少尉殿! 〜決意の入隊編〜
榊原操十八歳。
この日は十四歳の頃から通っている剣道場で師範の川内清三と対戦をしていた。
「てい!やあ!はあ!」
操は激しく竹刀を打ち込んで川内を攻める。
だが、川内は的確に操の動きを読んで己の竹刀で操の打ち込みを防ぐ。
「面!」
川内は操の隙を見て頭を打つ。
「もう一度・・・・もう一度お願いします!」
操は肩で息をしながら言った。もう五戦はしているからだ。
「よし、これで最後だぞ」
操の様子を見て川内はそう言った。
結局、操は負けた。しかも六戦全てだ。
「どうしたんだ?今日は」
操は道場の隣にある川内の家に招かれた。川内宅の居間で操に川内は尋ねた。
今回は突然操が道場に来て川内に手合わせを望んだ。練習の無い日ではあったが川内は快く受けた。
操は六戦全てを荒々しい打ち込みで攻めた。
それは相手の動きを読むとか技の流儀と言うものを無視していた。それはまるで何かを川内にぶつけるかの様だった。
それを感じた川内は操に聞いたのだ。
「それは・・・・・その・・・・・」
少し躊躇うように操は口を開いた。だが、それは川内の娘である美代子がお茶と小豆の羊羹を持って居間に来た事で閉じてしまった。
「まあ、少し落ち着こう」
川内は操に茶と羊羹を勧め操は礼を言うと羊羹を口にした。
「お前は本当は腕がいいんだ。俺は弟子の中では一番だと思っている」
川内は真剣な顔で言った。操は羊羹を口にするのを止めて聞き入る。
「だからな、もしもお前が男ならこの美代子を嫁にやって道場を継いで欲しいと思うぐらいさ」
途端に柔らかな顔で言う川内。隣にいる十六歳の美代子は笑って「榊原さんが男なら結婚してもいいわ」と冗談めいて言った。
だが、操は顔では笑っていたが心の中では複雑な心境を抱いていた。
(結婚・・・・・ここでもそれを聞くなんて)
川内宅から帰る道すがら操の脳裏にはつい最近の出来事が思い出されていた。
「そろそろ結婚を考えたらどうだ?」
操の父である榊原圭蔵から言われた言葉だ。
「もう、そろそろ剣道はやめて花嫁修業に専念しなさい」
この言葉が出たのはこの日の朝だ。圭蔵と母親の清子、それに長男の義孝に操が揃う朝食の席で圭蔵は言った。
「私はまだ結婚は考えていません」
操はきっぱりと言った。
「何を言うんだ。女として生まれたからには結婚は避けて通る事はできんのだぞ」
圭蔵はそう言うと操は途端に怒りを込み上げて言った。
「女だからって、女だからって結婚だけが人生じゃないです!」
この言葉に圭蔵も怒気を交えて言った。
「操。それならお前はどうするんだ?二十歳を越えたら何をするんだ?」
この言葉には操は言葉を失った。操は将来の事をあまり考えてはいなかったからだ。
それから操は自室に籠もって悩んだ末に川内の道場へ向かったのだ。だが、そこでも結婚と言う言葉を聞く事となった。
(私の人生には結婚しか残っていないのかしら・・・・・・それはなんだかつまらない・・・・・)
操の悩みは更に深くなろうとしていた。
「お帰りなさいお嬢様」
操が家に着くと下男の田原三郎が出迎えた。
操の家は室町時代から続く老舗の米問屋だ。明治になると榊原家は更に業績を伸ばして資産家と呼ばれる富を得ていた。操はそんな所の娘であった。
「あれ、だれかお客さん来たの?」
玄関には見慣れない革靴があった。それに気づいた操は田原に聞いた。
「ええ、ついさっき竹田様が」
初老の男は丁寧に答えた。操は「そう、竹田様が」と確認する様に答えた。
「田原、お風呂は沸いてるかしら?」
操は聞いた。
「はい。いい湯加減にしてあります」
それを聞くと操はこの家に長く仕えるこの下男の気遣いに感謝した。
操は風呂場でまず、汗を流すと共に悩みを流そうとするかの様に湯船から桶に汲んだ熱めの湯を何度も肩から全身に浴びせる。
それが足り無いと感じたのか頭から湯を何度も浴びる。
「ふう・・・・・」
浴び終わるとため息が出た。湯を浴びようと悩みは流せないからだ。
ふと操は己の身体を見た。
剣道で鍛えた細く白い肌の身体がある。
長い黒髪から湯の水玉が落ちて操の小振りな胸の中心にある桜色の乳首に当たる。
「あ・・・・・・」
水玉が当たる感触に思わず身悶えた。だが、すぐに頭を冷やそうと湯を全身に浴びせた。
操は湯船に浸かっていた。
何か考え事をしているらしく、ぼんやりと天井を眺めている。
「決めたわ!私、決めた!」
そう独り言を言った途端に勢いよく立ち上がり湯水を切る様に急いで風呂場から去り脱衣所で着替え始める。
同じ頃、客間では圭蔵が客人と会話していた。
その客人は鼻の下に髭を生やした初老の男で黒い陸軍将校の軍服を着ている。
この軍人、竹山為善は榊原家と縁があった。それは戊辰戦争の時に東征軍の一員として尾張に来た竹山は急病を患い一時は命も危うかった。そんな竹山を榊原家は懸命に看病したのだ。
これを恩に感じた竹山は陸軍省に勤務する様になると軍用米の買い付け先に榊原の店を選ぶ様に担当部署に働いた。これによって米問屋「榊原屋」は売り上げを伸ばしていた。
こうした関係で結ばれた榊原家と竹山。この日竹山は仕事で名古屋を訪れてその帰りに榊原家へ寄ったのだ。
「そう言えば、操お嬢さんはまだ剣道は続けているので?」
竹山は圭蔵に尋ねた。圭蔵は少し困った顔をして答えた。
「ええ、続けとりますよ。道場では男の弟子達を抜いて一番の腕だそうで」
「はっははは豪気なお嬢さんになりましたな」
笑う竹山に圭蔵は困った顔を崩さない。
「これが男ならいいですよ。ですが操は女です。もう十八なのだから結婚を考えて欲しい所ですよ」
愚痴をこぼす様に圭蔵は言うと察した竹山は「若い内はこんなもんじゃて」と言った。
そこへ声が障子の向こうから聞こえた。
「お父様。竹山様。少しよろしいでしょうか?」
操の声だった。これに圭蔵は少し怪訝な表情をしたが客間に入る事を許した。
入るなり操は竹山に向き正座した。まるで武士が上の者に意見するような雰囲気を竹山は感じた。
「竹山様。私は陸軍軍人を目指したいです!」
「操!何を言ってるんだ!」
圭蔵は怒り心頭に怒鳴る。
「お父様。私は本気です。そしてこれが私の決めた生き方です!」
凛として操は圭蔵に向き直りそう言う。
「認めんぞ!ワシは認めんぞ」
「認めなくても私の心は変わりません!」
二人はつかみ合いの喧嘩でもしそうに睨み合う。
「圭蔵殿。少し外して貰えるかの、お嬢さんと話をするけえ」
ここまで黙って見ていた竹山はぽつりと言うと。圭蔵は黙って客間から去る。
「本気なんか?」
二人きりになると竹山は操に質した。操はすぐに返事を返して「はい、本気です」とはっきり答えた。
「だがな、軍隊は厳しい男の社会じゃ。生半可な気持ちではお前だけじゃない周りが迷惑するぞ。それに軍人はいざとなればお国の為にその身を弾が飛び交う戦場へ飛び出さないといかん。臆することは許されんのだ」
竹山の言葉を操は真剣に聞いている。
「それでも軍人を目指すのか?それが女としての生き方を捨てる事になっても。その覚悟はあるのだな?」
これに操は少し間を開けて「はい」と力を込めるように答えた。
「そうか・・・・・・」
竹山はそう呟いてから五分ぐらい竹山は操を見ていた。そこには姿勢を崩さず竹山を真っ直ぐに見つめる少女がいる。その瞳にはかつて郷里の長州で見た志高く純粋な若き藩士のものと同じに見えた。
「分かった。そこまでの決意があるなら、何とかしよう」
「ありがとうございます!」
操は泣きそうな顔で感謝した。
満足した操が客間から去ると竹山は圭蔵と事の結末を話した。
「認めた・・・・のですか」
圭蔵は唖然とした。竹山が認めるとは考えられなかったからだ。
「ですが、陸軍は女の操が入れるのですか?入れたとしても無事やれるかどうか」
もはや操と口喧嘩した覇気は失せて心配する父親の姿になっていた。
「心配には及ばん、ワシに任せんさい。お嬢さんにはまず、士官学校を受験させる。受かれば後は所属する部隊の指揮官に話を通しておくよ」
竹山はそう言うが圭蔵の心配は拭えない。
「それにだ。お嬢さんがあの状態だといつかは放蕩してしまうかもしれんぞ。それならワシの目が届く陸軍に置いておけば大丈夫だと考えたのだ」
「まあ、確かにそうですな。もうここは竹山様に任せます」
圭蔵は諦めた様に言う。
「娘を・・・・操を頼みます」
圭蔵は土下座して竹山に頼んだ。
操は竹山の薦めで陸軍士官学校の試験を受験した。
陸軍士官学校の受験は尋常中学校卒業の学力が必要とされる。操はその点は問題無く、後は試験に合格できるかどうかだった。
「やったわ!合格したわ!」
見事に合格した。はしゃぐ操とは違い圭蔵や清子・義孝は複雑な顔をしていた。
士官学校の試験に合格すれば直ぐに士官学校のある市ヶ谷に行ける訳ではない。まずは出身地方の連隊(郷土連隊)に士官候補生として入隊して基礎訓練を受ける。それから連隊からの派遣と言う形で士官学校に入隊するのだ。
「ここに嫁いで軍人の我が子を送り出すとは思わなかったわ」
清子は操の黒く長い髪を掌に乗せて言った。
「お母様」
しみじみと語る母に操は何かを察した。
「しかも娘をですよ」
清子は普段は口数が少ない。それが今、操と二人きりになっているこの時に少しづつ感情を出すように語り出している。
「いくら結婚が嫌でもこれは無いと思ったわ操」
こう言いながら清子は操の髪を切り始めた。
「私の今からの生き方が普通じゃない事は承知の上です母様」
操は落ち着いた声で反論した。
「操。私は反対しているのでは無いのよ。むしろ羨ましいわ」
「羨ましい?」
「そう、貴方は自分に正直に生きて誰かに阻まれてもそれを乗り越えようとしている・・・・」
清子は何かを思い出しているように話している。
「私には出来ないわ。今も十八の時も・・・・・」
「お母様・・・・・」
操は清子の過去はあまり知らない。と言うより清子がそれについてあまり語らないからだが、この言葉は過去の何かの出来事と今の操に重ねている様だった。
「出来たわ。これで貴方は陸軍軍人榊原操よ」
清子の手で髪は切られて操の髪型は刈り上げた様な短い形となった。それを鏡で見た操はこれから普通の女性とは違う生き方をする事を確認するのだった。
「行ってきます!」
入隊の日の朝。操はこう力強く言って家を出た。
見送る圭蔵は「頑張って立派に努めるんだぞ」と言い清子に孝義に田原は黙って操の姿を見ていた。
「行ってしまった」
孝義はぽつりと言う。
「ああ、行ったな。我が娘が軍人として、行ってしまった」
圭蔵はぼやく様に言った。
「大丈夫ですよ。お嬢様なら」
意気消沈気味の榊原親子の様子を見て田原は励ます様に言った。
「そう、田原の言う通り。操なら大丈夫だわ」
こうして操は本格的に軍人としての道を歩み始めたのだった。
操は士官候補生として名古屋の歩兵第六連隊に入隊した。
既に竹山が連隊長へ話をしていた。そして連隊長が操を担当する将校へ話をしていて
操が女である事を秘密に出来る様にしていた。
だが、竹山はこうも連隊長に言った。
「女でありますが、男と思うて指導して下さい」
それは操も望む所であった。あえて気遣いや手を抜かれると入った甲斐が無いと感じて
絶望するだろう。
こうして操は男として軍人としての日々が始まったのであった。
第六連隊での基礎訓練が終わり、操は念願の陸軍士官学校へ入校する事になった。
ここでも竹山が話を同じように通していて事無きを得て三年間を市ヶ谷で過ごす事と
なる。
だが、その市ヶ谷時代で操は事件に出会う。
休日に東京を一人で散策していた操の目の前で一人の同期生が馬車鉄道に轢かれた
のだ。
その同期生は馬車鉄道の前に飛び出した少女を助けようとして走り、突き飛ばす形で
馬車鉄道の路線上から少女を助け出した。しかし、その同期生は馬車鉄道の馬に踏ま
れて重傷を負った。
直ぐに操は同期生を通りかかった青年と共に病院へ運んだ。しかし、同期生は亡くなっ
てしまった。
「同期生をここまで運んでくれたのは貴方か?」
病院の待合室で操は声をかけられた。そこには二人の同期生がいた。一人は面長で
柔らかな顔つきをしていて、もう一人は濃い眉に大きな目をしている。話しかけたのは
面長の方だ。
「ええ、貴方は?」
「同じ連隊で士官候補生だった私は村田。こっちは槇田です」
「そうでしたか。今回は惜しい人が亡くなってしまいました」
こう操が言うと村田と槇田は顔をうつむいて「本当にそうです」「本当に残念だ」と悔やむ
様に言った。
「最後に何か言い残してはいないか?」
槇田は操に尋ねた。
「助けた少女がどうなったか聞いて来ました。大丈夫だと答えると、そうか良かったと言い
ました。それが最後の言葉でした」
操がこう言うと槇田は涙を浮かべながら「あいつらしいな」と震える声で言った。
これが操が市ヶ谷時代で経験した悲しい出来事になったが、また槇田と村田に出会うと
は操は知る由もなかった。
操は士官学校を卒業した。
卒業すると士官候補生でいた連隊へ戻る訳だが、操には転属命令が出た。
「静岡歩兵第三十四連隊に配属を命ずる」
この命令で操は静岡に向かう事となった。
「あっ、あの時の」
「おお、奇遇だ」
静岡に向かう東海道本線の列車の中で操は槇田と村田に出会った。
「原隊は何処だ?」
槇田が聞いた。
「名古屋の第六連隊なのですが、命令で静岡の第三十四連隊に転属になりました」
「これこそ奇遇だ。俺達は原隊が第三十四連隊なんだ」
槇田が驚く様に言った。
「多分。木村(東京で馬車鉄道に轢かれた同期生)が亡くなったから一人欠員が出来
たからですかね」
村田がそう言うと少し空気が重くなった。
「まー、ここ取りあえず。原隊へ新たに迎える事を喜ぼうじゃないか」
重い空気を振り払おうと槇田は笑みを浮かべて操と村田に交互に向かいながら言った。
「そうだな。そういえば、貴方の名前は?」
村田が操に聞いた。東京では聞きそびれていたからだ。
「榊原操だ」
「そうか、よろしくな」
「よろしく」
「こちらこそ、よろしく」
三人の新米軍人を乗せた列車は東海道を西に向かっていた。
操と槇田・村田が連隊に着任したその日の夜にはそれぞれの直属の上官である中隊長
三人に連れられて着任祝いの祝宴の為に料亭に来ていた。
槇田と村田は気心の知れた三人を前に和気藹々と市ヶ谷での事を話す。だが、操は初
対面の三人に緊張してほとんど無言でいた。
「緊張するな榊原。これから一蓮托生の仲になるんだ」
操の直属の上官である大須賀雅宜中尉が柔らかな顔で徳利から酒を操の杯に注ぐ。
「はっはい」
「だから固くなるなよ」
大須賀は操の肩を優しく叩く。
宴は終わった。
全員が酔い潰れ畳の上で寝ていたのだ。
その中で一人が目覚めた。「う〜ん」と唸りながら身体を起こしたのは大須賀だ。
大須賀は周りを見る。皆が寝息を立てて寝ている。中には軍服の上着のボタンを
外していたり、脱いでいたりしている。
「!?」
そんな姿の同期や部下を見ていた大須賀が驚くものがそこにあった。操だ。
(俺は相当酔っているのか?そうで無いとしたらこんな事が本当に・・・・・)
戸惑う大須賀の目に映るのは軍服の上着を脱いで更にシャツのボタンを外して
肌を晒す操の姿があった。そこには小振りながら女性の乳房があった。
(幻ではないな)
大須賀は頬をつねったり、両手で叩いてしっかりと目を覚まさせた。だが、操に乳房
がある事は事実だと認識する。
(取りあえず、シャツを戻してやらんと)
大須賀は操に近づく。近づくにつれて大須賀の心臓の鼓動が大きくなる。
女性との経験はあるが、状況が状況だけに大須賀の心は落ち着きが無くなろうとして
いた。
(戻すだけだ。乱れたシャツをな)
大須賀は自分に言い聞かせながら操のシャツに手をかける。だが、そこで手は止まる。
何故なら操の瞼が開いて大須賀と目が合ったからだ。
二人はそのまま時間が止まった様に固まっていた。
「すまん」
大須賀は操の目を見て呟くように言った。
しかし、驚きが大きいのは操の方だった。胸を見られた事で自分が女だと言う
事がばれたのだから。
「・・・・・・・・」
前を直しながらうつむく操。大須賀はばつの悪そうな顔をして操に背を向ける。
「榊原少尉」
「はい」
大須賀と操の声は小さく低い。
「貴様はその・・・・」
大須賀は向き直って話そうとしたが二の句が継げない。続く言葉を懸命に探っている。
「中尉殿。私は女です」
操ははっきりと言った。
「そうだったのか」
大須賀はそう言ったが納得していない。陸軍将校に女性がいるのは聞いた事が無い。
「聞かせてくれないか、何故陸軍に入隊したのかを」
大須賀は全てを理解する為にこう操に求めた。操は「はい」と答える。
「ここでは何だから」
こう大須賀は言って操を部屋から連れ出す。
料亭の一階にある庭に面した廊下で夜風に当たりながら操は話し始めた。陸軍に入っ
た動機にこれまでの事を。
「成る程、そう言う訳か」
大須賀はそう言ったものの理解はしたが納得はしていない。
「だが、覚悟はちゃんとあるのか?言葉だけでは納得し難いな」
その言葉に操は顔をしかめる。
「では私の覚悟。明日からの日々の態度で見せてみます」
操は大須賀を真っ直ぐ見つめて宣言する。
「では、見せて貰うぞ。お前の働きを」
大須賀も操を真っ直ぐ見つめて言った。
翌日。大須賀は大隊長に呼ばれた。
大隊長は神妙な顔で大須賀に言った。
「良く聞け。昨日着任した榊原少尉は女だ」
大須賀は既に知っていたが驚いた様に振る舞う。後は榊原少尉は上層部のある人物
(竹山為善の事)との知り合いでもあるが何も特別に扱う必要は無い。と大隊長は言った。
「後は本人次第だな」
大須賀は大隊長と話を終えるとそう思った。操の周囲は一部だが操が女だと知っている。
環境は整っているのだから後は操次第だと大須賀は考えたのだ。
操の軍人としての生活が本格的に始まった。
操は第二中隊第三小隊の隊長となり六〇名の兵士が初めての部下となった。
小隊の先任軍曹の野瀬泰三が新米少尉の操の世話役となった。兵卒からここまで
昇進した叩き上げの兵隊が軍隊と言う社会一を番よく知る人物であるから士官学校
を出たばかりの新米少尉の面倒を見る事となっている。
「よろしく。軍曹」
操は初対面の強面の軍曹に挨拶をした。その顔は何処か引きつっていた。
「はっ、少尉」
野瀬は姿勢を正して形の良い敬礼で操に応えた。
「少尉殿」
敬礼を終えた野瀬は操に話しかける。
「もう少し力強くやりましょう。私の顔がヤクザみたいでおっかなくても表情は変えない
様にしませんと兵に見下されますよ」
野瀬は低い声ながらも優しく言った。
「分かった。気をつける」
操がそう言うと野瀬は今度は操に近づいてこっそりと言った。
「私は知っています。少尉殿が女性である事を。何か不都合があれば私に言って下さい。
それに少尉に手を出すような不埒な兵がいれば私が守ります」
野瀬の懸命の言葉に下男の田原を思い出す。仕事とはいえ、田原は懸命に操が子供の
頃から世話をしてくれた。その姿が操の脳裏に一瞬よぎった。
「ありがとう軍曹。その時は世話になるよ」
操が少し笑みを浮かべて言うと野瀬は照れた顔になり、「小隊の兵舎に案内します」と言い
ながら操に背中を向けて歩き出した。