南都の一角、興福寺からさほど遠くないところにある  
筒井家の館では、主の順昭がすでに長く病の床にあった。  
元々体が丈夫でなかったのだが、前年に待望の男子が生まれてから  
一段と衰弱し、本人も生を繋ぐことを諦めかけているようだ。  
「御加減は如何様にございましょう」  
夕方近くなり、日もかなり傾いてきた頃になって  
筒井の本城から森好之が見舞いにやってきた。  
この日は順昭の具合がいいということなので  
普段は閉められている障子のいくつかが開けられている。  
 
昼頃に降った雨のせいで蒸し暑いが今は晴れ上がり  
西日が徐々に部屋の中に差し込むようになってきていた。  
世話役の女は下がらせているので今は順昭と好之の二人だけだ。  
「今日は、まだ楽だ。胸の痛みもない」  
誰かの手を借りることなく起き上がれるというのは  
好之も久しぶりに目にする。  
言葉どおり、確かに具合はよさそうだ。  
 
「好之、藤勝はどうしておる」  
「は、日々健やかであらせられます」  
病床にあって最大の心配事は、前年に生まれた我が子のことだった。  
大和はまだ一つにまとまらず、他国から細川や三好らが虎視眈々と狙う中で  
乳離れもしていない赤子を当主として頂かねばならないとあっては不安は募る一方だろう。  
「やはり、ご不安でしょうか」  
好之が尋ねると順昭は苦笑した。  
「それはな、仮にも我が腹を痛めた子ぞ」  
他人に聞かれたら一大事なことを言い放つ順昭、  
さらに"彼女"は、意地悪そうな口調で続ける。  
「そなたとて、己の子に無関心でおれるわけもなかろう」  
 
好之にとって四つ年下の主は幼い頃からよく知った相手だ。  
女の身ながら誰にもまして負けず嫌いで、  
病気がちなのに気性はこれでもかというほど激しい。  
そんな彼女は、妹のような存在だった。  
「好之、子を作るぞ」  
十三歳で家督を継いでから三年、徐々に女らしくなる己を  
必死に隠そうと主が苦闘する姿を面白半分に眺めている時に、  
突然そう言われてさすがに面食らった。  
同時に、彼は初めて主を女として意識するようになった。  
 
興福寺の衆徒として、筒井家の主は僧形をとっている。  
順昭もまた例外ではないが、さすがに髪を剃るのは抵抗があるらしく  
普段は頭巾を被って誤魔化していた。  
とはいえその頭巾に収まるように髪は短く切り揃えていたが。  
身体は、全体的に肉付きが無い。  
食は細いのになぜか背丈だけはあるので、痩せ具合が一層目につく。  
 
初めて一晩を共にした晩も、これが女の身体かと戸惑ったほどだ。  
胸は、ふくらみがほとんど無いばかりか肋が浮き出ている始末、  
腰まわりもやはり細く、これで子を産めるのかと危ぶみを覚えてしまった。  
「何をしている。私にだけ恥ずかしい思いをさせるつもりか」  
何も言わぬうちから全ての服を脱ぎさってしまっておきながら、  
好之がしばらく呆然とした風なのを見咎めて文句を言い出す。  
 
取り繕うように抱きしめると、頬を紅潮させる。  
その様はやはり年頃の女子のものだ、そう思っていると突然背に爪を立てられる。  
「今胸の無い女だと思っただろう、そうだろう」  
悲鳴をあげて抗議した好之に、拗ねたように言い放つ主。  
どうやら微笑ましいと思ううちに浮かんでいた表情を勘違いされたらしい。  
「た、確かに胸はございませんが、それがしは気にいたしませぬ」  
慌てて弁解をしたつもりだったが、それがますます主を怒らせたのは言うまでもない。  
 
彼女の妹と結婚してからも、好之と主の関係は続いた。  
「姉様相手なら、私は構わないわよ」  
妻は、夫が自分の姉と度々交わっているのを気にはしていなかった。  
彼女なりの姉への気配りだったのだろう。  
それでも二人がいる場所に滅多に姿をみせようとしなかったのは  
やはり心のうちに葛藤を抱えていた証だったのかも知れない。  
 
「もうすぐ、妹にお前を返してやれるかな」  
自嘲気味に彼女が言ったのは、ついに男子を得てしばらくのことだった。  
それまでの出産の際にも産後の経過は不安定だったが、  
四度目になる今回は状況は最悪だった。  
三ヶ月を経ても発熱が断続的に彼女を襲い、  
それでなくとも華奢なその身体はますます痩せ細っていく。  
弱音を吐くのも当然のことだろう。  
 
そんな言葉を好之をはじめ、筒井家中の者はただ黙って聞き流すのみだ。  
下手な励ましや慰めの言葉は彼女のもっとも嫌うものだからだ。  
だからといって同調するわけにもいかず、仕方なしの沈黙となる。  
「それにしても惜しかったな、天下は無理にせよ  
 大和くらいは我が物に出来ると思っていたのに」  
そういう口調は本当に悔しそうだった。  
身体は衰える一方なのに、勝気な気性はそのままだ。  
その落差が、好之にどうしようもない悲しさをもたらした。  
 
「しばらくは、藻玖を私としておいてくれ」  
順昭が一人の女性の名を挙げる。  
藻玖というのは、いわば彼女の影武者の女性だ。  
これまでも彼女の出産のたびに身代わり役となっている。  
「越智の連中は焦れるだろうな。  
 連中、私が死ぬのを今か今かと待ち続けているのだから」  
そう言いながら力無く、しかし愉快そうに笑う。  
全くの他人事のように言うその姿は、全てを達観しているようでもあった。  
 
「出来れば三年はと言いたいところだが、まあもって一年だろう。  
 人の生き死になどそうそういつまでも隠し通せるものではないからな」  
順昭の口調は、努めて感情を込めまいとしているのか素っ気無いものだ。  
「皆、藤勝を支えていくと誓ってくれる。  
 ありがたい限りだが、それを信じるより他途が無いのも情けないな」  
そう言うと彼女は好之を枕元のすぐ脇まで近づけた。  
 
「そなたに全てを委ねよう。  
 この筒井の家の行く末、好きなように持っていってくれ」  
そう言うと同時にわずかに顔を顰める。  
無理に我慢していたのか、好之は彼女を再び横にさせる。  
「休んだ方がよさそうだ。私の寝顔くらいいくらでも見せてやるが  
 寝ているからといって悪戯はするなよ」  
 
軽口を叩いて目を閉じる順昭、  
しばらくしてからその彼女に好之は軽く口付けして立ち上がった。  
そして踵を返して静かに部屋を出て行く。  
「馬鹿め」  
そう呟く彼女の声が聞こえたような気がした。  
その声は弱々しかったが、とても嬉しそうだった  
 
それから二日、順昭の容態が急変したという報せが筒井城に届いた。  
しかし好之は東の山中にある福須美に出向いていたために報に接するのが遅れ  
必死に馬を飛ばしたものの駆けつけた時には既に息を引き取った後のことだった。  
床に横たわる彼女の亡骸は頭巾が外され、  
生前ついぞ他人の目には触れさせなかった黒髪が露になっている。  
死に顔は穏やかで、まるで少年が眠っているようにすら見えた。  
 
「あなた、姉様から文を預かっております」  
散々泣いたのだろう、目を赤く腫らした妻から手紙を渡された。  
読み進めていくと、先日話したように筒井家の行く末を案じており、  
家中一丸となって我が子を支えてほしいというものだった。  
しかしその最後、署名と花押のさらに後ろに記された  
小さく乱れた文字を見ると、彼は苦笑してその文を懐にしまいこんだ。  
 
葬儀を終えてしばらくしたある日、好之は焚き火の前に佇んでいた。  
そして懐から件の文を取り出すと、程なく火の中にそれを投じた。  
「順昭様、あなたは罪なお方だ。亡くなってなお妻からわしを奪われるか」  
紙はあっという間に火に包まれて灰と化し、宙に舞っていく。  
口を真一文字に結び、難しい表情をする好之はやがて炎に背を向けた。  
そして歩を進めながらぽつりと呟いた。  
「愛している、か。」  
それは順昭の手紙の最後に記されていたものだった。  
 
 

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