呆然と裸体で泥沼の中に座り込む我々の頭上に、虚無の闇を背景に従えた四人の異形の天使達が、その圧倒的で奇怪な力に満ちた御姿で、無力な我等の前に超絶の存在として君臨していた。  
人の子の世界に属するものでは有り得ない…、と一瞥で悟らざるを得ない、異様な、神々とも悪魔ともつかぬ怪異なる容貌の、四人の呪いと祝福の天使達。  
根源的な力を秘めた強烈な魔の波動が天使達の姿形の輪郭を縁取り、神々に近い存在だけが纏える、人知を越えた超越者としての威風を漂わせていた。  
「…あ、あなたちは、何者ですか!?いったい、何が目的で私達をこんな場所へ…」  
胸元を両手で覆った一糸纏わぬ姿のセミロング少女が膝立ちになり、果敢にも守護天使様達に勇を奮って抗議した。…意外にこのお嬢さん、根性あるのだな、と見直す。  
…猿少年の方は、座り込んで股間を両手で押さえながら、ひたすら守護天使の紅一点、スラン様の御姿をあんぐりと口を開いてみつめている……。  
猿少年の視線の先は、スラン様の露出度の高い、というより大事な部分は全丸出しの、羽根で隠れて見えそうーで…、しかし、ぎりっぎり見えない股間の三角形の部分に注がれているようだ……。…うん、まあ、気持ちはわかる、見てしまうよなあの格好…、と口の中で呟く。  
「…幼き魔女よ、我等は召喚されて参じたまで」  
剥き出しの脳味噌の下に、縫い合わせて閉じた両眼と、鼻から顎にかけての皮膚を捲り上げ、露出した歯茎と鼻孔を覗かせた木乃伊の貌の天使長ボイド様が、巨大な影のように聳え立ちつつ、セミロング少女に告げた。  
次いで、天使長殿の縫い閉じられた両眼の下の眼光が、真っ直ぐに私に向けられた。見えない力が私の石の躯の内部に食い込み、私の心を狙い定めた獲物のように鷲掴みにするのを感じる。  
「…因果律に背きし者よ。我等はお前の渇望に招かれ、この地に集った」  
陰々と響く重苦しい声が響き渡り、我々が漬かっている沼地の泥水を震わせ、水面に波紋が生じて枯れた汚い色の水草が微かに揺れた。  
「『背きし者』とは…どういう意味ですか?…私は、『選ばれし者』ではないのですね?…それなら、何故…?……それに、私は人の子でもありません。いったいこれは…」  
…声が出せて喋れる事に驚きながら、慄きつつ、天使長殿を仰ぎ見て尋ねた。  
セミロング少女が辺りを見回して「…誰?誰が、喋っているの…?」となどと失礼な一人言を呟いた。…私の姿は眼中にないらしい。いったいどこまで私の存在を無視すれば気が済むというのだ、このアマ……。  
「何故ならば、あなたはすでに一度、あなたの真の持ち主と、出会っているからよ」  
個人的にファンの、蛇の髪を持つ美貌のスラン様が私に妖艶な微笑みを投げ、お声をかけて下さった。…こんな場合にもあらず、『らっきー』などと、内心で呟いてしまう。  
「お前の以前の持ち主である伯爵は、二度お前を使って我等守護天使を呼び出した。…しかし、二度目は我等を召喚しながら、娘を生け贄に捧げる事を拒んだ。……それは、因果律に予定されてはいない出来事だった」  
丸眼鏡をかけた、水棲の甲殻類を連想する体のユービック様が、振り子のように宙を揺れながら告げた。その後を、肥大化した巨大な赤ん坊めいた貌のコンラッド様が、両手を組んで墨を流したような暗黒の夜空を上昇しながら引き取る。  
「本来伯爵は、娘を捧げて二度目の転生を遂げる事が、予定されていた事実であった筈なのだ。…まあ、二度目の転生は短命で終焉を遂げる予定であったので、さほど大きな違いではなかったが。  
ベヘリットとは、その所有者の魂の慟哭を内に宿して咆哮する時、その者の魂のかけらも同時に内包する。そのかけらは、転生後の所有者の新しいあるべき姿の核となり、生け贄の血肉を纏って孵化し、転生が完了する。  
伯爵が生け贄を捧げる事を拒否して自己の死を選んだ時、お前の内部には本来存在している筈のない、人の子の魂のかけらが残された。…その時点でお前の存在は、あの黒い剣士同様、因果の流れから半歩ほど外側に身を置く者となったのだ。  
理から外れた者は、時折本来の流れに干渉し、その細部を変更する。あくまで細部であり、本流を妨げるほどの力はないが。…お前が我等を招きし事も、そのひとつ。  
かけらだけの魂であれば、我等を召喚するには足りない。だが、切片の魂をお前はお前自身の中で育み、ベヘリットたる己れの主に、己れ自身が所有者となることを定めた。…そして、人間以上の存在になる事をお前は渇望したのだ」  
 
傲然と聳え立つ天使長ボイド様が、再び辺りに響き渡る陰鬱な声で続けた。  
「ベヘリットとは、常に己れ以外の他者の所有物としてしか存在できず、未来永劫運命に弄ばれ、翻弄され続ける、神と人の子のための道具。神の手より遣わされ、その意志により剪定し決定された、変える事のできぬ運命そのもの、…それがベヘリット。  
与えられた運命に己れのすべてを放棄し委ね、運命にその身を任せ、流されるままに主の主命を果たす事こそが、ベヘリットの本質であり、その存在理由。  
しかし、お前の内に芽生えた魂、そもそもが理から外れる事でお前の内奥に生じた魂は、己れがこの世に生まれた存在理由とお前の本質を否定した。  
お前の魂にとって、内に宿る魂の真の所有者は、紛れもなくお前自身でしかなかった。  
お前は、魂同様におのが運命の所有者を、己れ自身でありたいと欲した。  
誰のものでもなく、己れの力で運命を切り開き、獲得する存在になりたいと切望し、…しかし、決してそうは成り得ない己れを理解し…、お前は、絶望した。  
……お前の本質はお前の魂を裏切り、お前の魂はお前の本質を裏切るのだ。  
お前がベヘリットである限り、お前は決してお前自身の真の所有者とは成り得ない。  
相容れない己れの矛盾した在りように、お前の自己は引き裂かれ、絶望し、その魂の慟哭が我等をこの地に招き寄せた。  
…内奥に人の子の魂を宿す石の卵よ。ベヘリットたるお前の内部には、お前の魂が望む真の自己の姿が、子宮の内で夢見る胎児のように眠り、まどろみの中で覚醒する瞬間を、今、待ち望んでいる。  
お前の魂は、卵から孵化し、人の子を超越した、翼ある強大なる者へと変貌する夢を内に思い描いた。  
……それが、お前の魂が渇望する、真の己れの姿だ」  
天使長殿が、全身を覆う長大な黒衣の下からその骸骨の手を顕し、私の心を貫き通すように、骨だけの人差し指を私に向けて突きつけた。  
……私の心に、守護天使逹を召喚する直前に一瞬心を過ぎった、在るべき私自身の姿の心像が蘇った。  
自らの翼を羽ばたかせ、私を地上に縛り付けようとする人の子の枷を吹き飛ばして、手の届かない遥か遠くに輝くものの元へ、向かい風に逆らい、空気を切り裂き、雲を突き抜けて、行く手を遮るすべてを振り払って、  
力の限り全力を尽くして一筋に目指す場所へ真っ直ぐに駆け昇る私の姿。  
天上の一点で眩しく光り輝く、かけがえのない高貴な、何を犠牲にしてでも手に入れたい大切なもの、…それは、私自身で掴み取る私の運命そのものだ。  
それが、どんな運命でもいい。私の向かう場所が天上の光輝ではなく、たとえ地獄の炎の豪火だったとしても、構わない。…私は、誰かに委ねるのではなく、私自身の意志で選んだその場所へ、私の翼で飛び立ちたい。  
与えられ、定められた、流されるままに行き着く運命ではなく、流れに背き、抗って、私の意志が目指した場所に己れの力で到達したいのだ。  
……翼どころか歩く事すらできない、私のままの私では決して永遠に手に入らない、叶う事ない私の夢。  
私に『生』が与えられたのなら、それが何時かは知らねど、いずれ『死』もまた私に訪れるだろう。  
ベヘリットに与えられた生命は、他の定命の生者のように、時によって浸食される事はない。だが、自らの所有者のために慟哭し、天使逹を召喚する時、我等が流す血涙は、我等自身の生命の源から流れ出している。  
ベヘリットは己れの限られた生命を糧にして天使達を召喚する。持ち主の慟哭が深ければ深いほど、力を望む渇望が強ければ強いほど、我等の生命の源はより多く失われる。  
…そして、いずれその生命を使い果たし、他の定命の生者の如くに、…決して逃れられぬ死が、我等にもまた、訪れる。  
私は既にあの伯爵のために二度天使達を呼び、今また私のために召喚した。あと、どれほど私の生命の灯は残っているのだろう。  
…それとも、一度既に真の持ち主と出会っている私は、ベヘリットとしての役目は既に用済みであるのかもしれない。路傍の石のごとく、誰かに踏み付けられ、石の躰を二つに割られて破壊されるのが、私の生の終わり方なのかもしれない。  
…それは、私にはわからない。私の未来は、私のものではない。私には生が与えられてはいても、その生を何一つ私のためには使えない。  
私の生に終焉があるのなら、私は死に場所を自分で定めたい。私以外の誰かの願いを叶えるために終わるのではなく、私は私の願いを叶えるために私の生命を使い果たしたい。  
…私の運命とは、いつか必ず私に訪れる、私の死に場所だ。  
…翼が欲しい。風を孕んで包む私自身の翼をはためかせ、私が目指したその場所に辿り着くまでの間の、限られた自由溢れる輝きに満ちた生を…私は熱烈に望んでいる。  
 
「……答えよ。お前は、何者で在りたいと願うのか?  
人の手に囚われた石の躯の卵としての己れか?それとも人の手を越え、卵の殻を破り、定められた運命から羽ばたき飛翔する、翼ある者としての己れか?」  
天使長殿が、指先に燐光を発する炎を宿した爪を振り、文字を綴るようにある形状を虚空に描き出した。激しく明滅する像が宙に記され、セント・エルモの鬼火のように闇の中で稲光りし、輝いた。  
…生け贄の烙印と呼ばれる紋章、犠牲の小羊にそのしるしを刻み込む為の焼鏝だ。  
蒼白い、絶対零度の冷気を放つ炎を纏った生け贄の烙印が、天使長殿の掌を放れた。  
揺らめく烙印の炎が、宙に浮かぶ四人の守護天使達と沼地に座り込む人の子逹の間の、中央の漆黒の夜空へとゆっくりと移動し、私に返答を促すかのように闇に冷たい火焔を撒いて瞬いた。  
地平線の彼方から、暗闇に蠢く人外の群れ逹の飢えの咆哮が、黒雲から洩れる雷鳴のように重苦しく我々の元へと轟いた。  
生け贄の血と肉を求めて、カチカチとその牙を鳴らし、滴る涎を拭って晩餐を声高に要求し催促する……文字通りの血に飢えた叫びだ。  
視線を送ると、彼等は烙印同様、我々のいる場所の方へとじりじりと迫ってきていた。さっきは遥か遠くで飛び回る蝙蝠のようにしか見えなかった影の群れが、今は、空を飛ぶ者と地を這う者の二つの群れの集団とわかる程度に近付いている。  
一体として同一の種類のかたちを持たない、悪夢のような醜悪な姿を持つ畸形の怪物達の群集だ。  
醜いが…、しかし凶悪な力のエネルギーに満ち満ちている姿。  
…奇妙な事に、その自然の生き物としては有り得ない、異常な姿形を持つ怪物達の群れが、私の目には心魅かれる蠱惑的なものに映った。全く異なる価値基準から見た、常識の尺度を撥ね除け、人間の卑小な価値観を超越した、グロテスクで奇怪な魅力を感じた。  
…彼等のかたちは殺戮と破壊と生存に長けている。人間の姿形は…弱い。爪や牙や体毛や肉体的能力を退化させ放棄し、身を守る力を己れの肉体の外側に求め、その想像力から様々な武器を造り出したが…剥ぎ取られれば、信じ難いほどに無力だ。  
あのセミロング魔女娘は、身を守る呪物をすべて奪い取られれば、彼等にとっては美味そうな餌でしかない。肉体的には、身を守る手段を何一つ持たない。徹底的に弱者だ。  
…そして、今の動けぬ石の置物である私は…その無力な人間の少女よりも更に弱い。戯れに、誰かが私を打ち壊そうと拾いあげられれば、私は逃げることすらできない。  
元は人間であった、人外の者たち。彼等は人の心の最深部に潜む、極限の想像力から生まれ出た暗闇の落し子だ。…そして彼等の魂は、一様に強者の姿を求めた。  
自らの欲望が赴くままに解放された、異形の生命力に満ち溢れた凄まじい容貌を…彼等は、誇っている。あるべき己れ自身の姿である喜びを、その怪物の姿の全身で謳っている。  
空を飛ぶ者の姿を目で追う。翼竜のような長大な二枚の翼をゆっくりと閃かせて旋回するもの、精致な翅脈の浮く、昆虫のような透明な羽根をせわしなく瞬かせるもの。……様々な、ありとあらゆる種類の翼。  
…あの群れの中の一匹の怪物として、自分の内から漲る、荒れ狂う凶暴な歓喜の叫びを、喉が張り裂けんばかりに夜空に向かって解き放つのは…、いったいどんな気分がするものなのだろう。  
『私はここにいる、そして私は自由だ』と、…私の運命を定めた者に向けて、叛逆者の叫びを心ゆくまで上げるのは。  
我々の座り込む沼地の周囲の四方八方から、包囲するように彼等はその距離をゆっくりと狭めつつあった。  
沼地を掻き分け躄り這う者達の、でたらめな本数の肢や触手が泥水をじゃぶじゃぶと波立たせ、乱れた水面の上を波紋が幾つもの同心円状の輪を描いて遠く広がり、彼等と我等の間に置かれた距離を渡り、やがて泥水に浸っている私の石の躯を微細な水の振動が微かに濡らした。  
…私は、どちらだ。彼等と我等のどちらが私の場所なのか。  
 
「…ベッチー……」  
呟きの聞こえた方向へ目をやった。  
生け贄の烙印が、頭上を街灯のように照らす熱の感じられない光の下で、泥沼に漬かる二人の全裸の少年少女と、猿少年の肩口で宙に浮かぶパック君が、私をみつめていた。  
パック君の怯えた顔を目にした時、悲痛な痛みが私の心を引き裂いた。  
…生け贄。私の夢には、代償が必要なのだ。  
…パック君は、私のたった一人の友達だ。『ベッチー』という愛称を内心『…それはちょっとあまりにもヘボすぎるのでは…』と思いつつも、私が受け入れた理由がわかった。  
それは、私だけのための呼び名だったからだ。『ベヘリット』は私の種族名であって、私という『個』のための名ではない。『ベッチー』は…ここにいる私のために、君が、考えてくれた名前だ。  
両眼から涙が溢れた。…哀しい。  
…何故なら、それでも、パック君の背中で羽ばたく羽根は、私に苦痛をもたらすからだ。…それは、私にはないものだ。君に抱えてもらわねば、私は何処へも行けないのだ。  
そして私の預かり知らぬ運命とやらがもし命ずるのなら、私は君と黒い剣士の手から離れて、また何処か知らぬ誰かの元へと運命の手で運ばれていくだろう。  
…それに関しては私には何の決定権もない。私は誰かの決めた運命に好き勝手に扱われる道具であって、私という『個』は疎外され続けたまま、いずれその生を終える。  
私の、決定済みの運命の主から、『私』を奪い返せる機会は、おそらくこれが最初で最後だ。二度目はない。  
私のためにパック君を犠牲になどできる筈がなく、けれど、それでも、私は……私の翼と私の生が欲しかった。…選びようがない選択肢。  
決定済みの運命に流されるままの『私』と、自分で運命を選ぶ『私』。  
自分のためにパック君を犠牲にする浅ましい『私』と、パック君のために潔く『私』を諦める『私』。  
…私は何者で在りたいのだ。どちらが、私の望みなのだ。  
黒い剣士であれば、どちらを選ぶのだろう、とふいに思った。  
大切な者のために己れを犠牲にするか、己れのために、大切な者を犠牲にするのか。  
…いや、奴は一度選び、後からもう一度選び直した。  
…そして、結果的に弱くなった。  
自分の復讐の目的のためだけに戦う奴は、素晴らしく強かった。最強の化け物だった。そして、人から憎まれ、謗られる事を恐れない、強靭な精神の強さを持ち併せてた。  
『大切な者』をその手に救い出すまでなら、やっぱり奴は強かった。愛する女性のために命懸けで戦う男、…は、感無量に強かった。邪魔する奴等を吹き飛ばし、蹴散らす強烈な気迫があった。お猿の少年は感涙で瞳をうるうるさせとった。  
…ところが皮肉なことに『大切な者』を手に入れてから、奴は、弱くなった。戦って勝ち取ったにも関わらず、嫁の心のすべてを手に入れた訳ではない事に、気付いたからだ。  
『大切な者』の姿が、奴の心の中にある姿と食い違っていたからだ。  
奴が嫁と二年ぶりに再会したのは聖地だった。  
…聖地で催された生誕祭は、過ぎし日の『蝕』の映した影だ。聖地ではフェムト様が『蝕』と同じく新しい姿に転生なされて、生誕祭は終わった。…だが、『蝕』の終わりではない。まだ『蝕』には続きがあったはずだ。  
奴にとって、過ぎし日の『蝕』の本当の終わりは、フェムト様が奴の目の前でその伴侶を犯して嫁を昇天させ、…嫁はフェムト様を受け入れ、そして奴を絶望させたのが、『蝕』の本当の終わりだった。  
生誕祭の後日に、以前の『蝕』の続きが別の場所で人知れず模された。…嫌になるほど同じ結末だ。  
フェムト様は新しい肉体で、奴の前に空から地上に降り立った。奴が『蝕』が終わった後に目覚めた鍛冶屋の親父の鉱洞の上で、フェムト様は奴の前で嫁を両腕に抱擁した。奴はその時、化け物に吹き飛ばされて『蝕』と同じく地べたに這わされていた。  
嫁は犯されはしなかったが、しかしフェムト様を求めて触れたがった。奴の目の前で。  
…嫁の心の中には、フェムト様がいるのだ。嫁は、奴のことは忘れても、フェムト様の事は、覚えている。  
…それについては、おっそろしいほど奴はノーコメントだ。悩まないはずがないが、悩む事自体から目を背けている。言葉はないが、表情だけは正直だ。…動揺しまくりだ。  
直視すると、寝取られ亭主の嫉妬、劣等感、苦悩、その他もろもろの、見たくもないような醜いものがドロドロと沸いて出て来るからだ。だから奴は目を背ける。  
 
奴の目の背け方は年季が入っている。奴の右目に本当に最後の最後に焼き付いていた画像は、ひたすら犯された後の嫁の姿だ。フェムト様はかけらも見てない。奴が『蝕』の最後に、絶望して叫んだ時に目の前にあったのは、1Pぶち抜きで、犯された嫁だ。  
…にも関わらず、鍛冶屋の親父から説教された後に鉱洞で『蝕』を回想した時、右目の残像の内容を…奴は、擦り替えとる。  
最後に見たものをフェムト様のお姿に…変えとるのだ。そして嫁の姿も微妙に「無理やり犯されたかわいそうな被害者」っぽくアレンジされとる…。犯された直後の、股間から精液垂らしてた扇情的なエロい嫁の姿は、一切記憶から消去。  
…授肉したフェムト様と嫁の抱擁を見て、奴の心に浮かんだのは、検閲削除して一切なかった事にした最後の右目の残像ではないかなと思う。  
…正視すると、嫁を憎まずにいられんから、忘れたフリをしたいのではないかな。  
フェムト様なら憎んでいる自分を認識しても、辛くない。…嫁は、辛い。  
フェムト様が心の中にいる嫁、を直視するのを避けて、奴は嫁を「今度は喪失しない」と堅く決意し…、そして『大切な者』であるはずの嫁に…密かに殺意を抱き始めた。  
自分の中の醜い部分を疎み始めた。…それは、少なからず奴のドス黒い炎の構成成分だ。嫉妬の炎の色は、ドス黒い。  
…自分の力の源泉が肯定できなくなってから…奴は、心が弱り始めた。  
鍛冶屋の親父が残してくれた、遺品とも言える甲冑がスラン様にぶっ壊された後…、奴の心には、一言も鍛冶屋の親父に対して詫びの言葉が…沸かなかった。  
…どうにも、奴らしくないのではないかと思う。鍛冶屋の親父には奴は恩義が山ほどあるはずだ。一言ぐらい「すまねぇ、ゴドー」と言ってもバチはあたらんはずだ、とゆーか…言えよ。人として、言うべきだろ。遺品であれば。  
奴が鍛冶屋の親父の甲冑の破壊に関してノーコメントなのは…最初は受け入れた鍛冶屋の親父の説教が、後々になってから、奴は受け入れられなくなったからではないだろか。破壊された甲冑は、鍛冶屋の説教の後に新調されたものだ。  
というのも鍛冶屋の親父の説教は…、寝取られ男の苦悩をまるきりスルーした代物だからだ。…ポイントが、ずれとる。そして復讐を選んだ奴を…否定する代物だ。  
鍛冶屋の親父の説教の通りに、蝕の後で奴が嫁の元へとどまってたら、どうなったか。  
「一緒に悲しみに身を浸す」どころじゃない。狭い鉱洞の中に精神錯乱状態の嫁と二人で閉じ込められてたら…早晩、奴は嫁に怒りと憎悪をぶつけて強姦して殺しとったろう。現に嫁と二人旅をし始めたら、やっぱり奴は嫁を殺しかけ、強姦しかけた。  
自制はしたが、蝕の後の鉱洞の中でも、奴は一度嫁を襲いかけた。  
鍛冶屋の親父は奴を「嫁を残して逃げた」と責めたが…嫁惨殺の末路が目に見えとれば、離れるしかないではないか。奴は、脳味噌以外の部分で自分が嫁と一緒にいたら危険だと感じていたのではないかと思う。  
…憎まねば生きていけない人間に「憎しみに逃げた」と責めるのは…、酷だ。奴は、そこまで強くはない。鍛冶屋の親父は、自分の娘が目の前で強姦されて発狂したら、その相手を憎まずにいられるのか。  
発狂した嫁に、「狂気に逃げた」と責めるのと同じではないか。…そうしなければ、生きていけないから、狂ったように憎む事に奴は身を投じた。生き残りの奴と嫁の精神状態は表裏一体だ。…奴だけが「強い男」を要求されるのは…あんまりではないか。  
奴が復讐の旅を選んだのは、圧倒的に正しかった。一つも何も間違っていなかった。  
蝕の直後の憎悪と怒りを抱えたまま、それをぶつける対象なしに同じ場所にとどまってたら、奴の憎悪は自己破壊に向かってた可能性大だ。最初に血祭りに挙げられるのは、奴の嫁だ。  
鍛冶屋の親父の説教の「悲しみから逃げた」は…やっぱ、ポイントがずれちょると思う。あの親父は良い奴だったが。  
何故って奴は、ちゃんと悲しんだ。仲間のために泣きながら野を駆けて、全身で喪失したものを、悲しんだ。悲しみに面と向かって、ちゃんと目を据えた。…それから選んだ。  
奴と嫁が受けた扱いは、自尊心の剥奪だ。奴の仲間は虫けらのように殺されて、人間扱いされなかった。  
自尊心を剥奪されたのなら、自分の力で奪い返すしかない。それは、正しい。  
奴が復讐の旅で、怪物の顔で戦って取り戻そうとしてたものは、実は人間としての尊厳だ。餌扱いされる事で自分の心が浸食されるのなら、餌扱いする者を自分の力で否定するよりほかにない。  
復讐の旅は、奴が生き延びるために選んだ、どうしても必要な行動だったと思う。  
絶望から立ち上がるのに、奴には憎しみが必要だった。憎しみは…生きる力だ。  
奴は、後から奴の復讐の旅を自分から否定する必要なんて、絶対になかった。  
 
しかし、奴は…あまり自分の心を言語化して自己肯定する奴じゃないのだ…。そして目を背けたい事には、とことん背ける悪い癖もある…。  
復讐の旅を選ぶ時に、奴が掲げた大義名分は『仲間への仇討ち』だ。口に出して言うのも、主にそっちだ。  
…それが、総て嘘とは言わんが、『俺の女寝取った野郎ぶち殺す』が…抜けている。  
奴は、仲間への義憤を背負う男で在りたいが、寝取られ亭主では在りたくない。  
寝取られ男の自分を直視したくない。  
しかし、内実は…寝取られ亭主の私怨の方が大きい。そしてそのドロドロの黒い怒りは…奴の力の源泉だ。  
コイツは『俺の女寝取った野郎ぶち殺す』と、口に出して言う事ができない。  
…何故だ。カッコ悪いからか。そんなもん、腹立って当たり前ではないか。それとも…『俺の女』と言い切る自信がないからか。劣等感と敗北感の方が強いからか。  
自分の劣等感と敗北感を直視したくないから、奴はロリに走る。汚れのない純真な少女を相手に、ドロドロの醜い劣情抜きの純愛をして、癒されたいのであろうなあ…と、ため息半分に思う。  
セミロング少女の肢体は、子供のものだ。スラン様のような、女の性的な匂いは一切ない。右目の残像がもたらすドロドロの嫉妬、劣等感、敗北感、その他…を催す心配が、ない。だから安心してべたくた触れる。で、まあこっそり性的満足を得る、と。  
逆に言うと、スラン様は奴の弱点を直撃する存在だ。  
奴がスラン様と戦う時の姿は…一見カッコつけとるが、実は後ろの骸骨のオッサンの指図通りに言われた事やっとるんだよな……。かなり情けない。私は鞄の中で奴に懇々と説教したくなった。  
女とやる時に、後ろから年長者の指図受けててどうするか。  
びびった時に「怯むな」と自分で自分自身に言えんでどうするか。挿入する時に他人から「機なり」だの「貫け」と言われて、いちいちそのとーりにやっててどないする。「うるせぇ、指図すんな」と骸骨に何故言わん。  
そして貫いた後で…自分で動かせよ。自分の意志で。貫いた腹から脳天まで、真っ二つに大剣で引き裂くのが…何故できんか。お前は骸骨に言われた事しかやっとらんではないか。  
あんなので勝てるわけない。スラン様がご満足なされたのが不思議なくらいだ。  
…奴が女の怪物と戦う時は、狙う場所はほぼ下腹部だ。わかりやすく欲求不満を戦闘で昇華させとる男だ。  
スラン様が性交まがいの台詞を連発なさっていたのは、あれが代理セックスだからだ。  
男と女のどっちが強いか、どっちが相手に「参った」と言わせられるか、の戦いだ。  
…保護者付きでなければ怖くて女とやれない、って時点で既に奴の負けだ…。情けない……。  
そして、その後で「天使気取りの化け物をぶん殴ってやった」などとカッコつけるのが、セミロング少女相手だ…。骸骨から「貫け」って言われて、そのとーりにやってるだけなのを、さもお前だけの意志の強さでやったような言い方すんなあっ。  
セミロング少女が男女の秘め事には無知だから、お前は安心して空威張りできるんじゃーないのか……。セミロング少女に露骨にべたくた触り始めるのは、スラン様との戦闘の後からだ。…大人の女に敗北した男の逃避先が少女だ…。わかりやすい男だ……。  
形は引き分けだが、精神的には負けだろ。それが証拠に傷がずるずる長引く。  
そしてその直後の竜の大将との戦い方は最悪にひどかった…。「自分の力だけでどうやって勝てるか」を奴はまったく考えようとしなかった。  
『蝕』の真っ直中に投げ込まれた時、奴には甲冑どころか剣すらなかった。…それでも怪物の角を武器にして、暴れ回って戦っとった。どんなに絶望的な状況でも、諦めないのがお前じゃないのか。  
その強烈な意志の強さがまったく無かった。…自分への自信を喪失しとるからだ。敗北感を正視せずに、カッコつけでごまかして逃げたからだ。  
奴はスラン様に怯えた。  
ではスラン様は奴に怯えたか?  
……否。たっぷり楽しまれた。奴はスラン様を怯えさせれなかった。スラン様がお声を上げて楽しんでいらっしゃる時の奴の顔は、やっぱびびってた。羨ましくもスラン様から口づけされた時の奴の眼は…びびっとる眼だ。憎悪や怒りじゃない。  
精神力で敗北しとる。…理由は、明白だ。スラン様は御自分の欲望と感情を全肯定なされている。全肯定しとる相手には、自分の全肯定を叩きつけねば勝ち目はない。…奴は、否定したがっている。自分の内側にあるものから、目を背けたがっている。  
骸骨のオッサンの指図を必要とする。自分の意志で、女と性交する自分を忌避したがっている。……怯んだ自分を、自分の言葉で語らない。  
 
嫁に劣情を催して襲いかかった時、奴はいちいちフェムト様を言い訳に持ち出す。骸骨のオッサンなり、フェムト様なり…常に他人の存在を意識する事が、奴は女と性交する前に必要だ。…やるのは、自分と目の前の女の、一対一でしかない筈なのに、だ。  
嫁を襲う前も、山賊に強姦されたかもしれない嫁、に対して襲う。  
「まさか…(キャスカは姦られちまったのか)」の次は、  
(他の男が姦ったのなら、俺も姦っていいはずだ)…じゃー、ないのか、嫁を襲う直前に脳味噌過ぎった思考は。でなきゃ襲わないだろ。『赤信号、みんなで渡れば怖くない』かよ…。  
奴の眼から出とった涙の成分には…自分への嫌悪もかなり入ってるんじゃないだろーか、と思う。嫁から嫌われて辛い、以外にも、嫁の陰毛から滴る血液見て性欲催す自分自身への嫌悪その他もあるのではないかな…。  
嫁を守りたいと思ってるのに、裏切る自分自身の性欲が、哀しいのではないかと思う。  
「他人がやってるから、自分もやっていい」は…姑息な自己正当化だ。他人を言い訳に使って自分の欲望を正当化しとる姿だ。…男らしくない、こ狡い姿だ。  
…自己正当化して襲いたいと同時に、そういう自分が嫌なんではないかな、と。  
「己れの禍々しさに戦慄する」とか、後でカッコつけて言うとるが…、己れの浅ましさや醜さを直視するのが怖いのじゃあないのか…。小心で後ろ暗くてコソコソしとる姿だ。  
「禍々しさ」が自分の内側にあっても、自己イメージは損なわれない。それは強者のイメージであるから。けれど、卑しく汚いものが内側にある自分は…正視し辛い。  
…コイツは本当に自己分析とは縁がない奴で、「ドス黒い炎」とか「禍々しさ」という言葉で片付けて、それ以上それ等の内容の構成成分を自分で考えようとはしない。「わからねぇ」ですませる。…たまには、考えろ……。  
…蓋を開けると、ドロドロなものが沸いて出て来るのがどっかでわかってるから、見たくないのだ。黒カビだらけの奴の鞄の底と一緒だ。  
「グリフィスがしたようにズタズタにしてしまえ」と言うが、…嫁を昇天させてメロメロにさせて、犯した後で嫁のハートをこっちに持って来れねば、「グリフィスがしたように」には…ならんのだ。  
それに…言うとあれだが、フェムト様は嫁への性欲で犯した訳ではないだろう。奴に敗北者意識を植え付けたかったからじゃないのか。  
嫁を強姦してフェムト様が傷つくか?…傷つかない。傷つくのは奴と嫁だ。そしてそれは敗北者の姿だ。  
嫁の体だけを無理やり強姦して、奴がなれるのは…嫁を輪姦した怪物の一匹だ。フェムト様は嫁に挿入はしても肉体に傷をつけてはいない。愛撫して昇天させた。傷をつけたのは輪姦した怪物達だ。そしてその怪物達は……フェムト様の手下だ。  
「グリフィスのように」なろうとして、いつの間にかその手下になっている……。  
……絶望的に救いがないな……。  
他人の二番煎じの自己正当化では、…フェムト様に勝てない。対等の者には成りようがない。敗北者にしかなれない。  
全肯定している相手には、自己の全肯定をぶつけなければ、勝てない。…だが、心の中にフェムト様のいる嫁、の存在は…奴が自分を肯定できなくさせる…。  
ところで「グリフィスがやったから」を言い訳にして女に襲いかかった男性が、この世界にはもう一人いる。  
…今は亡きミッドラント国王だ。嫉妬の妄執で廃人と化して国を傾けた王様だ。実の娘に襲いかかった寝取られ男だ。  
奴が嫁に襲いかかった姿は、ミッドラント国王が愛娘に襲いかかった姿とほぼ同じだ。…言い訳は同じだ。「グリフィスがやったから」だ。…嫁は奴の股間蹴り上げて、奴の顔にガンガン蹴り入れるべきだったと思うぞ。  
 
…幽界、イデアの世界に次ぐ、知られざる三つめの世界の深淵に潜む暗黒の神・ミ・ウラー神は…意識してこの世界に干渉する時は、「螺旋」の運命を与えていると思うが…、意識してない部分は果てしなく閉じた円環に近いのではないかと思う…。  
奴の心の中にいる獣性のイメージは、黒犬だ。例の呪いのクソ鎧は…奴が奴である事を辞めて、黒い犬と化す鎧だ。  
黒犬、と言えばまんま同じ名前を冠する使徒がいた。「黒犬騎士団」のワイアルドだ。  
奴の中の黒い犬は女を犯す怪物だが、ワイアルドもやはり女を犯す怪物だった。村娘を犯して、奴の嫁を強姦しかけた。…獣欲の象徴が、黒い犬だ。  
黒犬騎士団は、人間時代のフェムト様を追撃したが、フェムト様個人に恨みがある訳ではなかった。  
それは、王様の命令だ。でもって例のクソ鎧は、…王様の鎧だ。  
国王が命令した動機は嫉妬だ。奴の黒い炎の正体は…フェムト様への嫉妬と敗北感だ。  
黒犬騎士団は旧・鷹の団と戦い…、黒犬鎧は新・鷹の団と戦った。勝敗の結果は違うが。  
…皮肉な話だが、蝕直前の、奴がまだ右目があった頃に、もしも黒犬騎士団が勝利してワイアルドが人間時代のフェムト様を殺していれば…蝕は、訪れなかった。まあ、因果の流れ的に有り得ないのだが。  
有り得ないが…しかし蝕は起こらなかった。  
だが、ワイアルドが勝利していても、黒犬騎士団心得「エンジョイ&エキサイティング」で、奴の嫁は確実に強姦されて殺されてた。  
…何が違うかと言えば、黒犬ワイアルドなら嫁のハートは奴の元にあるままだったろう。奴の妄想の中のように、快楽ゼロで惨殺されてたろう。  
…フェムト様なら、奴の目の前で嫁は絶頂に達して、…奴を裏切る。  
新・鷹の団に勝利する黒い犬鎧というのは…フェムト様に奪われるくらいなら、あるいは裏切り者の女なら、殺してしまえという願望ではないだろうか。…暗黒の神・ミ・ウラー神の。  
暗黒の神・ミ・ウラー神は、小手先や計算より本能で物語を綴る神ではないかな、と思う。本能部は「在るべき物語」の姿の螺旋及び円環を繰り返し望むのではないかな、と。  
私の以前の持ち主の伯爵が捧げた生け贄は、裏切り者の妻だ。「異教の神に縋って快楽に顔を歪ませる最愛の者」だ。…まーんま、奴の嫁ではないか。  
聖地で奴は嫁と再会するが、邪教徒達の乱交パーティーの光景は、そのまんま伯爵の城で行われてた邪教徒達のと同じだ。山羊の頭の神と交わっていた伯爵の妻。山羊の頭を持つ怪物に犯されそうになっていた魔女が、奴の嫁だ。  
聖地では、奴は嫁が犯される前に救い出す。  
…でも、それは既に遅いのだ。二年前の蝕の時点で、既に嫁はフェムト様に犯されて「快楽に顔を歪ませる最愛の者」を奴の前でやっている。…奴は記憶から抹殺して本気で忘れたフリしとるよーだが、…右目の奥底では焼き付いているはずだ。  
奴はスラン様から「捧げてみる?」と誘惑されるのだが、奴にとって捧げる対象は…嫁でしかないだろう。最も愛し最も憎む、自分の手では殺せない裏切り者の妻。  
奴は嫁を心の底の暗い部分で憎んでいるが、…それを認めたくはない。  
黒い犬の声の「グリフィスがしたように」は…「グリフィスにやられた裏切り者は、殺してしまえ」だと思う。  
…しかしながら、禍々しい黒い犬、女を犯す怪物のワイアルドが、死んで元の人間の姿に戻った時…、その正体は年老いた老人だった。強壮な若い男性ではない。  
女を犯す怪物はもう一種類いる。トロールだ。イメージは奴の嫁強姦妄想の獣と同一だ。黒くて毛むくじゃらの、女を犯す怪物。獣欲の象徴。  
…でも、トロールのイメージは雑魚だ。どこか滑稽で卑しい。トロールの王様は猿少年にやられてしまう敵だ。  
 
奴の黒い犬の禍々しさの下に隠されてるのは、…卑小でねじけた自己ではないかと思う。右目の残像で植え付けられた、劣等者意識ではないだろか。「グリフィスには自分は絶対にかなわない」という種類の。  
劣等者意識をはねのけるために、自分より強い者に向かっていく姿は勇敢だ。しかし、それは…逆方向にも向くのだと思う。自分より弱い者に暴力をふるうという種類の。  
山賊に強姦されたかもしれん嫁に、嫌がられてるのがわかってて乗っかるのは…浅ましくて哀しい姿だ。襲われる嫁も不憫だけど、襲ってる奴の姿もかわいそうで哀れだ。本当の本当は嫁から好かれたいのに、全然逆の事やってしまうのは…哀しいがな。  
…コイツもかわいそうだな、と思うけれど、でも「禍々しさ」でごまかすより、自分はその山賊と同類だって事を正視しろ、お前の涙を正視しろ、とも思う。  
…あの呪いの鎧を使い続ける末路は、ミッドラント国王ではないだろうか。黒犬騎士団の所有者だ。国王の権力を振り回して、国を荒廃させた。  
ミッドラント国王は、愛娘の心と処女をフェムト様に奪われてから、人格が荒廃し、恐ろしい老け込み方をした。呪いの鎧使用で奴が「ちょびっとだけ白い剣士」になったのは…ギャグにしとるがギャグで済むのかと思う。  
ミッドラント王家は…覇王ガイゼリックの唯一の血縁だ。父娘相姦願望の亡き国王は、……多分骸骨のオッサンの子孫だろ、直系ではないにせよ。  
あのクソ鎧の、本来の正統な遺産相続権を持つ所有者は、今は亡きミッドラント国王だ。…故に、暗黒ドロドロの呪いパワーがあまりにもヤバすぎる……。  
でもってミッドラントは現在王座は空位だ。授肉したフェムト様が王女を娶り、国王の座につく可能性は結構ある。  
フェムト様が王位につけば、…亡きミッドラント国王は、完璧な敗北者だ。愛する者を奪われ、次いで玉座も奪われる。そして呪いの鎧の所有権はフェムト様が相続する。  
…呪いの鎧の暗黒呪いパワー解放は…「グリフィスのように」なろうとして凶暴に振る舞い、いつのまにやらその手下になっとる図、…ではなかろうか……。  
とりあえず、呪いの黒犬鎧発動でフェムト様と対決するのは、最初から敗北決定だと思う。……勝てたら、詐欺だ。  
暗黒の神・ミ・ウラー神が、どういうつもりであの黒犬鎧をこの世界に生み出したのかは、神の御心に委ねるより他はないが…手放しで褒めたたえる訳には絶対にいかん代物だと思う。…私は、あのクソ鎧は大っ嫌いだ…。  
黒犬鎧が暴走する時、奴は心の中で『蝕』を追体験させられている。周りにいるのは皆奴を殺そうとする怪物だ。仲間は誰もいない。一人残らず殺されている。  
鎧が恐怖を忘れさせるというのは、嘘だ。二度目の暴走の時、奴の心は「来るな」という言葉で満たされている。…それは、恐怖で満たされた者の言葉だ。恐怖を与える狂戦士は、心の中で怖がっているのだ。…怖いから周りにいる者を殲滅させるのだ。  
…鎧の中で、奴は生け贄に捧げられている。みんなを救うための、生け贄だ。…生け贄として、自分の生命力を鎧に捧げている。  
「鎧のおかげで助かった」と褒め称えるのは…奴にあんまりではないか。…奴が、かわいそうだ。  
…それで奴は慰められたくてロリに走るのであろうか……。病んでいる…。  
一言、「こんなヤバイ鎧使うのは嫌だ」と言うたらすむ話だが、「任せろ!」的にカッコつけたいのだろうなあ…。…で、カッコつけた後で、でも辛いから幼い少女に甘えたいーと。……正直に言ってしまおう、奴はあほだ……。同情をして損をした気分だ……。  
黒犬鎧の発動は…常に自己との戦いだ。奴の中の黒い犬が一番殺したがっているのは、奴の嫁だ。…奴を人間でいさせてくれる存在だ。  
「グリフィス!」という言葉は奴の隠れ蓑だ。フェムト様を言い訳に持ち出して、嫁を惨殺する映像は奴の心に繰り返し浮かぶが、フェムト様を惨殺する絵は一度もない。…嫁への憎しみを正視したくないために「グリフィス」という言葉が必要なのじゃないか。  
…フェムト様に対しては、奴は劣等者意識と共に、愛情を抱いておるんじゃないのかな、と思う。授肉したフェムト様の御姿を初めて見た時、奴は「一瞬殺意を忘れた自分が許せない」と思う。…憎悪しなければ、と意識して、憎んでいる。  
表向きは奴はフェムト様を憎み、嫁を愛する者、であるが…黒い犬の囁きは、その正反対だ。…救いがない…。  
 
あの鎧は、奴に自分自身は何者か?という問いを繰り返し投げ掛ける。  
「お前は、怪物か?人間か?」と。  
…どちらも両方やつの半身ではないか、と思う。奴の怪物は生存本能から生まれた生き物だ。…本能抜きの人間なんぞ、おらん。霞食ってる仙人じゃないだろ。  
どちらか一方を否定して切り捨てるなどできない筈だが、あの鎧は、片方を否定させて分離させたがる。  
鎧で顔が隠れた奴の姿は…奴には見えない。鎧に乗っ取られた狂戦士だ。…責任転嫁が、できる。悪霊と同じだ。「鎧がやらせたことであって、ガッツのせいではない」。  
黒犬鎧が外部の敵を斬り伏せた後は、奴と仲間との戦いになる。  
…奴は自分自身の精神力で鎧を沈静化させるべきだ、としか言えないが、その努力は最初から放棄されており、セミロング魔女娘が奴を救う。…誰かから、救われたいのか…。奴は口に出さない部分で本当に相当しんどいのかな、と少し思う。  
自分の中の黒い犬から脱する時、奴にとっての「在るべき姿」は、「烙印の娘を守る者」だった。奴の心の中の在るべき自己イメージだ。  
しかし、それは…「烙印の娘」の現実の姿が、奴の心の中の心像とは食い違うのではないかと思う。「烙印の娘」に…心の中じゃ、愛されたいだろ、嫁から。昔の嫁は、好いてくれとったのだから。形容詞をつけるなら「自分と相思相愛の烙印の娘」じゃないのか。  
…だが、現実の今の嫁は、コイツがキライだ……。何故なら強姦されかけた嫁にとっては、奴が自分を輪姦した怪物の一匹だからだ。嫁が嫌ってても、しょーがない。  
嫁が生きていてさえくれれば、自分を嫌いでも、他の男が心にいても、構わない…と本気で心の底の底から思えれば、「烙印の娘を守る者」は嘘ではないが…残念ながら奴は自分で思ってるほど心の広い、心の強い男ではない。  
…そう、強くない。嫁から否定される自分が、奴は肯定できない。故に嫁を否定する。…少し先の未来の港町では、嫁は、何気に無残な扱いを受けている…。……不憫だ。  
…奴がセミロング少女といちゃつくのは…嫁へのあてつけも、入っとるんじゃないかと思うのだ…。自分が浮気するなら嫁も許してやれよ、と思うが…そーゆー発想はないらしい…。心は本当に狭い男だ……。  
授肉したフェムト様が現れる前までなら、奴は物狂いの嫁を全肯定できた。何千何万人が嫁を火炙りにしてくれ、と叫んでも「そんな奴等は勝手にくたばれ」と平気で思えた。何一つ迷わずに嫁の側に立てた。  
…要するに、問題はひたすらフェムト様だ。  
「挑む者」と「守る者」。奴は、「フェムト様への憎しみ」対「嫁への愛情」が自己の中で葛藤している、と思っているらしいが…それは、違うのではないだろうか。  
コイツは本当にフェムト様を憎んでいるのだろうか、と思う事はしばしばある。というのも、人間の姿のフェムト様を奴が心の中で思い浮かべる時の絵は…憧れやら慕わしさを感じてしまうのだ。…憎しみが、見当たらない。『なかま』の絵に入れとるし。  
…奴はもう、半分はフェムト様の事を心の底で許してるのではないかな、と思う。嫁と何千何万人の命を比べれば、迷わず嫁の命が大事だ、と言えるなら…人間時代のフェムト様が、何千人の鷹の団員を捧げた事を責める権利は…なくなるのだ。  
…だが、許してる自分が許せないし…、故に許してる嫁の姿はもっと許せない。  
「挑む者」の裏側には恭順者が、「守る者」の裏側には大切な者を破壊したい者が、それぞれ潜んでいるのではないかな…。  
骸骨のオッサンは、挑むか守るか一つにしろ、と言うが…、行動は一つしかできんが、…しかし、「挑む」事が、奴を「守る」人間にさせられるのではないだろうか。…どちらも奴の半身だ。片方を切り捨てようとするから、おかしな事になる。  
「嫁のために復讐を諦めた」という恩着せがましい気持ちがあるなら…、なびかない嫁に恨みがましい感情はやっぱり芽生える。  
フェムト様への劣等者意識の自己憎悪が、嫁への憎悪に繋がっているのではないかと思う。…寝取られ亭主の、ドロドロの嫉妬、敗北感、劣等感、その他だ。  
嫁を憎んでいる自分自身を奴は受け入れられない。無理やり意識の底に押さえ込んでも…それは、燻り続ける。  
嫁を本当に守りたいなら、嫁への憎悪を自覚して、憎悪と対話した方がいい。  
無意識のうちに嫁を殺したがっている自分自身を放置させとくのは危険だ。意識した方がいい。自制心で制御できる、自分の心の一部分にした方がいい。  
…だが、奴はそうしたくはない。  
…奴の「烙印の娘を守る者」という自己イメージ、「在るべき姿」は…虚像だ……。自分から目を背けた上で成り立たせた理想像だ……。  
「在りたい姿」を裏切っているのは、誰でもなく奴自身だ。  
 
…脱力する……。…何故私はこんな参考のかけらにもならん男を思い出して、「奴ならどうするだろう」などと考えたのか…。あまりにも無駄すぎる……。  
奴に思いを馳せていた時、突然気がついた。…私が、今現在のこの時間、魔女の館宿泊の時点で迫られている選択結果による影響は、私が見通した予定された決定済みの未来には、…全く起こっていない出来事だ。  
…もしも私が(あくまで『もしも』で、『捧げる』云々とは全く関係ない仮定の想像の上でだが)、転生し、私の運命をまるで違うものに変えてしまうなら…奴の未来も、おそらくまた、違うものになる。  
パック君の隣の全裸の少年少女にちらっと視線を向けた。ようやく私の存在に気付いた猿少年とセミロング少女が、天使逹が話し掛けている相手が私と知って絶句し、固唾を呑んで私の動向を見守っている。  
…この二人は、おそらくここで死ぬ。  
それに関しては、悪いけれどたいして心は痛まない。私にとってはこの二人はどうでもいい存在だ。…それはお互い様だ、としか言えんしな。人の鼻に罅入れといて謝罪の一言もない者が死んでも、私は何も困らない。  
この二人を生け贄にできるのなら、何も悩まずにくれてやれるのだが、その辺が生け贄献上システムの厄介な部分だ。  
…セミロング少女が死ぬ。そして変態ロリコン男は、逃避先を失う。…どんな変態でも、相手がいなければ、ロリに走りたくても走れまい。  
…セミロング少女は、奴の嫁と同じ目に会うだろうか、とちらっと考える。  
…さすがにそれは少し哀れな気がしなくもないが…、しかし人外の者の性的嗜好は奴よりよっぽどノーマルだ。彼等が主に好むのは、奴の嫁のように尻と乳がちゃんと膨らんでる種類の成人女性だ。幼い少女の肉体に対しては、多分性欲よりも食欲の方が刺激されるだろう。  
……だったら、問題ないな、うむ。  
もしも(あくまで『もしも』だ)、私が人外の者に転生するなら、私が最初にやりたいのは、魔女の倉庫に納められている、あの呪いのクソ鎧を修復不可能な破片になるまで粉々に叩き潰す事だ。  
あのクソ鎧が暴発しくさると、私の入っている鞄は奴の腰から吹き飛ばされる。…そして、暴れ回る鎧狂戦士化した奴の足の裏と、暴れ回る化け物の足の裏で、私は鞄ごと、好き放題に踏み付けにされ、いい様に蹴り回される……。  
それは、現時点ではまだ起こっていない出来事だが…、しかし、私にはうっかり未来を覗いた際の、踏まれ、蹴られ、揉みくちゃにされ、暴虐の限りを尽くされて死ぬ思いを味わさせられた、生々しい未来の記憶の恨みがある。  
…是非同じ事をあのクソ鎧にやり返さねば、気がすまん。必ず、絶対、ぶっ壊す。  
…奴は…呪いの鎧を入手する事は、なくなる。  
 
…そう、奴の運命は少なからず変更される。私の選択によって。  
くらっと目眩がするような興奮を覚えた。私は、奴の運命に干渉し、変更する力を…今、持っている。私が自分の運命を自分で切り開く力を持てば…その力で、奴の運命に干渉できる。  
明日イーノック村出発の現時点で、仮に猿少年とセミロング少女が私のせいで死ねば…、奴は、トロール退治どころではなくなるだろう。闇の領域に赴く事もなく、長く尾を引くスラン様からの深傷を負うこともない。  
奴に懐いている猿少年とセミロング少女は…多分、奴の心の一部だ。  
奴の旅に同行を許可した者が命を落とすなら、…奴は、おそらく心の深い場所で自責の念を感じるだろう。子供なら尚更だ。子供殺しには、奴はトラウマがある。忘れたフリをしておるが、昔命じられて暗殺者をやった時に、奴は幼い子供を間違って殺した。  
猿少年とセミロング少女が死ねば、『自分のせいではないか』と一瞬思い、それをごまかす為にも激しい憎悪を『敵』に対してぶつけ、仇討ちを望むだろう。  
…奴が「仲間の仇討ち」に拘るのは、自責の念を正視したくないからでもあると思う。  
人間時代のフェムト様の最後の御姿、四肢破壊舌切り取り廃人状態、を…奴は蝕の後一度も思い出した事はない。右目の嫁の痴態と同じく、記憶から完全消去。  
…思い出してしまうと、それが自分のせいではないか、と考えてしまうからだ。フェムト様が最終的に仲間全員を捧げたのは、自分が元々の原因なのではないか…、という恐ろしい思考が奴の心の底の方には潜んでいるのではないかと思う。  
生き残った者の、罪悪感だ。生き延びた事自体が、仲間への裏切り行為と思えているのではないか。…自分は蝕のあの場所で、仲間と同じように死んでいるべきだった、とどこかで思っているのではないだろうか。  
…そもそもが、子供時代に養父から「お前は死ぬべきだった」と言われた男だ。  
(ところで奴の中の獣は、時々中型犬の姿をしてるが…養父の飼ってた犬が色は黒くはなかったが、…似てるのだよな、尻尾や耳の形が。  
奴の獣が何故「犬」なのか、は…養父が養母の名前つけた犬飼ってたから、じゃなかろうかと思う。黒犬鎧暴走時の、奴の記憶の走馬灯の中の一つに、足切断後の養父と犬の姿があるのだよな…。言うまでもないが、奴は左腕切断の男だ。養母は…今の嫁そっくりだ。  
奴は父親から「犬っころ」呼ばわりされとる。養父の飼い犬への態度は、可愛がると同時に苛つくと蹴飛ばすという態度だった。…今の奴の、嫁に対する愛憎混然の態度と同じだ。運命は円環であるのか螺旋であるのか、どちらなのだろう、暗黒の神ミ・ウラー神よ…)  
自責の念を正視しないためなら、奴は積極的に憎悪に自分を駆り立てるだろう。…自責の念の自覚の重圧は、おそらく奴を押し潰して破壊する。けれど奴の生存本能は、自分を潰そうとするものには全力で抗って跳ね返そうとするだろう。…それが奴の憎悪だ。  
辛気臭い大人ぶりっこをかなぐり捨て、奴は昔の血の激しさを取り戻すだろう。…そして、転生し在るべき姿となった私を敵と見做し、復讐を挑む。  
……奴は、私を全力で倒すべき対象として…認める。  
奮えが心を走った。…私の中には、まったく知らなかった感情が眠っていたのを知る。  
私は奴を全力で迎え撃つ。あんなクソ鎧抜きの、憎悪と怒りの炎で真っ黒に染まった一番最強に強い、一番凶悪な、私と出会ったばかりの頃のような禍々しい黒い剣士と、私は…戦える。願いさえすれば、対等に戦う力を…私は持てる。  
一対一で奴と真正面から対峙し、奴の中の怪物と私が望んだ怪物との、どちらがより強者であるかを、死力の限りを尽くして互いにぶつけあう、一世一代の大勝負を奴と繰り広げる事が…私は、できる。  
望んでいるのか、と心に問うた。…望んでいる、と確かな声が、私の心の奥から返る。  
私は奴と戦いたい。そして奴に勝ちたい。奴の死体を踏み付けて、勝鬨の歓喜の歌を空に向けて高らかに叫びたい。  
誰よりも私は強い、と私に証明したい。  
私が知っている一番強い最強の怪物は、奴だ。…私は、強い生き物に変わりたい。天駆ける翼を持つ、誰よりも強いものに、なりたい。それを、戦って勝ち取りたい。  
……パック君を、犠牲にしてでもか?  
私の半分は『応』と答え、もう半分は『否』と答えた。…犠牲にしても構わない、と思っている自分が私の中にいる事に、愕然とし、衝撃と苦痛を感じた。  
天使長殿が閉じた両眼で私を見据え、死刑判決を宣告する裁判官のように告げた。  
「……さあ、唱えよ。ただ一言、『捧げる』と!」  
 
懊脳する私の頭上で、烙印の炎から少し離れた場所に、ユービック様が人差し指でぐるりと円を描いた。漆黒の空に鏡のような次元の扉を開き、ある風景を映し出す。  
……何故かそこには、魔女の館の誰もいない無人の浴室で、非常識にも屋内に例の大剣を持ち込み「どうなってやがんだ…」と呟いている黒い剣士の姿があった。片手で押さえている首の後ろの烙印からは、僅かに血が滲んでいる。…なんで、奴が出てくるのだ……。  
「この男とそこの小妖精を、生け贄として魔に捧げるか否か!?」  
…おい、ちょっと待て。パック君はわかるが、なんであの野郎が私にとっての生け贄になれる資格があるとゆーのだ……?生け贄とゆーのは、捧げる側にとってかけがえのない、己れの心の半身とも言える大切な存在の筈で……。  
…あの変態ロリ野郎が、私の心の半身!?  
…冗談じゃないぞっ、ぺっぺっぺっーと唾吐いて塩撒きたい気分だ。考えるだけで暗黒のロリ病に感染しそうだ…。寒気がする…。  
「…あの、守護天使様方にお言葉を返すようで申し訳ありませんが…。黒い剣士はすでに一度、生け贄として捧げられています。贄としては無効なのではありませんか?」  
おそるおそる守護天使様逹にお伺いを立てた。  
スラン様が腕組みして豊かな乳を揉みながらお答え下さる。…目、目のやり場に、かなり困るが…、スラン様はまったく気にされていないので、有り難く拝見させていただく。  
「…そう、あの坊やは一度生け贄として魔に捧げられた身。本来なら彼が二度目の生け贄となる事は有り得ないわ。  
でも、そもそも今現在この場所に私逹が集っているのは、因果律に定められた召喚ではないの。理から外れた存在であるあなたの強烈な思念が…私達を引きつけ招き寄せた。  
…そしてあの坊やもまた、理から外れた存在。  
烙印のしるしを受けながら彼は未だ、生きている。生け贄の祭壇から逃走した小羊が、あの坊や。彼の血肉と断末魔の苦悶は、魔への供物と認定されたにも関わらず…、未だ魔に奉納されていない。  
そしてあの坊やに烙印を刻み、生け贄として捧げたフェムトは、再び何千何万の人の子の絶望の祈りを供物として受け取り…、再び転生し血肉を持つ身へと授肉した。  
その事が、坊やの身体に刻まれた烙印の呪力の威力を半ば以上弱体化させたわ。…たかが魔女の護符風情で封じられてしまう程度に。フェムトが授肉する以前であれば、安全な場所以外で魔を呼び寄せる烙印の呪力を防ぐ事など、一日たりとも不可能だったはずよ。  
…闇の翼フェムトへの生け贄としては、彼は既にその役目を終えた不要の存在。  
…彼には二つ目の烙印を刻み込む事が可能な余地がある。…でも、二つ目の烙印を押された生け贄は、未だかつて存在したことはないわ。  
いかにあの坊やといえど、二つの烙印をその身体に刻まれれば、呪力の強大な力は彼の命を消し去り、坊やの血肉と断末魔の苦悶は正当に魔の元へと奉納されることでしょう。  
そして、なによりも…あなたが断ち切るべき人間性、あなたの心の中にいる、最もかけがえのない大切な、最も生け贄として捧げるべき対象、…それが、あの坊やだからよ」  
…だーかーらーっ!それがっ、絶対にっ、なあにが何でも納得いかんっちゅーんじゃあああっ。寝言は寝てから言わんかああーっ。ふざっけんのもたいがいにしくさりやがれええええーっ。  
…はっ。いかん…。心の中だけとはいえ、スラン様になんという無礼な口の聞き方をしてしまったのだ、私は…。  
…でも、スランさま…。…それは、いくらなんでもあんまりです……。私にとって、最悪の罵詈暴言です。非道極まりない侮辱です…。  
何が悲しゅうて幼児姦性犯罪者変態ロリ黒カビ繁殖剣士が、私にとっての『大切な者』呼ばわりされにゃーならんのだ……。…そ、そこまで私は落ちぶれたくはない……。  
「…あの、私は黒い剣士が単にキライです。不愉快で迷惑です。別に生け贄に捧げても全然困らない存在ですが…私の血肉としては、不適当だという気が…。…色々病気が移りそうで不安ですし…。…生け贄の人選を、間違われておられるのではないかと……」  
「ふふっ。…あの坊やを庇っているのかしら?美しい友情だこと」  
…だから、違うって……。…頼むからやめてくれ…。悪寒が、ぞわぞわとそそけだつ気分だ…。  
救いを求めるように他の守護天使様達を見回した。…しかし誰も否定の言葉をあげない。…まさか、スラン様だけでなく、他の方々も、そのように思われているのであろうか……。…何故だ……。理解できない……。  
パック君と二人の人間の少年少女の視線が気になった。…よもやまさか、真に受けたりは、せんだろうな…。  
 
スラン様がにこやかに微笑みながら私に語りかけた。…その微笑みが、今は微妙に憎たらしく思える……。  
「…思い出してごらんなさい。あなたはいったい、いつの頃から自分の運命を自分のものにしたいと思い始めたのかしら?  
最初にあなたの内部に宿ったの魂のかけらは、元は伯爵の生への執着、死への恐怖が発端だった。かけらはかけら。切片だけの魂では、それは虫や微生物のものと大して変わらないわ。  
でも、烙印の者であるあの坊やとの旅を続ける中で、あの坊やが怪異を招き寄せ、また、自ら危険の中に飛び込んで行く行為に否応無しにつきあわされ続ける中、あなたは彼の鞄の中で、何度も繰り返し、自己の生命の危険を感じた。  
自分の石の躯が破壊されて、自己の存在が失われる恐怖に絶え間なく晒され続け、…その度にあなたは生に執着し、『死にたくない、生きていたい』と望んだ。…その繰り返しが、かけらでしかなかったあなたの魂を揺り動かし、あなた固有のものとして育んだ。  
あなたは理不尽に降り懸かってくる死の恐怖を、受容するのではなく、理不尽、と捉えた。あなたの意志とは無関係に訪れる死、あなたの運命に、抗いたいと望んだ。  
…それは、少なからずあの坊やからの影響も大きいわ。あなたの魂は、あの坊やの鞄をゆりかごとして育ち、やがてそこから飛び立ちたいと願うようになった。  
あなたの心の中には、そこのエルフの子とあの坊やの存在が深く根を下ろし、あなたが断ち切るべき人間性を形造っている。…捧げるべき対象を持てた、という事が切片のあなたの魂を人間のものにした」  
……絶句した。あまりの言われように言葉が出ない。  
ゆりかごって……、あの黒カビだらけの最悪に汚らしい鞄があっ!?  
……くらくらと目眩がするのを感じた。  
何かが、がらがらと音を立てて私の中で崩壊してゆく……。  
パック君は…、わかる。彼は私を対等に扱ってくれた、私の初めての友達だ。パック君と一緒に暮らして、私は友愛という感情を多分彼から学んだ。  
……だが、あの黒カビ剣士は…。  
……カビの上に…しかも、……ロリだよ、あいつは………。  
生け贄献上システムには重大な欠陥がある事を、今、私は発見した……。  
それは、どー考えても絶対に『かけがえのない半身』とは死んでも認めたくない相手を、守護天使様方から生け贄として指名された場合だ……。  
『捧げる』という一言は、実は『この者は自分にとって大切な心の一部です』と自ら認めるのと同義だ……。  
幼児姦性犯罪者が、心の一部である私……。あの鞄がゆりかごである私……。  
……そ、そんな私は…いやだあっ……。耐えられない……。…み、認めたく、…ない……。  
…私は、犯罪者じゃない……。幼い子供に悪戯する病んだ嗜好はゼロだ……。  
……そして何よりも…あのドス黒い鞄に育てられた魂って……。  
じゃー、なにか?私の魂の色は、あのドス黒い暗黒のドロドロに染まってるとでも言うのか?  
スラン様のお言葉に…、ちょっとだけすこーしなら、思い当たる節が、なくもなく…。  
……いやっ、駄目だっ…。そんな事を認めてしまっては、私は……終わりだ……。『死よりも悪い運命』そのものではないか……。  
 
「…さあ、何を迷っているのだ?叶えるがいい、その身を焦がす欲望を!」  
恫喝するような天使長殿の声が夜空に響き、頭上の生け贄の烙印が、苛立ち、急き立てるかのようにちらちらと明滅した。蒼白い炎の投げる灯が、黒い泥沼の水面に揺らめき、私と二人の少年少女と一人の小妖精を照らしている。  
気がつけば、我々と天使達のいる場所から百歩ほどの位置で、人外の者たちの群れが丸く我々を遠巻きに取り囲み、餌を与えられる瞬間を期待を込めて待ち望んでいた。  
暗がりのなかで幾つもの赤く光る無数の眼が我々に注がれ、低い唸り声と獣めいた息づかいが雑踏のざわめきのように蠢き、囁きを交わしている。頭上では、奇怪な叫びを上げる翼ある者たちが、烙印の炎の上を旋回し、私の答えを待っていた。  
……私の、欲望。私が望む、真の私の在るべき姿。  
パック君の方へ視線を向けた。怯えて不安そうだけれど、でも彼の眼は私を真っ直ぐ見ている。…私を、信じようとしてくれている。  
…彼を生け贄に捧げるような事は、私には耐えられない、と思う自分を確認して安堵した。  
夜空の次元の鏡に映る黒い剣士に視線を向けた。例の馬鹿でかい大剣を片手に、浴室の扉にいる品の良い老婦人を振り返り、なにごとか話し合っている。  
…こっ、こんな奴は死んでしまえーっ、と涙ぐんで激しく罵倒した。  
わたしはっ、お前がっ、きらいだーっ。テメェが私の心の一部なんて、死んでも認めてたまるかあーっ。  
「…権利放棄します…。捧げません…。辞退致します…。御足労をお掛けして、本当に誠に申し訳ありませんでした……」  
守護天使様方に、体は動かせないので、心の中で深々と頭を下げながら謝罪した。  
さようなら、私の翼…。でも、私は誇りを捨てるぐらいなら石の置物でいる方がいい…。誇りだけは、他の何を捨てても、私には絶対に捨てられない。…役に立たない意地だ。痩せ我慢だ。でも、それが私だ。…私は全身全霊を挙げて、黒カビ剣士が、心からきらいだっ。  
誰のためでもなく、私が私の望む私自身であるために、私は夢を捨てる。  
私に与えられた運命、何一つ私の意のままにはならない『生』を…私は選び、肯定する。  
ありとあらゆる不平不満鬱憤憤懣も、理不尽に訪れる死と無意味な生も、…不満なまま、怒り、罵倒し、歯ぎしりするまま…、それでも自分が変わる選択肢を捨て、敢えて選んだものと納得し、己れの選択を全肯定するのなら…私の運命は、私の選んだ私のものだ。  
「…よかろう。それもまた一興。然有れば我等は闇に還るのみ……」  
天使長殿が陰々と響く声で宣言し、骸骨の手を頭上に掲げた。  
それと同時に、私達の上空で瞬いていた烙印の炎が白熱して激しく輝き、一瞬後に爆発して、無数の光のかけらが流星のように漆黒の夜空のあちこちに四散した。…きれいだな、と尾を引いて消えていく輝きを見上げながら思う。  
周囲の人外の者たちからの、様々な声色の失望の呻きが一斉に低く洩れ、不満気に踵を踏み鳴らし、或いは唸り声を上げるざわめきが聞こえた。  
元から巨大な天使長殿の黒衣の姿が、膨張するように更に大きく広がった。それにつれて密度が薄れて背後の夜空へと拡散し、幻影のようにあやふやで不確かになり暗闇の中へと溶けてゆく。  
他の天使様方も、同様にその御姿が暗闇に広がり、薄れて消え行った。  
「…さようなら、またいずれ会いましょう…」  
スラン様の御姿が薄れ消え去る寸前に、確かにあの方が私に向けて投げキッスを寄越して下さるのが目に映った。…おお、スラン様の口づけ……。できれば直にされたかったが…。とりあえず得をしたと思って受け取っておこう。  
守護天使様方の御姿が消えると同時に、何処とも知れぬこの世界全体の輪郭がぼやけ始めた。人外の者達の群れ、広がる沼地と遠い地平線が、水面に映った影が掻き乱されるように、その色と形が我々の周囲で撹拌され、混ざり合い、混沌とした暗闇へと変化してゆく。  
夜空に満月のように浮かんでいた次元の鏡がぐんぐん巨大化して広がった。溶解しかけているこの世界を浸食して、その領土と境界線を拡大し、やがて全ての暗闇を駆逐して全天を覆うと、座り込んでいる我々をすっぽりと丸く包みこんだ。  
途端に、重力の向きがまったく逆方向にくるりと変転した。悲鳴を上げる暇もなく、我々は真っ逆様に次元の扉の向こう側の風景へと、吸い込まれるように頭から墜落してゆき………。  
 
盛大な水飛沫と共に、私と二人の少年少女とパック君は、翡翠色の湯船に頭から墜落して飛び込んだ。  
…元の湯気たち込める浴室だ。…そして、私はまたもや浴槽の底だ。いい加減うんざりする…。視界いっぱいに何やら真っ白いものが広がり、またもや誰かにぐにゃりと押し潰されて……。  
…いや、しかしこの感触は……。これは足の裏ではなく、もっと面積が広くてなんとも言えない柔らかさだ……。こ、このぷりぷりした感触は、なかなか、それなりに……。  
セミロング少女が悲鳴を上げて飛び上がり、私の上に乗せていた尻をどけた。  
湯船から立ち上がりかけて、浴室の入り口に立っている黒い剣士と老婦人の姿を発見し、また悲鳴を上げて両手で胸を覆い、顔を真っ赤にして湯船の中に肩まで沈む。…つくづくとやかましい娘だ……。  
猿少年が水没していた頭を湯船から上げ、ぶはっと口から湯を吹き出した。  
「…いったいなんだったんだ、あれは…」  
続いてずぶ濡れのパック君が湯船から猿少年の頭上に這い上がり、ぶるぶると首を振って水滴を飛ばした。  
「…お、溺れ死ぬかと思った……」  
と喘ぎながら小さく呟く。…パック君、私は溺れはしないが、でもまた水没しているのだ……。一心地着いたら思い出してくれないだろうか…、と水底で祈る。  
「…それは、こちらの方が聞きたいわ。あなたたちは、いったいどうやって彼等を召喚したというの?…そして、シールケ。…何故この少年が、あなたと一緒に入浴しているのかしら…?」  
老婦人が猿少年に視線を投げ、ついでセミロング少女に穏やかなゆったりした口調で問いかけた。…だが、一瞬猿に向けた視線は……突き刺すように厳しく、冷え冷えとしていた…。…こわい。  
「そっ、その子が、いきなり、お風呂に乱入して来たんですうーっ」  
真っ赤な顔を水面ぎりぎりに伏せたセミロング少女が、猿少年を指差して叫ぶ。  
「…え、えーっと、あ、あはははーっ。…いや、その、シ、シールケさんと、裸のつきあいなどをして、生死を共にする仲間として、親睦を深めたいなーっ、と思いまして…」  
「…まあ、そうだったの。どうか、シールケと仲良くしてあげて下さいな。…でも子供とは言え、男女の混浴は…あまり関心しないわねえ…」  
頭を掻きながら、必死に笑いでごまかせ大作戦発動の、猿。にこやかに暖かい笑顔で応じる老婦人。だが、猿をみつめる老婦人の眼は……全然笑っていないぞ……。  
「お前…、あんまり恥さらしな真似ェすんなよ。…んな事より、奴等は…逃げたのか?」  
…くらっと、目眩を感じた。  
老婦人の隣で、大剣を床に垂直に立てた黒い剣士の奴が…、猿少年に、堂々と真顔で言い腐りやがった……。  
……じゃあ、何か?お前は恥さらし行為はしとらんとでも言うつもりなのか……?  
……きっ、貴様が、どの口でいいやがる……。  
……いや、しかし奴は……どうも、本気で…言っている、ようだ……。  
本気で己れは『貴ッ様ーッ!恥を知れ、恥をーっ!』と罵り罵倒され、半殺し袋叩きの刑に値する行為は、してないつもりらしい……。  
……め、目眩がする……。どうなってるんだ、コイツの思考回路は……。  
ふっと思った。コイツにどー考えても言い訳のしようがない各種証拠を突きつけて、  
「お前はロリコンだろうがあっ!?あの少女にべたべた触りまくる時、内心淫らな妄想にふけりまくっておるだろうっ!?正直に白状しろーっ」と詰め寄っても…コイツは真顔で否定するのではないかなあ、と。  
すかしたツラで堂々と「ふざけろ」と全く悪びれずに言い放ってシカトし、…それで、お終い。…の、よーな気が、なんとなく、……する。…そして何一つ反省せずに、また少女になんのかんの理由つけて、べたべた触りまくるのだろうなー、と………。  
……処置無し。…自覚症状ゼロ、の暗黒のロリ病……。  
 
重い頭痛を感じて低く呻きながら水底で転がっていると…、そっとセミロング少女の手が私を包み、拾い上げてくれた。…おお、この柔らかでふにふにした、幼児特有の手の平の感触……。……多少は、奴の気持ちがわからなくもないよーな……。  
「…この『ベッチー』さんが、守護天使達を召喚したんです。…そして、生け贄を捧げる事を毅然として拒否して、私達は元の世界に戻れた」  
セミロング少女の手の平の上で、皆の視線を一斉に浴び、注目の的になった。…フフッ、て、照れるな……。ちょっとこそばゆい気分だ……。  
「……お嬢ちゃん。…冗談だろ?」  
半信半疑、というより不信丸出しの顔で奴がセミロング少女に尋ねた。…ふう。まあ、どーせ、こーゆー奴だ……。割り切ってしまえば、どーとゆー事もない……。  
「ほんとーだって。さっきまでオレ達、薄っ気味の悪ーい世界にいたんだぞー。でもって、ベッチーの生け贄に賭けられてたのって、オレとガッツだったんだからなっ」  
パック君が猿少年の頭上で、さかんに水飛沫を羽根から飛ばしながら奴に向かって言った。  
……パック君。…奴が生け贄の対象に選択されたのは、おそらく天使様方の手違いだ…。天使様逹でも失敗や間違いというものを、たまに犯してしまうことがあるのだよ…。人様の失敗をあげつらって言い触らすような真似は、私はよくないと思うな…。  
自分が生け贄の対象、と聞いて奴の目が据わった。そしてセミロング少女の手の上の私を、まじまじと、今初めて見る者のようにみつめた。…少女ではなく、私を、みつめている。  
唖然とした口調で、奴が呟いた。  
「……こいつが、か……」  
「あ、そーだ、ガッツ」  
猿少年の頭上から飛び立ったパック君が、私の隣に降り立った。パック君が私を抱き抱えて再び飛び上がり、私の石の躯が浮上する。  
…私には、翼はない。でも、友達がいる。…君が私の持ち主でないのなら、いつかは別れの時が私達に訪れるだろう。でも遠く離れて二度と会えなくなったとしても、私は君を忘れることは、決してないと思う。  
「あっちの世界で、ベッチーからてれぱしが聞こえてきたんだけど…、カバンが、汚いって言ってたぞ。カビが繁殖してるって。…お前、ベッチーの家、ちゃんと掃除しろよなー」  
何とも形容しがたい表情が、奴の顔に浮かんだ。…そう、たとえばある日鞄の底を覗いてみたら、そこが一面の黒カビの王国と化しているのを発見したような表情だ。  
宙を飛ぶパック君に、奴が腕を延ばした。  
「…返せよ、それ」  
「ああっ、オレのべっちー!」  
パック君から奪われ、私は奴の手の中に転がり込む。…パック君、しばしのお別れだ。人の手から手に好き勝手に譲り渡される、それがベヘリットの悲しい運命……。  
潔く受け入れると決めたのなら、それがたとえカッコつけのロリコン男の手であっても、潔く受け入れよう…。悲しいけれどもしょーがない……。  
奴の手の中に私はいる。…しみじみと、でかい手だ。風呂から上がったせいか、清潔だ。そしてコイツの手は、いつも傷跡だらけだ。…増える一方だな、大丈夫か。私の生存のために、これからも頑張って戦えよ。…お前に勝手に死なれたら、私はものすごく大迷惑だ。  
「…まあ、そのうち、な」  
と、奴が手の中の私を見ながら呟いた。  
コイツの事なので、あまり期待はしないでおくが、もしかすれば私の居住待遇は少しばかり改善されるのかもしれない。  
見通せない先の未来はどうなるのやらわからないが、まだ、もうしばらくの間は、私はコイツの鞄の中で暮らす日々が続くのだろう。  
…それまでの間は、私の名前は『ベッチー』だ。  
それが、私の望んだ私の姿、私の選んだ『在るべき私』だ。  
 
END.  
 

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