「ハァイ」  
 火が消えたまま咥えていたシケモクを吐き捨てたのと、その声が背中に当たったのはほぼ同時だった。  
 ゆっくりと振り返ると、そこには一人の女が大きなスーツケースを持って立っている。ブルネットの髪をショートカットに。サングラスで顔を覆っているが、全体の印象はロウティーンの少女だ。  
「そこ行く渋めのお兄さん。ちょっと道教えてくんない?」  
 ゆっくりと自分を指差した男を見て、女はにこやかに頷く。  
「そうよ、そこのパーマが当たりすぎなお兄さん」  
「……他を当たってくれ」  
 不愉快そうに顔をゆがめて踵を返そうとする、男。  
「残念」  
 肩を竦め、興味を失ったように視線を男から外す、女。  
 男は歩き出した。  
 ――正確には、歩き出そうとした。  
 女を囲むようにダークスーツの屈強な男が五人。退路をふさぐ形で立っている。  
 女は気付かぬようにスーツケースを手に、歩き出そうとして――そこで気付いた。  
「嘘」  
 その声には間違いなく、驚きがあった。  
「追いかけっこは、これで終わりだ」  
「来い。無理やり大人しくさせる事だってできるんだぞ」  
 屈強な男の声に、女は悲しげに俯く。通行人たちは厄介ごとはゴメンだとばかりに、女と男達から離れて足早に通り過ぎていく。  
 動こうとしない女に焦れたように、男の一人が女の腕を掴んだ。  
 
「――なあ。火、貸してくれないか?」  
 
 不意にかけられた声に、腕を掴んだ男が振り返る。  
 サングラス越しの男の目に映ったのは、革靴の底だった。  
「ぶぉっ!!」  
 不意を突かれた上に、顎を蹴り飛ばされたのだ。男は掴んでいた女の手を離して、隣に立っていた同じ黒服の男へと勢い良く倒れていく。  
 男達も驚いたのだろう。ギョッとしたまま動かない、その一瞬の間。そしてその一瞬の間こそが、女にとっての脱出の好機だった。  
 足元にあったスーツケースを放り出し、男達の間をすり抜ける。  
「――こっちだ!」  
 そして、女の手を引くように走り出すのは、黒服を蹴り飛ばしたモジャモジャ頭の男だった。  
 
 入り組んだ路地を立ち止まる事なく、駆け抜ける。  
 洗濯物の間を駆け抜け、道を塞ぐように寝転がる酔っ払いを飛び越え、果物売りのワゴンを蹴り倒す。人間など幾度突き飛ばしたか、数えてもいない。  
 と、不意に女が足をもつれさせて、激しく転んだ。  
「おい!」  
「……っは……!」  
 女が走り慣れていない事に気付いた男は、舌打ちと同時に女を抱え上げた。  
「ちょ、ちょっと……!?」  
「黙ってろ!」  
 抵抗しようとした女を一喝して、男はそれでも身軽に路地を駆け抜ける。  
「も、もう誰も追ってきてないわよ……っ!」  
 火星のコロニーの中でも、入り組み方では定評のあるイスラム教圏のスラムの中を、男はまるで自分の庭のように自在に駆け抜けていく。  
 女がもう自分が何処にいるのかなど、見当も付かなくなっていた頃に、ようやく男は足を止めた。  
「……これくらいで、良いか」  
 はあ、と息を吐き出すと抱えていた女を地面に降ろす。  
「あ、あの……ありがとう。助けてくれて」  
「別に。考える間もなく手が出ちまっただけだ」  
 足だったような、と女は思うも、それを口に出すのは憚られた。だから代わりに別のことを口にする。  
「私の名前はマリア。マリア・オルセット。あなたは?」  
「スパイク。……スパイク・スピーゲル」  
 そう答えた男――スパイクは胸ポケットからクシャクシャになったタバコの箱を取り出し、一本を口に咥えた。  
 ズボンのポケットに手を突っ込んだかと思うと、何かを探すようにゴソゴソと別のポケットを確かめていく。  
「……なあ、あんた」  
「え?」  
「ライター、持って無いか?」  
 その言葉に、マリアはプッと噴き出し、そしてハンドバッグから小さなライターを取り出した。  
「よければ、あげるわ」  
「……良いのか?」  
「私、吸わないから」  
 そうか、と呟くとスパイクはマリアの手からライターを受け取る。  
「じゃ、これで貸し借り無しって事で」  
 笑うと、スパイクは歩き出す。  
 
「待って」  
「ん?」  
 そんなスパイクを呼び止めたマリアは、心底困った顔で、尋ねる。  
「私、どうしたらいいの?」  
「ISSPにでも駆け込めば良い。奴らだって無能じゃないんだ」  
「――でも、私」  
「ポリスに駆け込めない理由でもあるのか?」  
 暫しの沈黙。  
 そして。  
「……ここが何処だかも分からないんだもの」  
 スパイクは、火をつけたばかりのタバコを噴き出したのだった。  
 
 
「火星は初めてか?」  
「え?」  
 人ごみの中、スパイクの問いにマリアがキョトンとした顔をした。目を数度瞬かせ、スパイクをじっと見上げる。  
「……あちこち、視線に落ち着きがない」  
 言われてマリアが納得したように頷いた。  
「違うけど……ずっと、家と学校の往復ばっかりだったから」  
 へえ、と呟いたスパイクに、今度はマリアが尋ねる。  
「スパイクは?」  
「俺も、火星生まれだ」  
「そうなんだ」  
 感心したように頷いたマリアに、スパイクは目を細める。  
 
「そんな大層なもんじゃないだろ」  
「でも」  
 マリアは寂しげに笑う。  
「私のように、籠の中の鳥のような暮らしよりは、ずっと幸せでしょう?」  
 その台詞に、スパイクはつまらなさそうに答えた。  
「野良犬みたいに暮らすのが、幸せかは分からんがね」  
 マリアの手を引いて、人ごみの中を歩き出す。  
「俺は、この暮らしを気に入ってるよ」  
 眩しそうに見上げるマリアの視線に気付かぬフリをして、スパイクは人ごみの中から抜け出した。  
「スパイク?」  
「黙ってろ」  
 路地に押し込むと、背で覆い隠すように前に立つ。  
「キスの経験は?」  
「……ある、けど」  
「じゃあ、我慢しろよ?」  
 え、というマリアの声を消すように、スパイクは素早くマリアの唇を奪った。熱烈なキスをしながら、背後に気を配る。  
 
「こっちにゃいねえです!」「――チッ。お盛んなこった」  
 
 舌打ち混じりの男達の声を背に受けながら、キスを繰り返す。スパイクの体で隠れているが、その裏側ではマリアの腕が必死にスパイクの胸を叩いていた。  
「……行ったかな」  
「――――バカァッ!!」  
 目尻に涙を浮かべたマリアが、キッとスパイクを睨み付ける。  
「な、なにを急に――――!」  
「見つかりたくなかったんだろ?」  
 そう言われれば、弱い。だが。  
「こんな、人の目のあるところで……」  
「別にセックスした訳じゃあるまいし」  
「な」  
 
「安心しろ。ガキは対象外だ――――――――っぐおおおお」  
 蹲ったスパイクは、思い切り蹴りつけられた脛を抱える。  
「痛いだろうがっ!」  
「失礼なことを言った罰よ!」  
 睨みあう。――と、不意に懐で電信音が鳴った。取り出した通信機のスイッチを入れ、耳に当てる。  
「なんだ、ジェット」  
『スパイク。お前どこまで買い物に行ったんだ!』  
 不機嫌そうな野太い声が、大音量で耳を貫いた。  
「……ちょい、野暮用でな。で? 俺が帰らなくて寂しくて電話してきたのか?」  
『フザケた事言ってるじゃない。仕事の話だ』  
「仕事?」  
 ちらりと横目で見ると、マリアはもう先ほどまでの事を忘れたように、店の軒先を眺めている。  
『ただの人探しなんだが……賞金が凄い。なんと50万ウーロンだ』  
「犯罪者か?」  
『いや。家出人の捜索らしい……火星のオルセット家といやあ、星間貿易で一山当てた一族だからな。ただの家出人捜索にも気前の良い事だぜ』  
「オルセット?」  
『対象者はマリア・オルセット。20歳。写真はソードフィッシュの端末に送ってあるから、そいつを確認してくれ』  
「……マリア・オルセット?」  
 もう一度、スパイクは顔を上げた。  
 露天の親父と話しこんでいる女性。マリア・オルセットと名乗った女性は、こちらに振り返ると自分を見ていたスパイクに気付いて、にこやかに手を振った。  
 おざなりに手を振り返しながら、もう一度無線機に口を寄せる。  
「おい、ジェット。そのマリア・オルセットってのは、ブルネットのショートカットに、見た目は十五歳くらいの女か?」  
『んん? ああ、髪はブルネット。年齢は……そうだな。実際はともかく見た目はそれくらいだ。これならハイスクールに通ってると言われても信じそうだな』  
「……捜索の理由は?」  
『だから、家出、だよ。お前、俺の話を聞いてたのか?』  
 自由を求めて飛び出してきた、という。  
 ――だが、黒服が一度、彼女を捕捉していたはずだ。なのに賞金までかけた?  
「……ジェット」  
『なんだ』  
「その賞金、少し裏を調べてくれ」  
『どうしたんだ、スパイク』  
「嫌な予感がする……って言えば、信じるか?」  
 

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