我が名はベヘリット。
この世ならざるもう一つの世界と、人の子の世界である現世との間に、異界への扉を生じさせ、二つの世界の空間を繋ぐ鍵となる存在。
ゴッド・ハンドと呼ばれる御使い達を召喚し、人の子の神では贖えない、根源からの渇望を昇華させ、具現するための神聖なる祈りの呪物。
幽界の、はるか深淵に潜む超越者の元より現世に遣わされ、哀れなる定命の人間をその運命から解放し、人間以上の存在へと変貌させる、大いなる力を持つ神秘の雫。…それが私だ。
愛称はベッチー。
諸君、そう畏れかしこまらずともよい。どうか、親しみを込めてベッチーと呼んでくれたまえ。
ここ二年ほどの間、私は世間から「黒い剣士」と呼ばわされる男の鞄に居を定めている。
この男が私の真の持ち主かどうかは、全能ならざる私には知る術はないが…、ひとつだけ、二年に及ぶ同行の間で私がこの男について知り得た事があった。
…私とて、こんな事実は決して知りたくはなかった。…だが、現実は直視せねばなるまい。
…この男の鞄の中は……臭いっ。耐え難いほどに、臭いっ。鼻が曲がる臭さだっ。
こいつには、衛生観念とゆうものが、ないのかあっ。たまには鞄の中を掃除しろーっ。
血でどろどろの手を平気で鞄に突っ込むなあっ、拭いてから入れろおっ。
放り込んだナマモノを忘れっ放しで腐らせるなあーっ。鞄の底で着々と繁殖しつつある黒カビを、責任持って、貴様がなんとかしやがれえーっ。
一見この男の鞄の内部は、整理整頓がきっちりと行き届き、必要な物がすぐ取り出せるよう配置されているように見える。だが、それは上辺だけだ…。
鞄最深部では、存在を忘れられた種々のナマモノが堆積し、降り積もり、版図を延ばしつつある黒カビへ肥料を与え、その栄養源となっている…。
…二年だ。この男の復讐の旅とやらにつきあわされ続けた約二年の間、…こいつは、一度として鞄の底を直視した事が無い……。人が「黒い剣士」と呼ぶこの男を、私は内心で密かに「黒カビ繁殖剣士」と呼んでいる…。
…もし私に口を利く事が可能であれば、懇々とこいつに説教してやりたいところだが…、残念ながら私には人間語の発声が構造的に不可能だ。これも運命、と諦めて我が身の不運を耐え忍ぶより他にない…。
いつ何時、伝染病発生の温床になってもまるで不思議はない、非衛生極まりない劣悪な環境で私は毎日を過ごしている…。
しかし、私などはまだましな方だ。不定期発行される『ベヘリット連合新聞』によれば、とある真紅のベヘリットさんなどは、持ち主の不注意から下水道に投げ込まれ、そのまま約一年、悪臭ふんぷんたる下水の中を、鼠に齧られ、転げ回り、さ迷い続けたという…。
無事持ち主の手に戻り、日の目を見て晴れ舞台に立つ事ができたから良いようなものの、汚水の中を彷徨い続け、それでも主の元へと健気に帰還した彼に、持ち主は一言の詫びも、感謝の言葉も述べなかったそうだ…。彼の心中は、察するに難くない…。不憫だ…。
…どうか、心ある人々よ…。我々の切なる願いを聞いて欲しい。
もしあなたがベヘリットを手にするような事があれば、ベヘリットを、大切に、大事に、敬意を込めて取り扱って欲しい。
贅沢は言わない。三か月に一度ほど日光浴ができれば、普段は机の奥底にでもしまっていてくれて構わない。思い出した時だけでいい、チーズのかけらなどをたまに投げ与えてくれれば、我々はそれで満足だ…。
どぶに投げ捨てたり、毒矢の盾にして「ベヘリットに当たって命拾いしたぜ、ラッキー」などと喜ぶような、無神経極まりない非人道的行為は、本当に勘弁して欲しいものだ…。
…ベヘリットは、物じゃない。…我々にも、心があるのだよ…。
などと私が、鞄の中でいつものように深遠なる洞察を巡らしていると。
「おおーい、べっちー」
私の上方より聞き慣れた声が耳に飛び込んだ。真っ暗闇の鞄の中を、一筋の光の切れ込みが射して、やがてそれは広がり、四角い空間とそこにちょこんと顔を覗かせる、馴染みの元同居人の姿になった。
我が唯一の友にして、愛称『ベッチー』の命名者たる、パック君だ。…正直、『ベッチー』は…少々センスに欠ける嫌いがある、と思わなくもないが…、指摘するのも彼と私の間の友情に罅を入れる行為のように思えるので、有り難く拝命することにした。
パック君は以前は私のルームメイトであったのだが、最近になってからは、黒い剣士の旅の道連れの、猿に似た面差しの少年の頭上へと引っ越していった。一人部屋は気楽であるが、やはりたまには彼が元気な顔を見せてくれる方が、私は嬉しい。
旅の道連れの面子は増えたが、私を心ある存在として対等に扱う存在は、彼一人だ…。
「ベッチー、ここって風呂が入れるそうなんだけど、ベッチーもお風呂入りたいか?」
なにっ、風呂!?
…パック君、やはり君は私の真心の友だ…。風呂は、この猛烈な悪臭の中で暮らさざるを得ない哀れな私が、今、切実に必要としているものだよ…。できる事なら鞄ごと入りたいものだが…。
パック君と私の間の会話手段として、YES ならまばたき一つ、NOならまばたきふたつ、という取り決めがなされている。瞼に力を込めて、私はまばたきを一つ、パック君に向けて行った。
「おっけー。じゃ、ベッチーも一緒に風呂行こうゼー」
よいしょ、と掛け声を呟きながら、パック君が私を抱き抱え、羽根をはばたかせて宙へ飛んだ。
…パック君には、羽根がある。彼は自由に空を飛べる。…羨ましい、と空飛ぶ彼の姿を間近で見る時、私の心には羨望の想いが込み上げる。
私には目や口はあれど、羽根どころか足すらない。…移動手段が、私にはないのだ。私には、行動の自由がない。いつも人の手から手へと、好き勝手に譲り渡され、振り回される、それがベヘリットたる、私の運命…。
言い忘れていたが、ここは魔女とやらが住む館であるらしい。室内にも関わらず、壁や柱の至る所に種々の植物が入り乱れて花や果実を実らせ、それぞれが放つ芳香が、一種独特の調和を保って、かぐわしく私の鼻孔をくすぐる。
棚という棚には、何かの小瓶や小袋、試験官、大量の書物などが所狭しと並べられており、私の以前の所有者の部屋をなんとなく連想させる。だが、こちらの魔女の住家には、以前の私の所有者の部屋にあったような、昏い、陰湿な空気は微塵もない。
館の主の人格の表れだろうか、ここの空間には心が落ち着く安らぎに満ちている。
…この館の主が私の真の持ち主であれば、と無駄と知りつつ切に願いたくなる。できれば私はこの家で暮らしたい…。この時代にわざわざ風呂を家屋に組み入れ、日常的に沐浴を行う習慣のある人間であれば、かなり発達した衛生観念の持ち主であろう。
この家は、清潔できれいだ。あんな汚い、じめじめした臭い鞄に帰りたくない…、とパック君に抱かれて館の内部を運ばれながら、しみじみと願う。
扉をくぐり抜け、魔女の館の外へ出た。館の周りをぐるっと取り巻いている緩やかな螺旋階段を、パック君と共に降りて行く。
星空がきれいだ。濃紺色の夜空に無数の星ぼしが、宝石箱をひっくり返したかのように惜し気も無く、静謐にきらめいている。館の周囲の森の何処から、梟が単調な一定のリズムで繰り返し鳴く声が聞こえてくる。
頭上を降り仰ぐと、館の屋根から生える霊樹の梢の間を、元素精霊逹がおぼろな光を放ちながら自由気ままに飛び回り、虹色の光の軌跡を夜闇に描いている姿が眩く瞳に映った。
光の軌跡が交差する度に、クリスタルのグラスが触れ合うような響きが宙に谺する。それらが重なり合い、唱和する和音の調べは、天上の妙なる音楽のように私の心を打った。
鞄の外に広がる世界はこんなにも美しい…と、感慨に耽っていると、唐突に醜い物が私の視界に飛び込んだ。パック君が呟く。
「…どろっぴ、まだ吊し上げの刑食らってるのかー」
…例の、パック君の新規の宿主である猿に顔がよく似た少年だ。全裸で蔓に縛られ、浴室と覚しい、もくもくと白い湯気が窓から漏れる小部屋の前で、宙吊りにされている。
…誰かに暴行を働かれたのであろうか。顔面が無残な程変形して白目を剥いて失神し、逆さになった顔から鼻血が逆向きにだらだらと流れ、額と髪の毛を血で赤く染めている。
…哀れな…、と同情の念は沸くが、…しかし、醜い物は、やはり醜い…。
まるで、足で踏んづけて潰れた腐りかけの肉饅頭に、青や赤や紫や黄色や黒のカビが、一斉に色とりどりの醜悪な花々を咲き乱れさせているような有様だ…。目を背けたい、というのが偽らざる私の本音だ…。
浴室と吊し上げ暴行被害者の前で佇んでいると、ふいに扉が内側から開いた。低音の渋い声が私とパック君に向かってかけられる。
「…お前、本当にそれ、風呂に入れる気か?」
むっ。…誰かと思えば奴だっ。黒い剣士の野郎が、生意気にも私より先に風呂に入ってやがったらしい。
無駄にでかい図体が、頭を屈めて白い湯気の立ち込める浴室から出てきた。洗髪したらしく、水滴が垂れる髪をタオルでがしがしと拭っている。風呂上がりのせいか、心なしか普段より上機嫌に見えた。
『それ』とは失礼にもこの私のことであろうか。…こいつは私を『生きている』と初対面のパック君に説明した割に、私にも心やプライドがあるとは全く考えていない。風呂にのんびり漬かる暇があるのなら、先に私の居住待遇を改善してもらいたいものだ。
…こいつの後湯を使わねばならんとは…。湯船の衛生状態が凄まじく不安だ…。ドス黒い色に染まってたりせんだろうな…。
「あり、ガッツもう風呂上がったのか?…早いなー。…どうしよう、ベッチー風呂に入れてやろうと思ったんだけど、俺一人じゃベッチーお湯に沈んじゃうしな…」
パック君が呟いて困った顔で私を見下ろした。…すまない、パック君。私がこんな体でいるせいで、君にいらぬ苦労をかけるね…。
「…沈ませるなよ。風呂にまだあの嬢ちゃんが入ってるから、頼めばいいだろ」
…おい、ちょっと待て……。今さらっと何気なく、ごく普通の顔と、ごく普通の口調で、ものすごい問題発言しなかったか、この男…。
「お、問題解決っ。じゃ、あの小さい魔女っ娘ちゃんに頼もうー」
…人を疑う事を知らないパック君は、私を抱えつつ黒い剣士を背後に残して、湯気で煙る浴室に飛びながら入って行った。奴が浴室の扉を閉め、吊し上げ猿少年にちらりと視線を送ってから、悠然と歩み去って行く姿を、窓越しに後ろの眼で見送る…。
…いや、パック君、問題が…ただ今現在、大発生してると私は思うんだが…。成人男性が未成年少女と一緒に入浴するのは…この世界では、…問題、ないのか?
この現世と重なり合う二つの世界、幽界、イデアの世界に次ぐ、知られざる三番目の世界、『21世紀日本社会』という世界を私はたまたま知っているのだが…、ここの魔女の館が存在する世界には、淫行条例とかその手の法律的規制は…ないのだろうか?
成年が未成年者に不埒な行いをした場合は断種、とか。淫らな手つきで触った場合は五指切断、とか。
…断固たる措置を取らねば、いずれ幼児性愛者が跳梁し跋扈する、悪夢のような世界が目前ではないのかと私は危惧するのだが…。
…いや、忘れてくれ、パック君…。ベヘリットの分際で人の子の世界の理に口出しするなど、専横なる振る舞いだったよ…。人の身に在らざる私には、関係の無い事だしな…。
忘れる以前にそもそも聞いちゃいねえパック君が、元気よく、円形の浴槽の隣の床に座り込んで、背中を向けて震えている全裸の少女に声をかけた。
「シールケちゃーんっ、俺とこのベッチーも、お風呂いっしょに入っていいかなーっ?」
返事の代りに、少女の喉から絹を引き裂くような悲鳴が上がり、狭い浴室に大音声で轟いて反響した。
パック君がびびって私ごと空中を後ずさる。…私も、ちょっとびっくりしたよ…。
「…え、えーっと…ど、どーしたの、か、な?」
びびりながらパック君が、セミロングのカールした髪の毛の少女に声をかけた。
少女の返事を待つ間、私は物珍しい思いで魔女の浴室に視線を巡らした。
天井から壁際までを、ぐるりと南方系の植物が隙間無く取り囲んでいる。湯気に濡れて一枚一枚の葉から水滴が滴る様子が、一瞬、驟雨の密林の真ん中に踏み込んだような錯覚を起こさせる。
室内の中央には大きな円形の浴槽が拵えられて、翡翠色の湯が張られ、果実と香草と花びらが水面に浮かび、もくもくと柑橘系の香りの白い水蒸気を吐いている。
浴槽の底全体が、ほんのりと輝いて発光しており、水底から放たれた光が水面を通過して、浴室全体を照らし、天井に不定形な光の網の目のような模様を描いていた。
風変わりで異国情緒に富む不思議なその浴室で、蹲って震えている裸の少女は、ひどく心細げで怯えているように見えた。
「…な、なんでも、な、ない…です…」
嗚咽を押し殺した声で、セミロングの少女が背中を向けたまま返事をした。
片手で胸元を守るように覆い、もう片方で慌てて目の端を拭う動作。床板にぺたりとくっつけている、白くて丸い愛らしい尻。そのぷりぷりした桃のような幼い丸い尻が、痙攣するように細かく震えている…。
…うわあ…。もしやまさかとは思うが、これは…。幼児性愛者の毒牙にかかった哀れな幼い被害者が…、今、目の前にいるのではないだろーか…。
少女に心の中でスマン、と詫びつつ小刻みに震える尻周辺部を観察する。
…打撲、打ち身等の暴行の痕跡、懸念する血痕は見当たらないが、しかし…幼い尻の双丘の狭間が密着している床板に……僅かに白っぽい粘液が、ナメクジが這った跡のようにぬらりと光って少女の臀部からはみ出しており……。……マジかよ…。め、目眩が……。
「…なんでもないって…、でも、すごく様子おかしいぞ?」
パック君が私を抱えて少女の肩の近くまで寄り、心配そうに声をかけた。…パック君は、いい奴だな、とこういう時にふと思う。
「あーっ、わかったぞ!あのバカになんか無神経な事言われたんだろーっ!?気にする事ないぞっ。アイツは初対面の人間には、相手がいっちばん気にしてる事ズケズケ言うイヤーなクセがある奴だから。後で俺が教育的指導!をガツーンと代りに一発かましといてやるからなっ」
…パック君は、鈍い奴だなー、とこういう時に、ふと思う…。
日常的に常に裸体でいるのが自然体の彼には、おそらく服を着て泣いている少女と、一糸纏わぬ姿で泣いている少女、の差異が感じられないのだろうなあ、と思う…。…まあ、彼の心が清らかと言えば、清らかな証しであろうと思うが…。
「…あ、ありがとう…。えっと、…パックさん、でしたっけ?本当に、なんでもないんです。…ただ、ちょっと、びっくりしただけで…。あの人と背中の流しあいっこしてて、…普段、ざっとしか洗った事ないところを丁寧に洗われて、なんだか驚いちゃって……」
「ガッツがシールケちゃんと背中流しあいー?アイツが…?…へー、めっずらしー事するもんだなー。…そういや、キャスカの世話もアイツ結構、マメに面倒見てたっけ…。…見掛けによらず、子供の面倒見るのは好きな奴なのかなー」
パック君が意外そうな顔で呟くと、強張っていた少女の表情が、ほっとしたように和んだ。
「そうなんですか?…じゃあ、別にあれ、変な意味じゃ、なかったんだ…。きっと普通のことなのね…。…良かった…」
「変な意味って?」
「…なっ、なんでもないです。本当にっ」
林檎のように真っ赤に顔を染める少女が一人……。
…背中の流しあいって……。…丁寧に洗われたって……。……何処を…。
…この世界に今、最も必要とされている物。…それは、児童虐待相談のホットラインだ…。…誰か、野放しの性犯罪者約一匹とっ掴まえて隔離矯正施設送りにして欲しい…。目眩がするような虚脱感を、今、私は味わっている最中だ…。この世に正義はないのか……。
私の脱力感を余所に、パック君が蝋燭の並ぶ浴槽の縁に私を抱いて降り立った。
…私やパック君のサイズにとって、この風呂は海とまでは行かないが、…しかし崖から湖を見下ろす心境ではある。眼下では広大な翡翠色の水面が、蝋燭の橙色の灯をちらちらと映して揺れている。
…私の場合、水底に沈むと自力では脱出できない…。一瞬、真紅のベヘリットさんの嘗めさせられた、一年間泥水転げ回りの悲惨な命運が心を過ぎる。…いや、大丈夫、ここにはパック君もいるし、私にとっては巨人サイズの人間の少女もいることだしな。
「それよりシールケちゃん、ちょっと手貸してくんないかなー。手桶にお湯汲んで貰えない?俺とベッチーはそのまま風呂入ると溺れちゃうもんで」
「あ、はい、ちょっと待ってて下さいね」
少女がはきはきと返事をして湯船のお湯を手桶に汲んだ。…懸念していた湯水の汚染は見たところ心配ないようだが…、だが…、ある少女の心が…取り返しのつかないドス黒いもので汚染されたのではないかと、他人事ながら心配だ……。
背中の流しあい……。
…強姦の心配は多分大丈夫だろうと踏む。幾らなんでもあのガタイに襲われて処女膜破られれば「普通のこと」で少女が納得する筈がない。泣き叫んで半狂乱になる有様が目に見えるよーだ…。
「子供には優しい男」を装って、体撫でまわして触りまくるような卑劣な痴漢猥褻行為程度であろうなあ…と推測する。…溜め息をつきたい。
手桶を掴む少女の、ふっくらした柔らかそうな手をみつめた。…あれで撫でられれば、まあ、気持ちの良い事であろうなあ…と、脱力気味に考える。…湯船に撹拌された白い液体が混ざってたりせんだろうな、と嫌な不安が心を過ぎる。
一体何やらされたんだ、お嬢さん…、と心の中でひっそり呟く。…最初に『変な意味』と感じたお嬢さんの直感は、おそらく正しい…。
「保護者が子供に注ぐような情愛」という美名の裏で、お嬢さんは体をおもちゃのように弄ばれているのだよ、と思う。…しかし、そんな醜い物をはっきり理解してしまえば、お嬢さんの心は深く激しく耐え難いほど傷つく事だろうなあ、とも思う。
…だったら幼児に悪戯する性犯罪者でしかない卑劣漢が「敵には容赦しないけれど、子供には優しい男」として罷り通ってしまう方が、物事が丸く収まって平和であるのか…。
………嗚呼、この世に神はいないのか…。
「おっしゃー、ベッチー、風呂だぞー」
私の胸中を余所に、パック君が手桶の中の我々用ミニ浴槽に私を抱えて漬けてくれた。
…いい湯だ。今までの疲れがどっとほぐれて癒される心地だ。湯船に浸している香草の匂いがかぐわしい。…できればあの男より先に入りたかった、と痛烈に感じる。
手桶の中のお湯に浸りながら、薄目で浴槽を跨ぐ少女の裸体を観察した。ほっそりした腿が、半ばほど湯船に漬かり、その先に、まだ恥毛が生える前の、剥き出しの薄紅色の秘部が覗いている。
…まだ未成熟な、子供子供した体つきだ。本格的に女の体に育ち出す直前の、淡い、あるかなきかの胸の膨らみ。か細い手足。壊れ物のガラス細工のように、うっかり手荒に扱うと、破壊してしまうのではないかと心配になるような、幼い肢体。
頼りない、弱い、小さい、はかなくて脆い、庇護意識をかき立てる、成熟した女以前の少女の裸体。
…コレにいい年こいた大人が手ェ出すんなら、少なくともテメェが犯罪者まがいという自覚ぐらいは持てよな、と言いたい…。
セミロングでカール頭の少女と正反対の『女』の裸体を挙げよ、と言われれば…それはゴッド・ハンドの紅一点、スラン様だ。
スラン様のヌードは色っぽい。妖艶だ。涎が出る。豊かに胸と腰の張り出した砂時計型の、成熟した女性の肉体そのもので…挑戦的で攻撃的だ。貪欲で猛々しい。人間の男性にとっては、庇護意識よりも…むしろ破壊欲を掻き立てられるのではないかと思う。
スラン様は男女の欲望を全面肯定のお方だ。男性の欲望をかけらも非難せず、賛辞を惜しまないが…、しかしスラン様を満足させられないような、へなちょこ男の欲望であれば、…多分、唾吐いて露骨にへなちょこ扱いして、…見下す。
黒い剣士が、最初から『幼い少女がたまらなく、どうしようもなく好きだあっ』という性根座った変態なら、まだ認めようがあると思う。
最初から幼女姦願望バリバリの男であったのなら、『修羅道を突き進め!』と、安全な観客席から高見の見物で、応援してやっても良いとすら思う。
…正直、昔奴が出会った、セミロング少女と同じ色の髪を後ろで縛って二つ分けにした、思い詰めた瞳の美しさが忘れ難く記憶に面影を残す少女は、セミロング少女よりスラン様より、他のどんな見目麗しい女性より、私には心魅かれ愛しく思える存在だった…。
奴の手の中から彼女に紹介された時、ベヘリットの身の上でありながら、私は彼女に一目惚れをした…。貧乏村で虐げられて暮らす、どこか翳りのある憂いを帯びた面差しの少女、ジル……。雨にうたれてしおれる花のような風情がいじらしい…。
何故私は彼女のためのベヘリットであれないのだろうか、彼女の傍にずっと一緒にいて、彼女の願う事ならなんでも叶えてやりたい、幸薄き哀れな彼女を幸せにしてやりたい、
彼女の心からの微笑みを一片でも目にする事ができたら…、と、身を切るような思いで鞄の中から切なく願った。
あの娘が「連れてって」と奴に向けて叫んだ時、私は鞄の中で「連れてけー!連れていってやれえっ。頼むから連れていってくれええー」と奴に叫びまくってたのだが…、奴はシカトしやがった…。そして、彼女に偉そうにカッコつけて立ち去った…。
…その頃の奴はクールでハードなタフガイだった…。ゲラゲラ笑いながら子供の亡霊斬り殺して、同時に子供殺しの罪悪感でゲロゲロ吐く、忙しい男でもあった…。
…しかし。過去はすでに過去…。それが悲しい…。
奴の昔の女性の好みは、性格は抜きにして純粋に肉体のみなら、スラン様タイプだった筈だ。奴の嫁の、浅黒い肌の女性は、砂時計型の実にそそる体つきの美女ではないか。
…奴は、昔からロリ好みの気は多少なくもなかったが、性的にいちゃつくのは大人女性限定にしていた筈だ。
大人のカラダの嫁さんに相手にされないから、逃げる先が女未満の子供かあっ、貴様のそのでかいガタイは見掛け倒しかあーっ、…と怒鳴り倒したくなる憤りを覚える。
奴が年端も行かない幼い少女に手ェ出して、触りまくる理由が逃避でしかない、という点が、どうにもこうにも腹に据えかねる。「変態ロリ野郎」の汚名を恐れて「保護者が子供を気遣う情愛」のフリをしているところが、またいやらしい。
父娘相姦願望を隠す事なく露呈しきった、今は亡きミッドラント国王の鬼気迫る狂人っぷりの方が、余程潔い。戦慄と…ある種の感動を覚える。
妄執にしがみつく、目を背けたくなるほどの醜い姿には…人の心を打ちのめす気迫があると思う。金メッキのカッコつけ野郎は、メッキの下に隠した性根のいやらしさが透けて見えるのが、薄ら寒くて情けない。
奴を信頼する人間は「いや、あれは不憫な身の上の少女を気遣っているんだよ」と好意的に解釈してくれるのだろうが…、「ロリ趣味がバレてないと思ってるロリ野郎」にしか見えねー、という者は…情けなさに涙が出る思いだ…。
カッコ悪い姿を隠そうとしてカッコつける姿は情けない。カッコ悪い姿をそのまんまさらけ出す方が、ずーっとカッコ良いではないか、と思う。
新しく増えた旅の道連れの前ではすかしたツラしとる黒い剣士。コイツは誰にもバレとらんと思っておるが…だがしかしっ。天知る地知る我ぞ知るっ。…私だけは知っている。
『ベヘリットは見た!鞄の横からの目撃証言』。
旅の仲間が増える直前、この男が嫌がる嫁さんを無理やり襲う寸前の、23巻右側ページ1コマ目横顔アップ、…この男の目からは汗が流れていた…。
嫁さんから嫌われて拒否られるのが、泣きたくなるほどこの男は辛かったらしい…。
…泣く男は、全然カッコ悪くなんかないぞ、とコイツに言いたい。
全能ならざるベヘリットの身の上ではあるが、過去と未来はちょいっとだけ見渡せる。
昔のコイツは、ちゃんと涙が流せる男だった。…値千金の涙だ。値打ちのある、価値のある、ちゃんとした理由のある漢の涙だ。
滅多に泣かない男が、どーしょーもなく辛い時に泣いたって、ちっとも、少しも、カッコ悪くなんか、ないぞっ、と繰り返し思う。
…しかし、大人の男は、泣けないのだ…。
今のコイツは「ガッツさん」で「ガッツの兄ちゃん」だ。敬称つきだ。コイツの新しい『仲間』は、コイツと決して対等ではない。守らなきゃいけない、庇わなきゃいけない、助言しなきゃいけない。…『仲間』の人生、背負い込まないとならない。
「大人」をやらなきゃいけない。…大人の男は、泣けない。本音の弱い部分が晒せない。
昔の仲間は、みんなコイツと対等だった。「ガッツ」と気安く呼び捨てにしてた。コイツの居場所はちゃんとあって、尚かつみんな自分の人生の面倒はちゃんと自分で見てた。
約一名を除けば、コイツが出て行っても、それで人生立ち行かなくなるようなひ弱な仲間ではなかった。不在の間に『アイツがいてくれたら…』と呟きはしても、いない奴を当てにせずに自力で頑張ってた。…帰って来れば暖かく迎え入れてくれた。
昔の『仲間』はコイツ抜きでも、ちゃんと帰る場所としてそこにあった。
今のコイツの『仲間』は…コイツがいないと、成り立たない。コイツがいなくなれば、その場で瓦解する。
古い『仲間』は肉体的に自分の身は危険から自分で守れた。敵は主に人間だったしな。
…けど、今の女子供メンバー中心の『仲間』で、本当に自分の身が危険から守れそうに見えるのは、キンパツの召使いぐらいしかいない。
『自分が死ねば嫁即死』の重圧から逃れる為に、コイツは『仲間』が必要だった。
けど、根本的には何も変わらない。
『自分が死ねば、仲間全員すぐ即死』の重圧が、戦場で強敵相手に振るう剣には、重たく鈍く伸し掛かってる事だろう。
雑魚敵からなら『仲間』は無力な嫁を守れるだろう、でも、…コイツで勝てない強敵には、残りの誰も勝てやしない。コイツが倒れれば…それで、ジ・エンド。全て終了。
『自分が死ねば、仲間全員皆即死』の剣は…さぞ重かろう。
コイツが戦う気力の源は「死んでたまるか、殺されてたまるか」って激情だ。自分に伸し掛かって押し潰そうとする、敵意や悪意や迫害や暴力を、全力で跳ね返して吹き飛ばす強烈な生存本能だ。
誰のためでもなく、自分自身のためだけに戦ってる時が、コイツは一番強い。コイツの強烈なエゴで、他者の存在を叩き潰して自分自身の存在理由を勝ち取る姿が、コイツは一番強くて、一番生き生きして、一番自分自身でいるのだと思う。
『死ねない戦』は…コイツの気力の源を根こそぎこそげとる。見えない敵に仲間の命が人質に取られてるのを、常に気にしながら戦うようなものだ。
誰かを敵から救い出して己れが勝ち取るための戦いなら、幾らでもコイツは強くなれるけれど、誰かを後ろに庇って守る戦いは…心が、弱くなる。摩耗し、削り取られ、磨り減ってゆく。
古い『仲間』でのコイツの役割は『切り込み隊長』だったが、新しい『仲間』でのコイツの役職名は、恐ろしい事に『鷹の団・団長』だ。
孤独なトップだ。切り込み隊長なら抜けても代りがいるけれど、団長には代りはいない。…しかも最悪な事に、自分自身の夢や野望抜きの鷹の団・団長の役割だ。
…そこに、希望はあるのか、と思わず呟きたくなる。
魔女の館宿泊の現時点より、私が見通せるちょいっとばかり未来の世界にて、コイツの精神を蝕み、心を食い荒らす疲労の浸食度はいかばかりであることか。
コイツの精神が脆弱になり、罅が拡大するにつれて、…それが戦い方に、露骨に出る。
蓄積疲労で心が劣化しとるのだ。昔はあった、こちらの心にガンガン響く、相手を貫くような勢いの、強烈なタンカが…出ない。戦場で「俺が正しい!」ときっぱりはっきり言い切る心の強さが、そう遠くない未来の奴には、ない。
絶望的な状況で、それでも「どうやって勝つか」に全精神と肉体の細胞一片まで残らず注ぎ尽くす気迫の強さが…欠如してる。
人柄が丸くなったというより、精神が脆弱化しとるのだ。…そして、それが表に出せない。周囲に人がいるからだ。カッコつけのこの男は「肩貸そうか」と言われても拒否する。
そして男が一番辛くてしんどい時に、一番甘えたい嫁さん、愛する伴侶は……コイツの事が大っ嫌いだ……。
……嗚呼。
一体何が悲しゅうて、冥府魔道ロリコン街道を突っ走りつつある男を、いつのまにやら擁護して弁護しなきゃあならんのだ……。
誰かに甘えでもしないと、そりゃー、やってられんだろう…、と思う。
「子供には優しい男」を装って幼児にべたべたと触りまくる最悪の卑劣漢でも、しょーがないか…、と力無くうなだれる。今の所被害者は上手い事騙されてくれているので、実質被害者はいない訳であるのだし。
骨の髄までカッコつけたがりのこの男が、唯一甘えられるのが、多分あのセミロング少女であるのだろうなあ…と思う。「少女が甘えたがるので仕方無く受け止めてやる」フリしている時、…甘えてるのは、実は奴の方だ…。鼻の下延ばしとるしな。
誰に対しても「甘えるな」が信条だった奴が、年端もいかぬ少女に甘えとるのは…、外側に出て来ない内部が、相当ボロボロに綻びつつあるのではないか、と戦慄する思いだ。
今から少し未来の、この魔女の館の二度目の来訪で、悪霊を招き寄せる<烙印>の効力が、期間限定ではあるが消失し、代りに呪いの鎧が手に入る。
<烙印>は…奴に危険を招き寄せる迷惑な代物だったが…、しかし実は奴を肉体的に強くした。鍛えあげた。日没から夜明けまで、ぶっ通しで大剣振り回しても、びくともしない体力と精神力を奴に培わせた。
代りに貰った呪いの鎧。…あれは、本当にとことん最悪の代物だ。
依存性のある麻薬と一緒だ。一時的に身体能力を高める代わりに、使用者の基礎の身体能力を奪うのだ。「光や味を失う」でごまかしてるが、膂力や筋力、持久力、本来持っていた肉体の強さが…損なわれない訳がない。
ドーピング選手の末路は悲惨だ。内臓障害で体がガタガタになるのが落ちだ。「人でいられなくなる」より、「廃人と化す」の方が正解じゃないのか。白髪ぐらいじゃすまないのじゃないか。
肉体的に弱くなる、だから鎧に頼る、そしてまた肉体が弱る…。悪循環だ。
港町に到着して、らしくもなく熱出してぶっ倒れとるのは…呪いの鎧の影響だろが。
包帯に滲む血痕にいたたまれない不安を覚える。…あの鎧を着ていたら、お前はいつまで経ってもスラン様にやられた傷が、治らないではないか……。
あんな鎧とっとと破壊して燃えないゴミに出せ、と私は思うが、残念ながらコイツとコイツの仲間にそういう気はこれっぽっちもないらしい…。「ガッツの兄ちゃんは、鎧なんかに頼らなくても十分強い立派な巨大怪獣だっ」てー発想は…ないのかあっ。
鎧になんか頼らなくても、コイツはちゃんと誰にも負けない本当に強い最強の男だ、って…どうして誰も信用してやらんのだあっ、と悔しくなる。歯噛みをする。
コイツ自身に一番そう言いたい。お前はあんなクソ鎧が無くても、本当にちゃんと、誰より強い男ではないか、と。
昔のコイツは、「邪魔すれば殺す」と貧乏村の少女ジルに本気で言いながら、体がそうはさせない男だった。脊髄反射で少女の命をを助けた。
今のコイツは、「仲間を守ろう」と意識で思いながら、その仲間に自分から襲いかかる。
…昔と、正反対の事をやっている。
昔のコイツには、憐みを相手にかける人間性が、どんなに意識の中から消し去ろうとしても、頭で考えるのとは別の部分で、きっちりコイツの殺意に歯止めをかけて、殺害してはいけない相手には、寸前で剣を掴む手を制止させていた。
獰猛な怪物と鋼鉄のような人間性が同居して混ざり合ってるのが、この男だった。
その強固だった人間性が…希薄化しとる。表面上の人当たりが丸くなっても、深部の強靭さが失われつつある。…鎧がたやすく暴走した時、正気に引き戻すのを自力でやれねばどうするか、と思う。
強靭な人間性の核になってたのは…多分、コイツの心の中にあった嫁さんへの愛情だ。…それが、薄れつつあるのだ。
自分で暴走を止められないのを、鎧のせいにしとる。…暴走しても構わない、しかし、自力で狂戦士から素面に戻れ、今までお前はそれができていた筈だ、と思う。
他人に暴走を止めてもらって、それで良しとしとるが、しかしセミロング魔女娘が気絶したり、その場に不在であったりしたら、一体どうするつもりなのか。
呪いの鎧は、口実ではないのか。
仲間を皆殺しにする危険性のある鎧を、それでも奴が手元に置きたがるのは…潜在的に自分の仲間を皆殺しにしたい、と奴自身が望んでいるからではないだろうか。
動機はある。コイツの原風景は、周囲の大人が『不吉なガキ』と囁くのを聞きながら、剣を抱いて怯えて眠る少年だった。長じて夜に剣が傍にないと不安で落ち着かない大人になった。
鷹の団での『仲間』は例外で、コイツの原風景ではない。…旧い鷹の団は、当の団長の裏切りで崩壊した。同胞からの裏切りだ。
コイツの生存本能は、眠っている間に寝首を掻かれる危険性を熟知している。『仲間』はいつ裏切るかわからない仮想敵だ。
<烙印>の呪力が防がれ、悪霊にとり憑かれて正気を失う危険はなくなった。
代りに呪いの鎧にとり憑かれ、正気を失って仲間を皆殺しにする危険が常に伴うようになった。
…悪霊は、気を強く持てば、自分で追い払える。呪いの鎧は自分では制止できない。
…これを、プラスと呼べるのか。…マイナスじゃないのか。
…いったい、コイツは何処へ向かおうとしているのだろう…、と考えると暗鬱な気持ちになる。
…そもそもなんで、ベヘリットである私がたかが人の子の命運を、こうも気にかけねばならんのか…、と湯に浸りながらふと思う。
…うーむ。…直視するのは、何故か、私に都合が悪いような気がする…。どうも、あまり認めたくない種類の感情を自分の中に発見してしまいそうな、いやーな予感がする。…故に、気にかける理由を気にするのはやめよう…。
腐れ縁の相手というのは、不愉快な相手でも、つい、気にしてしまうものだ。
奴と出会ってこの方、奴の復讐の旅につきあい、奴が炎に身を潜める時は鞄の中で蒸し焼き状態で呻き、奴が泥水の中を這いずり回る時は鞄の中で泥水を飲まされ、奴が敵と戦う時は鞄の中を転げ回り、否応なしに奴と生死を共にしてきたのは、誰あろう、この私だ。
奴が半死半生で死にかけの時は「死ぬなーっ。立ちあがれーっ。ここで貴様が倒れたら私までが巻き添えを食らうではないかーっ。戦えっ、そして勝てっ、この私の生存のためにっ」と必死で奴を叱咤激励応援してやったものだ。
…奴の方は、まるきり私の事などただの魔法の石としか思っておらん様子だが…。
奴の認識では、新しい『仲間』にパック君はすんなり入ってはいても、…私は、相変わらず因数外の存在らしい。相変わらず鞄の中の荷物扱いだ。
私と同居している小刀の方が、まだしも奴は愛着を寄せているのではないだろうか。時折暇があると、奴はマメに小刀を取り出してはきちんと手入れをしている。…私は、シカトだ。
…それが、苛々する。気に食わない。私の存在を、認めろーっ、と叫びたい。
もしも私が、もっと力のある存在だったら、とふと思う。私には自己主張する手だてがない。人の手から手へと譲り渡されるのが宿命のベヘリットには必要のないものだからだ。…だが、もしも…、もしも私に、自分で自分の運命を切り開く力があれば……。
「おおーい、ベッチー、大丈夫か?湯中りしてないかー?」
はっと我に帰る。
パック君が真上から私を心配そうに覗き込んでいた。…少々長湯が過ぎたらしい。パック君に向けて片目を閉じて見せる。
「よし、じゃ、ベッチーも背中流してやろー」
パック君が私を抱えて手桶のミニ浴槽から浴室の床へと移動する。…何から何まで、いつもすまないねえ、パック君…。
床へと降り立った時、浴室の窓枠の外側で、夜空を背景に何かが動く様子が視界に映った。
…あの暴行被害者の吊し上げ猿少年だ。気絶から回復したらしく、しきりと身動きしている。…どうやら縛られている蔦を外そうと試みているようだ。
浴槽ではセミロング少女が鼻歌を歌いながら湯に浸っている。上気した頬が桜色だ。外の猿少年の挙動に気付いた様子はない。
少女に教えた方が良いかもしれない、と一瞬思ったが…しかし…、私には教える術がない…。まあ、私には関係の無い事だしな…、と自分を納得させる。
「…ベッチーって、どっちが背中だろ?ま、いいや」
呟いたパック君が、石鹸で泡立てたタオルでごしごしと私を擦り始めた。…清潔な体になるのは気持ちが良い。パック君、ありがとう。でも、清潔にしたところで帰る場所は、またあの鞄か…、と思い出すと憂鬱だ。
再び窓の外に視線を向ける。猿少年が身を捩り、必死の形相で身体を縛る蔦に歯で噛み付いているところだった。…おお、潰れた肉饅頭の顔が、あれ以上更に醜くなることが可能とは。…人間とは、奥が深いものだな…。
感心している内に、猿少年が遂に蔦を噛み切った。と同時に垂直落下して窓枠の外に姿が消える。
ぐしゃっ、と袋一杯に詰めた重い生ゴミを放り捨てたかのような音が窓枠の下から響き、入浴中の少女がはっと視線を外に向けた。
「…今、なにか変な音が…」
「…うん、オレも聞こえた。なんだろ?」
パック君が応じて確認しようと扉の方に飛んで行った瞬間。浴室の扉が突き破るような勢いで、外側から激しく叩きつけて開かれた。
「…復讐するは、我に在りっ!」
おお、潰れた肉饅頭全裸猿少年が、今そこにっ。
その姿は、まるで敗戦濃厚な拳闘の最終ラウンドに立つ挑戦者のようだ。肩で大きく息をし、顔面全体が腫れ上がり、できものに冒されたかのように膨れた瞼が両眼を覆っている。
だが、糸のように細く押し潰された両眼には、消えることない激しい闘志が炎となって燃え、その全身からは、盛りのついた猿特有の性欲のオーラが熱気となって渦巻き、空中にその波動を放射しているっ。
セミロング少女が湯船の中から絹裂く悲鳴を絶叫した。
「なっ、なに考えてるんですか、あなたはーっ!今すぐ出て行きなさいっ!」
「るっせー、リベンジだっ。よくもさっきは好き放題にぼこぼこにしてくれたなーっ!復讐だーっ!」
猿少年が真っ直ぐこちらに向かって走ってくる。…復讐は、構やしないのだが。しかし彼の走る軌道上のど真ん中には無防備な私が存在しており、でもこいつの視界には私など一切眼中になく…。
一瞬後に、私の目の前にクローズアップの巨大な足の裏が広がり、私を吹き飛ばした。
「ああっ、ベッチー!」
パック君の叫びを聞きながら、宙を飛ぶ。…こんな形で空を飛べても全然嬉しくない…、と思った次の瞬間、私は水面に叩きつけられ、翡翠色の湯船の中にぶくぶくと沈んでいった。
間髪入れず、猿少年が湯船に盛大な水飛沫を上げて飛び込み、悲鳴を上げるセミロング少女に襲いかかった。
お湯が乱流のように掻き回される中で、私はもがく事すらできず、荒れ狂う水流に呑み込まれ、いいように振り回される。
「やだっ!どっ、どこ触ってるんですかっ!変態!ドスケベ!」
「嫌がる事をやらねば、復讐にならんだろうがーっ!揉みまくっちゃる!どーせほとんどないんだからケチケチすんなっ」
揉み合う二人の両足の間で、私は存在を忘れられ、無下無体に水中を蹴り回されている。少女の白い柔らかな足の裏が私を踏んだかと思うと、蹴り飛ばし、今度は猿少年の汚い足の裏に蹂躙される。…こいつら、まさかわざとやってるんじゃあるまいな…。
「…おおーい、どろっぴ、…それ以上やると、マジで犯罪者だぞー」
パック君が呆れたような声で猿少年に向けて呟いた。
「るっせーっ。犯罪者扱いが怖くて泥棒ができるかあーっ。今更俺様の犯罪歴がひとつやふたつ増えたところでどーっちゅうことない、っつーの!」
…いや、そんな事でいばられてもな。それはどうでもいいから、私を蹴るのをやめろ…。
抵抗するセミロング少女がか細い叫び声を上げた。猿少年の魔手から逃れようと猿から背を向け、浴槽から上がろうとして、また猿少年の手で湯船に引きずり込まれて悲鳴を上げる。…やかましい。
再び少女の白い足が私をぐにゃっと踏んだ。…私は、女の子の白い繊細な手に包まれるのは大好きだが、足で蹴られるのは大っ嫌いだ…、と屈辱と共に噛み締める。
「やだっ。やめてえっ。…誰かっ、助けてえっ。……ガ、ガッツさんっ。ガッツさん、助けてっ。ガッツさ……あンっ、………いや…、……やっ………」
…例の幼児姦性犯罪者変態野郎の名前を呼んでから、セミロング少女の悲鳴が微妙に変質した。…どこがどう違うとは表現しにくいのだが…、拒否100%の「いや」から、びみょーに…何か他の成分の含まれる「いや」に…変質したような……。
「…おい、お前…、へ、ヘンな声出すんじゃーねーよー……」
意外に純情な性欲小僧の猿少年は、抱きすくめて、あるか無きかの乳房を揉み回している相手の反応の変化にうろたえているよーだ。
うろたえながらも、湯船に漬った下半身の見たくもない股間の皮かぶりの逸物が、ピンとそそり立つ様子が水面下に転がる私の視界にちらっと映る。
『人の頭の上で、汚ねえものおっ立ててんじゃねえーっ』
と、でかい声で切実に叫びたい…。
セミロング少女は、抵抗する気力がずるずると消失したようだ。浴槽と猿少年の間に肢体を挟まれ、押し殺したような声で低く呻きながら浴槽に齧りついている。
変態ロリ野郎の手でいじり回されて、性に目覚めたばかりの幼い体が、猿少年の手に心ならずも反応しているらしい…。湯船に没した丸い桃のような尻が、ひくりと震えて痙攣し、両膝が外側に開いてゆく。…こいつら、二人とも発情しとるのか……。
「……おまえ…、…も、もしかしてまさか……。…か、…感じ…ちゃって、…るの、か……?」
猿少年は勝手の違いに興奮しつつ狼狽しているようだ。気になる女の子にえっちな嫌がらせをして、嫌がる相手の泣き顔見るのが嬉しい、というお子様なお年頃には、えっちな反応が帰って来ると、どうしていいやらわからないらしい。
「…ちっ、ちがいますーっ!…そんなことっ、…ある、…わけ……な……い、………」
一瞬強気な表情で、背後の猿少年を振り返って抗議したセミロング少女の声が、ぐずぐずとなし崩しに、語尾が喘ぎで乱れて蕩けてゆく。…何気に小さく「ガッツさん…」とか呟いてやがる。…あれはお嬢さんを喰い物にしたケダモノ野郎だっちゅーのに……。
猿少年はセミロング少女の呟きには気付いていないようだ。動揺がピークに達しているらしい。今更引っ込みもつかず、セミロング少女の乳首を揉みながら猿少年は間を持たせるかのように、汚い足の裏でごりごりと私を浴槽の底に踏みつけて転がしている…。
…『殺意』という感情を、私は今ゆっくりと理解しつつある……。それは、虐げられ、存在を忘れられ、抗うことすらできない無力な者にとっての、唯一の絶対的な救済者だ…。
何故私はこうも無力であらねばならぬのか。『どきやがれ』と一言相手に抗議する事すらままならない、意思表示すらできない己の身の上が恨めしい。
私には、自尊心を持つ事が許されないのか。では、何故私には心があるのだ。
好き勝手に私を『物』扱いする輩が横行する中で、それでも私には『心』がある。私は生きている。私には、感情がある。私は、人に踏み付けにされたくない。『物』扱いされたくない。…ふざけるな。
「…決めたっ。…姦るっ」
決意したかのように、私を足蹴にしている猿少年が小さく呟いた。
「だからどろっぴ…、そりゃ犯罪だってば」
猿少年の頭に乗っかっているパック君が窘める。
…パック君、猿の少年が犯罪に走ろうが更生しようが、私にはどうでもいいのだ。私の事を思い出してはくれないか…。私を拾い上げるよう、猿少年に伝えてくれ…。…私を、この苦境から救い出してくれるのは、君の一声にかかっているのだ…。
「いーやっ、犯罪じゃねえっ、双方の合意だっ。天がこの俺に遂に童貞を捨てる千載一遇の機会を与えてくれたのだっ。逃してなるものかっ。…パック、お前気きかせろよなー。しばらくどっか行ってろっ」
「…双方って…。…シールケちゃん、そーなのかあ?オレ、どっか行ってた方がいい?」
パック君が猿少年の頭上から飛び立ち、セミロング少女の鼻先に降り立って質問した。…パック君は、空気を読むのが苦手なのかな、とふっと思う…。
顔を濃い薔薇色に染めて、しつこく「ガッツさん、だめ…」と親指を口に咥えて陶酔しながら呟いていたセミロング少女が、真正面からパック君に覗き込まれて林檎のように真っ赤になった。
「…みっ、見ないでえっ!…あっちに行ってー!」
うええええええ、と赤子のような泣き声で呻いてセミロング少女が顔を覆う。
「…あ、そー。…んじゃ、オレもう風呂漬ったし、先に上がるよ…」
…ちょっと待ってくれ、パック君。…君は、何かを忘れてはいないか?風呂から上がるのは構わないが、その前に、浴槽に沈められ、理不尽な蹂躙と迫害を受けているこの私を救出するための、然るべき一言があるべきではないのか?
『振り返ってくれ』と、水底からの私の必死の祈りにも関わらず、パック君は浴室の出口へと飛び去ってゆく…。
鈍い衝撃が、降り下ろされる破壊鎚のように私を襲い、割れ鐘のように真っ二つに私の心に亀裂を入れた。理解したくない、重苦を伴う事実が私を浸食し、足下ががらがらと崩れていくような崩壊感を覚えた。
…パック君は、私の事を、忘れているのだ。
彼にとっては私の事など、姿が消えれば、意識から消えてしまう程度の存在なのだ。
…親友だと思っていたのは、私の方だけだ。彼には、猿少年やセミロング少女のように、互いに意思疎通ができる人間の方が、ずっと親しく感じられる『仲間』なのだ。
…私は、因数外の存在だ。ただの荷物だ。
……私は……誰にとっても無意味な存在なのだ……。
「…よし、…おっ、男になるぞっ」
猿少年が決心したように呟き、放心している私を、景気づけに思っきり後ろに蹴飛ばした。
私の体が水底を回転しながら滑走し、浴槽の壁に激突して停止する。
…痛い。ぶつけた鼻がじんじんと痛みの信号を発するのを知覚する。石の躯であるのに、何故私は痛みを感じるのだろう。何故心などが私にあるのだろう。…無意味なだけではないか。
何故私には『生』があるのか。人の手から手へと譲り渡され、小突き回され、踏み躙られ、いつ出会うやらわからぬ持ち主に出会うのを、ひたすら流されて待ち続けるだけが私の『生』の総てであるのか。
そんなことの為だけにしか、私の『生』は用意されていないというのか。
「きゃあっ、…ちょ、ちょっとイシドロさんっ、何するのっ」
「ここまで来てイヤもヘチマもないだろうがっ。観念しやがれっ」
…シリアスに人生に悩む私の背後で、盛りのついた少年少女が、ばちゃばちゃと水飛沫をあげて、意馬心猿の喧しい嬌声を上げている…。てめーら、いい加減にしやがれえっ、と私は叫びたい……。
暴れるセミロング少女と猿少年が縺れあって、二人の頭が同時に翡翠色の湯船に没する。…いっそ二人とも溺れてしまえ、ねじけた呟きが心を過ぎった一瞬、またどちらかの足が私を蹴飛ばし、小突き回されて転がり、向こう側の浴槽の壁に再度激突する。
鈍い痛みと共に、ぴしり、と嫌な亀裂音が聞こえた。…私の鼻に、罅が入ったのだ…。
ひゃぁっ、と湯から顔をだしたセミロング少女が素っ頓狂な悲鳴をあげた。半泣きの声が絶叫する。
「…そ、そこは、穴が違うーっ。絶対やめてえっ」
「…え。うわっ、ご、ごめんっ」
……もう、嫌だあっ、我慢の限界だああーっ。
何が悲しゅうてこんな奴等に私が蹂躙されねばならんのだあっ。
私は、無力な石の置物でなんか、いたくないっ。他人に好き放題に嬲られるのは、もう、まっぴら御免だあっ。
峻烈な怒りが私の内部から込み上げて私を震動させ、黒雲から迸る落雷のように、煮え滾る熱い怒りの塊が純粋な祈りのエネルギーに転化するのを感じた。
……力が、欲しい。私を『物』扱いして踏み躙る、すべての奴等を吹き飛ばして粉々に粉砕する、強烈で圧倒的な力を、全身全霊で私は欲する。
ベヘリットとして私に与えられた運命、人の手に委ねられるまま流され続ける運命を、私は拒否し、断固として否定する。…全く違う存在に変貌し、翼を羽ばたかせ、ひたすら空の、燦然と輝く頂の一点を目指して、舞い上がり飛翔する私の姿を、私は渇望する。
私は、私自身の手で掴み取る、私自身のための『生』が欲しい。
声にならない魂の慟哭が血の叫びとなって私の口を突き破り、両眼からぬるりとしたものが溢れて水中に溶解する様子が視界に映った。
……血だ。誰の物でもない、私自身の血涙が、今、この私の両眼を濡らし、異界への呼び水となって、次元の扉を開こうとしている。
激しい地鳴りが狭い浴室を振動させ、どこからともなく沸いた黒い闇が、インクを流したかのように室内を満たし、浴室を見慣れぬ異世界の風景へと変貌させてゆく。
……まさか、私は、呼んでしまったというのか…?
………この、私が?…あの方々逹を召還したというのか……?
「…なに、何が起こってるの…!?」
「ど、どうなってるんだーっ!?」
乳繰り合うのも忘れた少年少女が、互いに抱き合って、突如として濃密な闇の世界へと変容してゆく有様を、呆然としながら見渡している。…少しだけザマミロ、と感じる。
その一面の暗闇の中を、燐光を放って飛行する小妖精の姿が私の視界の端に映った。
「そーいやオレ、ベッチー忘れてた……って、何だコレ!?」
…パック君。
そうか、パック君は、やっぱりちゃんと、私を忘れずにいてくれたのか…。
血とは違う熱いものが再び私の両眼に溢れ、同時に戦慄と恐怖が私を襲った。
パック君が…、この世界に…。ちょっと待て、まさか、これは…。
…私は、ベヘリットたる私自身の使用後に行われる儀式を熟知している。魂から流す血の慟哭が天使達を召喚し、儀式は再び血を要求する。呼び出した者にとってかけがえのない、血肉とも呼べる存在を、…生け贄として捧げる事を。
元の浴室では有り得ない、広大な湿原に我々はいた。粘り気のある、不快な手触りの泥のぬかるみが広がり、星一つない空を暗闇が覆い、遥か彼方で地平線に溶解している。
遠い地平線では、捩じくれた不気味な姿の灌木が点々と並び、その上を蝙蝠の群れのような何かが螺旋を描いてさかんに飛び回っていた。…あれは、蝙蝠ではない。私は知っている。生け贄にありつくのを、腹を空かせて待っている人外の者逹だ。
漆黒の空で暗闇が凝縮し、緞帳の向こう側から何者かが突き破ろうとするかのように隆起して迫り上がり、四つの闇の塊りが虚空に降り立った。
…我等の渇望の守護天使様逹が、今、私の眼前に降臨したのだ。
<続>