつがいは、劉邦、あなただって。私は、劉邦の嫁になるんだって。
──だから、まぐわおう、劉邦! 私を、今すぐあなたのものにして!」
それは、巫女が宣託を受けたかのように、激しく熱っぽいことばの本流であった。
劉邦、このときすでに中年にさしかかってきたごろつきの親分は、
いかにも小娘らしい、勘違いにも似た情熱にひそかに苦笑したが、
この男は、それが何よりも強い意味を持ったことばということを、身をもって知ることになる。
しかし、今夜の劉邦は、この誰よりも強力な巫女が、誰よりも強い龍に吸い寄せられて
ここに来たということを知る由もない。
人変りしたように無邪気に抱きついてくる娘を、板張りの上に転がし、自分の女にするだけであった。
呂雉は、小さな嬌声を上げて、それを受け入れた。
──呂雉は、むろん生娘である。
昼間見せた毅然とした態度や、今見せた純情で情熱的な態度を見せても、身体は男を知らない。
女遊びをさんざんし尽くした中年男にかかっては、
運命への期待にわななく処女は、罠にかかった仔兎よりも簡単な獲物だった。
呂雉の破瓜の痛みは、すぐに甘い官能に蕩けた。
「……」
追憶の優しいまどろみの中で、呂后は微笑を浮かべた。
歳を取らぬかと思われるくらいに衰えの少ない美貌は、誰のために捧げられたのか。
「――私、劉邦のいいお嫁さんになるね!
心も身体もこれからずうっと磨きをかけて、うんと美人に、
──劉邦にふさわしい女になるから!」
夢の中、遠い過去、初夜のふしどで言ったことばであろう、そのつぶやきを聞いて、
張辟彊はやるせない思いを抱いた。
英雄が去り、それにふさわしい女だけが残ってしまった。
──ただ英雄が築いた帝国を守らせるがためだけに。
「……今は、夢の中で亡き陛下とお戯れください。
仙術にて、太后様の望む夢を見させてさしあげます……」
──そして目覚めれば、残酷な現実が待っている。
だが、龍が去った大地には、それに次ぐ力を持つ女傑がまだまだ必要であった。
──穏やかに眠るこの女性は、陳平が推測するような呂氏の優遇など望んでいない。
辟彊たちがすれをすすめるのは、ただ、呂后が動きやすいように「場」を整えるだけの意味しかなく、
もっとも重要なことは、呂后に愛する夫の幻影を見続けさせ、政務を取らせることにあった。
だが──劉邦との間に出来た恵帝すら世を去った今、
呂后を絶望させることなく、帝国の確立までもたせることができるのか。
暗澹たる思いを抱きながら、美少女は仙術を練りはじめた。
眠れる美女に、あらたな追憶の甘みを与えるために──。
その一挙一動が、漢帝国の礎そのものであった。
──史書に云う。
則天武后、西太后とならぶ中国三大悪女の一人は、高祖劉邦の妻・呂后であると。
だが、この女性には、則天武后のような男妾飼いの逸話もなければ、
西太后のような国力を衰退させるほどの贅沢と亡国政策の罪もない。
そして、彼女をどれほど悪し様に記した史書でも、
彼女──呂后が夫・劉邦その人のことを憎んだという記述は見受けられない。
読み取れるのは、英雄の死後、現実的な政策を取り続けて漢帝国を安定させ、
夫の寵を奪った女に激しい嫉妬を燃やした、情が深く濃い、一人の女性がいたことである。