ちゃぽん、と天井から水滴が翡翠色の湯船に滴り落ち、水面に波紋が生じて広がった。  
湯船からはもくもくと湯気が上がり、白い濃霧が浴室いっぱいに立ち込めている。  
シールケは憂鬱な気持ちで手の平にお湯を掬い上げた。爽かな香りの漂うお湯が、指の間から零れる様をぼんやりみつめる。熱い湯に浸した白い裸体はほのかに赤らみ、湯の中の揃えた膝小僧がゆらゆらと揺れて見えた。  
…いつもなら入浴はシールケが一日のうちで一番くつろげて、心をほぐせる時間のはずだ。でも、今日は…どうにもそんな気分になれない。  
明日シールケは、慣れ親しんだ霊樹の館を離れてイーノック村に出発する。館を訪れた村の老人の願いのために、トロール退治に赴くのだ。…死期の迫っているお師匠様を一人後に残して。  
納得できない、と思う。都合が、良すぎる。  
ずっと昔、お師匠様に対して恩を仇で返すような真似をした村が、自分達が困ると平気でのうのうと救いを求めてくる。…お師匠様に謝りもしていないくせに。  
一体どの口で『偉大な魔女さま、お救い下さい』なんて言葉が口にできるのか。そんな村にお師匠様やシールケが手助けするような値打ちがあるのか。  
お師匠様が一言も村人逹の仕打ちを譴責しないだけ、余計にシールケの胸には憤りがむかむかと込み上げる。  
そんな村、いっそのこと……。  
『滅びてしまえばいい』と呟きかけて、シールケの口の中に苦い味が広がった。お湯を手の平に掬い、顔に叩きつける。  
自己嫌悪にかられる。…ごまかしてる。  
お師匠様が心配なのも本当、近郷近在の村にわだかまりがあるのも本当、…でも一番の本当は…怖いのだ。自信が…無い。  
数匹のトロールなら、シールケは慣れた余裕で蹴散らせる。実力で排除できねばこの森をシールケは歩けない。  
でも何十匹、何百匹ものトロールの群れは?……シールケは、そんな大群のトロールをまだ目のあたりにしたことはない。  
…もしもシールケが失敗したら?何か間違いを冒したら?  
熱い湯に漬っているにも関わらず、背筋に氷柱を押しつけられたような寒気が走った。  
トロールは人間の女を拉う。拉われた女逹が辿る運命をシールケは知らない。  
昔、お師匠様に何故トロール逹は女を巣に連れて行くのかを尋ねたら、お師匠様は少し困った顔をされて「…そうねえ、シールケがもう少し大人になった時に改めて教えましょう」とシールケに言った。  
…まだ大人ではないシールケには、聞かせるのもはばかるような恐ろしい事が女達の身の上に降りかかるのだろうか。  
もしもシールケがトロール退治に失敗すれば、拉われた女達の運命を我と我が身で直接知る事になる。…ぞっとする。  
シールケはまだ半人前の修行の身だ。自分は絶対に失敗などするはずがない、とはっきり言い切れる自信が……無い。  
自負ならある。森の魔女の一番弟子の秘蔵っ子は、他の誰でもなく、シールケだ。…でも、経験に裏打ちされた根拠のある自信は…シールケにはまだ、ない。  
でも、お師匠様は、シールケがやり遂げられると思ったから命じたのだ。シールケを信頼してくれているから。  
…お師匠様。  
お師匠様のことを考えると、胸を締め付けるような強烈な悲しみが込み上げた。泣くまい、と思いつつ涙が目の端に浮かぶ。  
…もうすぐお別れ。お師匠様には、残り時間はあと僅かしかない。  
お師匠様がシールケにトロール退治を命じた理由は、本当はちゃんとわかってる。  
…これは、シールケの卒業試験だ。お師匠様がいなくなっても、シールケが一人で生きていけるようになるための、シールケの初陣だ。  
だから、絶対に失敗できない。お師匠様に、心配や心残りや悔いが残らないように、安心して…新しい世界に旅立つ準備ができるように、シールケは完璧にやり遂げなければならない。  
ため息をついた。  
…だから、余計に怖いのだ。  
失敗できない。お師匠様をがっかりさせて、シールケに今まで教えてきた歳月は無為で無駄な時間だったのか、と嘆かれて後悔させるのが恐ろしい。身体が竦む。  
だから失敗する事が、とてつもなく怖い。  
…堂々巡りだ。悩むだけ意味がない。  
 
かすかに目眩を感じた。お湯にのぼせたのかもしれない。今夜はお客が多いから、最後の人が冷めないように少しお湯の温度を高めにしておいた。  
不意の闖入者である客人逹のことを考えて、また憂鬱になった。明日、シールケが行動を共にせねばならない人々だ。  
…お師匠様は、シールケ一人では信用できないのだろうか、と少し思う。  
助っ人なんて足手纏いになるだけなのに、と呟きたくなる。客人の一行の面々を思い浮かべ、シールケの顔が渋面になった。…そう、助けどころか迷惑千万よ。  
…特に、あの猿がっ。  
浴室の外の木の枝からは、気絶したイシドロが白目を剥いて蔦でぐるぐる巻きにされて吊されている。頭頂部から大小のたんこぶを生やし、顔面は血みどろだ。  
破廉恥にも旅の女性二人の入浴に堂々と参加しようとしていたのを、危うくシールケが発見して食い止め、成敗したのだ。  
いったい何考えてるのかしら、なーにが『子供の特権!』よ、いやらしい……。  
反射的に不快な記憶が脳裏に蘇る。こともあろうに、あの猿の手で……変な場所を揉み回されたのだ。  
うーっ、と呻いて両手で湯船の中のあるか無きかの幼い乳房を掻き抱いた。忌ま忌ましい発情猿の手つきを思い出してしまった。虫酸が走る。…悔しい、気持ち悪いっ。  
不潔な感触を石鹸で洗い流して忘れよう、と湯船から立上がりかけた時。  
ガラッと浴室の扉が開いた。シールケの体が硬直する。…もしやまさか、吊るしたはずの、あの猿がっ!?  
「…先客かよ」  
悲鳴を上げてシールケは湯船にしゃがみ込んだ。  
例の客人の一行の、黒ずくめで左腕が義手の大男だ。軽装でタオルを肩に引っ掛け、悪びれもせず堂々と戸口に立っている。  
「先に入ってますっ!わかったら、さっさと出て行って下さいー!」  
湯船に真っ赤な顔を伏せ、両腕で肩を抱きながら大声でシールケが叫んだ。  
いったい、揃いも揃ってこの人達は何考えてるのよーっ、と心の中で罵倒する。レディーの入浴を覗くなんて、常識ってものはないのっ!?  
大男はシールケの抗議に動じた風もない。  
「…嬢ちゃん、女の長風呂待たされるのは勘弁してくれや。明日朝早ェんだろ?こっちはとっとと風呂済ませてさっさと寝てェんだ。俺の方は手早く済ませるから気にすんな」  
…と、軽く平然と言い放ち。大男は浴室に入って扉を閉め、横を向いて平気で堂々と服を脱ぎ始めた。  
相手のあまりの非常識さに、シールケは絶句し、呆然とした。  
…って、ま、まさかこの人、一緒に入る気っ!?いったい、どういうつもりよーっ!と心の中で大音声で絶叫する。  
「…ちょ、ちょっと、あなた!私が先に入ってるんですよ!女性の入浴中に、失礼と思わないんですかっ」  
「二人ぐらいなら入れんだろ?ケツの青いお子様が、いっちょ前に女ぶって恥ずかしがんなよ、面倒くせェ。…俺ぁガキんちょの裸に興味ねェし」  
面倒そうに言いながら、大男が両腕を交差させてシャツを頭から脱いだ。ズボンに手を掛けるのを見て、慌ててシールケは目を伏せた。  
…な、なに考えてるの、この人…。  
湯だった頭がくらくらした。あの猿の男の子の躾をこの男がしてるなら、猿の無礼無知蒙昧アホさ加減も、さも在りなんと思う。  
『…恥知らずにもほどがある。恥ずかしくないわけ?』と思うけれども…大男があんまり普通に堂々としているので、もしーかすると、シールケの方が子供っぽいわがままを言ってるんじゃないか、という気がうっかりしてくる。  
いや、そんなはずはない、そんなはずはないんだけど…。  
まごついている内に義手を外した全裸の大男が、浴室の中央のシールケが漬かる浴槽へ堂々とやって来た。  
『いやだ、来るなーっ!ドスケベっ、変質者ーっ』と心の中で叫ぶけれども『…もしかして、私がわがまま?』という一抹の疑問が頭を掠めて、叫びが口にできない。  
「…で、出て行ってくださいー」  
蚊の鳴くようなか細い声で、できる限り男から離れ、身を縮こませて抗議するのが精一杯だ。  
暗示の術を使おうとしたけれど、混乱していてうまく思念が集中できない。  
浴室の入り口脇に立て掛けている杖が、喉から手が出る程欲しかった。術を使えばこの傍若無人な最悪の変質者を、お猿の隣に吊し上げにしてやれるのに…。悔しい…。  
 
大男は気にした風もない。浴槽の脇に座り込み、手桶でかかり湯を浴びながら『こっちを見ないでっ』と念じているシールケに向けて視線を投げる。  
「…別に取って食やしねェよ。んな縮こまるなって」  
言いながら大男は立ち上がり、シールケが固まっている反対側の湯船に、ざぶんと筋骨逞しい長身を沈めた。  
ふーう、と肺一杯から絞り出したような深く長い息を吐く。浴槽に凭れて気持ち良さそうに目を閉じ、湯船の中でリラックスしまくっている。  
…シールケは半泣きだ。リラックスどころではない。湯の中で男の伸ばした足の爪先がシールケの太腿に触れ、「ひっ」っと小さく叫んで必死で男から身体を離す。  
膝小僧を抱えて背を丸め、水面ぎりぎりに真っ赤になった顔を伏せた。悔しさと恥ずかしさに歯噛みする。  
…なんで痴漢まがいの破廉恥極まる犯罪者がこんなにも堂々としていて、シールケの方が身の置きどころのない、いたたまれない恥ずかしさを感じなければならないのだろう。  
…理不尽だ。絶対に間違っている。  
叫びたい。非難したい。口を極めて罵り倒したい。でも言えない。…涙目だ。  
……子供。  
子供だから、恥ずかしがってはいけないというのか。  
でも、だけど、まだ大人じゃなくたって、シールケは異性に裸を見られるのは恥ずかしい。不愉快だ。見られたくない。プライバシーの侵害だ。ただ単に嫌だ。  
……嫌なことを、嫌だからやめてくれ、って言うのは、わがままなのか。  
ぎりっと唇を噛む。…悔しい。子供だから、半人前だから、大人じゃないから、どうにもできない嫌なことや怖い事が、いっぱいたくさんある。  
こんな非常識で無神経な人と明日から一緒に行動を共にしなければならないのか。お師匠様に助っ人の人選を間違えていると訴えたい。  
…でも、言えない。言ったらわがままだ。お師匠様がシールケを心配してくれる意を汲めないような、わがままな子に、なりたくない。  
…もうすぐお別れの、お師匠様。  
お湯に茹だった顔から汗が滝のように吹き出し、鼻の頭から滴り落ちた。ぎゅっと閉じた瞼の端から、一緒に涙が零れ落ちる。ごた混ぜの感情が胸の中でぐるぐる渦を巻き、心臓が波打って頭がぐらぐらした。…暑い。お湯の温度をもっと低くしてれば良かったと後悔する。  
大男の方はシールケの気も知らず、のんびり湯に漬っている。…憎ったらしいっ。何か言うだけ無駄、と諦めて、熱い湯に汗を流して耐えながら、ひたすら大男が早く風呂から上がってくれる事を願った。  
無遠慮な視線を投げ掛けながら、大男がシールケに声をかけた。  
「…お前、そろそろ上った方がいいんじゃんねェか?顔真っ赤だぞ?」  
『あなたが出て行きなさいよーっ!』と心の中で叫ぶ。…無視だ、無視。痴漢と話す言葉などシールケにはないっ。  
シ−ルケが口をへの字に結んで俯いて黙り込んでいると、大男はあてつけがましく肩をすくめて湯船から立ち上った。幅の広い両肩から背中を伝って湯が流れ落ちる。  
浴室から出て行ってくれるのだろうか、とのシールケの期待も虚しく、大男はそのまま浴槽の隣の床にどかっと背中を向けて座り込み、たわしで体を洗い始めた。…しばらく出て行く気はなさそうだ。  
ううっ、と呻く。釜湯でにされている心境だ。浴室の出口が果てしなく遠く思えた。熱い湯から飛び出して外の夜風に晒され、ひんやりした空気を思い切り肺に吸い込みたい。  
頭が朦朧として視界が霞んだ。心臓が爆発しそうな勢いで拍動し、呼吸が苦しい。  
…お湯から上りたい…。でも、この恥知らずの変質者に裸見られるなんて絶対に嫌……。  
湯の中で姿勢を保っているのが辛くなって来た。平衡感覚が薄れ、どちらが上でどちらが下なのかよくわからなくなる。浴室の景色が乱れて回り、座っている身体がぐらぐらと揺れた。  
意識がすうっと遠くなる。傾いた顔が水面に半分つかり、耳の穴に熱い湯が流れ込むのを感じながら、ずるずると体が湯に沈んでゆくのをぼんやり意識した。  
気を失う寸前に、湯に没しかけた片目が浴槽越しの男の背中を捉えた。左腕が肘から先がちょん切れている。『腕のもげた人形みたい、変なの…』と思った瞬間、思考が途絶えた。  
 
 
「…おい、おいって。目ェ覚ませよ」  
誰かがシールケの頬をぺちぺちと叩く。低い男の声。  
背中の下に濡れた堅い床を感じた。浴室の床に伸びた身体が横たえられているのだとわかる。  
…誰かしら。誰だか知らない人。閉じた瞼の向こう側に誰かがシールケを覗き込んでいる気配がする。  
返事をしなければ、と思うけれど舌が縺れて回らない。瞼が重たい。…もう少し眠っていたい…。  
声が沈黙した。唾を飲み込む微かな音。誰かの視線がシールケの裸体の上をゆっくり往復する。足の爪先からすんなりした両脚に延び、太腿の付け根の赤みがかった切れ込みで停止した。…おしっこが出るところ。なんでそんな場所を熱心に見るのだろう、と怪訝に感じる。  
誰かの息が一瞬荒くなり、シールケに聞かれるのを恐れるように、すぐに低く押し潜められた。  
誰かの視線。誰かのまなざしがシールケに注がれる。  
さっきの声を思い浮かべる。聞き覚えのある大人の男の声。誰だったっけ…。  
熱っぽい視線がシールケをじっとみつめている。物問いたげな、何か言いたいことがあっても言えないような人が、眼で物語るような視線。…言いたいことがあるのなら、ちゃんと言えばいいのに。大人なんだから。  
濡れた髪の毛の張りついた頬を大きな手の平が包んだ。指の腹がシールケの頬を何度もゆっくり撫ぜる。…愛しそうに。  
…そっか。誰だかよくわからないこの人は、シールケの事が好きなのね、とぼんやり思う。  
手の平が顎の下をくすぐり、指先が唇を撫ぜた。…くすぐったい。喉を降りて鎖骨の中央の窪みを通り、昼間猿少年の手が揉み回したシールケの淡い乳房を、大きな手がそろそろと触れる。  
うっかり力を入れて壊してしまうのを危ぶむように、おそるおそる手の平が這い、指先が薄紅色のシールケの乳首を掠めては離れ、離れてはまた触れた。  
……怖がっているみたいだな、と思う。何が、怖いのだろう。  
シールケが、怖いのかしら。怖いけど触りたい、…そんな感じ。  
シールケの鼻の頭に誰かの息が吹きかかった。半分開いた唇に、何かが押しつけられた。すぐに生温くてぬめぬめしたものが、シールケの歯を割り口の中に入って来た。口腔を探り回り、一緒に熱い呼気が吹き込まれる。  
無反応なシールケの舌に、応じて欲しいと誘いかけるように、何度もそれが熱心に繰り返しなぞり、まとわりつく。…構って欲しい子犬みたい。  
『…これって、何?生き物か何かかしら?』と眉をひそめた瞬間、目が覚めた。  
目の前に、例の傍若無人非常識恥知らず変質者の大男の顔があった。  
睫毛が触れそうなほど間近の距離で、………シールケに、キスしている。  
ショックで身体が硬直した。反射的に思い切り歯を食いしばる。がちっ、と音がして口の中の大男の舌が思い切りシールケの上下の歯に挟まれた。  
大男が顔をしかめ、口許を手で押さえて屈みこんでいたシールケから顔を離した。横を向き、低く舌打ちして渋面で床に唾を吐く。  
シールケは上半身を起こし、尻でずり下がりながら必死で大男から遠ざかった。  
「…なっ、なっ、ななな……」  
『何をしているんですか、あなたはーっ!!』と叫ぼうとしたけれど、余りの事に言葉が出ない。頭がぐらぐらする。…もしかして、今のがシールケのファースト・キス…?  
………嘘。お願い、誰か嘘と言って……。  
口許を押さえたままの大男が、小憎らしいほどに平然として、しかめっ面で答えた。  
「息してねェから口に息吹き込んだんだよ。…助けられて礼がこれか」  
言われて、湯船の中で気を失った事を思い出した。じゃあ、人工呼吸だったのか。『…でも、人口呼吸って、息を吹き込むものであって、舌は入れる必要ないんじゃないかしら…』という疑問が一瞬頭を掠めはしたが。  
何はともあれ、助けられた事は事実だ。シールケは、たとえ相手が非礼であっても自分が礼儀知らずな真似をするのは、嫌いだ。癪だけれどお礼を述べなければ…、と思った瞬間素っ裸の肢体を大男の前に晒している事に気が付いた。  
悲鳴を上げてがばっと床に伏せて体を隠した。床に押しつけた顔がくしゃくしゃになる。泣くまい、と思いつつ涙がぼろぼろ零れて止まらない。  
…悔しい、こんな奴に裸見られた。しかも、ファースト・キスまで…。…あんまりよ。  
嗚咽が喉から洩れた。こんな男の前で、泣きたくない。歯を食いしばる。『泣くな、私』と言い聞かせたけれど、堰を切ったように涙が溢れだして止まらない。  
 
お師匠様のこと、トロール退治のこと、明日行く村のこと、不安なことや怖いことや悲しいこと、嫌なことがいっぺんに心の中に押し寄せる。  
声を上げて泣き出してしまう。泣きながら、『これじゃ、まるきり子供だ。嫌だ』と思い、自分が嫌でまた涙が込み上げる。  
大男があてつけがましく「ガキは面倒くせェ…」と呟いた。…うるさいっ、黙れーっ、と心の中で罵り返す。  
泣きじゃくっているシールケに、大男がちらちら視線を寄せた。…どうも、シールケの尻を見ているような気がしてならない。気のせいと思いたいけど。  
頭の上にぽん、と大きな手の平が置かれた。投げやりな慰めの声が落ちる。  
「…なんかよくわかんねェけど、泣くな。な?」  
あてつけ返しに、一層大きな声で思い切りわんわん泣いてやった。大男がうんざりしたような溜め息を吐いた。……ざまみろ、とこっそり呟く。  
「あー、しょーがねェなあ…」  
と言いながら大男がシールケの腰に腕を回してひょいっと持ち上げた。  
「…なっ、なにすっ……」  
一瞬泣くのを忘れた。大男の腕から逃れようと暴れる。けれど、肘から先のない左腕が器用にシールケの腕を封じてしまい、引き寄せられる。胡座を組んで座り込んだ大男の体にシールケの背中がぴったり張りつき、膝の上に乗せられた。  
シールケの頭のすぐ上から男の声が落ちる。  
「じゃ、好きなだけ泣け。胸貸してやっから」  
冗談じゃないっ、と思って逃れようとしたけれど大男の両腕が作る輪が、がっちりシールケを押さえ込んで身動きできない。  
「はっ、はなっ…、して……」  
『この変態ロリコン男っ、今すぐ手を離なしなさいっ』と念じたけれど、通じない。…心が乱れているからだ。精神統一が中途半端だ。感情が、制御できていない。  
…未熟者だ、半人前だ、こんなので本当にトロール退治なんてシールケにできるのか、と自己嫌悪にかられて止まっていた涙がまた溢れだした。  
しゃくり上げているシールケの上で、大男が小さくため息を吐いた。大きな手がシールケの頭にまた置かれ、ぶっきらぼうな仕草で撫でる。  
…不思議に心が慰められた。膝枕をしてもらいながら木陰の下でうたた寝する時に、頭を撫でてくれるお師匠様の手の感じと、ちょっと似てる。  
大男の体がシールケを包んでいる。背中の肩胛骨の後ろで大男の心臓の音が聞こえた。…変な感じ。お師匠様以外の人と、こんなに体をくっつけあったことはない。  
…体の大きな人だな、と改めて思う。ごつごつしてて堅いけど温かい。大木のうろに潜り込んで雨宿りしているみたい。  
うんと小さな頃は、お師匠様の膝の上で抱っこしてもらったことはあるけれど、シールケが大きくなってからはしてもらわなくなった。お師匠様が重たいだろうし、もうシールケは小さな子供じゃないし。  
……そういうことは、もうすぐ全部なくなってしまう。  
「……明日、こわい」  
すすり泣くあいまにぽつんと呟いた。  
「ふーん」  
大男がシールケの肩に顎を乗せて相槌を打った。俯いて嗚咽しながら、涙と一緒に言葉が零れる。  
「…知らない人は、嫌い。こわい。村の人も、あなたたちも、みんな、嫌」  
「だろうな」  
「失敗するかもしれない。ちゃんとやれないかも」  
「そうだな」  
「…お師匠様が、死んじゃうのが、いやだ。一人ぼっちになるの、こわい」  
「…そうか」  
大男が黙った。肩に乗っている大男に頭を凭せ掛けてみる。…ほっぺがざらざらしてるなあ、と思いながら涙の流れるシールケの頬を大男の頬にひっつけた。  
二人して黙り込んだ。天井からまた水滴が滴り落ちて、湯船にぽちゃん、と沈む音が浴室に響く。シールケの背中にくっついている大男の体温が、温かい。  
…あんまり喋らない人なんだな、と考える。指で涙を拭いながら問い掛けた。  
「…大人になったら、こわい事って…なくなりますか?」  
沈黙。返事をする気はないのかな、と思った頃に大男が答えた。  
「…たいしてなくなんねえな」  
こんなに体の大きな強そうな人でも、こわい事はあるのか。  
「あなたは、どんなことがこわいんですか?」  
「んー。…いろいろだ」  
 
答えになっていない。シールケははぐらかされるのが嫌いだ。教える気は、ないのだろうか。…シールケが子供だから。  
子供扱いは…やっぱりされたくない。お師匠様が入寂された後は、シールケは嫌でもちゃんとした一人前の魔女になって、跡を継がなければいけないのだから。  
ふと、今はもう心が落ち着いている事に気付いた。…今なら暗示の術が使えるかも。杖がない分だけ精神集中が必要だけれど、きちんと意識を制御できればやれるはず。この人のこわいこと、聞き出せるかも。  
『自分のために魔術を使っていいの?』と良心の声が囁いた。  
…ちょっと気が咎める。でも、この人はシールケの裸を堂々と見て、平気でプライバシーの侵害をやらかしたんだから、シールケの方にも同じ事をやり返す権利があるんじゃないかしら。…この人の方は裸見られても別に全然気にならないみたいだから、あいことは言い難いし。  
肩に乗っている大男の横顔をみつめた。閉じた右眼の端が僅かにひきつれている。…シールケを見てくれた方が術を掛けやすい。えーと、この人の名前はなんだったっけ…。  
「…ガッツさん」  
思い出した名前を呼びながら、尻を捩って体の向きを変えた。大男の膝を組んだ胡座の上なので足場が悪い。シールケの膝小僧が大男の股間を擦った。くすぐったかったのか、大男が微かにみじろぎして眉をひそめた。  
大男の顔を真正面から覗き込んだ。ちゃんと開いている方の左眼と目が合う。その時、座り込んでいるシールケの太腿に何かがぺたんと張り付いた。  
『なに?』と思ってちらっと目をやる。不可解なものが、折り曲げたシールケの両脚の間で、左の腿にくっついていた。男の人の、おしっこが出るところだ。あの猿の子とはなんか形違うけど。あまりまじまじ見るのも悪いので、大男の顔に視線を戻す。  
…何故か、大男は顔を逸らした。どうしたんだろう。  
…まさかシールケが暗示の術を使おうとしているのに気付いたとか?でも魔術師じゃない人にはわかるはずないし…。大男は横を向いたままだ。  
「ガッツさんってば。…どうして横向いてるんですか?」  
「………」  
黙っている。…よくわからない意味不明な人だ。  
「ガッツさん、こっち向いてください」  
「…なんだよ」  
渋々、という感じで大男がシールケの顔を見た。しかめっ面だ。なんとなく怒っているみたい。  
…やっぱり気付いてるのだろうか。抵抗意識がある人には暗示がかかりにくいのだけれど。  
でも、練習と思って挑戦してみるのもいいかもしれない。そういう相手と出会う事もあるだろうし。  
瞳に力を込めて、不機嫌そうな大男の隻眼をみつめながら呪文を口の中で呟いた。雪球を固めるように意志の力を心の中で凝縮させる。  
大男の瞳孔の、黒い円の中心の一点に狙いを定めた。呪文を詠唱しながら気を楔の形に練り上げる。  
イメージに集中する。細心の注意を払って楔の切っ先を鋭く尖らせ、獲物に射掛ける射手のように大男の眼を凝視した。  
周囲の風景と音が意識から消えた。凝視している大男の隻眼が、虫眼鏡で拡大したようにシールケの意識の中で引き伸ばされて広がる。  
瞳孔の中に、大男を覗き込んでいるシールケの姿が映り込んでいた。一心に呪文を詠唱して大男をみつめているシールケの姿が、シールケをみつめ返す。  
呪文が完成した。限界まで引き絞った弓から矢を放つように、術を狙い定めた一点に向けて鋭く撃ち放つ。  
ぱりん、と薄氷を踏み破るように、大男の意識の表層に穴が開くのを感じた。  
しかめっ面が解ける。顔の表情が弛緩して、暗示の術にかかった人特有の、白昼夢を見ているようなぼんやりした目付きで大男がシールケを見ている。…ちょっと、間抜け面。  
『やった!』と小躍りしたくなった。杖がなくてもちゃんと成功した。…少しだけ自信がついた。明日のトロール退治をシールケはちゃんとやれる、と思える。奢りは禁物だけれど、不安になって失敗するより自分が信用できる方がいい。  
とりあえずプライバシーの侵害を、やり返そう。この大男が怖がるものって一体何だろう?弱味を握ってれば、相手がシールケの指示に従わない時に色々と便利かもしれないし。  
大男の片目を覗き込んでにっこり笑顔で命令する。  
「ガッツさん、あなたが一番こわいものは、なんですか?私に教えなさい」  
 

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