一人の女が、眼前に広がる海を呆然と見つめていた。  
対岸まで十町もないその狭い海峡を越える手段を彼女は持たない。  
その狭い海峡には、敵の軍船が繰り出して彼女の逃げ道を完全に塞いでいた。  
見回してみても小船一艘とて無いのだから繰り出しようもないのだが。  
 
既に鎧兜は脱ぎ捨てて、今は黒に染めた鎧直垂を身につけるのみだ。  
重い武具は、こうして逃避行を続けるには邪魔者以外の何物でもない。  
神域とされるこの島は木々もそのままで、  
しばらく身を隠すだけならばはそう苦労はしない。  
だが敵は彼女の姿を求めてジワジワとその包囲の輪を狭めている。  
踵を返した彼女は再び林の中に分け入った。  
その時傍らを流れる小川の水を一掬い口にしたが、  
なんともないはずのその水が、無性に美味かった。  
 
 
「お屋形様、お屋形様!」  
夢を見ているのだろう、まだ元服前の幼さが残る顔立ちの男装の少女が  
よく見知った顔の青年に喜色満面といった様子で駆け寄っていた。  
「おぉ、五郎か。如何いたした」  
頭二つ分ほど背の高い青年は腰をかがめて少女と同じ目線になる。  
「はい、ようやく内藤様から一本取ることが出来ましたので、  
 何よりもまずお屋形様にお知らせしたくて参りました」  
「そうか、そなたのような者がおってくれるならわしは安心じゃ。  
 何かあった時もわしを守ってくれよ」  
青年の手がくしゃっと少女の髪を掻き回す。  
それがとても快かったことを思い出した。  
「もちろんでございます。五郎身命を賭してお屋形様をお守りいたします!」  
 
夜のようだ。しかし全くの闇ばかりではない。  
燭台に灯された明かりが、頼りなげに揺れながらも部屋を照らす。  
「五郎も、良い体になったの」  
はだけた夜着の上から男の手が乳房をまさぐる。  
その動きに切なげな声をあげる少女。  
いや、それは少女から女へと成長しようとしている身体つきだ。  
「お屋形様は、い、意地悪うございます」  
か細い声で抗議する。だが相手がそれに動じる様子はない。  
「お主にはこれから先大いに期待しておるのだ。昼夜ともにだぞ」  
敏感な箇所を突かれながら囁く男の声に、  
彼女は嬌声でもって応えていた。ひどく満足げな様子だった。  
 
初めてその男と会話を交わしたのは、男の居城の包囲を解くべく  
彼女が軍を率いて駆けつけた時のことだった。  
「いやはや、尾張守殿のご子息の噂はかねがね伺っておったが、  
 これ程とは……あ、いや失礼」  
四十を既に越え、そろそろ老いが見え始めているこの男は  
一見すると冴えない田舎の地侍程度にしか思えない。  
だがその見かけとは裏腹に安芸・備後を掻き回して急成長を遂げているのだ。  
「ご覧の通り、出雲勢に散々痛めつけられておりますが  
 今宵はとくとお寛ぎあられたい。」  
人懐こいその笑顔の裏に何を秘めているのかも知れない。  
騙されている、そう思いながらも彼女は男の表情につられて  
自らの表情が緩むのを感じていた。  
 
主の館からの帰り道、彼女の表情はどうしようもない程に青ざめていた。  
「外向きのことはそなたらに任せる」  
出雲攻めの失敗、その衝撃は確かに大きなものだったが  
彼女の主はそこから立ち直ろうとする努力を完全に放棄していた。  
「九州のことは興運に任せておけばよい。  
 山陰も、そなたと右馬頭殿がおれば不安なかろう」  
出陣を求める彼女の言はことごとく退けられた。  
それだけではない、頼りにしていると事ある毎に口にするが、  
主はもうかつてのように自分を重んじてくれていないことを  
彼女は文字通り肌身に感じていた。  
「お屋形様……」  
馬上で呟く声は、誰にも届いていなかった。  
 
彼女は自宅の褥の中で男とともに寝ていた。  
相手は主ではない、あの安芸の腹黒男の次男坊だ。  
「五郎殿も、悩みは他人に打ち明けたほうが良いですぞ」  
青年はあの男の息子とは思えないほどさっぱりとした性格の持ち主だった。  
兄の結婚を祝ってやって来ていたのを、酒の勢いに任せて誘い込んだのだ。  
真面目そうな彼はそれ程酔っていた風ではなかったが、  
彼女の様子にただならないものを感じたのか快く誘いを受け入れてくれた。  
 
その晩は久しぶりに乱れた。  
荒々しさの中に優しさを感じさせる青年の手管は、  
かつて主が彼女を抱いた時のそれによく似ていた。  
そのことを思い出すとつい背徳感に似た感情が芽生え、それが彼女の乱れを激しくした。  
それこそ青年が心配するほどだった。  
 
「案ずることはない。そなたがいてくれると、安心できるし悩みも飛び去る」  
穏やかな声音も久しぶりだ。このところ気が立って辺りに怒鳴ってばかりだった。  
「そなたと契った、証が欲しい」  
思わず漏らした一言に、青年は強引にその唇を奪う。  
呆然とする彼女に彼は諭すような口調で告げた。  
「これからは、姉上とお呼びします。私は弟となりましょう」  
「姉、上……」  
言葉を噛みしめるように呟いた彼女は、次の瞬間には久々の笑みを浮かべていた。  
「気に入った。そなたの姉になれるなら悔いはない」  
 
燃え上がり、そして崩れ落ちていく主の館を彼女は無表情に見つめていた。  
彼女と主の不仲は遂に最悪の結末を迎えてしまったのだ。  
「申し上げます!」  
駆け寄ってきた伝令が大声をあげる。  
「お屋形様、大寧寺にてご自害なされました」  
周囲にどよめきが走る。遂に行き着くところにまで行き着いてしまったのだ。  
だが、彼女は表情を変えることもなくそのまま炎を見つめ続ける。  
もはやその瞳は炎以外の何物も映してはいなかった。  
 
 
やはり眠っていたようだ、ふと気付くと彼女は木立の根元に座り込んでいた。  
既に西に落ちようとしている陽の色は、彼女にはあの時の炎そのもののように思えた。  
どうやら自分はここで果てることになるらしい、  
幼い頃の誓いを破った自分にはお似合いの末路だ。  
そう自嘲気味に思いながらも、なぜか気が楽になった気がした。  
 
以前義弟が使いを寄越してきて自分の行動を責めてきたことがあった。  
と言っても主殺しを非難するのではなく、  
なぜ自分に相談してくれなかったのかと怒っていたようだが。  
そんな彼も今は自分を追い詰める軍を率いているはずだ。  
そのことを恨むつもりは毛頭ない。  
ただ最後に彼女が気がかりだったのは、  
彼が自分の死を悲しんでくれるだろうかということだった。  
 

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