<逃亡>
「危ないですね。」
何気ないような香織の言葉に私は驚いて歩みを止めた。
その途端。
「止まっちゃ駄目です。」
短い叱咤の声と共に肩を小突かれる。肩に鋭い痛みが走る。
思わず横を見ると香織は町娘風に綺麗に結わえあげた髪を揺らしながら端整な顔をまっすぐと前に向けて歩いている。
強い日差しにも拘らず山道はうっそうと茂った木によって薄暗い。
茶色い山道は大人にはなだらかな山道なのかも知れないが、歩き疲れた今の私には壁のように感じられる。
「な・・なに?」
心なしか動きを上げた香織に遅れないようにと縺れそうになる脚を必死で動かしながら不安げな顔を香織へと向けると、
香織は顔を動かさないまま緊張しきった目だけをこちらに向けてきた。
「後をつけられているようです。小汚い浪人のようですね。」
「ま、まさか。」
「しっ」
思わず大きな声を出した私に厳しい一瞥を呉れると香織は歩みに似合わない、
まるでいつもの手遊びの時のような、ゆっくりとした話し方をした。
「良いですか?長七郎様。長くお話しする時間はありません。
私の合図と共に、左手の藪に走って下さい。そして私が声を掛けるまで息を潜めて決して動かないで下さい。」
「いやだ。香織と一緒にいる。」
頭を振った私に香織はなんだか場所にそぐわない、いつも通りの笑顔を見せた。
「心配する事はありません。唯の物取りであれば身分を明かし、お金を渡せば良いのです。
残念ながら相手の人数、意図が判らない以上、長七郎様には安全な所にいて頂きたい。香織が考えているのはそれだけです。」
「でも、でもあの、怖い奴らだったら?」
「走って下さい。」
香織は変わらぬ笑顔で続ける。
「隣町まで3里程です。藪を抜け、お日様の方向に一生懸命走るのです。」
「でも。」
「着いたら何処の旅籠でも構いません。走り込んで身分と名前をお告げ下さい。香織はすぐに追いつきますから。」
「おい。そこの女子供。」
思わぬほど近くから掛けられた太い声に全身の毛が総毛立つ。
香織と同時にくるりと振り向くとそこには2人組みの浪人と思わしき男が2人、のっそりと立っている。
「走ってください!」
そう言うと香織は私の頭を優しく撫で、そして私の肩を押した。
----そして。
私は香織の声に押されるように藪の中へと走った。
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香織は、私の養育係である。
国内の名門、古田家の長女として産まれたそうだが数えで8歳の時に国主である私の父に跡継ぎ、つまり私が生まれて、
その遊び相手及び養育係として城内へと入ったらしい。
今、私が12なのだから香織は20と云う事になる。
勿論これは聞いた話で、私には古田というといつも怒っているような顔のいかめしい爺の印象しかなく、
どうも香織があの爺の長女などと言われてもしっくりとは来ない。
私にとっての香織の印象とは、子供の頃から剣に学問にと実に口煩く、
その割りに泣き虫で稽古事の無い時は手を繋いで庭を散歩するのが好きな年上の養育係という印象である。
ただ、周りにいる家来や端女と、香織とは違った。
それは名門・古田家の長女としての香織というよりも、香織そのものの在り方にあったように思う。
香織は決して私に遠慮をする事が無かった。
私が悪戯をすれば毅然とした態度で叱り、稽古をさぼって遊んでいれば怖い顔で必ず私を探し出して稽古場へと連れて行った。
刀や火を使った悪戯をした時には尻に火が付く位叩かれた事もある。
かといって厳しいばかりではなかった。
叱られてしょんぼりとしていると必ず夜にこっそりと遊びに来てくれ、
殆ど城の外に出るこのの無い私に珍しい城の外の話が書いてある本を読んでくれたりするのも常であった。
そういうときの香織はとても優しい声で私が寝るまで添い寝をしてくれて、
それは怒られてささくれ立った様な私の気分をとても安心したものにしてくれ、怒られた事も素直に反省する事ができた。
唯一つ不満があったとすれば、それに関しては香織が朝になると必ずいなくなってしまっている事だった。
温かい朝に香織の匂いのする寝具で起きられて、いつも途中で寝てしまう話の最後まで聞けたら良いと思ったからだ。
しかしそれに関しては香織も朝まで寝ていけば良いのにと言った所、
「女は殿方に寝顔を見せる物ではないのです。いつか長七郎様が私の寝顔をごらんになる事があれば良いな、と香織は思いますが。」
まだまだ早いですし、屹度その頃には私以外の寝顔をごらんになるのではと、
珍しくあまり見せない悪戯っぽい笑顔で謎掛けの様な言葉をかけられて結局は断られてしまったのだが。
そんな正常な日常が不安定に変わったのは昨年の事だった。
国主である父が死んだのだ。
元より国元にいる事が少なかった父の死は、私の心情的にはなんら変化を及ぼすものではなかった。
私にはそれが私が国主になると云う事と同義であるという事と直接的に結び付いていなかったのだ。
しかし周囲にとってはそうではなかったようだ。
一度も会った事の無い親戚や後継人候補とやらが何度も私の元を訪れ、
毎日は俄かにざわめかしくなり、同時に色彩を失っていくように感じられた。
その内に、どこからか後継人と云うものが決まり私は今の部屋からやたらと広い部屋に移された。
その途端、私に面会する人間はまるで何かが壊れたかのようにぱたりといなくなった。
香織や爺も遠ざけられた。
私には判らない。
こちらの部屋に行けと言われればそちらへ行き、何かを書けといわれれば意味など判らずそれを書いただけだ。
全てが私に知らされず、全てが蚊帳の外で進んでいったのだ。
あまりにも無力だった。と云う言葉も適当では無いように思う。
私は何も知らないのだから。
香織や、爺はずいぶんと骨を折ってくれたようだ。
一月前、爺は私の前に出てさめざめと泣いた。
そして、香織に連れられて、町人に扮した格好をさせられて私は城を出たのだ。
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藪の中で膝を抱えて丸くなった私を、浪人達は追っては来ないようだった。
かさり、かさりと虫の音だけが聞こえてくる静寂の中、私は藪の枝が自分の肌を刺さない様に気をつけながらじっと丸まった。
香織の事が胸に残ったが、顔を出して私が見つかってはいけないとじっと蹲った。
香織は養育係であって、私の護衛でもあるが、一通り以上の武術は使えない筈だった。
城で習った武術がどれ程のものか試した事の無い私には判らないが、
香織があのような浪人2人を相手に無事に切り抜けられるとは思えなかった。
物取りなら金を渡せばよい。という言葉には物取りならという意味がある。
もし、城からの追っ手であったら、金を渡して済むという物ではないのだろう。
城を出て数日、私に直接は言わなかったが、香織はそれを一番恐れていたように思う。
そうであった時、私は香織を後に残して走れるのだろうか。
そうやって蹲って、どの位たっただろうか。
私には悠久にも思える時間だったけれども、案外と直ぐだったのかもしれない。
もういい加減に首を上げようか逃げようかと思ったその時、激しい金属音が響いた。
ばたばたと怒号が響き、走り回る音、罵る声が聞こえた。
思わず首を持ち上げようとして案外と音が近い事に気がついて慌てて引っ込めた。
そして。
「長七郎様っ!長七郎様っっ!!」
と何時に無い切迫した香織の声を聞いて私は立ち上がった。
藪の中を香織の声に向かって走る。
ぬかるみに幾度か脚を取られながら、香織の名を呼びながら藪を掻き分けて行くと、
香織も気がついたのか声がこちらに向かってきた。
そして私は香織にふわりと抱きとめられた。
添い寝の時のような、庭を散歩していた時の悪戯のような抱き止められ方ではない。
私より細身に見える香織のどこに、と思われるような力で私は抱きしめられた。
私はその時、泣いていた様に思う。
情けないとは思うが、香織に抱きとめられた時、
香織が無事だった事に私は足腰が立たないほどの安心感を得たのだ。
首を回すと、山道で2人の男が激しく刀を打ち合っている姿が見えた。
一人は既に藪にもたれかかるようにぐったりと座っており、血塗れの手から刀が毀れている
香織は私を抱きとめながら私の着物の泥をゆっくりと払うように撫でている。
「に、逃げなくて」
まだガチガチと歯の根が合わないような言葉しか出てこない。
「大丈夫です。どこの者か判りませんが、かなりの遣い手のようですね。私達を害する気持ちもないようです。」
そんな私をゆっくりと落ち着かせるように香織は言った。
「香織は、大丈夫だったの?」
「香織は大丈夫です。何にも心配は要りません。」
そう言いながら香織はまたぎゅっと私を抱きしめた。
しかし何時に無く口調は硬く、恐怖にか強張っていた。
香織も怖かったのかもしれない、と思うと私は訳も無く不安になり、私も力を入れて香織にしがみ付いた。
藪の向こうで先程の浪人だろうか、断末魔の声が聞こえてきた後、山道はまた先程の静寂を取り戻した。
さわさわとした風の音と、それに合わせて暗い山道にちら、ちらと細かい光が当たる。
どれくらいそうしていただろうか。
藪ががさがさと音を立てたかと思うと、
「やあやあ、この道を女性と子供が2人旅とは尋常じゃない。」
と明るい声が聞こえた。
近くに川でもあるのだろうか。決して品のよいとはいえない動作で濡れた手を着物の袷部分で拭いながら
その男は近づいてきた。
人を斬った事などあるべくも無いが、悪戯で人に怪我をさせただけでどんよりと暗い気持ちになる私にとっては奇妙にも思えた。
その男が今まで斬り合っていたのが嘘のような笑顔を浮かべていたからだ。
香織は私を後ろ手に回すとその男に向かってさっと立ち上がった。
「大丈夫でしたか。」
精悍な顔をしたその男はそう云って、笑った。
「助けていただいた事は有難く思いますが、誰でしょうか?」
初めて聞くような尖った口調に驚いて香織を見る。
香織は警戒も露にじりじりと後ずさっていた。
男は気にするような素振りも見せず、笑顔を変えないまま少しおどけた素振りで
「申し遅れました。右田佐ノ輔と申します。」
と言った。
(続く)