明けて元禄三年。春まだやかな雪降るなかを
帯を解き婀娜な美女が一人、いましも江戸城に上らんとする
重役の御行列に駆け寄る。見れば諸肌脱いだ一重の着物の端から
まろびでたるは遠州一と言われた玉姫伝の乳房。
そのこずえには南蛮渡来の苺果実を思わせる乳首が屹立し、
隠微に男心を誘えば、あら不思議や揉めば母乳吹き出る重量感に
居並ぶ警護役も、しばし誰何の声をしずめて、今か今かと搾乳の瞬間を待つ。
「ご同役。まだかな」
「うむ。赤子を産んだ乳とも思えぬがどうして」
と声を掛け合うは、誰あろう、播磨藩50石岡持ち警護役心の新井宗兵衛十衛門と
その友、新三郎小言。
じつは新三郎小言はゆえあって男装してるが、絶世の美女と言う設定だとすれば
どうだろうか?
「どうだろうか」と問われれば、
「どうもこうも」と応じるのが新三郎という男装の美女の心情か。
ペルリ来航の折、松下村塾で帯を紐といてたという実の兄に
犯されてからというものの、
「もう僕は男を信じない。剣のみに生きるんだ」と涼やかな瞳で
破瓜の苦痛をやり過ごした新三郎小言。
寝息を立てる兄の傍らで、ある夜、激情にかられて蹴倒した行灯が
明禄の大火となって大阪の町を焼き払って以来、火付兄殺しの罪で
故郷を追われ流れ着いた先が播磨藩江戸表家老安藤帯脇の警護役。
開国か。
攘夷か。
揺れ動く国論の中で、ひとり倒れゆく幕府を支えようと日夜奔走する安藤を
狙う浪士は多い。そこで。
守り刀に誰かいないか?と探したところ、小言がいた。
火付改め方長谷川平蔵配下の捕縛役人を、いかに己が命が惜しい
とはいえ妻子の見ている前で中州で5人、神栖で9人。
家族の泣き叫ぶ声を一顧だにせず、斬って捨てた腕と無情がむしろ心強い
というものか。
人づてに小言の剣さばきを聞いた安藤帯脇は、
「・・・使ってみるか」
と小言を召し使えた。
「あの火付の小娘を・・・」と吐き捨てる長谷川平蔵だったが、
今をときめく江戸表家老安藤帯脇の威光には逆らえない。
白州に額をこすりつけるように額づき何故か知らぬが余所藩の
屋敷家老の命を受ける平蔵の胸に、殺意が芽生えたのはこの頃だった・・・。
「搾乳はまだか?」
乳を語りて過去を知る。
まろびいでたる婀娜女の、天地を恥じぬ痴態に息を飲みつつ、小言の心は
何故か火付兄殺しの罪の大昔に遡るのだった。
(あの時、兄上が、私を、おかさなんだば・・・)
すべては仮定の話になる。
しかしあの日あの時、兄蒙昧頼山陽が、小言の未成熟な胸に高学歴者らしい
嗜好を示さねば、あるいは小言も、今頃は。
(兄上は勉学をしすぎて狂われた)
(私だって、このような無骨ななりをせずとも)
(今頃は娘らしい姿で)
そうれそうれそうれそうれ。
侍たちの陽気な掛け声の中、いつしか列は乱れる。胸を揉んでは男を誘う
みだらな言葉を吐く婀娜女に、ふと小言は嫉妬めいた心を小胸に抱いた。
(ふ。笑止な)
あの日、長谷川平蔵の魔手から逃れ、恩顧をこうむる帯脇に女を捨てて
剣で報恩しようと、日夜神仏に誓った自分が・・・。
(可笑しい)
と小言は思った。
可笑しい自分を小言は笑った。ふ、と小さく笑い、やがて大きく破顔した。
ははは、と大きく笑い、やがてその声は天地を引き裂く笑い声となって
弥生三月の雪の空に大きく響き渡るのであった。
その声の大きさに。
「狂したか、小言」
新井宗兵衛十衛門が諌める。
その目は、笑いつづける小言の美貌に眩しげだった・・・。
(つづく)