雑踏の中に覗いた金色の髪の少女の背を、息を切らして追いかける。  
吐く息が白い。聖都の冬は冷たく厳しい。重苦しい灰色の空に遠くから鐘の音が鳴り響く。  
「ファルネ−ゼ様!」  
怪訝そうに振り向いた顔は、主人の少女とは似ても似つかぬ見知らぬ顔だった。  
失礼、と言い残して彼は踵を返した。見失った幼い女主人の行方の手掛かりでもないかと、焦りながら灰色の街を見回す。  
街角で「寒い、温かい飲み物が欲しい」と命じられ、言われるままに調達してきてみれば、主の姿はかき消えていた。  
気まぐれな女主人は、時折屋敷から抜け出して下町のそぞろ歩きを好んだ。  
お目付け役として供をするのは決まって年若いセルピコだ。  
ファルネ−ゼの寵用を受けることは、屋敷では「災厄」の別名義だ。  
(退屈してそこらを見物していらっしゃると思ったが…。まさか誰かに連れ去られたか)  
石畳を踏み締めながら、不吉な考えが頭をよぎる。慌てて打ち消そうとしたが、いったん沸いた疑念はみるみる心の中で膨らんでゆく。  
忍んで外出する時は、無用の危険を避けるため、ファルネ−ゼは侍女の粗末な平服に身を窶していた。裕福な家の娘と看破される可能性は低かったが、しかし幼い少女がかどわかされて売り飛ばされる話など珍しくもない。  
(屋敷に帰って報告した方が良いか…)  
探せばすぐに見つかるだろう、という淡い期待を抱いたまま、もう半時間ほど街をさ迷っている。神のおわします祝福された街、とは名ばかりの、持たざる哀れな貧民がひしめいている、聖なる都。  
騎士隊に報告し、捜索隊を組織して多人数でファルネ−ゼの行方を探した方が、賢明かもしれない。  
(…そして、私は職を失う、か)  
元よりファルネ−ゼの気まぐれから拾われた身だ。それが元に戻るだけのこと、そう思いつつ、名状しがたい寂寥を胸に覚えた。  
そうなれば、もうあの少女と自分とは、完全に切り離され、別の世界に分け隔てられる。  
せいぜい姫君が豪華な馬車に揺られて街路を通り過ぎるのを、黙って道端で見送るだけだろう。…そう思うと、奇妙に胸が痛んだ。  
 
「ちょっと、そこの兄さん」  
突然肘を掴まれた。しゃがれた女の声が耳に飛び込む。  
物思いにふけりながら、いつのまにか下町の路地裏に入り込んでしまっていたらしい。  
吐瀉物と何かの腐った臭気が鼻をつく。酒場の裏側だろう、薄暗い、いかがわしい雰囲気が立ち込めている。  
声の主に目をやり、即座に彼は目を背けた。  
女は三十代の半ば過ぎに見えた。大柄で、肉付きの良い体型をしている。  
毒々しい化粧と胸の膨らみをあけすけに覗かせた、派手だが安っぽい衣装。…街娼だ。  
「兄さん、ちょっと遊んでいかないかい?」  
女は厚く塗った唇を歪め、淫蕩な笑みを浮かべた。  
「…申し訳ありません、急いでいますので」  
降り払い、先を急ごうとしたが、女は執拗だった。  
「つれない事お言いでないよ。ネェ、安くしとくからさ」  
女が体を寄せ、きつすぎる香水と体臭の混ざり合った匂いが、むっと鼻をついた。  
嫌悪の情を面に出すまいとしながら、セルピコは無言で女の手をほどこうとする。  
小姓のお仕着せにはヴァンデミオン家の紋章が縫い付けられている。女は目敏くそれに気づいたのだろう、扱いやすそうなカモを逃がすまいと必死だ。  
色仕掛けが通じないと見たのか、女は急に涙っぽい声で喋りだした。  
「…ねえ、兄さん、あたしにゃ、家で腹を空かせた子供が待ってるんだよう。兄さんにも兄弟の一人や二人はいるだろう?人助けと思ってそのついでにちょいとお楽しみ、って訳にいかないのかい?」  
どうせ嘘だ、相手をしている暇などない、と思いつつも心が揺らいだ。  
ほんの数年前、日がな一日残飯を漁って街をさ迷っていた自分の姿が不意に浮かぶ。  
セルピコの肘を掴む爪を真紅に染めた女の手は、静脈と節くれの目立つ、荒れた手だった。  
この女と自分の間にどれだけの差があるというのだろう、…あるいは母と。  
「高貴な貴族の若様から寵愛を受けた」それだけをプライドの拠り所にしている哀れな母。  
(あの人は、あなたのことなど愛してはいなかったのですよ…)  
苦い思いが込み上げてくるのを、呑み下し、ふり払う。  
小銭を与えてとにかく立ち去ろうとポケットを探った時、鋭い声が背後から飛んだ。  
 
「セルピコ、何をしているの?」  
「ファルネ−ゼ様!」  
どっと安堵の思いが込み上げ、セルピコはファルネ−ゼの姿を見やった。  
あまり似合わない質素な平民の服を着込んだ女主人が、狭い路地裏に立ち、冷たい目で二人を見つめている。  
「その者は、なんなのセルピコ」  
彼は気の緩んだ女の手をふりほどき、ファルネ−ゼの元に駆け寄った。  
「なんでもありません。…ご無事で良かった、心配しました」  
「お前って案外鈍いのね。さっきから後をつけていたのにまるで気付かないんだから」  
(…一声かけてくれれば)  
経験上、ファルネ−ゼに何を言っても無駄な事は骨身に染みて心得ている。  
「…とにかく、もうお屋敷に帰りましょう」  
背後で女が小さく舌打ちする音が聞こえた。  
肩越しに背後を見ると、女は腕を組み、ふて腐れた表情で汚れた壁にもたれていた。また新しい男が通りかかるのを、そこで待つのだろう。  
そうやって客を取り、僅かな金と引き換えに体を売って毎日を暮らす…。女の子供は、母親をどう思っているのだろう、という思いがちらりと頭をかすめた。  
「さ、ファルネ−ゼ様」  
ファルネ−ゼを促したが、主人は何故か動かなかった。  
けばけばしいドレスを着た女の方を、一心に凝視している。  
「…ねえ、セルピコ。たまにはお前にも褒美を与えてやった方がいいかしら」  
抑揚のない、一切の感情が欠如した声で彼女が言った。  
女に向けたファルネ−ゼの瞳は、その女を通り越し、どこか自分にしか見えない幻視を見つめているように見えた。  
感情のうかがいしれない、生身の人間の眼というより、無気質な碧玉を嵌め込んだかのような眼。己の内側に潜む、底無しの虚無感しか映していない瞳だ。  
ファルネ−ゼが常軌を逸した凶行に及ぶ直前には、いつもこんな瞳をする。  
じわり、と嫌な汗が額ににじんだ。  
「…いえ、私は特に褒美などは」  
言い終える前に、ファルネ−ゼは路地裏の女に声を掛けていた。  
「そこの女!お前は春をひさぐ卑しい生業の者か!」  
女は露骨に不愉快な表情をした。  
「…ちょっと、お嬢ちゃん。あんた、礼儀ってもんを兄ちゃんから習いなよ」  
汚い路地裏に、チリン!と澄んだ高い金属音が響いた。  
女は目の色を変えて足許に転がる金貨を拾った。歯で噛んで確かめ、本物と悟るとギラギラした瞳をファルネ−ゼと彼に向けた。  
「…ふうん、まあ、礼儀知らずでも客は客、ってね。お嬢ちゃん、何がお望みだい?」  
彼は傍観者のように女主人と娼婦の会話を眺めた。  
ファルネ−ゼを諫めて屋敷に帰るよう促すべきだ、と思いつつ、それがまるで無意味なことを知る彼は、ただ黙って立ち尽くした。  
(…私は、この方の所有物だ)  
「女、この者と私の前でつがって見せろ」  
 
彼は自分の母親とさして年の変わらない娼婦を見、この女と寝るのだな、と無感動に思った。  
 
路地裏と同様に、その部屋は薄汚く、みすぼらしかった。  
女が寝起きに使っている部屋らしく、どこか生活臭が漂う。なんとなく、セルピコが母親と暮らしていた荒ら屋を思い起こさせる雰囲気があった。  
安普請の狭い寝台は、二人分の重みに耐え兼ねて軋むような音をたてた。  
女はセルピコの股間に顔を埋め、熱心に舌で彼の性器に奉仕していた。女の分厚い舌が獰猛に這い回り、与える刺激を他人事のような気持ちで味わう。  
間近で見る女の肌は荒れていた。すさんだ生活が、女の容貌を磨り減らし、削り取っていった跡がうかがえた。  
最初彼の倍以上の年齢に見えたが、もしかするともっと若いのかもしれない。  
目の前で揺れる、肉ばかりは豊満な尻を両手に掴んだ。こね回すと、くぐもった呻き声を上げながら女は尻をうねらせ、擦りつける舌に力を込めた。  
視界の端に映るファルネ−ゼの視線を想った。  
家具の少ない粗末な部屋の中、一つきりの椅子に膝を抱えて座り込み、じっとこちらを凝視している。  
彼の主が、自分とこの女の痴態を見ているのだ、そう思うと妖しい胸のたかぶりを覚えた。  
目を閉じ、蔑みを浮かべた主の冷たい瞳を思い浮かべる。  
(…ファルネ−ゼ様のため…)  
とたんに、女の熱い口腔に呑み込まれた器官が硬度を増した。  
上気した顔の女が、名残惜しそうに彼の器官の先端にくちづけ、唇を離した。長い涎の糸が、唇と性器の間で一瞬つながる。  
「…兄さん、やっとその気になってきた?」  
口の端を拭い、女が笑みを浮かべながら、彼を引き寄せた。そのまま、女の体に重なるように寝台に倒れ込む。  
豊満な女の肉体に四肢を絡め、ファルネ−ゼの視線を意識しながらくちづけた。  
女が熱っぽく応じ、互いに舌を絡め合う。  
ファルネ−ゼは先刻から微動だにしない。ぴくりともせず、部屋の備品と化したかのように凝固している。…ただ、その両眼だけが、薄暗い部屋で夜に見る獣のような光を湛えていた。  
あの眼が見ているのだ、と思うと我知らず、呼吸が荒くなった。  
息苦しくなり唇を離すと、女が好奇心に瞳をきらめかせながら尋ねた。  
「…ねぇ、兄さん、あんた初めてかい?」  
どう答えるか少し迷ったが、素直に答えた。  
「…はい」  
 
くくっ、と女が嬉しそうに笑った。…そんな風に笑うと、女は随分若々しく見えた。  
「そう、光栄だよ。じゃあ、うんとサ−ビスしてやんなきゃね。…ま、余計なオマケがちょいと邪魔だけど」  
女の視線が、ちらりとファルネ−ゼの方に向かう。  
ファルネ−ゼは自分が話題にされていると知ってか知らずか、相変わらず沈黙したままだ。  
「…あんたも苦労してるみたいだねぇ…。かわいそうに…。」  
呟きながら、女は彼の肌を彩る鞭の跡に指を滑らせた。まだ赤く疼く傷跡を、慰めるように舌を這わせる。  
傷をなぞる生暖かい濡れた感触が、一昨日の熱い痛みの記憶を蘇らせた。  
幼い主人の甲高い叱責の声、鞭がしなり空を切り裂く音、口の中に広がる血の味、撃ち込まれる灼熱した痛み。  
彼女の打擲に、時折混じり気なしの殺意を感じた。彼個人にではなく、世界のすべてのものに対する憎悪だ。何も彼も破壊したい、灼き尽くしたいと荒れ狂う、強烈な激情。  
皮膚の上を這い回る舌の感触に、ファルネ−ゼの貌を重ねた。  
彼女であれば、傷跡を噛み破り、滲み出る彼の血に舌鼓を打ちながら、微笑むだろう。  
心の中で、ファルネ−ゼの名前を呟いた。  
身動ぎし、女の腰を掴むと、女の手が添えられ、導かれた。  
どろりとした熱い感触が彼を包み込んだ。  
女の生々しい呻き声が、室内に響く。  
狭い寝台を揺らしながら、肉付きのいい太股を抱えてひたすら突き上げた。  
肉と肉の擦れ合う湿った音が、女の呻き声の間に混じる。  
セルピコは、女と繋がりながらファルネ−ゼの方へ真っ直ぐ顔を向けた。  
彼の主人がどんな顔をしているのか見たかった。  
命令どおりに街の娼婦とつがっている自分を見て、何を感じるのか。  
嫌悪の色を顕すのか、それとも貴婦人らしい冷たい侮蔑を投げかけるのか。  
…ファルネ−ゼの顔は、快楽に蕩けていた。  
両膝の間を腕が割り、スカ−トの奥に手を潜り込ませている。開いた膝の間で、繊細なレースで飾られた白い下着越しに指が蠢く様がのぞいた。  
熱く潤んだファルネ−ゼの瞳は、寝台で絡まり合うセルピコと娼婦に向けられている。  
セルピコの視線に気付いていないのか、それとも召使の眼など虫の視線同様の無意味な代物なのか。セルピコの目の前でファルネ−ぜは自涜に耽り続けた。  
半開きの幼い唇から、こらえかねたような喜悦の声が零れはじめる。  
 
ふいに女が両腕を彼の首に絡め、引き寄せられた。熱い呼気が耳元で囁く。  
「…お高くとまってたって、所詮、貴族なんてあんなもんさ」  
目に汗が流れ込んで、ひどく染みた。  
締めつけられるような胸の痛みが、どこから来たのかわからない。  
女の豊かな乳房の谷間に顔を埋めた。熱い肉の感覚に溺れて、胸の中で焦げつく想いを忘れてしまいたかった。  
しばらくの間あやすようにセルピコの髪を撫でていた女は、やがて体の位置を変えるよう促した。仰向けになった彼の体にまたがる格好で、女が馬乗りになる。  
一瞬だけ、上に乗った女の視線がファルネ−ゼへ飛ぶのが見えた。  
自涜に没頭する貴族の令嬢に向けた眼は、嘲りも蔑みもなく、ただ冷たく醒めていた。  
女はセルピコの顔を見下ろすと、意味あり気に笑った。…共犯者の笑顔だ。  
「…さあ、あんたの御主人様を楽しませなくっちゃあね」  
言いながら、女は腰を使い始めた。ファルネ−ゼの存在を意識しながら、見せつけるように激しく尻を上下させる。  
女の喉から獣じみた喘ぎ声が漏れ始め、汗の飛沫がセルピコの顔に降りかかった。  
成熟した女の熱い喘ぎ声と、少女の細い喜悦の声が入り交じり、奇妙なハーモニーを奏でた。  
セルピコは横たわったまま、女に身体を委ねた。肉の鞘が彼を包み、快楽を絞り尽くしたいというかのように貪欲に締め上げる。彼は自分の感情と無関係に反応する肉体を、ただ不思議に思った。  
先に達したのはファルネ−ゼだった。高いソプラノの悲鳴が、震えながら部屋の空気を切り裂き、絶頂を迎えるとしだいに細く消えてゆく。  
彼の主人が満足したのなら、自分は命じられた役目を果たせたのだな、と薄く思った。  
女のせわしない喘ぎ声だけが部屋の空気を満たしてゆく。  
かすかなすすり泣きが聞こえた気がした。  
小さな子供がしゃくり上げるような、やってしまった悪戯を、ひどく後悔しているような、哀切な響き。  
気のせいだ、と彼は自分に言い聞かせた。…それに、彼の主人は泣き顔を見せることを許さないだろうから。  
泣き声はぷつりと途絶え、再び女の呼吸だけが部屋の空気を支配した。  
女の念頭からファルネ−ゼの存在は消え、ひたすら自分の快楽に没頭しているように見えた。  
体をうねらせ、深く腰を沈めながら、貫かれる悦楽に我を忘れたかのような声を漏らす。  
量感のある尻が落ちる度に、女の膣からは大量の粘液が溢れた。  
 
突然ファルネ−ゼが音を立てて椅子から立ち上がった。  
夢遊病者のような足取りで寝台の脇の燭台の前に立つ。燐寸を擦る擦過音が響き、薄暗い部屋に小さな橙色の光が点された。  
セルピコは炎を見て口中がからからに乾いてゆくのを覚えた。彼の主人がこよなく愛するものを知っている。それは、炎と捧げられる生け贄だ。  
揺れる蝋燭の光にファルネ−ゼの横顔が浮かんだ。魅入られたように炎をみつめている。瞳の中に照り返された炎があやしく踊っていた。  
蝋燭を握り近付くファルネ−ゼに女が気付き、喘ぎながら笑いかけた。嘲りの笑いだ。  
「…なあに、お嬢ちゃん、あんたも混ざりたいっていうの?」  
女が最後まで言い終える前に、ファルネ−ゼは女の髪を掴むと無造作にその顔に火を押しつけた。  
女が顔をのけ反らせて絶叫した。肉と脂の燃える香ばしい匂いが漂い、一瞬彼を咥えていた女の内部が激しく痙攣した。  
顔を押さえた女が、彼の胸の上にどっと倒れ込んだ。  
しばらくの間、女は喉の奥から唸るような苦鳴を漏らして震えていた。  
突然我が身に生じた理不尽な苦痛の理由をようやく理解すると、激しくファルネ−ゼを仰ぎ、憎悪の滴る声で怒鳴った。  
「なにしやがんだい!?!畜生!こんな真似してただですむと思ってんのかい!?」  
ファルネ−ゼの耳には女の声が聞こえた様子はなかった。火の消えた蝋燭を名残惜しげに見つめている。  
「…消えてしまったわ。セルピコ、火をつけて頂戴」  
燐寸箱が投げつけられ、彼の額にぶつかった。  
「ふざっけんな!このくそがき!」  
激昂した女が、ファルネ−ゼにつかみかかろうとする。  
セルピコは咄嗟に女の体にしがみつき、押さえ付けた。主人に危害を加えさせるわけにはいかない。たとえ、女の怒りがごく当然で正当なものとしか思えなかったとしても。  
この期に及んで女と体が繋がっているのが、ひどくグロテスクで滑稽な冗談のように思えた。  
ファルネ−ゼは寝台に金貨を放り投げ、澄んだ声で告げた。  
「お前の苦痛を買いたい。火傷一つにつき、金貨一枚」  
セルピコの腕の中で、もがいていた女の体が静止した。怒りで赤黒く染まっていた顔が、みるみるうちに紙のように白くなった。  
女は金貨を見、ついでファルネ−ゼをみつめた。再び金貨をみつめ、二つの間を視線が激しく往復する。  
ふいに粗末な部屋の入り口の扉が開いた。  
薄汚れた身なりの小さな男の子が、扉の間から不安そうな表情でこちらを覗き込んでいる。  
少年の姿を認めると、女は狼狽した手つきで敷布を掴み、裸体を覆い隠した。密着しているセルピコを乱暴に押し退ける。  
「ばか!仕事中は外で遊んでろって言ったろ!とっとと出ておゆき!」  
「…でも、お母ちゃん、…その顔」  
怯えた表情で少年が女の爛れた片頬に目を向けた。  
「なんでもないったら!あたしの言いつけがきけないのかい!とっとと出てゆけって言ってんだよ!」  
一瞬少年の幼い顔に、傷つけられた表情が浮かんだ。それはすぐに馴れきった諦めに変わり、母親の言いつけ通りにドアを閉じた。  
小さな足音が遠ざかる間、誰も口をきかなかった。  
ファルネ−ゼだけが、何も聞こえていなかったように超然としている。  
のろのろした仕草で女は金貨を掴んだ。その姿は、疲れきった老婆を何故か連想させた。  
女はファルネ−ゼを見上げた。しわがれた声で言った。  
「…金貨五枚。商売道具を台無しにされるんだ、そのぐらいは貰えなくちゃ割りに合わないよ。…それから、顔は、もうやめて」  
ファルネ−ゼは無言で服の隠しから四枚の金貨を掴みだすと、無造作に女へ投げた。  
彼女の視線がセルピコへ向かう。  
ファルネ−ゼが微笑した。花のように甘い微笑みを浮かべて、女の皮膚の断片が芯に付着している蝋燭を彼に差し出した。  
「…さあ、セルピコ、火をつけて。それから、この女が暴れないように押さえていて頂戴」  
セルピコは主人の微笑みをみつめた。  
彼の魂の所有者は、どうしようもなくこの少女なのだと思った。  
そして、敷布の間から燐寸箱を拾いあげた。  
 
その夜のファルネ−ゼの打擲はことのほか激しかった。  
女の部屋を去り、屋敷に戻って夕食を済ませた後、ファルネ−ゼからお呼びが掛かった。…予想どおり、彼の主人は荒れ狂っていた。  
壁に背を向け、ひたすら主の打擲に耐えた。背を伝い落ちる滴が、足下で血溜まりを造っている。  
飽くことのない執拗さでファルネ−ゼは鞭を振るい続けた。  
これが、下されている罰だと思えば、むしろ痛みが心地好かった。  
ファルネ−ゼに背を焼かれていた女の眼を思い出す。屠殺場で生きたまま皮を剥がれる動物のような眼だった。  
女は、我慢強かった。布を口に噛み締め、炎が肌を嘗める苦痛に無言で耐え続けた。  
結局、女が音を上げる前に手持ちの路銀が尽きた。お忍びの散策で、たいした金は持ち歩いていなかったことが、幸いした。…もしもそのまま続けていれば、女の肌は火傷の跡で隙間なく埋め尽くされていたかもしれない。  
「…お前は、あの女のことを考えているんでしょう?」  
ふいに鞭を振るう手を止め、ファルネ−ゼが詰問した。  
返事を要求されているのだろうか、と迷ううちにファルネ−ゼが再び鞭を振るった。  
「答えなさい!」  
「…考えていました」  
「汚らわしい!…お前は、汚い!…あんな、あんな下賤の者と!」  
ファルネ−ゼが吐き捨てるように叫び、怒りに任せた打擲が、また叩きつけられる。  
主の怒りの一片が理解できたような気がした。…彼が、命令通りに女と寝た事を、怒っているのだ。ファルネ−ゼの命令をもしも拒否していれば…、やはり激怒したろう。  
(…あなたは、なにが欲しいのですか?)  
尋ねてみたい、と思ったが口に出して主に問うことはこれからもないだろう。  
彼の主はその答えを知らないのだから。  
心の赴くまま、欲することを行って、…それでいて、この少女は満たされず、不幸だ。  
ファルネ−ゼを救う事など自分にはできはしない。でも、その矛盾も理不尽さも激情も、何もかも受け止める事なら、できるだろう。  
「…お前は、汚いっ、…きた、ない…」  
罵る主の声に、嗚咽が混じり込んでいた。  
かわいそうに、と思う。泣かないでほしいと思う。  
鞭が止まった。独り言のように、ファルネ−ゼが呟いた。  
「…違う、ほんとうに汚いのは、…お前じゃない、お前じゃないわ…」  
振り返って、ファルネ−ゼを抱き締めたかった。  
あなたは少しも汚れてなんていない、私にはどんな時でもあなたは眩しいくらいにきれいな方だと、そう言いたかった。  
何も言えず立ち尽くすうちに、ファルネ−ゼが力のない声で退室を命じた。  
無言で服を着込み、ファルネ−ゼに一礼する。  
ファルネ−ゼは俯き、放心していた。その姿は迷子になって途方に暮れている子供のように見えた。  
重い扉を閉じ、部屋の外で、一人呟いた。  
「…私は、ファルネ−ゼ様のものです。これからも、ずっと…」  
 

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