シュタウフェン家及びヴァンディミオン家御結婚式会場にて。  
結婚の誓いの儀式も滞りなく終了し、退屈な関係者披露宴スピーチが延々と続く中。  
早くも新婚さん気取りのファルネーゼ・ロデリック両者は,人目もはばからず披露宴席でいちゃつきまくっていた。  
「はい、ロデリック、あーんしてっ。…ア・ナ・タ・ッ」  
「ハッハッ、ファルネーゼは甘えん坊さんだなあ」  
いそいそと食事をフォークで差し出すファルネーゼと、まんざらでもない表情で花嫁姿のファルネーゼのおでこをこつん、と人指し指でつっつくロデリック。  
…両者の姿はまさしく典型的新婚さんカップルそのものだった。  
『周囲の人間の視線』というものを思考からまったく消去しきり、『世界は二人だけのものっ。ここにいるのはあなたと私の二人だけっ』とでも言わんばかりの、ハートマークが飛び交うピンク色の空気の波動が二人の間からはたっぷり醸し出されている。  
『若い人はいいわねえ。微笑ましいわ』と受け取るか、『…なんだかなー』と呟くか、『世界はお前等だけのもんじゃねえっ!周りの人間無視すんなあっ!』と割り込んでぶち壊したいと感じるか、…は、人それぞれだ。  
末席に座るセルピコ君は、穏当な中間派だった。  
『お嬢様さえ幸せなら、僕は、別に…。別に…………。……ふう(ため息)』  
テーブルに出された豪華な披露宴料理を、セルピコ君は機械的に黙々と口に運んで呑み下した。  
大枚積んで招び寄せた有名シェフが調理した料理らしいが…、セルピコ君には味がしない。  
 
ところで、ファルネーゼお嬢様は妊娠三か月の身重の身体のはずだった。  
「はずだった」というのも、御館様がお嬢様の妊娠を、一言  
「幻覚ですっ」  
と強引に言い放った途端。  
披露宴参加者は口々に、  
「…言われてみると、気のせいのような気がしてきたなあ…」  
「ヴァンディミオン家の御当主がおっしゃるなら、目の錯覚なのかも…」  
などと言い出し始めた。  
お嬢様までが、  
「まあ、お父様がそうおっしゃるのならきっと幻覚に違いないわ。私、勘違いしてたのね」  
とあっさり呟いてしまい。  
するとなんということか、妊婦らしい曲線を描いていたファルネーゼお嬢様の腹部はみるみるうちにしぼんでいき、お嬢様は妊娠判明前のスレンダーな身体つきにあっさりと戻ってしまったのだ…。  
セルピコ君は、ちょっと呆然とした。  
(ええっ!?確か僕は、不安そうな顔のお嬢様から『セルピコ、生理がこないの…』と相談されて、一緒に病院についていって、お医者様から『おめでたです』って言われた記憶があるんですがっ!?  
結納が済んだ後で、ファルネーゼお嬢様から  
『病院で赤ちゃんの写真撮ってもらったのっ。私に似て可愛いでしょう?』  
と人とも魚ともつかない、謎の物体Xの赤外線写真を見せびらかされて、  
『…ええ、か、可愛いですねえ…』  
引きつりながらお愛想言った記憶とかが、はっきりあるんですけどっ!?  
それが、全部『幻覚』の一言でなかったことになっちゃうんですかっ!?  
お嬢様、本当にそれでいいんですかっ!?)  
花嫁姿のお嬢様は、幸せそうにニコニコしていた。  
…いえ、別に…。お嬢様さえ幸せなら、いいんですけどね、僕は……。  
脱力した気分でセルピコ君がシャンパンを啜っていると、披露宴客達がぱちぱちと拍手をする音が会場に響いた。  
どうやら前の人間のスピーチが終わったらしい。  
司会役の男が台本に目を落としながら、マイク片手に滑らかに告げた。  
「イース海軍総督レンブラント氏の心暖まるお言葉でしたっ。  
さて、次は新婦の兄君で、なおかつ新郎の親友でもあるヴァンディミオン家三男マニフィコ様の御登場で……」  
司会者が言い終わる直前に、会場の扉の外からなにやら騒々しいわめき声が響いた。  
「駄目駄目だっ。関係者以外は立ち入り禁止だと言ってるだろうがっ」  
「あたしは立派な関係者だよっ。いいから通してよっ!」  
どうやら招かれざる闖入者が衛兵と言い争っているらしい。  
披露宴会場が「何事か」とひそひそと囁く。声からすると闖入者は若い女のようだ。  
何故か、ロデリックの顔がすうっと青褪めた。  
「…ま、まさか…」  
とロデリックは、口の中で小さく呟いた。  
 
騒音と共に会場の扉がバンッ!と中央から開かれた。  
髪を振り乱した二十代半ばの女性が二人の衛兵に取り押さえられていた。  
結構グラマラスな美人だが、しかしどことなく水商売臭い雰囲気の女だ。  
披露宴客が注視する中、女は衛兵から引っ張られながらも必死の形相で爆弾発言を投下した。  
「ロデリック!あたし、やっぱりあんたと別れられないっ!  
あたしとはもう縁切りだなんて、絶対にイヤーッ!!」  
会場が、大きくどよめいた。  
シュタウフェン家側招待客のうち、年配の男性数名が「あちゃー」という表情で額に手を当てていた。  
どうやらシュタウフェン家の方では、その女性の存在は暗黙の事実であったらしい。  
会場の披露宴客の視線が女から一斉にロデリックに集中した。  
苦虫を噛み潰したような顔、「…かわいそうになあー」という同情と共感に満ちた顔、「他人の不幸は蜜の味」とでもいわんばかりの興味津々たるわくわくした顔つきなど、実に種種様々だ。  
「…ロデリック、これはいったいどういうことですの…」  
ロデリックの隣のファルネーゼお嬢様が、ややひきつった顔でロデリックに問い詰めた。  
ロデリックは「フッ」と白い歯を光らせた笑みを浮かべて、爽かに前髪を掻き上げた。  
次いでファルネーゼの両肩にがしっと手を置き、彼女の青い両眼を真っ直ぐ覗き込んで自信満々に宣言した。  
「ファルネーゼ。俺を信じてくれっ。俺はっ、必ずあんたを幸せにしてみせるっ!」  
…だが、ファルネーゼはごまかされてくれなかった。  
「…説明を、していただきたいと申しているんです、ロデリック」  
氷のように冷えきった声音だ。  
目が据わっている。  
どろどろのドス黒い暗黒オーラが、純白の花嫁衣装姿のファルネーゼお嬢様の全身から立ち昇りまくっているのが、霊能者でなくてもはっきり目視できた。  
末席のセルピコ君は『…あ、ヤバイ…』と心の内でこっそり呟いた。  
ファルネーゼお嬢様がキレる寸前の傾向が、もろに顕れ出ている。  
「さ、さあっ!次はヴァンディミオン家三男、マニフィコ様のスピーチです!  
皆様、盛大な拍手を〜っ!!」  
百戦錬磨のプロである司会者は、披露宴をつつがなく進行させようと強引に無理やり宣言した。  
だが。  
しーん……。  
披露宴出席者の皆様がたは、固唾を呑んで新郎新婦が破局へと突っ走りつつある有様に注目していた。  
マニ彦さんのスピーチと修羅場真っ最中の新婚さんカップル。  
…見せ物として面白いのは、どう考えても後者だ。  
「…え、えー、あー、本日はお日柄も良く…。その…、ロ、ロデリック君と私とは……たいへん長い付き合いで…、…えー……」  
スピーチ席では、司会者から振られたマニ彦さんが、おずおずとうわずった声で祝辞を述べ始め出したが、…誰一人として聞いている様子はない。  
ただ一人、司会者だけが、  
『続けてくださいっ。あなたのスピーチにこの結婚式の成否が賭かっているんですっ。  
本当ですっ。無事に結婚式を終了させたいのなら、どうか続けてくださいっ』  
祈るような形相でマニ彦さんを見上げていた。  
やめるにやめられず、マニ彦さんはしどろもどろになりつつも、一生懸命壇上でスピーチを継続した。  
「え、えーと…、ロデリック君は…、ひ、人から誤解される事も多いのですが…、けれど、本当はとても誠実で真面目な人柄で…」  
「ロデリック!あたしだけじゃないわっ!この子にはやっぱり父親が必要なのようっ!」  
マニ彦さんの誠実で真面目な努力を、招かれざる爆弾女性が粉微塵に粉砕した。  
披露宴客の視線が、新郎新婦から爆弾女性の方へと一斉に移った。  
そのうちの大半は、あきらかに結婚式が破壊されていく有様を『いいゴシップのネタができた』とばかりにものすごく楽しんでいるようだ。  
『貴族社会って…なんだかなー』  
と部外者のセルピコ君はこっそり呟く。  
 
見れば、爆弾女性の足許には三、四歳ぐらいのよちよち歩きの幼児がまとわりついていた。  
胸当てつきのジーンズを着た、黒い髪のやんちゃそうな男の子だ。  
言われてみると鼻筋と眉毛の辺りが確かにロデリックと似ている。  
女がうって変わって優し気な声で幼児に声を掛けた。  
「…ほら、あそこにお父ちゃんがいるよ。お前もお父ちゃんに戻って来てほしいよね?  
呼んでごらん、『お父ちゃん』って」  
幼児は母親の指差す方向を見、ロデリックの姿を発見した。  
ニコッと嬉しそうに笑い、幼児はロデリックに向けて手を振った。  
「おとうちゃーん」  
途端に。  
ロデリックが…崩れた。  
『自信満々』の顔にぴしっと亀裂が走ると、裂け目から後悔と罪悪感、後ろめたさに悩み苦しむごく普通の男の顔が、どっと洪水のように溢れ出した。  
テーブルにがくっと肘を付き、ロデリックは両手で顔を覆った。  
ひび割れた声が、顔を伏せたロデリックの口から零れた。  
「…すまない。…俺が、悪かった…。ひどいお父ちゃんを、許してくれ…」  
容疑者自白。有罪決定。  
ファルネーゼの顔が紙のように真っ白になった。  
両手で顔を覆ったまま肩を震わせているロデリックを見つめ、  
「…フフフ」  
とドス黒いものが籠った声音で、ファルネーゼお嬢様は静かに笑った。  
『うわ、これは、ホントにヤバイっ!』  
セルピコ君は素早く席を立った。  
さりげなく競歩選手のような速度の早足で、披露宴会場上座の新郎新婦席の方へとセルピコ君は真剣な表情で向かい始めた。  
 
 
細かく震えるファルネーゼの手が、テーブルの上の銀の燭台にゆっくりと延びた。  
燭台には、ついさっき新郎新婦のキャンドルサービスで、ロデリックとファルネーゼが二人並んで仲良く一緒に灯した蝋燭の炎が赤々と燃えていた。  
その時の司会者のスピーチは、  
「二人の愛は、この炎のように熱く熱く燃えていますっ!  
蝋燭の炎は消えても、二人の心の中の愛の炎は、永遠に消える事なくいつまでも燃え続けている事でしょう!」  
…だった。バックミュージックは『マイ・ウェイ』。  
二人の愛の炎が、三十分もたたないうちにものの見事に消え失せるとは、いったいどこの誰が想像したであろう。  
「裏切り者は、火刑だーっ!!」  
叫びざま、花嫁はほんの数時間前、瞳を潤ませながら永遠の愛を神に誓った花婿のタキシードの背中に、火を放った。  
「えっ!?う、うわああああっ!?」  
うちひしがれていたロデリックは、それどころじゃない事態に唐突に気がついた。  
背中が、燃えている。  
床を転がって必死で火を消そうとするロデリックには目もくれず、ファルネーゼお嬢様は高笑いしながらテーブルの上に『えいっ』とばかりに放火した。  
アルコール度数30度のワインを入れたクリスタル・グラスが、発火してぱっと綺麗な青い炎を放った。  
ワイングラスは、ころころと転がりながらテーブルクロスの上に炎を散布した。  
次いで、イッた瞳でけたたましく笑うファルネーゼお嬢様は、蝋燭片手に各テーブルを回って次々と火付け、頭のおかしい発狂放火魔っぷりを盛大に披露し始めた。  
披露宴参加客の間から、一斉に悲鳴が上がった。  
「しょ、消火栓だっ、消火栓ーっ!」  
「医者っ!誰か救急車を呼べーっ!」  
「消防車が先だーっ!」  
「けっ、警察に連絡…」  
「いや、警察はマズイって。一応仮にもヴァンディミオン家の御令嬢なんだし」  
「でも、御令嬢っていってもやってることはキチ○イ…」  
「シッ!聞かれたらどうするっ!キ○ガイはキチ○イ呼ばわりされると余計キレるんだぞっ!」  
「あんた!あたしのロデリックになにすんのよっ!このキチガイ女ッ!」  
「あああああっ、言ってはならない四文字言葉を堂々とッ!」  
「うわあーんっ、おとうちゃんがっ。おとうちゃんがっ」  
「貴様らもっ、まとめて全員火刑だあーッ!!」  
「お嬢様っ!それはいくらなんでもマズイですって!」  
「はっ、花嫁を、取り押さえろーっ!」  
阿鼻叫喚絶叫火炎生き地獄。  
床に飛び散る豪華料理、我先にと他人を押し退け合いながら出口へ殺到する人々。  
逃げ惑う人々の足下では、愛と幸せの象徴である花嫁のブーケが、踏み付けにされ蹴り飛ばされて、原形を止めないボロの残骸へと変わり果てて式場の片隅に転がっていった。  
……結婚式場は、惨劇の場と化した。  
錯乱した花嫁が、ところ構わず手当たり次第に放火。  
取り押さえようとした警備員、式場参加者にも手当たり次第に放火。  
とにかく放火。放火。放火。放火。  
放火×10。  
…上質のリネンでできたテーブルクロスは、めらめらと実によく燃えた…。  
 
件の結婚式場は、修復作業のため一か月の間営業不能状態になった。  
それだけならまだしも、  
「縁起が悪い」  
「あそこの式場で式を挙げた夫婦は成田離婚する」  
「蝋燭を手にして哄笑する花嫁衣装の生き霊を、深夜従業員が目撃した」  
「呪われている」  
等々の悪質な噂が業界全体に流れ、予約していたカップルのキャンセルが続出、営業売り上げに壊滅的なダメージを被った。  
「当式場のイメージダウンによる営業成績劣化の原因は、すべてシュタウフェン家及びヴァンディミオン家に責任がある。よって、当式場は損害賠償を両家に要求する」  
と、式場側が民事裁判所に提訴。現在もなお、賠償責任追究の裁判は継続中だ。  
シュタウフェン家及びヴァンディミオン家御両家の縁談は、木っ端微塵の破談になった。  
しばらくの間上流階級の舞踏会等で、両家の婚礼式場地獄絵図がおもしろおかしくひそひそと語られたことは言うまでもない。  
「新郎に実は隠し子」なら、本来同情されるべきなのは新婦の方であるが…、  
「新婦の報復処置で新郎が全治三か月の火傷で入院」となると、シュタウフェン家側の方で  
「よく考えると、嫁がれる前に破談になってラッキーだったかもしれないなあ…」  
などと胸を撫で下ろしている人々が少なからず存在したのも、無理はなかろう。  
 
三か月後、火傷から回復したロデリックは、なかなか根性があった。  
包帯も未だとれぬ痛々しい姿のままで腕一杯の白百合の花束を抱え、家人の反対を押し切って、再度ファルネーゼお嬢様にプロポーズするためにヴァンディミオン家を来訪したのだ。  
放火されて火ダルマにされても、  
「あんた、面白いな」  
と言えるだけの度量があったらしい。  
全治二週間の火傷をくらったセルピコ君は、ちょっぴり感動した。  
(フツーの男性なら、まず逃げると思うんですけどねえ…。  
世の中には奇特な方もいるものだなあ…)  
門前払いをくらいはしたが、何度断られても、ロデリックは雨の日も風の日も律義に毎日やって来る。  
「俺は自分が手を出した女は決して捨てないっ。男として責任を取るっ!」  
…が、ポリシーなのだそうだ。  
例の隠し子については、同居はしていないが相続権放棄の条件で正式に認知したらしい。  
爆弾女性については、性的関係は一切絶つが(本人はまじめにそう宣言した)子供の母親でもある手前、まったく無関係になることはできない。  
養育に関連したことで必要があれば今後も会う事があるだろう…、と真っ正直にロデリックはインターフォン越しに告げた。  
過去は過去であって、今現在愛している女性はファルネーゼただ一人だっ。  
…プライドの高いファルネーゼお嬢様がこの条件を呑むだろうか。  
呑むわけないじゃん。  
ヴァンディミオン家当主、フェディリコ・ド・ヴァンディミオン氏にとっても、ロデリックはヴァンディミオン家の娘を嫁がせるのには婿失格だったようだ。  
隠し子云々は御館様にとっては取るに足らない出来事らしいが(…それについては、御館様に人の事どーこー言える資格はありませんしね…、とセルピコ君は内心こっそり思っている)、その処置の仕方が問題外だったらしい。  
御館様にとって、結婚式場に昔の女が子連れで乱入してきた場合の正しい対処の仕方はこうだ。  
 
(衛兵に向けて)「つまみ出せ」  
(新婦に向けて)「頭のおかしい女のたわごとです。無視しましょう」  
 
ポイントとしては、この間決して女性及び子供の方に視線を向けてはならない。  
とにかく、存在自体を無視。  
何を言われても耳を貸さない、決して動揺しない。  
捨てられた側の心の痛みなど一顧だにしない鋼鉄の精神性が、当主たるものには欠くべからざる資質だ、とゆーのが御館様の持論だ。  
情に流されて自分から詫びを入れる、非を認めるなど、言語道断、惰弱の一言に尽きる。  
ロデリックは御館様の鑑定眼に適わない不良品、と判断されたのだが…、当のロデリックは、  
「諦めずに熱意をもって扉を叩き続ければ、そのうち必ず道は開く!」  
と固く信じているようだ。  
毎日毎日訪れるロデリックに御断りを入れるのがセルピコ君の役目であるのだが、まるっきり無駄な努力を一生懸命やっている人なんだなあ、と思うとなにやらロデリックに対して微笑ましい気分になってくる。  
「今日は御館様はスケジュールがいっぱいで面会は無理なんですよ。  
ええ、いつもすみませんねえ。  
お嬢様?あ、お嬢様は体調が悪いらしくて、誰とも会いたくないとおっしゃっておりまして。ええ。本当ですよ、ハイ。  
ロデリック先輩、頑張ってくださいねっ。  
先輩の熱意に、いつかきっと御館様とお嬢様も心打たれて感動すると僕は信じています!  
僕は、先輩を応援しています!」  
などとにこやかにインタフォン越しのロデリックと会話して、  
「…セルピコ。お前って本当はいい奴だったんだな…。  
すまん、俺は色々と誤解してたようだ」  
という御返事をいただいたりした。  
…いやあ、世間知らずの苦労を知らないお坊っちゃまって、本当に人を疑うことを知らないんですねー、とセルピコ君はやっぱり微笑ましい気分になった。  
ファルネーゼお嬢様へと預かった白百合の花束は、捨てるのも花がかわいそうなので使用人用のトイレに飾ってあげた。  
 
セルピコ君にとっては、もうひとついい事があった。  
無意味な横恋慕、としか言い様のない、ファルネーゼお嬢様が追っかけをしていたお隣りさんの高校、鷹の羽学園のガッツさんが出奔されたのだ。  
なんでも  
「俺はグリフィスの夢にこのまま埋もれる訳にはいかねェ」  
などと突如宣言。生徒会長グリフィス氏と決闘騒ぎを起こしたあげく、学校を自主退学してインドの山奥へと武者修行の旅に出立したらしい。  
世の中には、今時並外れた時代遅れのバ…、いえいえ、無用な波風を立てないのが私の流儀。侮蔑罵倒語を連発して、周囲に不愉快な感情を撒き散らすような不作法を行う気は毛頭ございません。  
今時のこすからい時代には珍しい、少年の心を失わない純粋な心根の持ち主の方もいるものだなあ…という感慨をセルピコ君は抱いたものだ。  
嬉しいのでファルネーゼお嬢様に報告してあげた。  
ファルネーゼお嬢様は結構ショックだったようだ。  
「……あの人が、私に黙ってなんにも言わずに旅に出るなんて…。  
いやっ、そんなはずはないっ!私宛に伝言か置き文があるはずだっ!  
セルピコ、お前調べて来い!」  
(……どーやったら、そうも自分に都合の良い方向へ考える事ができるんですか?)  
とセルピコ君は思ったが、命令されてしまったので無駄と知りつつ一応調べに鷹の羽学園まで出向いてみた。  
ガッツさんのお友達、といえば生徒会長のグリフィス氏が最初に浮かぶのだが、グリフィス氏はガッツさんの退学と同時に謎の失踪を遂げてしまったらしい。  
決闘の傷がこじれて入院してるだとか、校長の娘に手を出して報復リンチで廃人同様だとか、種々の流言飛語が飛び交っているが真相は判然としない。  
しょうがないのでガッツさんと交際している正式な彼女、という噂のキャスカさんにお尋ねしてみた。  
「アイツの名前を、私の前で口にするなあッ!!」  
…いきなり斬りつけられました。  
最近の女性はどうしてこうも乱暴な方が多いんでしょうか。  
カルシウムはちゃんと摂取した方がいいですよ。丈夫な赤ちゃん産めなくなるし。  
次に、「情報通」という風評のジュドーさんにお尋ねしてみました。  
「聖鉄鎖のファルネーゼちゃん宛の伝言?  
…さあ、アイツ何も言ってなかったと思うけどなあ。  
あ、『どーして俺は変態な趣味のある女ばっかりに追いかけられるんだ』って愚痴こぼしてるのなら聞いた覚えある。  
それと、『聖鉄鎖のセルピコとはまた斬りたい』って言ってた。そっちのことかね?  
『ル』しかあってないけど」  
……………。  
セルピコ君は、聞かなかった事にした。  
せっかく火傷治ったのに、またファルネーゼお嬢様から八つ当たりされるのは、僕は御免です。  
 
 
セルピコ君は、お屋敷に戻ってファルネーゼお嬢様に報告した。  
「ファルネーゼお嬢様〜っ。やっぱり案の条当然のごとく、特にガッツさんからお嬢様あてのお言葉はなかったそうですよ」  
ファルネーゼお嬢様は下を向いて黙り込んだ。  
何か考え込んでいるようです。  
……なんか、すごーくイヤーな予感がするのは…気のせいだといいんですけど…。  
ファルネーゼお嬢様は決意を秘めた表情で顔を上げた。  
「決めたっ!私はあの人の後を追う!」  
「って、またお嬢様何をいきなり唐突に…」  
「セルピコ、わかるのだ!これはっ、私の運命だっ!」  
ファルネーゼお嬢様は瞳をきらきらさせていた。  
思い切り自分の世界に浸っている瞳だ。  
人が何を言っても右から左、馬耳東風モードだ。  
セルピコ君は、説得の言葉をかけようとしてふっと考え込んだ。  
それがお嬢様の幸せに繋がるのなら、よその男性とお嬢様が結婚されても喜んで祝福しよう…、とセルピコ君は心から思っているが。  
思ってはいるが、しかし。  
……本音は途轍もなくムカついてムカついて、婚約中にヴァンディミオン邸宅でファルネーゼお嬢様と楽しげに談笑するロデリックに、  
(青酸カリ入りアーモンド風味紅茶を出してやりましょーか)  
とか、同じく婚約中にお嬢様と楽しくデートしている、背中がら空き三百六十度どこもかしこも隙だらけ、鼻の下延ばしてにやけているロデリックに、  
(…今なら、一撃で殺れますねえ…)  
とか考えたのは一度や二度ではない。  
確実に証拠が残らない機会は、残念ながらなかったが。  
無用な波風は立てない主義ですから、ええ。  
「殴られたら殴り返す」ような考え方は、報復を招くだけの愚かな蛮行です。  
「殺すまで殴る。決して証拠を残さない」が平和主義者の僕のポリシーです。  
事故死に見せかけるのがベストかな、とは思うのですが、最近の警察はブレーキの細工とか調べますしね。  
仮にロデリック先輩が変死を遂げると、警察から容疑者ナンバーワンに上がってしまうのが、素行に問題のあるファルネーゼお嬢様…、というのも思い止どまらざるを得ない理由の一つですが。  
 
御結婚がお嬢様の幸せに繋がるのなら、個人的な諸々の感情は呑み下して我慢もするが…、しかし結婚してお嬢様は幸せになるだろうか?  
御館様の例を見るまでもなく、貴族の男性は女に汚い。適当に食い散らかしてポイだ。  
その辺りは女性の方でも大して変わらない。  
暇を持て余した有閑マダムの関心の向かう先は、ファッションとゴシップに燕飼いだ。  
男女とも、公式の場面では夫婦円満の演技をして、私生活では遊び相手を取っかえ引っかえ、というのがごく普通の上流階級の貴き方々の姿だ。  
それって…「幸せ」だろうか?贅沢に不自由はしないだろうが。  
…結婚に過剰な夢を見る女性というものが、セルピコ君には理解できない。  
結婚さえすれば、旦那が一生ちやほやして、大切に守ってくれて、幸せにしてくれる…なんてのは、おとぎ話の王子様に憧れる乙女のドリームでしかないと思うのだが。  
一応王位継承権所持者のれっきとした王子様、ロデリックは…セルピコ君の観察した限り、善人らしいとは思うが、しかしおそらく、  
「種をあちこちにばら蒔きたいのは男の本能」と開き直って、結婚後も平気で浮気しまくるタイプだ。  
お嬢様が逃げてる限りは追いかけるだろうが、手に入れたら満足して、遠からずよその女に手を出すだろう。  
断言しよう。金と権力に不自由しない男が、女遊びをしない筈はない。  
必ず、間違いなく、絶対にする。  
貴族の男性で妾を所持していない人間の方が珍しい。  
金と権力のある男性でも、ない男性でも、「男の優劣はヤった女の数で決まる」という価値観を支持する男性は、決して少数派ではない。  
でもってお嬢様が泣かされる。  
お嬢様の涙に値しないような、ろくでなしの男のために。  
…それだけは、なにがなんでも我慢ならない。  
そして、お嬢様がよその男性と結婚されてしまえば、泣いているお嬢様の傍には誰がいるのか?  
誰もいない。  
女主人から「あっちへ行って」と言われれば、使用人は黙って去る。  
一人でぬいぐるみの兎を燃やしていた、小さな少女の後ろ姿が脳裏を過ぎった。  
セルピコ君は、まじまじとお嬢様をみつめた。  
芳紀十六歳、蕾が咲き開き始めたばかりの年齢だ。  
温室で育てられたか弱い可憐な花。  
鋭い棘がびっしりと茎に生え揃ってはいるけれど。  
随分ましになったけれど、泣き腫らした瞼がまだちょっぴり赤い。  
あんな女たらしのキザなクソ野郎(すみません、つい本音が)のために、ファルネーゼお嬢様は毎晩泣いていた。  
「裏切られて悔しい、辛い、悲しい」と。  
八つ当たりで鞭で僕が毎晩しばかれましたが。  
まあ、いつもの事なので、もう慣れっこだからいいんですけど。  
…でも、お嬢様が誰かに泣かされるのは、僕が、嫌です。  
今のところ悪評が祟ってしばらく縁談話どころではないだろうが、ほとぼりが冷めれば、また必ず縁談が持ち込まれるだろう。  
ヴァンディミオン家の家名目当て、財産目当てで、お嬢様本人の事を何一つ理解していないない、愛してもいない男との。  
ここにお嬢様を置いていれば、いつか必ず彼はお嬢様を他の男に奪われる。  
御館様が、ヴァンディミオン家の都合と利益のみが目的であてがう男に。  
御館様の鑑定眼に適って選ばれるファルネーゼ様の結婚相手は、煎じ詰めれば御館様と同種の人間だろう。  
情愛よりも世間体優先。物だけ与えて放ったらかし。  
そういう男性に、ファルネーゼ様を子供時代同様、贅沢尽くしの不幸な境遇に陥れさせるのは、セルピコ君が、嫌だ。  
もうひとつ。  
公平な視点で考えれば、普通の男性がファルネーゼお嬢様と結婚して、普通に生活を共にして…ごく普通の常識的な神経の持ち主の人間が、ファルネーゼ様の非常識っぷりに耐えられるだろうか?  
…多分、きっと無理だ。  
そればっかりは、無理でもしょうがない。下手すると命が危険だ。  
我慢して耐えろ、ファルネーゼ様がどんなに口をはばかるようなアレでも、忍耐強く誠実に愛し続けろ、と要求する方が、無茶だ。  
……彼以外の人間には。  
 
「…どうしたの、セルピコ?何を人の顔をじろじろ見てるの?」  
不思議そうな顔でファルネーゼお嬢様がセルピコ君を見上げた。  
セルピコ君は、いささかの胸の逸りを覚えながら、まるでいつもの彼らしくない言葉を口にした。  
「…お嬢様、そのお言葉は本気ですか?  
今まで通りの生活を捨てる覚悟はお有りですか?」  
ファルネーゼお嬢様は、ちょっとびっくりした表情で目を見開いた。  
「お前、反対しないの?いつもは口喧しく  
『鷹の羽学園のガッツさんは幼女にしか興味のないロリコンですよ。追いかけても無駄ですよ、諦めましょうよ』  
なんて根も葉もないデタラメを私に吹き込もうとするくせに」  
「…それについては、早く目を覚まして下さい、としか申し上げようがありませんが、御本人の口からはっきり確認を取った方がお嬢様も納得するかもしれない、と考えが変わりました。  
でも、ガッツさんが何処へ旅立たれたのかは手掛かりがまったくないので…みつかるかどうか自体わかりませんよ?  
何年も費してやっと見つかったと思ったら、ガッツさんから『俺は幼女にしか興味がない』とはっきり宣告されるかもしれません。  
それでも後を追いますか?」  
ファルネーゼお嬢様の瞳が揺れた。  
それを見て、セルピコ君は『あ、やっぱり…』と心の中で呟いた。  
ガッツさんは、口実だ。  
お嬢様は、ただ単に逃げ出したいのだ。  
ここから。この屋敷から。見捨てられ、打ち捨てられた庭園から。  
出来の悪い失敗作を見る目で冷えた視線を投げ掛ける父親から。  
ここじゃない何処かへ、お嬢様は逃げ出したい。  
逃げたい理由は…ここが、牢獄だからだ。お嬢様の未来の決定権は、お嬢様にはない。  
お嬢様の将来を判断し、決定するのは、すべて御館様だ。  
ファルネーゼお嬢様は贅沢尽くしの牢獄に閉じ込められた罪人で、セルピコ君はその看守だ。  
お嬢様を宥めすかして、おとなしくさせて、御館様に迷惑が及ばないようにするための、監視人。  
「…それでも、お前は、一緒について来てくれるんでしょう……?」  
縋りつくような表情で、お嬢様は頼りなく呟いた。  
迷子になって途方に暮れた小さな子供の顔をして。  
何処にも行くところのない、怯えた哀れな少女。  
胸を衝かれた。  
彼女には、彼しかいないのだ。  
甘えられるのも、わがままを言えるのも、他のどんな非常識で理不尽な仕打ちをしても、決して彼女を見捨てずに、彼女が彼女でいる事をすべて許して受け入れると信じられる相手は。  
…僕だけだ。  
セルピコ君はお嬢様の手をそうっと握った。  
火傷の跡が、まだうっすら残っている白い肌。  
火遊びはやめて欲しい。お嬢様も無傷ではいられないから。  
ゆっくりと床に膝を着いて、彼女の手の甲にくちづけた。  
練り絹のように滑らかで白い、ひんやりした貴婦人の繊手。  
「…ファルネーゼお嬢様の行くところなら、何処へでも。  
どんな時も、いつでもお嬢様のお傍にいるのが、僕の役目です」  
(病める時も、健やかなる時も、何があろうと、生涯永久に)  
…この手を取るのは、僕だけでいい。  
 
頭の中で、セルピコ君は一階奥にある金庫室の中身を勘定した。  
取りあえずちょろまかせるだけの現生を拝借して、売り飛ばしても足がつかなさそうな宝石類を掻き集めて、と。  
あとは…表に出るととてもマズイ、脱税工作の証拠がバッチリ記載されている裏帳簿を、善意の匿名希望密告者として税務署に郵送すれば。  
御館様の性格からいって、お家の一大事と一人娘の失踪を両天秤にかけたなら…ファルネーゼお嬢様の捜索は後回しだ。  
時間稼ぎとしては、それで十分だろう。  
…ファルネーゼお嬢様と二人で駆け落ちして、御館様の手の届かない場所に逃げ延びるまでには。  
御館様から、お嬢様を奪うのだ。  
御館様にとって、お嬢様は厄介払いしたい失敗作でしかない。  
政略結婚の道具に使うしか価値のない、いらない子供だ。  
だったら、彼が拉って行って何が悪い。  
長年お仕えして衣食住の賄いから学費の面倒まで見て下さった大恩人に、恩を仇で返すような真似をして、悪辣非道な裏切り行為を行うのだと思うと…胸が空くような痛快さがこみあげた。  
「飼い犬に手を噛まれた」と御館様は激怒するだろう。  
でも、僕は御館様の飼い犬ではありません。  
僕の主は、ファルネーゼお嬢様ただ一人です。  
ファルネーゼお嬢様と一緒にいたい、それだけが僕の願いで、お嬢様が僕がそばにいる事を望んでくれるなら。  
他には何もいらない。貴族の爵位や地位や名声に、僕はなんの興味もありません。  
ファルネーゼ様の弱さも間違いも醜さも愚かさも、何もかも、僕にとってはいとしい人を愛する理由でしかないから。  
お嬢様が何かを追いかけたいのなら、僕はその後を「ファルネーゼ様ァ、待ってくださいよう」って言いながら追いかけます。  
ずうっと今までそうして来ました。多分、これからも。  
ガッツさん、どうかインドの山奥で一人で好きなだけ剣を振り回していて下さい。  
できれば一生死ぬまで山籠もりをして、そのまま人跡未踏の僻地に骨を埋めていただけると、感謝の言葉に堪えませんが。  
ロデリック先輩以上に、ガッツさんはお嬢様の相手として問題外です。論外です。  
僕はファルネーゼお嬢様をあなたに近付ける気は、毛一筋たりともありません。  
お嬢様の瞳が誰を追いかけていても、お嬢様のおそばにいて、彼女をお守りするのは僕です。僕だけです。  
僕の見つけた僕の居場所は、お嬢様の傍らです。  
僕に与えられた役目は、ファルネーゼお嬢様に御仕えする事で、今までもこれからも、何があってもそれは変わりません。  
僕はファルネーゼお嬢様を主と誓って、誓いを受けたお嬢様は、一生僕の主人であることを誓ってくれたんです。  
僕はお嬢様のもので、お嬢様のものでいる事が…僕は、幸せだから。  
逃げた先の場所に何があるのかわからないけれど、違う景色は見る事ができると思います。  
…二人で、いっしょに。  
 
END.  
 

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