意外な言葉だった。セルピコは自分に、そして後見人であるヴァンディミオンの当主に逆らえない。
黙して主の意向に添う仕事をするだけの男だと思っていた。
ふいにファルネーゼの内に怒りがわき上がる。
十六のあの時も、自分を連れて逃げるどころか、抱きしめてさえくれなかったではないか。
「私に政略結婚を拒否する権利があると思っているの!?
いいも悪いもないではないか。私は父上の言うとおりにするだけ」
怒気を含んだファルネーゼの言葉を、セルピコはいつもの様に静かに聞いている。
また癇癪が始まったとでも思っているのだろうか?
この男は、鞭をくれても呻き声一つあげない。そういう人間だった。
「‥‥ご気分を害されたのなら謝ります。おっしゃるとおりですから‥‥」
感情の読みとれない表情、その瞳。
歪んだ形であれ、ファルネーゼが最初に恋をした男はセルピコだった。
彼女は、平民あがりであっても、この聡明で優雅な立ち振る舞いの青年が好きだった。
しかし長年生活を共にしても、セルピコの自分に対する感情はわからない。
黙ってファルネーゼの命令を聞くだけだ。
それがいつもファルネーゼを苛立たせた。
「式の日取りはもう決まっているのでしょう?」
「はい‥ヴァンディミオン家ゆかりの大聖堂で、内外の王族諸侯方々が
臨席致します。盛大な式となるでしょう‥」
苛立つファルネーゼを後目に、淡々とセルピコは説明をする。
ヴァンディミオン家としては、いや父としては「ヴァンディミオンの鬼子」
と囁かれる自分のイメージを払拭したいのだろう。
だから相手は王族で、式は豪華に華やかに行わなければならないのだ。
「ロデリック侯とはどんな方?」
「肖像が届いております。ご覧になりますか?」
「いいわ、後にして」
肖像画はどうせ実物より美しく描かれている。なんの証にもならない。
「シュタウフェン王家はミッドランド王家に次ぐと言われるほどの
古く由緒ある家柄。ファルネーゼ様にお似合いのお相手と‥‥」
「もういいわ!さがって」
「はい‥‥」
怒気をはらんだファルネーゼの命に、セルピコは静かに席を立った。
「蛇足ですが‥‥」
「これ以上何を言おうっていうの!?」
「‥長らくファルネーゼ様にお仕えしてきましたが、婚礼の日をもって
私はファルネーゼ様の警護役の任を解かれます。正式なお別れはいづれまた‥」
「!?」
ファルネーゼには思いもかけない事だった。
当然の様に、他のヴァンディミオンの侍従達と同じに、セルピコも婚家へ
ついてくるのだとばかり思っていたのだ。
「どうして?誰が決めたの!?」
愚問だった。
「御舘様です」
「お前は私から離れて何をするの!?」
「今までどおり、ヴァンディミオン家の紋章官を務めるだけです。
雪の中、ファルネーゼ様に救われた命。感謝の言葉も‥」
「もう、そんな事は聞きたくないわ!お前は私が憎いのでしょう?
見ず知らずの男に嫁がされていい気味だと思っているのでしょう?
だからそんな事が平気で言えるんだわ!」
涙を浮かべてセルピコに詰め寄るファルネーゼを、彼は困った様な
憐れむような瞳で見下ろしていた。
「‥私はファルネーゼ様を憎んでなどおりません‥」
「そんな訳はないわ!私はお前の母親を焼き殺したのよ!?
憎いはずよ、憎くはないの!?」
ファルネーゼの強い視線から逃れる様に、セルピコはそっと横を向いた。
いつもの様に濃い金色の前髪で瞳が隠れて、さらに感情を計りかねた。
「‥そんな事で、憎んではいません‥貴女の事を‥」
「なら抱いて!つれて逃げてなんて言わないわ。
でもお前も男なら愛してもいない女を抱けるでしょう?
私はヴァンディミオン家に女として産まれただけで
お父様に疎まれ、顔も知らない男と寝なければならないのよ!?」
「それは‥‥」
セルピコは口ごもる。彼にしか知らない事実ゆえにだ。
「今夜だけでいいわ!そうしたら私は笑ってロデリックとやらと結婚してあげる。だから‥‥」
胸に泣き崩れるファルネーゼを、セルピコは痛々しげに見つめていた。
「‥‥私でファルネーゼ様をお慰め出来るのなら‥」
そう言ったセルピコの口調は、いつもと同じように静かだった。
だがファルネーゼの肩を抱くその手には、痛いほど力がこめられ彼女は怯えた。
いくら肉への欲望へ身を焦がしていても、ファルネーゼは男を知らない。
生身の男を前にして、女を抱こうとするその空気を肌身で感じ
ファルネーゼは初めてセルピコを怖れた。
セルピコは、ファルネーゼの碧色の瞳に浮かんだ怯えを読みとっていたが、やめる気はない。
「?!」
望んでいた筈なのに、まるで無理矢理の様に唇を奪われた。
反射的に身を引こうとしたファルネーゼの身体を、セルピコは力ずくで抱き寄せた。
最初の肉の触れ合いに驚くも、セルピコの意外な口づけの荒々しさと
吸われた舌の熱さに、やっと求めていた物が与えられるのだと思った。
セルピコは貪っていた女性の柔らかく甘い唇と共に、ファルネーゼの細い腕が自分の首筋に絡みついてくるのを感じていた。
セルピコはくちづけはそのままに、ファルネーゼの身体を抱き上げた。
ファルネーゼはもっと深いくちづけを求めて
セルピコの首にまわした腕に力をこめてきた。
彼女にとって初めての、そしてずっとこのままでいたいと思うようなくちづけだった。
「‥‥‥」
セルピコは絡まる互いの舌の濡れた熱さを感じながら
薄い蒼色の瞳でファルネーゼの頬をつたう涙を見る。
その涙の意味を思った。
華奢な男だと思っていた。並の男より背が低い訳でもないのだが
痩身がセルピコを線が細く小柄に見せていた。
いかにも聖都の貴族といった優雅な衣装がよく似合い
ファルネーゼは舞踏会に出る度、見栄えの良いこの警護役の男が密かに自慢だった。
その絹の服の下、肌に無数の傷をつけていても‥。
「ん‥‥」
セルピコの肌を見たことはあった。その肌に数年前の鞭の痕跡は残っていない。
しかしこうして裸で抱き合えば、やはりセルピコも男である事がわかる。
ファルネーゼのプラチナブロンドの髪をまさぐる指は冷たいのに
合わせた肌は熱く、その身体は重かった。
「‥‥あ‥‥」
セルピコが彼女の髪の生え際に、うなじに、そして首筋へとくちづける。
その感触も吐息も熱く、ファルネーゼは甘いため息をついてセルピコの頭を抱いた。
彼の濃い金色の髪は、意外にも細く柔らかかった。
この髪の感触も香りも、肌の熱さも刻みつけるように憶えておこう。
初めて恋した男が自分を抱いてくれたのだから‥。
「‥痛っ‥」
乳房に触れていたセルピコの手が、肌を愛撫しながら下へとなぞり
自分しか触れた事がない秘所を探りはじめた時だった。
ファルネーゼはその冷たく堅い男の指の感触に、びくりと身体を震わす。
何故男の手では苦痛なのだろう?自分では容易に快感の場所を探り出せたというのに。
「‥‥私に身体をあずけてください。力をぬいて‥」
耳元でセルピコが囁いた。その言葉と息の熱さにファルネーゼは
身体の芯が熱くなる。
ファルネーゼの腰を抱く片腕に力を込め、もう片方の手が彼女の秘所のひだを割り
優しくクリトリスを愛撫し始めた。
「あぁっ!」
苦痛と快楽の入り交じった衝撃に、ファルネーゼは必死にはしたない声をこらえた。
お前はこんな時どんな顔をするの?
荒い息を吐くセルピコの形の良い細い顎、整った鼻梁につたう汗を
ファルネーゼは見た様な気がした。
ヴァンディミオン家の庭は広大で、あちらこちらに四季の花々の園が設えてある。
季節は五月。彼のまわりには野放しになった百合と薔薇とが咲き誇り
むせかえるような香りが満ちていた。
栄えある王家との婚姻は間近にせまり、ファルネーゼの着るであろう
純白のドレスの仮縫いが終わった頃だ。
ヴァンディミオンの花嫁のベールは一際長く、純白の絹に
ファルネーゼの紋章と百合とが豪華で繊細な刺繍がほどこされていた。
セルピコは庭師もあまり来ない様な庭のはずれで、独りベンチに腰掛けていた。
独りになりたい時、セルピコはこんな場所に来る。
自分では意識してはいないが、たぶん疲れた時なのだろうと思う。
漠然と自分の手を見つめていた。
「一晩だけ」とファルネーゼに懇願されたあの夜から、何度か関係を持った。
自分から誘うこともあった。
聖アルビオンでファルネーゼが黒い剣士に連れ去られた時
暴行されたのかと勘ぐっていたが、今だ閨でのファルネーゼのあえぎは
快楽のそれではなかった。
初めてだったのですね‥‥。
自分の手は二つの大罪を犯した。
母親を焼き殺し、血の繋がった妹を抱いた。
それでも自分がファルネーゼを抱き留めれば
また十六の時の様に、邸に火を放つ様な振る舞いをしないだろう‥
そう考えもする己の冷酷さがセルピコは嫌だった。
その冷酷はまぎれもなく父方ヴァンディミオンの血だ。
大罪を犯しても、罪におののくことは無く
罪から逃れる最善の方法を考える。
皮肉にも、こんな時に自分の中に脈々と流れるヴァンディミオンの血を感じた。
結婚前の貴族の娘に、恋人がいたなどという話はざらにある。
いくつかの名門では、近親相姦の醜聞すら囁かれていた。
今のセルピコとファルネーゼの関係は、表向きは「よくある話」でしかない。
問題になるのは異母妹といえど、相手が血の繋がりのある妹である事だ。
だがこの事実は自分と、後見人たるヴァンディミオンの当主しか知らない。
元よりセルピコは、この醜聞を明かしてヴァンディミオン家に
意趣返しをするつもりなど無いし、何よりファルネーゼの名誉に関わる。
父たるヴァンディミオン当主も、この事実を知っても黙認するだろう。
事を荒立てるくらいなら、兄と妹がつるんでいようと知った事ではない。
秘密を知る者は自分とセルピコしかいないのだから。
ただ自分が黙していればいい
私はただファルネーゼ様が欲しかった‥‥
身分を越え、血を越えて
そういう理由の方がまだマシとセルピコには思われた。
ファルネーゼは薄暗い寝台でセルピコの背中を見ていた。
彼はファルネーゼに背を向けて、上半身は裸のまま寝台に腰掛けていた。
痩身のまっすぐに伸びた背骨
その肌には数年前、ファルネーゼがむち打った傷跡はもはやない。
つい先ほどまで、彼女はセルピコの背に腕をまわし
甘い吐息を吐いて、その背骨の感触を指でまさぐっていた。
何故この美しい生き物に、自分は傷をつける様なまねをしていたのか。
今ならファルネーゼは、あの時の自分の行いをわかった気がする。
セルピコが今の様に自分を抱いて傷つけてくれなかったからだ。
こんな時、セルピコはほとんど何も言わない。
ファルネーゼが苦痛に息を乱した時、「辛いのですか?」と囁くくらいだ。
それでも無遠慮な程に、熱く堅い何者かが身体の中に入ってくる。
そんなセルピコもまるで苦痛の様に、眉根をよせ荒い息を吐いた。
身体の奥の苦痛と、合わせた肌の、絡めた指の熱さの快楽が一度にファルネーゼを襲うのだ。
でも何故、今セルピコは自分を抱いてくれたのか?
別れを惜しんでくれたのか?
その真意を今だはかりかねた。
「‥‥不安ですか?」
意外にもセルピコが話しかけた。背を向けたままだったけれど
その言葉は、数日後にせまったシュタウフェン王家との式を心配してのものだった。
「‥わからない。私はまわりの言うとおりにするだけ」
「心配は無用でしょう。すべて侍従達が取り仕切ってくれます」
この男はそんな事しか言わないのだ。
「お前は嘘でも、抱く女に『愛している』とは言えないの?」
しばしの無言。
「‥‥私はファルネーゼ様にその言葉を『言えない』のです。
しかし他の女性にもその言葉を告げた事はありません。
今までも、これからも‥‥」
「イースはどんな国かしら。でもお前はこれからもここに居るわね?」
「はい‥喜望峰を越えられないオランダ人の様に
私はこの場所から動けません‥‥。何処へも行けないのです」
「待っていて。お前に会いに帰ってくるわ。ラヴァンドの花が咲く頃に‥」
その言葉を背に、セルピコは無言で身支度を整え
就寝の言葉のみ告げてファルネーゼの部屋を立ち去った。