「よお、芽衣」
「おはようございます、清村さん」
いつもと変わらないメイプル前の二人の挨拶。
ただ一つだけ夏休み前から変わっているのは、
清村さんが私のことを下の名前で呼んでくれるようになったこと。
でもこの時すでに、私の気づかない微妙なもう一つの変化が清村さんの中には起こっていた。
「よう……今日も元気だな。服もかわいいし」
「え……あ、はい、これ、一昨日駅前のお店で買ってきたんですけど……
似合ってますか?」
後頭部をぽりぽりと掻きながら、清村さんは頷いた。
「ああ、すごく似合ってるぜ」
思わず顔が紅く染まる。この日私が着てきたのはホルターネックで膝上10センチと丈の短い白のワンピース。
見立ててもらった安藤さんと比較的財布にやさしい値段に後押しさせられて、
そしてなにより人生初めて恋人ができた事実に浮かれていたので思い切って買ってはみたけれど、
家の鏡の前で改めて着てみた時は肩も太股も予想以上に露出していて思わず一人で赤面してしまった。
でも、買ってよかった。着てみてよかった。
清村さんに褒めてもらえたのだから。
と、そこで私は頭を掻く清村さんを見ていてあることを思い出した。
「そういえばあの時の傷はもう大丈夫ですか?」
清村さんは顔をしかめる。
「あー、あれか。結構血出てたけど、ま、今はすっかり治ったわ」
「ほんと、ゴキブリ並みの生命力ですね〜」
私の背後から安藤さんがひょっこりと顔を出した。
いつもと変わらない様子でにやりと笑っている安藤さんを、清村さんはじろりと睨む。
「あんたなあ、ちっとはすまなそうな顔しろよ。
あんたのせいでこっちはひどい目に遭ったんだぞ」
「おやおや男の癖にいつまでも愚痴愚痴と昔のことを。
そんなんじゃ小川さんに捨てられちゃいますよ?ねえ小川さん」
突然こっちに話をパスされて、私は何も言えず口ごもる。
「えぇと、その……」
「芽衣に同意を求めるな!」
そこで、不意に安藤さんの顔から笑みが消える。
「……おやおや、いつにも増してカリカリしてますね?
そんなに余裕がないと、『いざという時』ほんとに小川さんに拒否されてしまいますよ?」
一瞬、清村さんがぎくりとして安藤さんの顔を見返す。
「あんた……知ってるのか、その……ええと……」
それだけ呟くと、清村さんは何を言わず口の中でもごもごと言葉を飲み込む。
そんな彼の様子を大きな瞳で観察した後、安藤さんはいつものようににか〜と笑う。
「さあて、馬に蹴り殺されるのもなんなので、ここら辺で邪魔者は退散しましょう。
それではお二人ともごゆっくり」
なんだろう、さっきのやり取りの不自然さ。
一つわかることは、あまりに清村さんがらしくない、ということ。
安藤さんが列の後ろに並んだのを見届けて、私は清村さんに問いかけた。
「その……何かあったんですか?」
「いや……別に」
清村さんが、少し視線を外しながら答えた。
なんだろう、全然らしくない。
いつもなら目を合わせないのは私のほうなのに。
「それよかさ、この前貸したアルバム、聞いてくれた?」
「え、あ、はい。3曲目が特に良かったです」
「あー、あのアレンジ昔からのファンの間じゃ評判悪いけど俺は結構好きなんだよな。
でも7曲目も結構よくなかった?あの歌今度隣の県でやる野外フェスで歌うらしいから、
見に行きたいんだけどなー」
「え、あのバンドも出るんですか」
「そーなんだよ、それで……」
そんな感じで、私と清村さんはいつものように他愛のない話をし始めた。
でも私は頷いたり適当に相槌を打ったりするだけで、清村さんが常に口を動かし続けていた。
まるで不安や緊張をごまかすように、彼らしくない饒舌な会話は開店時間がくるまで止まる事はなかった。
公園までの道のりをいつものように二人並んで自転車をこぐ途中、ふと清村さんが呟く。
「さすがに、8月は暑いよな」
「昨日も、熱中症で何人か倒れてるんですよね」
「そうらしいな……」
そこで、清村さんはまた黙る。
やっぱり、今日の清村さんはどこかおかしい。
さっきは違うと言ってたけど、やはり何かあったのかな。
「あの……どうしたんですか」
たっぷり5回は深呼吸できるほど間をおいて、清村さんはしゃべり始めた。
「東屋の下とはいえ……外で食うのは暑いよな、やっぱり」
「はい」
「あんまりさ、外にいるの……よくないよな、熱中症にもなるし」
「そうでしょうね」
信号が赤の交差点前で、私達は片足をついて自転車をとめる。
「どうせならさ、『お茶会』を家の中でやらないか?」
「家の中……?」
それって。
「ちょっと公園より遠いけど、俺んち来ないか?」
清村さんの家。好きな人の家。断る理由があるだろうか?
「あの……行きます!あ……でも」
夏とはいえこの格好は、少し露出が多いと思われるかな?
もし家族の人に派手な子と思われて、第一印象悪くなったら嫌だな……。
「でも、何?」
「あの、ちゃんとした格好じゃないと、その……
家族の人に、変に誤解されちゃうんじゃ……なんて……」
「ちゃんとした格好じゃん。むしろ自慢したいぐらいだけど」
「え……あ、そ、そうですか?」
あまりに手放しに褒められて、煽てられてるとわかっていても顔から湯気が出そうになる。
「それに、いないし」
せみの声がうるさくて、私はその言葉を聞き流しそうになった。
「…………え?」
「今日、うちには誰もいない」
意味を理解するのに時間がかかった。
それって、それって。
思わず清村さんの方を振り向いた私はぎょっとする。
彼の瞳には、熱く鋭い何かがこめられていて。
そしてその激しいまなざしは、まっすぐ私に向けられていて。
心も体も子供なままの発育の遅い私にもその視線の意味が理解できた。
彼が何を求めているのか、私をどうしたいのか感じることができた。
まるで捕食者に追い詰められた小動物のように、私の体が止まる。
「青だぞ、信号」
それだけ呟いて清村さんがまた自転車をこぎ始めた。
私は慌ててその後を追おうとする。だけど私の自転車は左右に頼りなく揺れ、
しばらくの間は自転車に乗りたての人のようにうまく走ることができなかった。
それは私が慌ててペダルをこいだからではない。
交差点の先のアスファルトに呼び水を見つけたからでもない。
さっき見た清村さんの眼に宿った激情が、私の心をかき乱していたから。
手と足が細かに震えて、乗りこなした自転車のハンドルとペダルをうまく扱えない。
それは確信だった。
今日、彼の家で、私達は一線を越える。
「お誘い編」終了
そして若い二人は……
続く