「…で、でっけーっ!!」  
吹き付ける荒い潮風を浴びながら、船のマストの見張り台で借りた望遠鏡を片目に当てたイシドロは叫んだ。  
辺り三百六十度を囲む濃紺色の大海原を征く一隻の軍艦。  
全長28メートル、船体横には整然と並ぶ砲台が備え付けられ、三本帆柱に張られた帆を追い風に大きく膨らませた艦が、威風堂々と大洋を進んでいた。  
紆余曲折の揉め事を経て、ヴリタニスを出港したイース海軍所属ロデリック提督の艦だ。イシドロの頭上では、イース海軍の旗が風に翻って誇らしげにはためいている。  
艦の進む先の水平線の向こうにはぽつぽつと群島の島影が小さな点を描き、出港した元の港街は最早かすれてうっすらした細い影のようにしか見えない。  
帆走する艦の上空では、海鳥の群れが鳴き声を交わしながら気ままに飛び回って、快晴の青い空に白い翼をひらめかせていた。  
「婚約者にいいとこ見せて気を惹きたい」とゆう、わかりやすすぎるロデリック卿の好意につけこんだガッツ一行。  
『船の中で寝っ転がってても勝手に目的地まで運んでくれる、こりゃー楽チンだー』という訳で、旅の一行各人それぞれが目的地に到着するまでは自由行動、各自好きにしてよし、ということになった。  
なんとかと煙は高い所に昇りたがる、との譬えのごとく、早速マストのてっぺんの見張り櫓に身軽な身のこなしで登り着いたイシドロ。  
持ち前の感激しやすい気質を発揮して、高所から見下ろす広大な大海原の光景にひたすら感動しているようだ。  
(腕一本で荒波を渡る海の男、ってのも悪くねぇよなぁ…。やっぱあのヴリタニスの海賊船長のスカウト、蹴るんじゃなかったかな…)  
などと腕組みして少し後悔していたりする。  
マストの下の甲板上では、惚れた女にいいとこ見せたい正直者、ロデリックが婚約者ファルネーゼ嬢を連れ出してデートの真っ最中だ。  
周囲で働く水夫たちは『あー、艦長がまた例のあれやってるよ…』という半ば諦めの目でロデリックに視線を寄越している。  
『男は背中で惚れさせろっ』とバリバリに意識しながら、ロデリックは広がる海原にまっすぐ目を向け、背後のファルネーゼに向けて熱く夢を語っていた。  
「…ファルネーゼ、俺には夢があるんだ。  
俺の故郷のイースは、自慢にもならんがつまらん国だ。北方辺境のちっぽけな島国で、一年のほとんどは雪に埋もれている。土地は痩せてろくな作物が育たない。特産物といえば魚ばかりだ。  
住んでる奴等も、そのちっぽけな島にしがみつきたがる島国根性のしみったれだ。何も変えようとしない。変化を嫌がる石頭ばかりだ。  
マニフィコの口ききで俺はあんたと婚約したが、あんたの父上なら、おそらくイースを鼻もひっかけないだろう。利用価値無し、ってな。  
だが、それは今現在のイースだ。俺が、これから変えるイースじゃない。  
俺は俺の力で、俺の国を変えたいんだ。  
イースには荒海に負けない船がある。地図に記されていない、外洋の外側の大地に乗り出す力を…イースの船は秘めている。  
新しい地図を俺は作りたい。  
辺境ではなく、中央に豊かな王国、イースが記される地図を俺は作りたいんだ。  
…そしてその時は、ファルネーゼ、あんたに俺の隣にいて欲しい」  
『…フッ、我ながら決まったゼ。無茶苦茶カッコいいじゃないか俺』と思いながら背後のファルネーゼの様子をこっそり伺うロデリック。  
「あっ、キャスカさん、そんなに身を乗り出したら危ないですよ」  
「あう?」  
肝心のファルネーゼの視線は、隣のキャスカに向けられていた。  
イシドロ同様、海が物珍しいキャスカは、潮風に髪の毛をなびかせながら手摺から身を乗り出し、楽しそうに海鳥の方に手を差し延べている。  
…聞いてくれてなかったのか……。  
ちょっとがっくり来るロデリック。  
できれば二人きりでデートして親睦を深めたいロデリックだが、ファルネーゼにいいとこ見せたいのであからさまにキャスカが邪魔、という態度を取る訳にもいかず…しょうがなく三人でデートしている。  
『…いや、違う、四人だ』と思いながら、ロデリックは甲板の背後三十歩の位置で突っ立っているセルピコに視線を向けた。  
「あ、僕のことはお気になさらず。どーぞ続けて下さい」  
と無表情にロデリックの視線を受けて応えるセルピコ。  
自由行動と言われても、いつファルネーゼお嬢様から「セルピコ」と所用で呼ばれるやらわからないセルピコ君。船旅が始まっても、いつもの通りにひっそりとファルネーゼ嬢の傍近くに影のように控えている。  
ふー、とロデリックは重い溜め息を吐いた。…デートになんねー。  
 
一行があてがわれた水夫用の船室では。  
「ガッツさん、はい、あーんっ」  
二段ベッドが八台並ぶ手狭な部屋にて。  
シールケは寝台にでかい図体寝転がしている包帯姿のガッツに、真っ赤になりながらスプーンで手作りの薬膳を差し出している真っ最中だ。  
シールケの帽子の上では、イバレラが『もじもじ、もじもじ』と嫌ったらしいリアクションをかましている。  
まるでいかにもデートでいちゃつくカップルのよーな風景だ…。もしくはアツアツの新婚さんか…。  
胸の創傷が未だ癒えぬガッツ。シールケの厳命により、『とにかくとっとと傷治せ』という方針で、戦闘時以外は狂戦士の甲冑を脱いで極力安静にすべし、と決定した。  
実は隔離措置でもある。気の荒い水夫逹とまた乱闘でも起こされたら、まわりがものすごく迷惑千万だしな…。  
「…いや、自分で食うって」  
いちおー世間体もあるのでスカした面で断って見せるガッツ。…本音を言え、本音を。本当はシールケから『あーん』してご飯を食べさせてもらいたい、と。  
シールケが、うっと涙ぐんで瞳をうるうるさせてガッツを見上げた。帽子の上のイバレラは、ポンポンを揺らして『フレー、フレー、シ・ー・ル・ケっ』と応援している。  
しばらくしかめっ面で、瞳うるうる状態のシールケを眺めていたガッツ。  
はー、と溜め息をつき、いかにも渋々という顔で口を開ける。  
ぱっとシールケの顔が綻んだ。にこにこして「あーん」と言いながらガッツの開いた口に粥をそっと入れた。  
…大丈夫さー、ガッツ。今更貴様がシールケから「あーん」してご飯食べさせてもらったところで、誰も驚きゃーしないさー。  
…驚く人はとっくの昔にベルセルク読むのをやめているよ……。フフ……。  
仏頂面で黙々と咀嚼するガッツ。シールケが心配そうな表情で尋ねる。  
「…あの、やっぱり…まずい、です、か……?」  
味見したのでどんな味かシールケは知っている。薬膳なので薬効優先、味は……食べれなくはないけどな、という程度だ。  
「…そんなに悪くねェ。結構いける」  
ガッツがぼそっと返事を返した。  
ガッツさんが気を使ってくれているよー、というのがもんのすごく嬉しいシールケ。そそくさとスプーンで二杯目を掬って、にこにこしながらまたガッツに「あーん」と差し出す。  
 
いちゃつくガッツとシールケと同じ部屋には、その存在を忘れ去られたマニフィコ氏が、寝台に寝そべり船酔いで苦しんでいた。  
何の因果か、エルフヘルム行きにつきあう羽目になったマニ彦さん。  
怪物に出くわすは、妹が魔女になるは、ヴリタニスには当分帰れそうにないは、で諸々の蓄積心的ストレスが現在ただ今大増加中だ。  
しかもどうやら船旅が合わない体質だったらしい。ロデリックの軍艦に乗り込んでからとゆうもの、たらいを抱えてゲーゲー吐き気に苦しむ地獄の毎日が続いている。  
(いったいどうして私がこんな目に…)  
と愚痴をこぼしたくても聞いてくれる人がいない、というのが一番悲しい。  
人見知り、とゆうより貴族見知りのマニ彦さん。貴族階級以外の下々の者は貴族の自分に平伏して当然、とゆう常識が…この旅の一行にはてーんで通じない。  
露骨に「役立たずのくせになんでお前ついてくるんだ?」という視線を投げ掛けられる。  
(…私だって、別にお前等なんかと一緒にいたいわけじゃないっ)  
と言い返したいのは山々だが、「じゃ、来なくていいよ」とあっさり返されると…ものすごく困るので涙を呑んで苦情を押し殺す日々だ…。胃がシクシクと痛む…。  
一応親友であったはずのロデリックは、艦の指揮の合間に紹介してやった妹を口説くのに忙しいらしく、マニフィコさんの許には全然顔を見せない。  
(そーさ、あいつは昔からそーゆー薄情な奴だった…。『友情と女の尻と、どっちを選ぶ?』という立場に立つと、いつもあいつは必ず女の方を選びやがった…。  
大学時代、私がこっそり『いいな』と思っていた娘がいると、いつの間にかあいつが手を出してつきあっている、とゆう事が何度あったことか…。そのくせ私に女性を紹介してくれた事なんてあいつは一度としてなかった。まるきり皆無だ。  
…何故私はあんな男にわざわざ妹を紹介してしまったのだろう…)  
ちなみに紹介した妹は、出迎えに来た旅の一行が実家の晩餐会に姿を現してからというもの、まるきりマニフィコさんの存在を脳裏から忘れ果てているようだ。  
マニフィコさんが怪物から襲われて死にかけて悲鳴を上げても、視線がスルーだ。  
隣の物狂いの娘を気遣うか、ロデリックを頬染めて見てるか、ガッツという剣士を頬染めて見てるかで…実兄のマニフィコさんのことは、全然まったく気にも留めていない。  
血液が凍りつきそうな無視の仕方だ…。縁薄き兄妹とは思っていたが、まさかこれほどまでとは…と、肝が冷えそうな思いだ。  
なるほど、魔女になるとはこういう事か、とどこかで納得してしまう。我が妹ながら、人間とは思えない冷血ぶりだ…。  
うっ、とまた吐き気が込み上げてきた不幸なマニフィコさん。たらいを掴むその彼の頭上から、陽気な声が降りる。  
「マニ彦さーんっ。オレの鱗粉って船酔いにも効果あるはずだよー。騙されたと思って舐めてみたら、って思うんだけどー」  
…そして彼の頭の上のこの小妖精も、マニフィコさんのストレス増加要因だ…。  
何故か、懐かれたくもないのに懐かれている。  
(こっ、これは幻覚だっ。こんな生き物は存在しないはずなんだっ)  
と、うっかり返事をしてしまいそうな自分に日々言い聞かせる毎日だ。  
…大丈夫か、マニフィコさん。船の目指す目的地はこんな生き物がうじゃうじゃ棲息しているエルフヘルムだぞ…。今のうちに慣れておいた方がいいぞ…。  
 
旅の一行それぞれが気ままに行動し、順調に艦が海路を進める中。  
快晴の空が一点俄かにかき曇り、水平線の彼方から重苦しい黒雲がどっと押し寄せて来た。  
甲板でファルネーゼとのデートを半ば諦め気味だったロデリック。溜め息ついてぼんやり眺めていた海上の異変に気付き、さすがに顔色が変わる。  
「…時化か?」  
と呟いた時、マストの上のイシドロが大声で叫ぶ声が甲板上の人々の耳に響き渡った。  
「…たっ、大変だあーっ!まっ、また、あれが出やがったぞーっ!!」  
イシドロの覗き込んだ、望遠鏡の円形の視界の中に発見したもの。  
それは、駆け足で押し寄せる黒雲を引き連れるかのように、真っ直ぐ軍艦目指して海上を突き進む山のような巨大な影だった。  
…そう、また出た『あれ』。大海獣ハナゴン(命名者イシドロ)だ。クジラに幽体を宿らせて造られた象のような鼻が特徴の魔導生命体、ハナゴン。  
正式名称は「マカラ」なのだが、クシャーン人の術者でなければ知らない正式名称であるので、なんとなく「ハナゴン」で定着している。  
クシャーン人の使用する幽体にはどうも出っ歯促進要素が含まれているらしく、妖獣兵、鬼兵、すべて皆出っ歯だ。  
このハナゴンも例に洩れず出っ歯。メシが食いにくそうな歯並びだ…。  
実は、このハナゴンは、迷子だった……。  
そしてついさっき、痛い失恋をしたばかりだった……。  
元はごく普通のクジラとして生まれ育ち、気ままに海で平和に暮らしていたところを漁船に捕らわれてクシャーンに売り飛ばされ、生まれもつかぬ海獣に変化させられた哀れなハナゴン。  
ヴリタニス攻撃を洋上で術者から命じられたものの、場所がわからず海上をうろうろさ迷っているうちに、段々術者の念が抜けてきた。  
『そーだよ、よく考えればなんで俺が人間の戦争の道具に使われなきゃなんねーんだ。関係ねーじゃん、俺』とクジラなりの脳味噌で我に返ったハナゴン。  
『任務なんぞ知ったことかー、俺は知ーらねっ』と戦線離脱し、自由気ままに海を泳いでいた所、偶然四、五頭のクジラの群れに出くわした。  
その中に、ハナゴンの好みのタイプの愛らしく初々しい風情の雌クジラの姿があった。  
そろそろ発情期が近かったお年頃のハナゴン、これぞ運命の出会いかっ、とばかりに一生懸命雌クジラの方へ寄り添い、必死に自己アピールで気を惹こうと試みた。  
『お嬢さんっ、ぼっ、僕の子供を身籠もってはくれませんかっ』  
とハナゴンは懸命に求愛のシグナルを熱心に雌クジラに飛ばした。ちなみに、クジラは魚類じゃなくて哺乳類なので下腹部にペニスを所持している。…ホントだよ。  
だが、愛らしい雌クジラの返事は残酷だった…。  
『嫌よっ!なにその悪趣味な鼻と出っ歯!そんな顔の子供なんて絶対産みたくないわっ。あんたよくそんな顔で生きていられるわねっ』  
ショックで凝固するハナゴンに、群れの他のクジラが次々と追い討ちをかけた。  
『なんだよ、その顔ー。キモチ悪いなー』  
『お前ホントにクジラか?なんか別の生き物じゃねーのかあ?気色悪いから寄ってくんなよなー』  
茫然自失のていで固まっているハナゴンを残し、クジラ達の群れは無情に泳ぎ去った…。  
悪趣味な鼻と出っ歯は…ハナゴンのせいじゃないのだ…。人間がハナゴンに気味の悪い液体を呑ませたせいで、生まれもつかぬこんな顔にされてしまったのだ…。  
…でも、仲間のクジラからはハナゴンの責任にされてしまう…。  
ハナゴンの求愛を受け入れてくれる雌は、決して存在しないだろう…。あからさまに奇形の特徴のある雄は、どんな雌でも嫌がる。  
…ハナゴンは一生童貞確実決定だ。  
……ううっ、うっ、うわーんっ。  
 
ハナゴンは、荒れた。外洋を泳ぎ突き進みながら、荒れ狂い泣き叫んだ。天がハナゴンの嘆きを聞き届けたのか、ハナゴンの怒りは荒れ狂う嵐を呼んだ。  
『人間が憎い、全部お前等の責任だ』とクシャーン人の魔素注入で強化された凶暴性を発揮してハナゴンは憎んだ。  
憎まなければやってられない。だって本当にハナゴンの責任じゃないんだから。  
ハナゴンにとって一番憎い人間、それは最初にクジラのハナゴンを追いかけ回し、さんざん銛を突き立てていたぶり、網で捕まえた漁船の人間達だった。  
そいつ等はクジラ逹にとっての天敵だった。ハナゴンの仲間は、そいつ等にやられてどんどん数が減る一方だ。残忍非道なクジラの虐殺者達だ。  
その人間達の船にはいつも決まって同じ旗が掲げられていたのを、ハナゴンははっきり記憶していた。  
…そう、荒海にも負けない航海技術で遠洋漁業が特産品の、北方の国イースの旗印だ。  
そして目前には再びクジラの敵、イース国旗を靡かせた軍艦がある。  
深々と体に食い込む銛の、激痛と怒りと恐怖の記憶と共に、ハナゴンの眼の奥底に鮮明に焼きついた旗印の色と模様だ。  
『もしやこれは天が我に与えた我が使命ではないだろうか』と怒りで赤く染まったクジラの脳味噌でハナゴンは思考した。  
生まれもつかぬ醜い姿に変えられてしまった事も、同胞からその姿のせいで疎まれ、永久に拒否される運命に陥った事も、ハナゴンの怒りと悲しみも、すべてこの為にあるのではないのだろうか。  
――即ち、クジラの敵を叩き潰せ。  
ハナゴンは人間に醜い怪物の姿に変えられた。でも心はクジラだ。  
雌から拒否される運命のハナゴンには、自分の遺伝子は残せない。しかし、ハナゴンの仲間を虐殺する人間を殺戮する能力が…怪物の姿のハナゴンには、存在する。  
ハナゴンにはクジラという種の存続に貢献できる能力がある。クジラの敵を倒すことが、ハナゴンには可能だ。  
他の温厚な気質のクジラ達にはそれができない。人間に襲われても怯えて逃げ惑うだけだ。  
…そして人間達に追い詰められ、捕らわれ、あるいは殺されて食われる。  
人間を殺す能力が、当の人間によってハナゴンに与えられた。  
…それは、人間の意志ではなく、その向こう側にあるのは天の意志ではないか。  
同じ種族同士で殺し合いをやりたがる生き物に、種として生き残る価値はあるか?  
…ある訳がない、と断固としてハナゴンは認識する。  
そんな奴等によって、ハナゴンの種は狩り尽くされ、あるいはハナゴンのように人間の殺し合いの為の道具として、醜い怪物に姿を変えられ好き勝手に扱われる。  
――ふざけるな、以外にどう言えばいい。  
 
自分達の殺し合いなら勝手に自分達同士でやって、とっとと絶滅してくたばってしまえばいい。人間が一匹もいなくなれば、人間以外の生き物はすべてほっとしてせいせいするだろう。  
何故そんな下等生物の争いにハナゴンが巻き込まれなければならない。  
何故奴等の本来の領土ではない海で、奴等はわがもの顔でのさばり、ハナゴンの仲間を当然のように追いかけ回して銛でめった突きにして殺しまくる。  
仲間のクジラがハナゴンを仲間扱いしなくとも、それでもハナゴンにとってはクジラ達が仲間だ。  
永久に拒絶される深い痛みと悲しみと共に、ハナゴンは彼等を仲間だと見做す。  
…ハナゴンの姿は、醜い。  
まっとうなクジラの姿の頃のハナゴンが今の自分と同じ姿のクジラを見掛けたら、さっきの群れ達と同じ反応を示しただろう。生理的に忌避し、嫌悪しただろう。  
ハナゴンが奇形だからだ。人間によって汚染された存在だからだ。  
彼等がハナゴンを忌避するのは、自然の防衛本能だ。恨むのは不当だ。  
…何故ならばハナゴンは汚染されており、遺伝子プールを汚す存在だからだ。  
自分が呪われた存在になった事を、ハナゴンは深い絶望と共に理解し、受け入れる。  
永遠の孤独を…受け入れる。ハナゴンを決して受け入れる事のない仲間のクジラ逹を、ハナゴンは心の中に受け入れる。何故ならば、それはかつての無邪気なクジラでいられた頃の、ハナゴン自身の姿だからだ。  
彼等はハナゴンの嘆きを理解しない。理解できる素地を持たない。理解できるようになるのは、ハナゴンと同じ境遇に晒されたクジラだけだ。  
…それを望むのかと自らに問えば、ハナゴンは決して望まない。  
共感よりも孤独と無理解と追放を選ぶ。醜い怪物の姿に変えられた哀れなクジラは、ハナゴンが最後の一頭である方を望む。  
さっきの群れはまだこの近辺を泳いでいる。人間達に見つかれば、きっとハナゴンと同じ目に合わされてしまうだろう。  
さっきの愛らしい雌クジラが、追い回されて銛を突き立てられ、捕らえられてハナゴンと同じような姿に変えられる。  
目の眩むような真っ赤な怒りが、ハナゴンの巨体の全身に込み上げた。  
…そんな非道残虐行為を許していいはずがない。  
――人間は、一匹残らず皆殺しだ。  
目前の軍艦に突き進みながらハナゴンは、はっきりと決意した。  
ハナゴンの残りの生は、その為にある。  
ハナゴンは人間の戦争の道具として陸で無駄死にさせられる代りに、人間を殺戮する能力を持ったまま生まれ故郷の海で自由に生きられる生が、天より与えられた。  
…絶望しようがしまいが、生はある。  
生きて死ぬまでの残りの時間が、ハナゴンにはまだ、存在する。生命を思うまま謳歌する自由が、ハナゴンにはあるのだ。  
…生命が尽きるその瞬間まで、ハナゴンは与えられた力を使って人間逹を殺しまくる。  
ハナゴンの心の奥底の、真っ赤に熱っせられた黒炭のような強く激しい怒りは、天がハナゴンに与えた武器だ。  
振り上げて、全身全霊で怒りの力を込めて降り降ろし、人間達を粉微塵に打ち砕くための、強く堅い強靭な鉄鎚だ。  
あの旗は、クジラを殺す人間のしるしの旗だ。  
奴等の数が減れば、その分だけ奴等に殺される仲間のクジラの数は、確実に減る。  
奴等を放置させていたら、奴等はいつかハナゴンの種を食い潰す。  
奴等が好き放題に暴虐の限りを尽くしていられるのは、奴等が自分達の方が強者であると信じ込んでいるからだ。  
船を壊せば奴等は水に溺れて死ぬ。  
海の中で生存できない生き物が、何故海で我がもの顔でのさばり倒せる。  
海での強者がどちらであるのか、奴等にわからせなければならない。  
 
ぐんぐんと速度を上げて艦目指して突っ込んで来るハナゴンに、軍艦側の人間達は必死の形相で応戦準備中だ。マストの帆が畳まれ、砲台に配置された水夫達が弾込めと火薬の仕込みを慌ただしく整えている。  
空にはさっきまであった快晴と太陽が微塵も残っていない。時折稲光りする重苦しい黒雲で覆い尽くされ、夕暮れ時のようにたちまち辺りが薄暗くなった。  
「右舷転進!」  
横殴りの強風が吹きつけ、ぽつぽつと降り始めた大粒の雨の中、艦橋のロデリックは舵を握る水夫に向けて怒鳴った。  
激しく船体が横揺れしながら船首が右に傾いた。  
丁度襲ってきた恐ろしく大きな波が船底をぐうっと持ち上げ、船舶が波の上で三十度に傾斜した。甲板上の樽が幾つも薙ぎ倒しになり、船板の上を船首から船尾方向へまっしぐらに転がる。  
「キャスカさん、こっち!」  
キャスカの腕を引っ張りながらファルネーゼが船室昇降口をくぐるのと入れ違いに、いちゃいちゃしている場合じゃねェぞ、と気付いた鎧姿のガッツが甲板に飛び出した。その後ろから杖を握り締めたシールケが飛び出る。  
「敵か!?」  
艦橋のロデリックを仰いでガッツが怒鳴った。ロデリックの隣ではイシドロとセルピコが船縁にしがみつき、迫り来るハナゴンの巨体に何か打つ手はないかとぎりぎりする思いで睨み据えている。  
「ヴリタニスで出くわした例のでかぶつだ!だが、あんたの出る幕じゃない!ここは俺に任せとけ!」  
艦橋からガッツを見下ろし、きっぱりはっきり言い切るロデリック。  
ファルネーゼが見てくれてないのは残念だが、ここで格好つけなきゃ何処でつけろと言うんだ、というロデリックの正念場だ。  
ここはロデリックの軍艦だ。そこで出くわした怪物との水上戦。艦という武器がある上での戦いだ。海軍軍人ロデリックの意地の見せ所だ。  
――オレの艦で戦うなら、オレが主役だっ!そういつもいつも、こいつにおいしい場面かっ拉われてばっかりでたまるかあっ。  
…と密かにガッツに対抗意識を燃やしている。…がんばれ。  
 
海上のハナゴンが約二百メートルの位置まで迫った。  
生き物とは思えない質量と容積の黒い塊が、背びれを靡かせて荒波を苦ともせずに真っ直ぐ突き進んで来る。  
長い尻尾のような鼻は海面下に潜っていて見えない。海面ぎりぎりに浮かぶ真紅の巨大な両眼が、はっきりと艦に向けて敵意を漲らせ、警告灯のようにぎらぎらと輝いていた。  
大砲の射程距離内に入った。目標物はほぼロデリックの軍艦と同じ程度の大きさだ。弾を外す心配だけはない。  
「撃て!」  
ロデリックの号令の声が荒れ狂う嵐の中に響き渡った。  
船体横に設置された砲台から次々とハナゴン目掛けて大砲が発射された。船舶破壊用の鉄球が轟音と共に撃ち出され、怪物の巨体を直撃する。  
耳をつんざくような絶叫が、何本もの白い水柱と共に高々と海面から昇った。  
「やったか!?」  
覗き込む艦橋のロデリックの視線の先で、ハナゴンの巨体が背びれを翻して海中に潜り込んだ。最後に残した三角形の尾びれが水飛沫を叩いて海面下へ消える。  
「死んだら浮かぶ。まだやる気だ」  
船縁を掴んだガッツが呟く。ロデリックにでかい顔されて内心むかついてるが、しかし水中戦となると…足場がない。  
海に飛び込んだら速攻でずぶずぶ沈むのが目に見えているので、むかつきはしてもやはりここは任せるしかないのか、くそぅ、『任せろ』は俺の台詞だあっ、と心の中で毒づいている。  
ガッツの足許では、杖を握って座り込んだシールケが精神集中してハナゴンの気を探っていた。  
叩き付けるような豪雨が降り注ぎ、波に揉まれて一瞬たりとも静止しない上下左右に揺れ動く甲板上で、必死にハナゴンの気を逸らせないかとシールケのやり方で戦っている。  
このハナゴンには…個我がある。使い魔ではない。術者はいない。  
クシャーン人が宿らせた幽体を、自我に取り込んで吸収してしまったクジラだ。  
幽体は、煎じ詰めれば人間の思念であり精神だ。幽体がクジラの思考に言葉を与え、論理的帰結として『人間はすべて敵』という結論に辿り着いた。  
人間が上位に置かれる食物連鎖の階梯の拒否だ。食われる側にとっては、おとなしく下位に甘んじなければならない理由は何一つとしてない。エサ扱いの拒否だ。  
『なかま』に危害を加える種族なら、とことん駆逐し廃絶せねば気が済まない人間特有の苛烈な攻撃性を…そのままクジラとしての個我の核にした、半分魔物でも属する種族はクジラで在りたい、もうクジラとは呼べない姿のクジラだ。  
シールケが気を逸らそうとして送った思念が弾き飛ばされた。  
『敵』として拒絶される。防御壁のように強固な敵意がハナゴンの気の周囲に張り巡らされている。念を通じさせる余地がない。  
『敵、敵、敵』。  
強烈な敵意の信号を発散するハナゴンの思念が海中深くへと潜っていく。大砲で肉体に穿たれた幾つもの穴から大量に血液を流しながら。  
潜水する黒い海の水にハナゴンの血が赤い霧のように広がり、拡散した。  
傷口から溢れる苦痛が、苦痛を与えた人間に対する憎悪の炎に油を注ぐのをハナゴンは感じた。  
ハナゴンは苦痛を歓迎する。それは武器に変化させられる。内側に煮え滾る怒りと憎しみは、肉体に力を与える。細胞の一片一片に力を漲らせることができる。もっと速く、もっと強い力で、水を掻きわけ叩きつけて泳ぐ事を怒りと憎悪は可能にする。  
潜水していた体を一転させ、ハナゴンは海中から頭上を見上げた。荒波で大きく揺れ動く黒い海面が、うねる天井のようにどこまでも広がっている。  
その海面下に漬かっている船舶の腹が、ハナゴンの頭の上で波に揉まれて横たわっていた。呆れるほど無防備に頼りなく。  
――こいつらは、弱い。  
怒りと憎悪を燃料にした原動機のエネルギーを最大出力にして、ハナゴンはまっしぐらに船舶目掛けて上昇し始めた。  
 
「危ない!艦を…艦を今すぐ動かして!下から狙ってます!」  
シールケが叫んだ一瞬後に。  
とてつもない衝撃が艦を下から突き上げた。  
全長28メートルの軍艦が玩具のごとく宙に舞い上がった。  
空を飛ぶ箱船のように垂直上昇する。直撃された船底湾曲部には深い大穴が開き、破壊された木片が宙に舞って四散した。  
落下状態に入った船体が左舷を下にして垂直近くに傾斜した。  
三本マストのうち中央の一本が急激な重力の負荷に耐え切れず、真ん中辺りでぼきりと折れ、巨大な凧のように帆布を広げて艦と分離する。  
最初の衝撃で甲板上の樽や索具、ありとあらゆる備品が艦から吹き飛ばされ、嵐の空に舞った。固定物を掴めなかった水夫達が絶叫しながら放り出され、その後を追う。  
船内では人々が突然天井に叩き付けられ、次に垂直に傾いた天井の床の上を雪崩のように滑り落ち、壁にまた叩き付けられた。床に捩子留めされている家具以外のすべての物体が、壁に張り付く人間達の上に霰のように降り注ぎ、阿鼻叫喚の悲鳴があちこちで沸く。  
水夫用船室の一つでは、壁に張り付いたゲロまみれのマニフィコ氏が呻いていた。  
…船酔いの吐き気用に使用していた盥が、ひっくり返ってマニフィコさんの顔を直撃したのだ。可哀そうなマニフィコさん…。  
その隣ではファルネーゼが怯えるキャスカの両肩を抱き、体を張って落下物から身を呈して健気に庇っていた。  
救いを求めるようなゲロ臭い実兄のマニフィコさんの視線からは、敢えて顔を背けているようだ…。ヴァンディミオン家とは誠縁薄き一族だ…。  
甲板で吹っ飛びかけたシールケの体を、ガッツがとっさに横抱きにして義手で抱えた。  
ほぼ切り立った崖のような甲板上で、右手に綱を結び付けるための環釘をしっかり掴み、ぶら下がるような格好だ。  
横に傾いて落下しつつある軍艦の船縁越しに、ガッツの掴んだ環釘のすぐ頭上で、黒檀のような艶のある滑らかで頑丈な皮に包まれた巨体が、滝のごとく大量の水飛沫を跳ね上げ、撒き散らして上昇していく姿が視界いっぱいに飛び込んだ。  
尾びれをひらめかせたハナゴンの雄大な巨体が、信じ難い跳躍力でぐんぐんと飛翔し、やがて放物線の頂点の位置に達した瞬間、黒雲で覆われた空がぴかっと稲光で輝いた。  
雷光が不気味な蒼白い色に染め上げた空を背景に、紡錘形の巨大な黒いシルエットがモノクロの陰画の絵のように一瞬鮮明に浮かび上がった。  
その一瞬、稲妻に照らされたハナゴンの眼がぬめりを帯びた真紅の紅玉のように輝き、嘲笑するような視線を破壊された軍艦に浴びせかけ、瞬いた。  
遅れて雷鳴が轟音のようにとどろき、空全体が空中放電の光で激しく明滅する中、ほとんど優美と言っていい仕草でくるりと巨体を捩じり、海面へ向かって放物線の残りの軌道を描いて飛び込んで行く。  
(…こいつ、陸の上と動きが全然違うじゃねェか)  
と瞬間脳裏で呟くガッツ。当たり前だ。ハナゴンは水棲動物なんだから。陸上でハンデキャップ付きハナゴンに勝ったところで威張れるか。  
転覆した軍艦が荒波の狂う海面に側舷を叩き付けられた一瞬後、100メートル程横でハナゴンの巨体の質量が凄まじい水柱を上げて海に突入した。豪雨と一緒にハナゴンの跳ね上げた海水が、瀑布のようになだれ打って無残に横たわる軍艦の上に降り注ぐ。  
――完敗だ。転覆した上にマストが折れた。たとえ船を引き上げたところで、軍艦の船底中央部には修復不能な大穴がぽっかり口を開き、みるみるうちに海水を呑み込み、浸水してゆく。  
 
「…そ、総員退避だ、退避っ」  
舵にしがみついたロデリックが歯噛みしながら叫んだ。  
転覆した軍艦上では、マストの先端が海中に突っ込み、甲板が垂直に聳えて半分海に没して、すべての物が縦と横の配置が入れ替わった状態だ。おそろしく足場が悪い上に、狂瀾怒濤の逆巻き猛り狂う海に揉まれてずぶずぶと沈んでゆく。  
ロデリック艦長の命令を聞くまでもなく、場慣れした水夫達は転覆の衝撃から立ち直ると、速攻で自主的に退避活動を始めていた。  
海面上に次々と樽や救命艇が投げ出され、我先にと水夫が群がる。  
うちひしがれているロデリックの頭上を、セルピコが風装備マントでひらりと飛び越えた。  
とにもかくにもお嬢様の保護最優先の思いを胸に、船員が群がり出る扉の歪んだ船室昇降口に辿り着いた瞬間。  
再度の猛烈な衝撃が瀕死の軍艦を真正面から直撃した。  
――ハナゴン。  
容赦を知らぬ海の怪物が再び軍艦めがけ、破壊槌と化して突貫突撃攻撃を開始したのだ。  
大きく裂けて乱杭歯の剥き出しになった口から、歓喜とも苦悶ともつかない奇怪な雄叫びを嵐の空に向けて咆哮し、振り上げた象の鼻で船体をめった打ちにし始めた。  
めきめきと木片と人体の破片が飛び散った。船室昇降口が、飛び出ようとしていた水夫ともどもひしゃげて潰れる。  
ハエ叩きで潰されるハエの図だ。ハナゴンの鼻がひと薙ぎすると、べしゃっと音を立てて人間の形が血と肉の残骸に変わる。降り注ぐ激しい雨がたちまち血を洗い流して、散らばった臓物や肉の破片だけが残った。阿鼻叫喚の地獄絵図だ。  
ガッツにとっては見慣れた場面だ。  
よーしっ、真打ち登場、俺の出番かっ。やっぱり俺様が主役だあっ、と意気込んだ。  
右腕一本で舷側にひょいとよじ登り、義手に抱えているシールケに「暴走した時は頼む」と言いかけて…シールケが、気絶している事に気がついた。気絶はしても杖はしっかり握り締めているのはおそらく魔女の根性だ。  
額から一筋の血が流れている。何かに頭をぶつけて脳震盪を起こしたらしい。  
…一時的戦闘不能状態だ。  
うっと凝固するガッツ。対ハナゴン戦で二度目は鎧暴走抜きで倒せたが、一度目は鎧暴走後錯乱狂戦士仲間皆殺し寸前の前科保持者のガッツだ。  
自分自身の心に正直に問うてみた。  
――絶対に暴走させない自信は有るか?  
――……あるわきゃねーだろがっ。  
雑魚敵なら大丈夫だろうが、強敵の場合は…鎧の力がヤバイ。  
安全装置のシールケが併せてセットで控えてないと、ガッツ自身も自動的に戦闘不可状態に陥るのだ。  
仲間の生命守るために「敵」を倒しても、倒した後でガッツ自身が「敵」と化して仲間皆殺しにしてしまっては…何一つ意味が無い。  
下手すりゃ敵倒す前に手近にいる人間から血祭り皆殺し惨殺にする可能性も無視できない。なんせ理性飛んでる。  
 
(…もしかして、この鎧ってすげー使えねェ代物なんじゃねーのか…?)  
という疑問が初めてガッツの心に浮かんだ。  
…そうだよ。使えないんだよ……。止め方のわからない連射式ボウガンみてーなもんだよ…。安全性に超問題有りの、普通の店なら返品ものの屑商品だよ…。  
自己主張して使用者を鎧の道具にしてしまうとゆう、道具の本質から外れまくった外道の道具だよ……。  
ゴドーの親爺が言ってたじゃーないか、「使う者の度量を越えた道具は足枷にしかならん」って…。戦闘時にいちいち鎧の動向気にしなきゃいけない、って点だけでも集中力半減させるんだよ…。まさに手枷足枷だよ、その鎧は…。  
悩んでいる暇もなく、ハナゴンの鼻がガッツとシールケ目掛けて振り降ろされた。  
やばい、と咄嗟にシールケを抱えて舷側から海面に飛び降りた。ガッツの立っていた場所が粉微塵に粉砕されて頭上に木片がばらばらと降って来る。  
水飛沫を上げて二人の姿が海中に水没した。  
水没してそのまま水没、水没、水没し続け…やべえ、没んだまま浮かばねェぞ、おい、と気付いて必死でガッツは片腕で水を掻いた。  
二度とやりたくなかった甲冑姿で人間抱えての水泳だ。  
しかも、背中にドラゴン殺しの重量がっ。  
…沈む沈む。人間の体は水に浮かぶように出来ているが、鉄の塊は沈むように出来ている。  
甲冑とドラゴン殺しに鋼鉄の義手。…沈む条件満載だ。漬物石を体中にくくりつけられて海に放り込まれたも同然だ。  
全身の鋼鉄に引き摺られて沈む体を無理やり膂力と根性で水を掻きわけ、浮力を発生させてなんとか浮かびあがらせようとガッツは足掻いて足掻いて足掻きまくった。  
命あっての物種、一瞬本気でドラゴン殺しを捨てようか、シールケ捨てるわけにはいかねェし、という考えが脳裏を過ぎったガッツ。…いや、さすがにそれはマズイだろう、主人公の看板だ、と思った瞬間、水を掻く片腕が海面に漂う救命用の木樽を掴んだ。  
ほっと安堵の息を吐いて引っ張り寄せようとすると先客が掴まっていた。ガッツの重量に引っ張られて沈む樽に、先客の水夫が慌てて怒鳴る。  
「うわっ。あ、あんた、この樽は三人じゃ無理だっ。そのお嬢さんだけならなんとかなるが、悪いけどあんた余所へ行ってく…」  
すまねェな、と呟きつつガッツは鉄拳を水夫の顔に叩き込んだ。顔面を粉砕されて気絶した水夫が樽から手を放してぷかりと浮き、荒波に揉まれてその姿が海面から消えた。  
(あいつらは無事か…?)  
都合の悪い事は速攻で脳味噌から消去して、気絶したままのシールケを抱えたガッツは仲間の安否を気遣った。  
樽に縋るガッツの僅か2、30メートル先でハナゴンの山のような巨体が軍艦にとりついて猛攻撃を仕掛けている。  
見れば、ハナゴンが狙っているのはひたすら艦上の人間に限られているようだ。とにかく船憎し、の勢いで艦を完全に沈めなければ気が済まないらしい。  
…ハナゴンとの距離、僅か2、30メートル。だが、その間に横たわる…海っ。  
…人間は、陸上生物だ。一応人間は泳ぐ事はできるが、しかしガッツの武器はことごとくその重量が重石となって彼を水に沈ませるのだ…。移動手段なし。  
義手の大砲は火薬がずぶ濡れでは使用不可。片腕には気絶したシールケ。  
…どーやって戦えっつーんだ…。  
とりあえずガッツは気絶したシールケを揺さぶって起こしにかかった。  
 
いち早く逃げ延びたガッツと違い、セルピコは一人必死に艦上でハナゴンと戦っていた。  
とにもかくにもファルネーゼお嬢様を助け出さない事には、一人で逃げるわけにはいかない。…どっかの冷血漢はシールケさんだけ連れると、自分の連れ合い置き去りにして海中に飛び込みやがったが。  
嵐のせいかセルピコの風の精霊さん達はやたら調子が良かった。振り回されるハナゴンの鼻を強風に乗って闘牛士のようにひらりひらりと躱す。  
防御専念で、とにかく攻撃を躱して時間を稼ぐ事に集中する。  
陽動作戦だ。セルピコがハナゴンの注意を引きつけておく間に、ロデリックとイシドロが、大破して跡形もない船室昇降口のあった大穴と船員の死体を乗り越えてくぐり、沈みゆく船内に取り残されたファルネーゼの救出作業に向かった。  
軍艦がズタボロにされてかなりショックなロデリック。  
せめて婚約者を颯爽と救い出して点数稼がねーことには、格好がつかないっ、と駆け足でファルネーゼの船室へ向かう。…カッコつけに命を賭ける男だ。  
その頃のファルネーゼはというと。  
転覆したはずみに歪んで開かなくなったドアを相手に苦戦していた。  
運の悪いことに、縦横配置が九十度回転した船内で出入り口の扉のある壁は天井側だ。  
床に足を固定された二段ベッドのヘッドボードによじ登り、振り上げた椅子でなんとかドアを破壊しようとやっきになっている。  
手伝いたくても非力で役立てないパックが、隣でしきりに  
「ファルネーちゃん、がんばれーっ」  
と旗振って応援していた。  
「…ファ、ファルネーゼ、女性がそんな乱暴な振る舞いは……」  
となんだか見当違いな意見を述べて妹を見上げつつ、おろおろしているマニフィコさん。その隣のキャスカが所在なげにマニフィコさんの袖をくいくい、と引いた。  
『なんだ?』と思ってキャスカが指差している方を見ると。  
壁の端から海水がちょろちょろと侵入し始めていた。  
「ひいいいいいっ」  
と呻き、頭を抱えてマニフィコさんは座り込んだ。  
(…もう、ダメだ。ここで、こんな場所で溺れて私は死んでしまうんだ…。どうして私がこんな目にあわなきゃーならないんだ…)  
どんな時でも愚痴ることを忘れない、それがマニフィコさん。マニフィコさんの幽体にもしも色が着いてたら、きっとドドメ色をしていることだろう。  
そのマニフィコさんの頭上から、  
「ファルネーゼ、無事かっ!?」  
「トロくせーから助けに来てやったぜっ」  
と扉の外から救いの声が落ちてきた。  
これぞ天祐、天は未だ我を忘れざりき、友よ、君はやはり私の親友だったんだな…、とうるうるとマニフィコさんは瞳を潤ませた。…いや、ファルネーゼがいなかったらロデリックがマニフィコさんだけ助けに来てくれるかどうかはかなり疑問だが…。  
「ドアが開かないんです!」  
頼りにならない実兄は念頭から忘れきって、ファルネーゼはドアの外に向かって叫んだ。茨の鞭は緊縛には向いていても破壊にはあんまり向いてないので使えない。  
ロデリックが助けに来てくれて嬉しいけれど、ガッツさんはいないのね…。いえ、きっとあの人は外で勇敢に怪物と戦っているに違いないわっ、と思い直す。…戦ってるのはセルピコだよ……。  
任せとけ、とばかりにイシドロとロデリックが二人がかりで外からドアをぶち破った。  
ファルネーゼ、キャスカ、マニフィコの順に天井のドアから引っ張り出される。  
(なんで私が最後なんだ…)  
とちょっと愚痴りたがりそうだったマニフィコさんだが、まあこういう場合は女性優先だよな、と思い直して上に昇るキャスカの尻を一生懸命押し上げた。  
その殊勝な心掛けのマニフィコさんの顔を、怒った顔のキャスカがぐにゃっと踏み付けにした。キャスカは、変な場所を男に触られるのが嫌いなのだ…。  
(な、なんで私がこんな目に…)  
可哀そうなマニフィコさん…。  
 
さて、無事ファルネーゼ逹と合流したはいいが、どうやって船から脱出するか?と激しく揺れる船内を走りながら思案を巡らす五人と一匹。  
甲板側出口はハナゴンがとりついているので超危険地帯だ。顔出すと鼻で叩かれる可能性が高い。  
「右舷側の砲台へ向かおう!大砲用の窓からなら抜け出せれるはずだ!」  
ロデリックの意見が採用され、かしぐ船内をとにかく上方向へと急ぐ。  
本来の「右」方向が「上」方向と化しているのでおっそろしく移動しにくい。右舷側への一本通路が階段なしの深い縦穴だ。  
唯一の空を飛べるパックがロープの端を抱いて縦穴を上昇する。てっぺんの砲台室のドアノブに結び付け、一人ずつが順番に昇った。  
昇る間にもハナゴンの破壊攻撃と浸水で、艦内がぐらぐらと揺れる。  
他の四人が登り終わり、やっぱりしんがりを務める羽目になったマニフィコさんの足許を、冷たい海水が浸し始めた。  
船内の廊下に転がる索具や網がぷかぷかと海水に浮き始め、見る間に水位が上昇していく。  
「ひいいいっ」  
とまた頭を抱えて座り込むマニフィコさんを、ファルネーゼが面倒とばかりに茨の鞭で縛り上げて引き上げた。マニフィコさんが大声で何か喚いていても、一切お構いなしだ。  
ようやく砲台室に辿り着き、茨の棘で傷だらけになったマニフィコさんが、怯えた視線をファルネーゼに寄越した。でも、ファルネーゼは全然気にしてないようだ…。  
「さあ、急ぎましょう!」  
と茨の鞭を兄から外すと、はきはきと皆に声をかけた。  
マニフィコさんに「だいじょうぶ?」とか「ごめんなさい、お兄様」とか優しい言葉は一切無しだ…。  
ファルネーゼお嬢様が「誰よりも優しくなれる」とか誰かが言ってたのは何かの冗談だろう…。  
横に細長い砲台室は、側舷に面した天井が湾曲した緩いカーブを描き、大砲と発射するための窓が一定間隔を開いて並んでいる。  
壁際には転覆した際に倒れた火薬の樽がごろごろと転がっていた。  
火薬樽から中身を床にぶちまけ、人数分を縄で繋げて海に次々と放り込む。  
イシドロが窓から身を乗り出し、甲板に向けて合図の炸裂木の実を投げ付けた。ぱちぱちっとしょぼい音を立てて木の実がはじける。  
火トカゲの精霊は嵐のせいかどうも調子が悪いようだが、セルピコには聞き取れるだろう。  
――退避準備OK!  
 
大怪獣ハナゴンと風雨に揉まれながら一人戦っていたセルピコ。  
ファルネーゼの救出は無事完了したようだけれど、…しかし結局ハナゴンが。  
陽動で注意をひきつけたはいいが、現在ハナゴンの注意をひきまくってるセルピコがファルネーゼお嬢様と合流したら、追って来られる可能性大だ。  
鼻攻撃を躱しているうちに、段々目が攻撃パターンに慣れてきた。  
…要するに追って来られないようにすれば、別にとどめを刺す必要はない。  
というかこんな巨大怪獣いったい一人でどうやって倒せと言うんですか…、と思わずぼやきたくなる。  
間合いをはかって振り降ろされた瞬間に、木の幹のような太さの鼻に飛び乗った。  
そのまま一気に家ほどの大きさの頭部へ追い風に乗って飛翔する。セルピコのマントが旗のように風になびいて嵐の空に翻った。  
前回の雪辱戦、とばかりに巨大な眼を狙って右手に握る羽ぼうきを振り上げた。  
――旋風一閃。  
かまいたちの真空波がハナゴンの右眼を斜めに切り裂いた。どっと溢れる血液と一緒に、ハナゴンの裂けた口から腹の底に響き渡る吠え声が風の怒号に混じる。  
いける、もう片方の眼も、と思った瞬間、裂けた右眼のすぐ上の頭頂部から噴水の奔流のような潮が吹き上がった。クジラの潮吹きは、本来鼻ではなく背中側で吹く。  
セルピコの身体が猛烈な潮に巻き上げられて宙高く浮かんだ。風のコントロールが利かず、潮に流される体をハナゴンの鼻の造る輪が、がっきと掴み上げた。  
めしめしっとセルピコの肋がひしゃげる嫌な音が響いた。苦悶のあまり声も出ない。  
片方だけのハナゴンの眼が爛々と憎悪の光を放ってセルピコに視線を据えている。  
セルピコを巻き付けた鼻が、大きく開いた巨大な三角形の口に向けて折り曲げられた。  
セルピコの体が天地逆様になる。外側に湾曲してぎっしりと並ぶ、子供の背丈ほどもある乱杭歯が間近に目に飛び込んだ。  
――食う気だ。  
目前に迫った洞窟のような口蓋の奥へと必死に羽ぼうきを振った。  
ハナゴンの舌が縦一筋に切り裂かれて血飛沫がどっとあがる。  
再び鼓膜が破れそうな凄まじい咆哮がまともにセルピコを直撃した。折れた肋にびりびりと響く。  
血の溢れる三角形の口が閉じられ、代わりにセルピコの身体が高々と掲げられた。  
横殴りの雨が降り注ぐ中、圧搾機にかけられたような強烈な圧迫がセルピコの胴体を締め上げた。背骨がぎしぎしと軋み、骨格の内側で守られた内臓が悲鳴を上げる。  
捩じ切られる、と思った瞬間、一発の大砲の轟音が雷鳴と共にとどろいた。  
 
豪雨を弾き飛ばし、唸りを上げて飛来した鉄球がハナゴンの眉間の中央に命中した。  
ハナゴンの苦悶の叫びと一緒にセルピコを締め上げる鼻の輪が緩み、荒波の上に身体が投げ出される。  
側舷の窓の外に乗り出された大砲の発射元では、  
「いやったぜー、大命中!」  
とはしゃぐイシドロと、  
「う、うああああ、こ、ここっちに向かってくるじゃないかあーっ」  
ムンクの叫びの表情をしたマニフィコさん、艦を壊された恨みに一矢報いたロデリックがいた。  
「ファルネーゼ、火をつけろ!」  
真剣な表情のロデリックが砲台室の中のファルネーゼに向かって叫んだ。  
ファルネーゼの前には即席の簡易時限爆弾があった。  
時限爆弾、といっても火薬樽五樽を並べて荒縄でぐるぐる巻きにして、縄の先端を床に延ばしただけの粗雑な代物だ。…原始的だが、しかし火をつけて火薬に着火するまでの時間稼ぎはできる。  
ファルネーゼが火口を縄の端に押しつけた。縄に移った炎が床の上で燃え始め、蛇のようにのたくりながら炎を火薬樽に近付けてゆく。  
全員が窓の外から大波で揺れる海面に飛び下りた。泳げるかどうかあやしいキャスカはロデリックが抱えた。キャスカはかなり嫌そうな顔をしてるが。  
怒りの形相凄まじいハナゴンが、転覆した軍艦にまともに覆い被さった。  
砲台口に覗く大砲を鼻攻撃とヒレで叩き壊し始める。落とされた大砲が派手な水飛沫を上げて海に沈んだ。  
上下左右に揺れて破壊される砲台室の中で、燃え縮れた導火線の縄の炎が火薬樽に引火した。  
とどろき渡る爆音と衝撃波が、嵐の海に炸裂した。  
砲台室がまともに吹き飛び、沈没寸前の軍艦の海面上の木造船舶が一気に炎の帯に包まれた。雨が叩く黒い海面に映った炎がゆらゆらと揺れる。  
下顎にまともに爆風を浴びたハナゴンが、巨体をのけぞらせて絶叫しながら海中に没した。跳ね上がった大量の水飛沫が、ざぶりと炎上する軍艦の炎を半分掻き消す。  
狂ったようにジグザグに折れ曲がりながらハナゴンは潜水した。焼け爛れた皮膚に海水が染み込み、苦痛を加速させるのを罵倒し呪い憎みながら。  
再びハナゴンは絶命寸前の軍艦に、すべての憎悪を叩きつけて下から突き上げた。  
真ん中で真っ二つになった軍艦の残骸が宙に吹き飛び、その中央からハナゴンの巨体が、天に向けて放たれた巨大な弾丸のように真っ直ぐ昇る。  
――その一瞬。  
天の黒雲の一点から迸った稲妻の光輝く白い軌跡が、雷鳴を響かせながら狙い目掛けたように宙を垂直上昇飛行するハナゴンを直撃した。  
凄まじい轟音と共に空が雷光で激しく明滅した。荒れる海上で樽に縋りついて空を見上げる人々の顔が、雷光と同じ色に染まる。  
天から雷神が投げつけた落雷の槍にハナゴンの黒い巨体が貫かれ、縫い付けられて空中で一瞬静止したかのように見えた。白熱した無数の光の蛇が網の目のようにハナゴンの巨体に絡みつき、純粋無比の苛烈な電気エネルギーが音を立てて放射線を空に放つ。  
雷鳴が止み、空中放電の焦げ臭い臭気が辺りの空気に広がる中、ハナゴンの巨体が頼りなく尻尾から海面にざぶんと没した。  
そのままぷかりと巨大な腹を見せて浮かび上がり、大波に流されて遠ざかってゆく。  
遂に見せ場のなかった海に浮かぶガッツの隣では、シールケが肩で大きく息をして振りかざした杖を握り締めていた。  
…魔術とは、奇跡を呼び起こす御業。シールケが雷神を召喚したのだ。  
 
ハナゴンが斃れると同時に、嘘のように吹き荒れていた嵐が止んだ。雨足がぴたりと止まり、波を巻き上げていた暴風が収まって、空を覆っていた黒雲がちぎれて晴れてゆく。  
雲間から最初の太陽の光が射し、嵐とハナゴンの残した無残な爪痕が浮かび漂う海上を照らし出した。  
残骸、としか呼びようのない、軍艦だった木ぎれの集積物があちこちの波間に浮かび、その周囲には無数の砕片と、からくも生き延びた人々が樽や木材にしがみつき、散らばって緩やかな波にたゆたっている。  
樽に縋っているファルネーゼが、背中を浮かばせて海面に漂うセルピコの姿を発見した。  
茨の鞭を限界ぎりぎりまで引き延ばして、掴んで必死に引っぱり寄せる。  
両眼を閉じた意識のないセルピコの青褪めた顔を見て、ファルネーゼお嬢様はぼろぼろに泣きながらセルピコをの肩をがくがくと揺さぶった。  
「セルピコ!セルピコってば!黙ってないで返事をしなさい!…しなさいっ!返事しないと承知しないわよ!」  
怪我してるのなら揺さぶらない方がいいんじゃないのか…、と横のロデリックが口に出しかけた時。  
「……は…い、お嬢様…」  
とうっすらと眼を開いたセルピコが小さく呟いた。ファルネーゼを安心させようと、無理やりに血の気の失せた顔で笑顔を作って見せる。  
ファルネーゼがわっと泣きじゃくってセルピコに抱き付いた。  
肋全壊のセルピコにとっては地獄の拷問だが、最後にファルネーゼお嬢様からぎゅっと抱き付かれたのはいったい何年ぶりのことだろう…、と考えると天国の拷問かもしれない、と波に浮かびながらこっそり思う。  
婚約者として、目の前でファルネーゼが他の男に抱き付く様子がかなり面白くないロデリック。  
しかし、この状況でファルネーゼに文句をつけるのも、心の狭い度量の小さい男と思われそうだしなー、とぐっと文句を呑みこんだ。  
代りに、心の中の閻魔帳を開いて『恋敵:第二位 セルピコ』としっかり名前を書き留めておいた。ちなみに『第一位』の欄に書かれている名前はガッツだ。  
…案外彼女は気が多い女なのかもしれないなー、とは思うが、『自信満々』がロデリックの信条だ。  
この旅の間にライバル全員蹴散らして、俺がファルネーゼのハートをぎっちりがっちり掴んでメロメロにさせてやるぜーっ、と熱く激しい闘志を燃やしている。…がんばれ。  
イシドロが波間に漂うガッツとシールケの姿を発見して、  
「おーい、こっちだ、こっちー」  
と大きく手を振った。  
…なにはともあれ、旅の一行全員はなんとか生き延びた。活躍場面のなかったガッツは『くそう、俺様が主役のはずじゃーねえのかあっ』と、一人内心でぼやいていたが。  
 
エルフへルム行きの旅はまだ続く。以下次号。  
 
 
…そして、大洋に島のような巨体を浮かばせ漂流するハナゴンもまた、からくも生き延びていた。  
落雷で全身の表皮が焼け爛れ満身創痍のハナゴンの肉体は、未だその生命が尽きてはいなかった。心臓はか細い脈を打ち、傷だらけの巨躯に血液を循環させ、ハナゴンの巨体を生き長らえさせていた。  
波間を漂いながら、ハナゴンは『何故、天は人間に味方をしてハナゴンを打ち捨てたのだろうか』とクジラの脳味噌で考え続けていた。  
天からの落雷、それは明白すぎるぐらい明らかな天の啓示だ。天意の象徴だ。  
天の意志が、ハナゴンを打った。  
……何故だ、とハナゴンは思考する。  
そして思考することのできる己れに気付く。  
…ハナゴンは、未だ生きている。天意にしたたかに打ち据えられながらも、未だハナゴンには生がある。  
片方だけになってしまった視界で世界を知覚する。ハナゴンの巨大な眼は海面に半ばほど漬かり、海面下と上の両方の世界を映している。  
海の上では嵐の過ぎ去った後の穏やかな太陽の光が降り注ぎ、空の色を映した濃紺色の海原に、星屑のような眩い光の帯がきらめいていた。  
海面下は嵐など知らぬ風情で穏やかだ。  
重力に縛られない、優しくて厳しい無限の世界がどこまでも広がっている。寄せては返す穏やかな波が、ゆっくりハナゴンの巨体をいずこか知らぬどこかへと運んで行く。  
銀色の鱗の鰯の群れが悠々と泳ぐ様子がちらりと視界の端に映った。  
ここは、ハナゴンが生まれた世界だ。  
ハナゴンは苦痛を知覚する。全身のどこもかしこも傷だらけで、生を呪うような激痛に溢れている。呼吸し、肺から酸素を取り込む度に、体中の血管の中を苦痛の毒素が駆けずり回るようだ。  
……それでも、世界は美しい。ハナゴンの内側の苦痛を失う事は、同時にハナゴンを取り巻く外側の世界を失う事と同義だ。  
自問自答の方向をハナゴンは変換する。  
天がハナゴンにその生を放棄せよ、と要求されたらハナゴンは従う気はあるか?  
考えるまでもない。…否だ。  
天はハナゴンの味方ではない。だがおそらく人間の味方でもない。何故ならハナゴンには未だ生命が残されているからだ。人間に荷担するなら天はハナゴンの生命を根こそぎ奪い尽くすだろう。  
ひとつだけ理解したことがある。  
天は公正でも善良でもない。気紛れで残酷で理不尽だ。退屈しのぎに生き物を駒にして、双六遊びをする博打うちのごろつきとたいした違いはない。  
ハナゴンの海上の視界の片隅の遥か彼方に、海から立ち昇る潮吹きの柱が映った。  
…さっきのクジラの群れ達だ。嵐が収まった海上をのんびりと遊泳している。  
潮吹きの下には彼等の雄大な体躯が悠々と波を渡り、堂々と海を進んでいる。  
すべての生き物の中で最大級の大きさを誇る、海の王者の姿だ。  
流線型の体は水の抵抗を受け流し、尾びれは力強く水を蹴ることができる。海で生存することに適した、機能的で優美なかたちだ。  
クジラ達の潮の柱が跳ね上げる水飛沫がきらきらと太陽を反射して、陽光の滴の首飾りように眩しく輝いて見えた。  
…不思議だ。気紛れな博打打ちのごろつきが造ったこの世界には、ありとあらゆる理不尽な暴力と死と苦痛に溢れながら、同時に天界から零れ落ちたような光輝と調和が一瞬だけでも存在できることが。  
ハナゴンは遠くから彼等を見守る。懐かしい喪失した大切なものを眼にするような思いで見守る。隻眼になったハナゴンは、前よりも一層醜い顔として彼等の眼に映るだろうな、とハナゴンは思う。  
…それでも彼等の姿を遠くから目に映すことができるのが、ハナゴンは嬉しい。  
たとえ片方だけになっても眼が残っていて良かった。視覚を失えば人間相手に戦うのは恐ろしく困難になる。  
満身創痍の体を海に横たえながら、ハナゴンは『やっぱり人間は一人残らず皆殺しだ』の決意を新たにした。  
天がハナゴンに味方しようがしまいが、人間の肩を持とうが持つまいが、それはハナゴンの意志とは関係ない。  
ハナゴンはハナゴンだ。そしてハナゴンはクジラだ。クジラの敵は、ハナゴンの敵だ。  
ハナゴンにはまだ生命があり、残されたそれをハナゴンは限界まで精一杯謳歌することができる。  
……とりあえず、しばらくは怪我を治すことに専念しよう、と思いながらハナゴンはゆっくり眼を閉じた。  
 
―――十一年後、残酷で理不尽な天は遂にハナゴンの生命を根こそぎ奪い尽くす。  
ハナゴンは残りの生涯を使って人間の漁船、軍艦を手当たり次第に沈めに沈めた。総数二百二十六隻。死亡人命数は千を軽く越えた。  
ハナゴンの遊泳する海域は航行不能の魔の海域と化した。  
漁船がその海域に侵入するや否や、どこからともなく嵐を引き連れた一つ目の海の魔物が出現し、恐ろしい形相で船を襲撃して沈没させるのだ。  
「海の魔物」を漁民の世迷い言として取り合わなかった領主たちも、実質上、航行不能海域が海図上に存在することを認めざるを得なくなった。  
業を煮やした沿岸諸国の連合海軍が総数二十隻の艦隊を組織し、三日三晩に渡る攻防を繰り広げた末、遂にハナゴンは壮絶な戦死を遂げる。  
軍誌にはハナゴンの事を「凶暴化したクシャーン人の生物兵器」として記されたが、人間がハナゴンをどう捉えようとそれは人間側の問題であって、ハナゴンの知った事ではない。ハナゴンにとっては人間は海で生存できない下等生物だ。  
同様に、近辺の迷信深い漁村がハナゴンの祟りを恐れて密かに祠を奉ったことも、ハナゴンの知った事ではない。  
ハナゴンは死んだ後で、嵐を呼ぶ海の魔物から嵐を司る海の精霊に昇格された。  
…ハナゴンは、天に所属する存在として漁民たちから認知された。  
人間から崇められてもハナゴンは別に嬉しくはないだろうが、ハナゴンの祟りを恐れて子供連れの雌クジラは漁の対象から外される事になったのだけは、面目躍如たるものがあるかもしれない。  
魔の海域だった領域では、今もクジラの群れが潮を吹いている光景をよく見掛ける。  
 

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