人間一人、笑おうが泣こうが季節はうつろう
ファルネーゼの輿入れから半年経ったか経たないかの時
セルピコに当主フェディリコから縁談の話が舞い込んだ
相手は聖都でも屈指の名門オルシーニ家の姫クラリーチェ
商売をする貴族ヴァンディミオンさえも
平民の様と蔑む気位の高い家柄だった。
オルシーニの名を聞いたとき、セルピコも釣り合いがとれないと思ったが
クラリーチェの名前を聞いて合点がいった
オルシーニ家の妾腹の娘だったからだ
御館様も気苦労が絶えない事です
愛人の子を片づける為に妾腹の娘を探してくる
気が利いていると言えなくもない
「クラリーチェ姫は美しく教養深い方だ。人柄も申し分ない。
この縁を機にオルシーニ家とヴァンディミオン家の繋がりを
深くできればと思っている。
お前にもわるい話ではあるまい?
クラリーチェ姫はファルネーゼとは比べものにならない程‥‥」
言い訳の様なフェディリコの話は続き、セルピコは黙ってそれを聞く。
平民出の私に来た縁談だ
妾腹以外に何か訳でもあるのかもしれません‥
そんな事を考えていた
「お前の意向はどうだね?」
「いかようにも話をお進めください。
御館様のご命令とあらば何処へでも参ります」
セルピコはその話を承諾した。
私もついにこの庭を出ることになった。
暗く陰鬱な庭で、歪みもつれて育った兄妹は
すべての罪と秘密とを、薔薇と百合と季節の花々の下に埋め隠した。
もうこの庭は主を必要としないのだ。
『待っていて、ラヴァンドの咲く季節にお前に会いにくるわ‥』
ファルネーゼは自分を捜しにここへくるだろうか?
約束を破った私をせめて泣くだろうか?
一人の人間が泣こうが叫こうが、動き出した事象は止められない。
ファルネーゼ様は私をお恨みになるだろうか?
それすら自分の思い上がりとセルピコには思われた。
私たちは成長し、この庭は些か窮屈になった。
いずれは別れなければならなかったのです‥‥。
幼少の頃、あれほど巨大に見えたヴァンディミオン家の邸宅を振り返る。
自分とオルシーニ家との婚姻が、ヴァンディミオンにさほど
益をもたらすとは思えなかった。
セルピコはこれから仕えるであろうオルシーニの姫の事を考える。
ある意味、まともな女性であったなら、私は扱いに困るかもしれない。
そんな事を考えながら、馬車に揺られてヴァンディミオン家を後にした。
殿方は人によって違うのね‥‥。
ロデリックに後ろから責められながら
ファルネーゼは朦朧とした意識の中そんな事を思った。
「‥う‥くっ‥‥」
体毛の濃いロデリックは夜の営みも精力的だった。
ファルネーゼは絹の敷布を握りしめて
身体の奥まで貫かれそうなその衝撃をこらえる。
嫌ではなかった。
かつて夢想した様に、無理矢理の様に唇を奪い
乳房を跡がつくほど握りしめ、愛液に満ちた穴を突き上げる
柔らかなパン生地をこね回すように身体を自由にされて
ファルネーゼは肉の快楽に我を忘れていた。
ロデリックはわるい人間ではなかったし、嫌な夫でもなかった。
「あんたは面白いな。大貴族の姫君は夜の事でも
慎みなんて馬鹿な事言い出す、お高くとまった女が多いのに
あんたはこういう事が好きか?」
「‥‥それは娼婦の様な女とおっしゃりたいのですか?」
「いや、そういう意味ではないんだ。
せっかく縁があったのだから寝台でも仲良くしたい。
お気をわるくなさったのなら謝る」
さすがにロデリックは口が過ぎたと思ったか、困った顔をしていた。
聖アルビオンの惨劇から、半年も経たない間に
ファルネーゼには納得する時間もないまま、多くの出来事が降りかかった。
婚姻の話が持ち上がり、聖都から遠い島国に嫁いでいた。
ふと気がつけば、夫という男と寝台で睦み合っていたのだ。
『身体の乾きは、夫たるあの方が癒してくれるでしょう‥‥』
まるで呪いの様なこの言葉をはいた男の姿を
ファルネーゼは無意識のうちに探す。
あのいかなる時でも表情を崩さない、冷たく整った横顔。
呪わしく、そして恋しかった。
その面影を忘れる為に、ロデリックと獣の様な情交に逃げ込んだ。
私は何をしているのかしら‥‥。
ファルネーゼの身体に満足したロデリックが傍らで寝入った後
彼女は声を立てずにすすり泣いた。
何が哀しいのか、頬をつたう涙はなかなかとまらなかった。
そんなある日、ロデリックはファルネーゼを薄暗い宮殿から
船で外洋へ連れ出してくれた。
「まあ、空が綺麗‥‥‥海もエメラルドのよう‥」
「綺麗なもんだろう?荒れる時は怖ろしいが、晴れた微風の海は最高だ」
ロデリックは晴れやかな表情を浮かべるファルネーゼに
航海の事や海の事を楽しそうに教えてくれた。
甲板で風に帽子が飛ばされない様押さえながら
ファルネーゼは水平線の先を思う。
聖都はどちらの方向なのだろう‥‥。
「ガァ」
「きゃっ、この鳥はなんですの?」
ロデリックの腕にいつの間にか大きなオウムがとまっていた。
純白の羽毛に嘴が黄色で、小首を傾げてファルネーゼを見ていた。
「俺からの贈り物だ。言葉を教えると話す様になる」
突然の贈り物にいぶかしげなファルネーゼにロデリックは言った。
「夜の事な‥泣くほど嫌なら言ってくれ。
俺も嫌がる女を抱いて喜ぶ程悪趣味じゃないんだ」
ロデリックの心遣いにファルネーゼは引け目を感じた。
けして悪い人間ではないのだ、この人は‥。
「‥申し訳ございません‥」
「いやな、謝る様な事じゃない。顔をあげてくれ
まだあの紋章官の男が忘れられないのか?」
「‥‥あれはロデリック様ほど暖かい人間ではありません。
冷たい男なのです。でも少し時間をください。
甘えてばかりで、私は愚かな女です‥」
「親の決めた結婚だ。
それとは別にあんただって好きな男くらいいるよな。
俺だって他に女くらいいる。
まあそれでも仲良くやっていけるならそれに越した事はない」
愛人がいると明け透けに言うロデリックだが
彼に対してファルネーゼは嫌悪感は感じなかった。
「‥‥天使は焼け落ちた、雷鳴轟く岸辺‥‥」
セルピコは珍しくこの詩の作者をおぼえていない。
このフレーズだけをおぼえている。
自分は天使を見ることは出来るかもしれない
しかし、見るだけだ
彼らはなんの恩寵も告げずに、自分の前から飛び去るだろう
かといって地獄も信じていない
冷酷な現実があるだけだった。
繋がる血故に傷つき喰いあい、他人によって平安を得る
自分とファルネーゼの関係のみならず、存外ある事だ
ヴァンディミオン邸宅の広大な庭に住まう子供はいない
ただ四季にうつろう花々と木々があるだけだ
愛しているからこそ離れる事もある
無人の庭の様な虚無を己の中に巣くわせながら
ファルネーゼの事を考える
なんの噂も聞こえてこないので
彼女は他人に救われたのだろう
セルピコは、そう思うことにした。