どれだけ前日の部活で疲れていても、
土曜日の朝は絶対に早く目を覚ます自信があった。
隣町のケーキ屋「メイプル」で一日に30個限定でしか作られない
特製ショートケーキを買うためなら、
筋肉痛の体で10キロ自転車をこぐことも
開店1時間前から行列に並ぶことも全然苦にはならない。
それだけメイプルの特製ショートケーキは、反則的においしいかった。
(でも……今日は、並ぶ人がいきなり増えたような……)
最前列にいる金髪の不良の人と目が会いそうになって顔を背け、
こそこそと行列の最後尾に並ぶ。
あの不良の人は常連さんで何度か顔を見たことがあるが、
彼以外で列の先端にいる人はほとんど知らない人ばかりだった。
口コミで有名になってきているのだろうか?
だとしたら朝起きる時間をもっと早くしなくちゃいけないかな。
ため息を吐いていると5人ほど先に並んでいた
見知った顔の女性が話しかけてきた。
「小川さん、危なかったですね〜。ちょうどあなたの場所が30人目ですよ」
「あ、安藤さん、おはようございます」
眠たそうな目を擦る彼女の名前は安藤優梨。
まだこのお店の行列がこんなに長くなかった時に知り合った、剣道の先輩だ。
その日は今日のように午後から部活があって、
ケーキを買った後家に帰って着替える暇がなかったので
制服で竹刀を持ったまま行列に並んでいたら、
安藤さんに声をかけられた。
高校と学年は違っても同じ部活をしていてケーキ好き
(正確には安藤さんはスイーツ全般が好きらしい)
という共通点のおかげですぐに意気投合し、
今では週に何度かメールをやり取りするぐらいに親しくなっていた。
「どうも全国ネットのテレビ番組でここのことが紹介されたみたいで、
今日は特に行列が長くなったみたいです。危なかったですね〜」
あたしの後ろに店員さんが『本日特製ショートケーキ売り切れ』
と書かれた立て札を置くのを眺めながら、
ちょっぴり顔を斜めにした安藤さんが欠伸をした。
オレンジのノースリーブセーターの端から伸びた二の腕や
若草色のプリーツスカートの下から除く白く細い足には
スポーツをする人らしく均整の取れた筋肉がついていて、
露出は抑えられているのにすごく健康的でどこか大人びた色っぽさを
かもし出している。
そんな安藤さんが成明の制服を見てますます首を斜めにかしげる。
「おや、今日も午後から部活ですか?」
「ええ、多分走り込みをさせられるかと」
「へー、それはご苦労様ですね〜。
ここへの往復だけで結構な運動でしょうに」
「でも、その分運動後ケーキをおいしく食べれるんです」
「ふふふ……」
にか〜〜と、彼女が笑った。大きな目と端正な顔で笑いかけられると、
同性なのに思わずどきりとしてしまう。
「あの……何かおかしなこと言いました?」
「いえいえ……ただ、少し前まで小川さんが部活のことを喋る時は
いつも愚痴か悩み事ばかりだったので……
随分楽しそうに部活のことを話すようになったなあと」
「ああ、……確かにそうでしたね」
部活は苦行以外の何物でもなかった。
あの時彼女と出会うまでは。
「今も、好きかどうかはわかりませんけど。
でも、部活をするうえでの目標ができたんです」
「それはそれは。いいことだと思いますよ」
それからは部活の先輩のことや、好きな音楽のことや、
学校で起きた面白いことなど他愛のない話をして時間をつぶした。
いつものように楽しい時間が過ぎ、
いつものようにおいしいケーキを買えるはずだった。
あの時事件が起きなければ。
「それでそのなくなったメガネがどこにあったかというと……
なんだか前がうるさいですね〜」
おしゃべりをやめ前を見ると、列の最前列で
あの不良の人とどこからか現れた中年の女の人が何か言い争いをしていた。
「……どこに目をつけてるの?」
「……だから、こんなものゴミと間違えるだろ?」
10メートル以上離れた場所まで聞こえる争い合う声は、
二人の興奮に比例してだんだんと大きくなっていった。
「朝っぱらから元気ですね〜。うざいぐらいに」
「安藤さん、聞こえちゃいますよ!」
慌てて安藤さんの口を閉じさせようとした瞬間、
いきなり不良の人がこちらを指差した。
「あ、あの、ごめんなさい」
その剣幕に気圧されて何が起きているのかも分からず小さな声で謝ったが、
彼は大声で女の人にまくしたてた。
「あの子がかわいそうだろうが!」
それが、彼――清村さんと始めて言葉を交わした瞬間だった。
「そんなこと言われてもあの子が並ぶより先に
私がここに荷物を置くのが早かったんだから
あの子がケーキを買えなくなるのは当たり前でしょう」
「だからさあ、めちゃくちゃだろう。荷物置いてたって
こんなビニール袋ひとつ置いてただけじゃ誰も気づかねーっての」
不良の人が指差すアスファルトの上を見ると、
拳骨サイズのコンビニ袋がちょこんと置いてあった。
ぱっと見ゴミだと思ってもおかしくない大きさだ。
「どうやらあのおばさん、開店まで列に並ぶのがめんどくさくて
袋ひとつおいてどっかに行ってたみたいですね。非常識な」
安藤さんがやれやれとため息を吐く。
「だいたいなあ、一度トイレに行くぐらいならすぐ戻ってこれるだろ?
俺が見てた限りあんたは2時間近く列に並んでなくて、
それでいまさら列に堂々と割り込もうなんざちょっと常識がなさすぎだろう」
女の人は不良のお兄さんを馬鹿にするような目で見上げる。
「あなたのようにふざけた髪の色をした学生に常識をどうこう言われたくはないわ」
「な……俺の髪の色はかんけーねーだろ!」
不良のお兄さんの顔色が見る見る真っ赤になる。
しかし女性は全然ひるまず、大きな鼻の穴をふんと鳴らした。
「大体あの後ろの女の子も……なんだかねぇ、こんな朝早くから学生服で
ケーキなんか買いに来て。学校に行く前からこんなとこで油売ってるなんて
どうせろくでもない学校のろくでもない子なんでしょ。
全くうちのレイミちゃんの爪の垢でも飲ませてあげたいわ」
(なに言い争ってるんだろう)
(なんかあの女の子が悪いみたいだ)
(いや、あのおばさんが無茶言ってるだけだろ)
(どっちでもいいよ)
(もう開店時間過ぎてるぞ)
(店員も困惑してるな。さっきおばさんが店員に「整理券配らない店も悪い」って文句言ってたぞ)
(早くどっちか折れろよ)
といったうんざりするような口調のヒソヒソ声とともに、
列に並んでいた人たちの視線が私に集まるのを感じた。
同時に、私の顔の温度が上がる。
「なんだか、むかつきますねー。……小川さん?」
私のせいで、皆がケーキを買えない。
「あの、安藤さん。私、帰ります」
「小川さんは、悪くないですよ?」
でも。
私がいなくなれば、この騒動も落ち着く。
私は、力なく笑う。
「あの、学校に持っていくもの忘れましたから。
だから、帰らないと」
まるで言い訳するように喋ると、私は振り向いて駐輪場へ向かって駆け出した。
背後から聞こえる不良のお兄さんの叫び声を振り切るようにして。
私はいつだって言いたいことが言えずしたいことができない子だった。
「運動部になんか入りたくない」と言えず流されるまま剣道部に入り、
友達に嫌われたくないから厳しい剣道部を辞められず、
そしてその友達に裏切られた時も何も言い返すことができなかった。
――少しでも剣道を続ければ、私は変わることができるかもしれない――
室江高校との練習試合でタマさんに会って、
少しでも彼女に近づきたくて厳しい練習を続けてきて。
あんなふうに強くなれなくても、何も言えなくて何もできない私より、
少しでも強くかっこよくなれるかもって思った。
(でも、結局私は――)
何も変わっていない。
何も変われない。
自転車のぺダルがいつもより重い。
ろくに汗をかいていないのに口の中がしょっぱい。
いつもなら一息で駆け上がれる傾斜20度の坂道がまるで壁のようだ。
坂の途中でふらふらとアスファルトへ足をつけた瞬間、大きな手が私の腕を掴んだ。
びっくりして振り向いた私の目の前にいたのは、さっきの不良のお兄さんだった。
顔がさらに真っ赤になって全身汗だくで、私の物よりふた周りは大きい自転車にまたがって、
彼はぎろりとこちらを睨んだ。
「へー、ふへぇー、よ、ようやく捕まえ、ぐふぇっ、ぐへっ」
咳き込みながら何事か喋っている。よく聞き取れないけど。
どうやらかなりの全力疾走で自転車をこいできたみたいだ。
「あ……あの…………」
わけがわからなくて言葉の出てこない私の腕を掴んだまま、
彼は私に自転車を降りるよう促した。
そのまま私は彼に半ば強引に引っ張られて、近くの公園のベンチに腰を下ろしていた。
30センチも背の高いよく知らない男の人に連れて行かれて
悲鳴ひとつ上げなかったのは、今思えば自分でもかなり危なっかしいことだと思う。
でも、昼の明るい時間と「メイプル」での彼の行動が、
私の中の彼に対する恐怖心を少なからず鈍らせていたのかもしれない。
それとも彼は私に理由ない暴力を振るう人ではないと、
あの時本能で悟っていたのだろうか。
「ほら、これ」
お兄さんの差し出したケーキの箱に、私は目を丸くする。
「あの……」
「食えよ」
箱をがさがさ開けながら、どこから取り出したのか
ナイフとフォークを差し出しながらお兄さんは続ける。
「え、そんな、そんなの貰えません!」
「駄目だ。むしろ食わなきゃいけないんだよ」
「え……?」
「あのなあ、この特性ショートケーキはなぁ、
ちゃんと価値のわかる人間か、
それなりに対価を払った人間が食わなきゃ駄目なんだよ。
一流ホテル御用達メーカーの超高級クリーム。
フランスの本場レストランで修行したパティシエが作った最高のスポンジ。
有機栽培で一つ一つ丹念に作られたイチゴ」
なんか説明しているお兄さんの目がきらきらと輝いてきた。
よっぽど好きなんだな、特性ショートケーキ。
「とにかくだ、そーいうもんはちゃんと甘い物好きで
毎週買いに来る人間こそが食うべきだ。食えるべきなんだ。
それをあのばばぁテレビ見て来たんだろーが
とにかくいちゃもんつけて俺の髪を馬鹿にしたり
おとなしい子供をろくでもないとか言ったりふがあああぁぁぁぁ」
「あ、あの、落ち着いて、ふむぅ」
いきなり口の中にケーキの切れ端を突っ込まれて、私は目を丸くした。
だけどそれは一瞬で、私の口内に広がる甘美で芳醇なケーキの味に、
今までの態度を翻し私はゆっくりとそれを咀嚼する。
ああ、美味しい――――。
「な、うまいだろ」
私の口の中にフォークとケーキを突っ込みながら、お兄さんが笑いかける。
この味には、逆らえない。逆らいようがない。
それだけメイプルの特製ショートケーキは、反則的においしいかった。
「だから、遠慮すんなよ」
でも今日の特製ショートケーキは、いつものより
もっともっと美味しい気がするのは、私の気のせいだろうか?
「中学生は高校生の言うことを聞いとくもん」
思わず私は口の中のショートケーキを噴きだしてお兄さんのせりふを止めてしまった。
「……っ、あの、よく間違われますけど、私は高校生で……」
目の前で私の噴きだしたケーキまみれになったお兄さんの顔を見て、
私の頭はお兄さんの顔より真っ白になった。