「はいっ。今月のお給料!」
元気の良い声とは対照的にミミコの顔はひどく赤く、そっぽを向いている。
「つ、つつしんでお受け取りいたします……」
そんなミミコの態度に、何やら自分まで恥ずかしくなってしまい、ジローはさり気無く顔をふせた。
目の前に突きだされた可愛らしい人指し指にそっと手を添え口元に運ぶ。
唇が触れた瞬間、ミミコの心音が跳ね上がったのがその表情から分かった。
この毎月の「給料の手渡し」にミミコはいつまでたっても慣れないようだった。
両目をギュッと閉じて唇を噛みしめる、そんな初々しい反応を微笑ましく思いながらも
ジローの中の吸血衝動は首をもたげ始めた。
ジローはその衝動に従うように震える指にゆっくりと牙を沈めた。
「!…っ……ぅ……んうっ」
ジローの白い牙が刺し込まれた瞬間、とてつもない快感がミミコの全身を走った。
絶え間なく迫る快楽に思わず艶を含んだ嬌声が口から出てしまう。
「ぃや……あっ……ああ!」
(うぎゃああああ!あ、あたしったら、ななな何て声を!!抑えろっ抑えなさいミミコ!)
首ではなく指からの吸血のためか、自分を諌める理性が残っているのはミミコにとって幸か不幸か。
吸血が与える快楽は前のように意識を飛ばすほどではなくても、17歳の少女が引きずられてしまうには十分なのだ。
こうして必死で自制しようと試みてるミミコは頑張ってる方といえるだろう。
(流されちゃ駄目……ダメッ……だめだったら!!こ、こういう時は日常を思い出すのよ!)
ミミコは生活感あふれる部屋を見ることで意識を現実に引き戻そう作戦を決行するために意を決して瞳を開けた。
途端、ジローとバッチリ目が合ってしまった。
「あ……」
自分に快楽を与えている相手が自分を見つめている、自分の痴態をジッと見ている。
あまりの恥ずかしさにミミコの身体は震えると同時に、より深く快感を追い始めた。
「やっ、あ、そんな……あぅ、んっああ………あぁっ!」
自分を見つめるジローの瞳、その深く黒い瞳に吸い込まれそうだと思った瞬間、ミミコの身体が大きく仰け反った。
激しい「給料の手渡し」の数分後、ミミコは目を覚ました。
「え?何?……あたし、まさか気絶してたの!?」
初めての吸血でさえ気絶までしなかったのに、とショックを受ける。
その一方で、そんなに気持ち良くなってたのか、と頬に手をあてて小さくため息をこぼした。
そしてジローがいないことに気付く。家に誰かいる様子もない。どうやらジローは外出しているようだ。
ミミコの中でふつふつと湧いてきた感情はやがてメラメラと燃え上がる怒りに変わっていく。
(信じられないっ。自分のせいで意識を失った乙女をほっとくなんて、普通する!?)
乙女の繊細なハートを傷付けた不届き者を、さてどうやって懲らしめようと考えながら部屋を出る。
そこで、ふとミミコの中にある疑問が浮かんだ。
(そういえばジローさんの考えてること、さっぱり分かんなかったなぁ。共鳴現象、起こらなかったのかな……)
少し残念、と思いながらミミコは今日の夕飯をニンニクたっぷりの餃子にしようと決めた。
「あーにーじゃ!!」
「うっわ!!」
日が暮れるまでたっぷり遊んだコタロウは帰路の途中で兄、ジローの姿を見つけ大声で呼びかけた。
ジローの反応は激烈でコタロウの声に飛び上がらんばかりに驚いていた。
「……お、おや、コタロウ。今、帰りですか?」
「そうだよ、今日は路地裏に潜む悪魔たちとシトーを繰り広げたんだ!でもだいじょうぶ、安心して兄者。
ちゃんと全員地獄に送りかえしたから!」
「ネズミ相手に威張るんじゃありません。兄はこれから少し散歩します。お前は先に帰ってなさい」
いつもなら「ネズミ相手に」のセリフと一緒にキツい躾をほどこす兄がトボトボと歩いていく。
「……?うん、分かった!ミミちゃんにも言っとくねー!」
不思議に思いながらも了解の旨を伝えたコタロウだったが、「ミミちゃん」の単語でジローが盛大にコケたのには気付かなかった。
(ううううう、最低だ。私は……私は何ということを……)
人通りの少ない道を行くあてもなく頭を抱えながらジローは歩く。彼は今、自責の念に押し潰されそうになっていた。
ジローはミミコの血を吸う時、必ず目を閉じていた。そうするのがマナーだと思っていたからだ。
しかし、今日は何故か彼女の姿を見てしまった、いや、彼女に見惚れてしまった。
上気した頬や震える睫毛、わななく唇から目が離せなくなった、つまりジローはミミコに欲情してしまっていた。
そして共鳴現象でこの浅ましい情念が彼女に伝わることを恐れ、気がついたらあろうことかアイ・レイドをかけていたのだった。
その後、当然ミミコに合わせる顔はなく、逃げるように部屋をあとにして今にいたる。
途中でコタロウに会ったこともジローに追い討ちをかけた。
(ああ、我が君!!これは断じて浮気などというものではありません、どうかお許しを!!)
そこまで思った時に、ミミコの顔が頭をよぎった。
笑った顔、怒った顔、泣いている顔、強い意志に満ちている顔、色々なミミコの表情が浮かんでは消える。
(違う……そうではない。私のしたことはもっと……。やはり私は最低だ……最低で最悪で、その上、狡い)
ジローはとびきりの自嘲気味の笑みを浮かべあと、大きなため息をついて空を見上げる。
満ちた月が特区の街並みと一人たたずむ吸血鬼・望月ジローを照らし始めていた。