せめて、蝉の鳴き声だけでも止んでくれればいいんだ。
なにせ、このうだるような暑さに拍車をかけてる一番の原因がこれなんだから。
じーじー、きちきち、けたたましく鳴き喚く蝉たちの大合唱が
私の頭のなかを容赦なく埋め尽くしていく。
「あぁ もう…… うるさあ〜い!!」
びっしょり噴き出した汗で額に貼りついた前髪をはがす。
東京は記録的猛暑だというのに我が家はクーラーすら買えなくて
1Kという限られた間取りいっぱいに夏の熱気がたちこめている。
うつぶせになって午前中の間に射しこんだ
お日さまで暖められた畳に鼻を押付けてみた。
きっと、大家さんがこのアパートを始めた時から一度も張り替えていないんだろう。
それなのに、つくられたての頃のような新鮮ない草のにおいが蘇えっている。
ながい、ながい時間が経っても、生まれた頃のにおいがここに、そのまま。
ああ、なんかいいなぁ。そういうのって。
「あすー 本当になにもしなくていいのぉ?
することがあるならお姉ちゃんいくらでも手伝うんだよ?」
台所で私以上に暑い思いをして茹ったお鍋と向き合ってるあすに声をかけてみる。
似たような質問をさっきから何度繰り返したか覚えていない。
でも、台所からは同じ返事しかかえってこないだろうなっていうことはわかってる。
「だめだよ。 お姉ちゃんせっかくお休みなんだから
ゆっくりしててくれないと。」
……やっぱりか。いや、わかってても聞かずに
いられなかっただけだからいいんだけどね。
寝返りをうって今度は仰向けになった。
見慣れた天井の木目が今日は暑さで目が霞んでいるせいか
変なおばけみたいに見えてしまって、ちょっとだけ涼しくなった気がした。
今は夏休みで学校に行かなくっていいし
新聞屋さんも今日は休刊日だから配達に行く必要だってない。
つまり、今日私がしなきゃいけないことは
せいぜい夏休みの友くらいしかない。
確かにこんな日は年に数えるほどもないだろう貴重なものではあるけれど
それにしたって、あすに何から何まで任せっきりじゃかえって居心地悪いんだけどな……
あすは自分がまだ働ける年齢じゃないことを引け目に感じてるところがあると思う。
働く事なんかできなくても、あすは私に充分すぎるくらい協力してくれてるのに。
それに、私はあすに比べて家事なんかからっきしだし。
結局のところ、私とあすは同じくらいの力で互いを支えあってるんじゃないかな。
実を言うとあすの方がよっぽど偉いんじゃないかと思うことさえあるんだけど
そんなこと言ったってあすは絶対に認めようとしないだろうから
同じくらい、ってことにしとかないとね。
だからさぁ、お姉ちゃんも手伝わせてよ、と台所に向って言いたくなるけど
それはそれ。今日のところは絶対に聞き入れてくれないだろう。
あすは私が一日自由だと知ってとことん楽をさせてくれるつもりなんだ。
ここまでゆっくり出来るのなんて、前に同じような日があって以来だから……
そういえばこの間の時はどう過したんだっけ。
よく覚えてないけど、多分その時もあすは同じように張り切ってくれてた気がするな。
いま、お昼の十二時前。だけど白状すると私は一時間前に目を覚ましたばかり。
なんだかんだ言って、私も久しぶりにゆっくり出来ると思って気が緩んでたんだろう。
それにしたって、朝寝坊し過ぎだよね。
昨日の晩、明かりを消したのがいつもと同じ十時半だから…… えっと、何時間寝てたんだろ?
おかげあすの作ってくれる朝ごはんを食べ損ねちゃった。
そうそう、お布団をしまうのですら、飛んできたあすにやって貰ったんだよなぁ。
でもね、あす…… とってもうれしいんだけど
お姉ちゃんこれはこれでけっこう退屈だったりするんだよね。
そういえば私達の家って遊べるようなものなんてひとつもないんだなぁ。
テレビは一日一時間なら見てもいいことになってるけど
頑張ってるあすをほっといてわたしだけで、なんて罰が当たっちゃいそうだし。
あすとじゃれてたら一時間や二時間でもあっという間なんだけど。
「あ〜す〜」
情けない声を出してあすに話しかける。
今度はお手伝いの申し出じゃない。そうじゃなくって単にあすに構って欲しかっただけだ。
「お腹すいちゃった? そうか、朝食べてないんだもんね…… もうちょっとで出来そうだからね」
子供をあやすお母さんみたいな口調で返事がかえってきたけど
あすはすぐお鍋に向き合ってしまう。
今日“も”お昼はお素麺だ。いや、あすが作ってくれるものだから文句なんてないけど……
戸棚の中にはお素麺のパッケージがまだまだ沢山詰まってるし。
お歳暮の残りものだけど、って商店街のおじさん達から貰っちゃったから。
この夏の間にみんな食べちゃわないといけない。
そうはいっても一食ごとにちゃんとあすが工夫を凝らしてるし
色々なお店のお素麺だったりするから同じ種類のものでダブることもなくて
不思議と食べ飽きることがなく毎日の食卓に並べているんだけどね。
なにより、今月はそのおかげもあって大分食費が浮いたからちょっと余裕があったりするんだ。
う〜ん、その分だけじゃ足りないけどちょっとだけ貯金も切り崩しちゃってクーラー買っちゃおうかな……
それが無理ならせめて扇風機ぐらいは。 さすがにこれから毎日この気温に耐える自信ないし……
そんな事を考えると、なんだか余計に暑くなってきた気がした。
顔の前に手をかざして眩しいお日さまから目を庇う。
あ〜 もうよしっ! 買っちゃお! 私たちだってそれくらいの贅沢、許されるはずだよね。
そうと決まればチラシでも見ようかな。
確か昨日バイト先で貰ってきたチラシの中に電気店のも入ってたはず。
「あれ? あす〜? 昨日のチラシの山ってどこだっけ〜?」
「そこにない? ほら、窓際のすみっこのほう」
首だけ動かしてそっちを見ると、ああほんとだ、ある。
何もない部屋の片隅にぽつんとチラシの束が重ねてあるんだから
それが不自然に目立ってて探すまでもない。
いちいちあすに頼らずにまず自分で探しなよ、私。子供じゃないんだから。
よいしょ、と立ち上がろうとしてそれがひどく億劫になる。
あんまりごろごろしてたから、体が動くのを面倒くさがってるんだ。
私、商店街じゃあ一応働き者で通ってるんだけどな。
そんな輝かしい功績も過去の話ですか。
さすがにそれは冗談だけど、体が重いのはどうにもなりそうもないから
結局私は寝転がったまま窓際まで移動することにした。
仰向けの状態で、片膝を立てて、それを真っ直ぐ伸ばしながら踵で軽く畳を蹴る。
するとその分の反動で私の体全体が頭の向いてる方向にずいっと押し戻される。
それを両足ですりすり繰り返して、チラシの詰まれた窓際まで近付いていく、途中で──
(おっ……?)
以外にもこれが結構おもしろい。
小さな部屋だから目的の窓際にはすぐに辿り着いたけど……
(と、とりあえずチラシは後回しにしよう)
方向転換して、もう一度畳の上をちまちまと移動してみる。
これがやっぱりおもしろいから参っちゃう。
たぶん、後になって冷静に考えたらなにやってるんだろって思うだろうけど
退屈しきっていた私にはいまそんなことはどうでもいい。
やっと見つけた暇つぶしに、私はひとつ興じてみる事にした。
すりっ すりっ
膝の曲げ伸ばしを繰り返して畳の上を滑っていく。
繰り返し言うけど、自虐的に聞こえるだろうけど、
狭くて小さな部屋だから四、五回も繰り返せば頭が部屋の角にこつんと当たる。
そしたら方向を変えてまた同じ動きを続ける。寝転んだままで、部屋の中を何周も、何周も。
なんだか、暗い海の底で深海魚がする変わった泳ぎ方みたいに。
今年は行けなかった海への無念もたっぷり籠めながら。
い草のにおいが強くてもうひとつ海の代わりと思い込めない中途半端な畳の海を
すりすり泳ぎ回ってるうちに、楽しすぎてとうとう薄ら笑いまで浮かんできた。
もし知らない人が見ていたら変な人だと思われちゃいそう。
知り合いだったとしても、頭がおかしくなったと思われる。
それでも、困ったことにいまはこの下らない動きが楽しくってしかたない。
それなのに、なにが面白いかと聞かれても私は答えられない。
たぶん、明日になったら本当になにが楽しくてやってたのか分かんなくなってると思う。
すりっ すりっ すりっ
いつの間にか夢中になってスピード上げてるよ、私。
Tシャツ越しに軽く伝わる畳の摩擦がくすぐったくて……
だめだ。おもしろすぎる。本当にどうしちゃったんだろ私ってば。
あんまり暑いものだからあすのお素麺より先に脳みそが茹で上がっちゃった……?
「なにしてるのっ お姉ちゃんつ」
常に開け放しにしてある障子戸の入り口にあすが心配そうに立っていた。
心配してるよりどっちかっていうと、変な人を見る目かもしれない。
あれだけすりすり音をたてれば様子を見に来て当然か。
なんか自分を見失いそうになっていた気がするなぁ……
あやうく深海の生き物の仲間入りしそうだったところを
あすの声が引き上げてくれたみたいだ。
「え…… あ、あははは…… 見てた?」
なぜかあすの方が申し訳なさそうに、一度こくんとうなずいた。
あんな幼稚なことで心底楽しんでるところを見られちゃったのか。
絶対おかしいと思われたよね……
だらしなくにやけていた口元を、今度はごまかしの照れ笑いに変える。
どのみちしまりがないのには変わりないんだけど……
「もうっ へんな遊びしないでね。
そんなことしてると畳も服も、どっちも擦り切れちゃうんだから」
「あははは…… ごめんなさ〜い。」
料理の続きに戻ったあすの横顔にほんのちょっと影がさしてる気がした。
ま、まあこれだけお日さまが照ってればね、影のひとつやふたつ出来るもんだよね。
ははは…… ふぅ…… 馬鹿なお姉ちゃんでごめん。
あすが嫌がってる手前、もう畳背泳ぎ(と命名。いま)はするわけにいかない。
そう思ってまたひたすらじっとしてようと思うんだけど
どうにもうずうずして、続きをやってみたくて仕方ない。
だめだだめだ……
そうだ、見られてると思ったら出来ないだろうから、あすの目の届くところまでいこう。
私は上半身だけお座敷から玄関兼台所の板張りにはみ出させた。
畳と違って肌にひんやりと伝わってくる冷たさが気持いい。
目の届くところ、といったけど背中を向けたあすはこっちに気付いてすらいなかった。
きっと、最高の状態で私に食べさせてくれるつもりなんだろう。
お素麺の茹で加減を見極めるのに必死になっていて
これじゃあ私があすを観察しているといったほうが正しいかも。
せっかくだからと頬杖をついて、あすの背中をうっとり眺めてみる。
少し動いただけでもその小さな肩幅では引っ掛かりが悪いエプロンの肩紐が滑り落ちてしまい
そのたびあすは手を止めて直さなくてはいけないようだった。見ている限りでもあまりに不便そう。
やっぱりあすにはちょっと大き過ぎたんだよ。
ふたつ買えばいいじゃない、って私は言ったんだけど
あすはエプロン一枚でも節約しなきゃだめって言い張って
結局私と共同で使える大人サイズのを選んでしまった。
すぐ大きくなってぴったりになる、なんて言ってたけど
結局私は料理なんて滅多にしなかったし、あすに代りにやってって頼まれたら
もちろん張り切っちゃうつもりだけど…… 私はまともに食べれるものが作れないから。
こんなことならやっぱり最初から子供用のを買っておいたほうがよかったんだ。
まあ、ご飯時になってあのエプロンを身につけるあすは
なんだか幸せそうではあるし、良かった事だってある。
ちっちゃい体に不釣合いなエプロンを纏って
一生懸命お料理してるあすを見てるとなんとも心が癒されるんだ。
似合ってないはずのに、可愛い。
ううん。似合ってないから可愛いっていうほうが伝わりやすいかな。
とにかく、あすの小ささが際だってほっぺがだらしなくゆるんでいきそうな、そんな気分にさせる。
男の人なんか、こんなの見せられたら堪んないんじゃないだろうか。
私がもっと小さい頃にはそういう女の子を見た時
“萌え”っていう表現を使うのが流行したらしい。
まあ、あすは誰にも渡さないけどねー。なんて。あす萌え〜。
それとほら。今あすが穿いてるあのスカートだって私のお下がりだけど
私が使ってたときよりずっと女の子っぽく見えるもん。
スカート……
今はあすの物になったスカートが
動くたびひらひらはためいている。ちょっといたずらがしたくなってきた。
あすはまだ私に気付いてない。
このまま気が付かれないままであすに近付くためには……
畳だと傷がつくから駄目って言われたけど、ここは畳じゃないもんね。
ゆっくりゆっくり、うっかり物音なんかたてないように
さっきと同じ要領で仰向けのままあすに、あすの翻るスカートの下へと進んでいく。
あすに近付くたびに、心臓の鼓動は早まっているみたいだった。
なんか、今の私危ないおじさんみたいだ。と思ったけどいやいや、
これは日常のとるにたらない軽い悪戯なんだ、スキンシップなんだと自分に言い聞かせた。
言い聞かせたっていうか、本当にそうだもん。
この間学校で同級生の女の子にセクハラした体育の先生も似たような言い訳してたけど。
しかもその先生教員免許剥奪されたけども。
お日さまのかんかん照りは例外なく台所にも射し込んでいて
それを為すすべなく受け止めていた私の顔は、やがて小さな日陰にたどり着いた。
その日陰はあすのスカートが床におとした影なわけで。
見上げれば、そこにはお日さまに勝るとも劣らない輝かしい光景がひろがっている。
眩いばかりのあすの縞のパンツは、神々しく私を迎えてくれた。
……う〜ん。表現が大袈裟過ぎるかな。
私があすを想うとき、私の心の中は
可愛い、優しい、大好き。この三つの単純な感情で埋め尽くされる。
私は、輝かしい光景、なんて見たことがないし
神々しさがどんなものなのか、辞書を引いてもしっくりこないだろう。
私は、私の知ってる言葉であすを表現することしか出来ない。
ううん。どんな言葉で現しても、ふさわしいと呼べるたとえはないかもしれない。
さっきいった三つの感情だってそれに近い、という具合でしかない。
実際私があすに対して抱いてるのは…… そうだな。
その三つが合体して、もうこれ以上ないってくらい幸せな感情ってとこかな。
いまのは大分近い表現が出来たと思うけど……
まあ、無理に言い表そうとしなくてもね、
私の心の中には“山田あす”っていう感情が特別に用意されていて
計り知れない幸せを私にもたらすそれは
生涯消えることなく宿り続けていくことでしょう。
なんだか思いっきり話を脱線させたうえに
すごい大層なこと言っちゃって恐縮だけど
ようするに、無理にあすを飾り立てるような表現は
かえってふさわしくない、ってことが言いたかったんだよね。
実際私はパンツはパンツだなぁ、くらいにしか思わなかった。
だって、お洗濯のときに見覚えのあるやつだったし。
そもそも女の子同士だし。姉妹なわけだし。
それでも、やっぱりあすが穿いてる時だとどこか違って見える気がする。
いやらしい感じは全然しない。なんか、やっぱり可愛いってかんじかな。
あすって結構お尻ぷりぷりしてるんだなー、とか。
それが仔犬とか、動物の赤ちゃんを連想させるもんだから
私の顔もまたにやけてきちゃって。
そのまま十秒くらい眺めてたろうか。
ようやくあすが私の視線を感じ取ったみたい。
だけど最初はその視線が注がれてる先を勘違いしたみたいであすはまず真後ろを振り返った。
そこに私の姿がないのを確認して、気のせいかなというようにお料理に戻ろうとして……
自分の真下に潜りこんでにやけてパンツを観察している姉に気が付いた。
ようやく気付いてくれたみたいだから、私は軽く手を振ってみる。
はろ〜 山田きょうで〜す。
「……きっ」
私の大好きなくりっとした瞳がますます大きく見開かれる。
しゃっくりの時みたいに、ひゅぅと変な具合にあすの咽喉が鳴った。
「きゃあああああ!!」
文字通り、あすは飛び上がって驚いたけど
器用にも体を半回転分ひねって寝そべる私に向き直りながら
元の踏み台の上に両足を着地させていた。
おっ、運動神経の良さは私と一緒だねえなんて事を考える時間を
私にたっぷり与えた後で、あすは流しに手をぶつけながらようやくお尻を押さえた。
でもさ、あす。さっきこっち向いちゃったんだから今更お尻隠したって意味ないと思う……
前からも見れたらいいんだけど、生憎ぶかぶかエプロンがこんなところでも仇になって
残念なことに覗き込むことが出来なかった。
「な…… なななな……」
あんまりびっくりし過ぎて何を言っていいんだか分かんないんだと思う。
それか、言いたいことが多すぎて何から言っていいか分かんないってことも。
とにかく、あすの唇はわなわな震えるばかりで、ななな以外の言葉を紡ぎ出せずにいるみたい。
「な、なにやってるのっ お姉ちゃん!!」
あすはようやくそう叫んだ。
しかもなかなか出てこなかった分、アパート全体に響くような大声で。
一枚隔てた薄い壁の向こうからどさどさっとけっこうな物音がたて続けに聞こえてきた。
お隣のお姉さん、びっくりしてベットから転げ落ちでもしちゃったのかも。
前みたいに出し忘れちゃったゴミの山があすの声が起こした振動で崩れたのかもしれないし。
どっちか分かんなかったけど、それっきりもう何も聞こえてこない。
あすの叫び声が今まで聞いたことないくらい大きなものだったから
私の方までびっくりさせられてしまった。
わんわんという耳鳴りを引きずりながら見たあすは
風邪の時みたいに充血した目と赤く染まったほっぺをしていた。
髪の毛で隠れていなければ、火照った耳たぶだって見られたんじゃないかな。
でも、怒ってるっていうよりは恥かしくってしょうがないって感じだから
喧嘩になる心配はなさそう。こんな事で怒る子じゃないもん。あすは。
私はあすが大好きだから、それくらいの違いなら区別がつくんだ。
「ごめん。ごめ〜ん」
それでもやっぱり私がふざけたんだから、謝っておく。
「だって、あすがあんまり可愛いもんだからさ〜」
続けたその言葉にもちろん嘘はないけど
正直にいったら今ばっかりはご機嫌取りのために使ったかも。
「え……?」
でも、そんな調子いいだけのひと言が
それを受けたあすの顔色を違う具合の赤に変えてしまう。
顔色の、それも同じ赤らめた顔色の見分けなんてなんでつけれるのか
自分でも不思議に思ったけど、でも確かに違和感があるとはっきり言い切れる……
そのうちにあすは急にそわそわし出して
エプロンの裾をもじもじ握りなおしたりなんかして俯いてしまった。
やっぱり、怒ってるわけじゃない。
だったらやっぱり恥かしいんだと思うんだけど。
だってこの状況で他に赤くなる理由なんてないじゃない。
でも今度のはちょっと違う気がするぞと私の感じた違和感が目を光らせている。
なんだろう、あすのこの表情は……
お姉ちゃんでもちょっと分かんないぞ……
「ほ、ほんとにごめんね? あす…… え? あの、泣いてないよね……?
お…… お姉ちゃんさあ、ちょっとふざけただけのつもりだったんだけど……」
流石にあすの様子のおかしさが心配になってくる。
とりあえず寝そべってたらあすにあまりに失礼だろうと跳ね起きて
あすの顔を覗き込もうとするんだけど、それを嫌がるようにそっぽを向かれてしまった。
(うそ、なにやってんだろ私……!)
さっと全身が強張り、心臓が握り潰された思いがする。
まさかあすが何されたら傷つくかなんて、私そんな最低限のことまで分かんなくなっちゃったの?
と、自己嫌悪に陥りそうになったんだけど
「わ…… 分かったから…… 別に泣いたりしないよ……
もうご飯出来たからお姉ちゃん向こう行ってちゃぶ台出してきて……」
エプロンの裾を掴むのをやめないままで
私と顔を合わせるのを意識的に避けるようにあすが言った。
蚊の鳴く声ではあったけど確かに涙声ではないみたい。
私のとりこし苦労なのかな?
ううん。やっぱりちょっとおかしい。
あすが可愛い、なんていつも言ってる事なのにね。
ただ、ひとつ言えるのはこれからあす特製のおいしいお昼ご飯だっていうのに
私が余計なことをしたせい…… なのかどうかもいまいちはっきりしないんだけど
あすとの間の空気がなんだか気まずくなっちゃったっていうのは確かだ。
そんなままで過すお昼のひと時なんてごめんだった私は
空気を和まそうと自分のスカートの裾をつまみ上げた。
「ねえ、あす。 “お姉ちゃんにもお返しだー!” とかやらないの?」
「し…… しないってばそんなこと……」
「え〜 冷めてるねえ」
「もうっ! いいからちゃぶ台の用意してってばあ!」
お馬鹿なことを口走る私を見て、あすはいつものしっかり者に戻ってくれる。
よかった。こうやっておどけてみせるのは私の役目だもんね。
背中の手の平は私をぐいぐい押しやってはいてもどこか柔らかで、幸せそうで。
この調子ならあすに嫌われてるなんて心配はしなくてもいいのかな。
あ…… そういえばさっきはどれだけ頼んでもお手伝いなんてさせて貰えなかったのに──
私とあすのいただきますの声が重なる。
「うわぁ 冷た〜い♪」
よく冷えたお素麺が咽喉を通過していくのがとっても気持いい。
「わあっ、色のついてるお素麺、私の方に入れてくれたんだ」
食べっぷりのいい私をにこにこ眺めるあすの顔には、もうさっきのような赤みは差していない。
本当に、あれはなんだったのかな。
単に下着を見られたのが恥かしいっていうのとはちょっと様子が違った気がするんだよなぁ。
う〜ん。 あすについて知らない事があるのはちょっと不安になるんだけど
困ってるみたいだし無理に聞くのも可哀想か。
あの時のあす、いま思い出すとちょっとだけ幸せそうでもあったし。
その話題は避けておいても私たち姉妹の絆にそう問題はないような気もする。
「ねえ、あす」
ああ、でもこれも似たような話題かも。
「お姉ちゃん、今日スカートだよ?」
足をちょっとだけ投げ出して、あすに見えるようにスカートの裾をずらしていく。
ちらっとのぞく太腿が、あすの目に“せくしぃ”に映ってくれたらいいなと期待する。
さっき冗談半分でおどけてみせたこと。
実は残り半分ではあすの“お返しー!”を本気で期待していたりする私。
「し、しないって言ってるでしょっ もうっ…… 今日のお姉ちゃんちょっと変だよ」
恥かしそうにして吸い込んだお素麺の音。
それに紛れ込ますように、あすがなにかを呟いた。
「いま何か言わなかった?」
「い、言ってないよ なにも……」
慌てた否定が、証拠になってしまっている。
多分、聞き間違いじゃなかったらあすはこう言ってた。
“もっと可愛いの穿いておけばよかったな”
「お…… お姉ちゃんっ 食べたら眠くなったでしょ?
ほ、ほら。 お昼寝しなよ。 そうだ、私が団扇で扇いであげるから……」
もっと可愛いのって、パンツのこと? とか考えようとした矢先
急にあたふたしだしたあすが私の肩に手を掛けた。
「え…… 私まだ食べて…… わあっ!」
あすとは思えない強い力で無理矢理押し倒されてしまった。
ちょっと待ってよあす…… そんな積極的なあす見ちゃうと
お姉ちゃんなんだかイケナイ気分になっちゃうじゃな…… ちがう。
ほんの二時間前まで寝てたんだからもう眠くなんてないよぉ、と言いたかったんだけど
ほどよいところで満たされた空腹と、あすがさっそく送ってくれる控えめな風の心地よさとで
また眠くなってきちゃうから不思議だ。
「う〜ん あすぅ〜 あ〜すぅ〜」
せっかく扇いでくれてるのに、私はハートマークをいっぱい飛ばしながらあすのお膝に抱きついて
甘えん坊の子供みたいに頬ずりして、それを台無しにしてしまう。
だって、あすってお母さん似なんだもん。
このまま眠りについて、目が覚めるころにはもう少し涼しくなっていればいいと思う。
蝉も、やかましいアブラゼミには引っ込んでもらって
物悲しい鳴き方のひぐらしに代わっていればいい、そう思う。
そして、寝起きをあすの微笑みが迎えてくれたりなんかすれば言う事なしだ。
そんな風なささやかな幸せを
今年の夏もあすと一緒にたくさん感じることができますように。
あすは、この暑さでしがみついてくる私に嫌な顔をするどころか
それでも涼しいようにと、仰ぐ力を強めてくれる。
その優しさが嬉しくってもっと強く抱きついてしまうという悪循環。
でもね、あす。あなたを困らせようとしてやってるんじゃないんだよ。
こういうの聞いたことある?“ハリネズミのジレンマ”って。
どうゆうことかっていうとね…… ふあ〜ぁ。だめだ、お姉ちゃんもう眠たいや。
っていうか“ハリネズミのジレンマ”はこういう場合のことを指すんじゃなかったよ。
眠りの世界に沈む直前、部屋の隅っこで見るのを後回しにしていた電気店の広告が
もうかなり重くなったまぶたの向こうに見えたけど、やっぱりいいかと思い直す。
クーラーはもう少し買わなくてもいいかな。