空は鈍色の雲が覆い何もしていなくても汗が滲むほど湿度が高い土曜の朝、  
今までよりも2時間は早く起床してメイプルを目指す。  
『開店準備中』の立て札の前には、いつものように彼が立っていた。  
 
「おはようございます、清村さん」  
「よお、今日も早いな」  
手提げかばんを持っていないほうの手をあげて彼が私に挨拶する。  
「清村さんこそ……私より遠いのに、来るの早すぎです」  
「甘いもの好きにとってははずせねーんだよこの店は」  
と言って今にも涎を垂らしそうな顔で清村さんは遠くを見るような目をした。  
多分今この人の頭の中には特性ショートケーキのことでいっぱいなんだろう。  
 
「それにしても、並ぶ人の数が減ってきましたね」  
「ま、テレビで紹介されたから来たってだけのにわかファンが多かったってことだよな。  
とりあえずあのババアが来なくなっただけでも良かったぜ」  
「あの時は……本当に、ありがとうございました」  
「別に礼言われるほどのことじゃねーよ」  
「そんなことはありません」  
鼻をポリポリと掻きながらなんでもないことのように彼は言う。  
でも、私にはとても真似出来ない。  
 
自分自身のことですらやりたいことが満足にできないんだから、  
困っている人のために何かするようなことなんて私には絶対に無理だろう。  
だけどこの人は、当たり前のようにそれができる。  
それがとても、私には眩しかった。  
 
「私はお礼をしたいんです。何か清村さんにしてあげたいんです」  
「いーよ別に」  
「でも、このままだと」  
「それにお返しならしてもらったし」  
「え?」  
「ほら、あの時公園で一緒にケーキ食っただろ。あれで帳消し」  
「あの時、公園で……?」  
 
私の中での公園での記憶は、私のために清村さんがケーキを分けてくれたり、  
そんな清村さんにケーキを吹きかけたり、それでも彼が笑って許してくれた事とかしかなくて、  
私がこの人にしてあげたことなんて何一つないのに。  
 
「あの、私は何もお礼をしてないと思うんですけど……」  
「一緒にケーキ食っただろ」  
「ええ、でもそれは清村さんが自分の物を分けてくれた物で、  
ぜんぜん私のお礼になってないですよ?」  
「でも、一人で食うより何倍も美味かった。食事ってそんなもんだろ?  
どんなに美味いモンでも、一緒に食うやつが嫌いなヤツならちっとも美味くない。  
もしどんな美味いモンでも、あのババアといっしょならろくに味がしねーだろーな」  
言いながら清村さんは少し険しい顔になる。  
あのおばさんと食事するところを連想したのかもしれない。  
 
「でもよお、一緒に食うのが気心の知れた奴や同好の士なら真逆で、  
なんでもない料理でも美味しく感じることもあるし、  
美味しい物ならもっと美味く感じるってモンだろ」  
「同好の士、ですか」  
「ああ、俺みたいな甘い物好きからみても、いい食べっぷりだったぜ。  
まじで幸せそうに食うから、見てる俺も嬉しくなっちまったなー」  
「……確かに、あの日のケーキは私も美味しくいただきました」  
 
「なるほど、精神状態は味覚や消化に十分影響を与えますからねー、ふふふ」  
と、突然私の背後から女性の声がした。  
 
「あ、安藤さん。おはようございます」  
「お、あんたはいつも通りの時間に到着だな」  
気がつけば、私たちの後ろにはすでに10人近くの列ができていた。  
「ええ、あたしは誰かと違って別に早く起きる理由もありませんから」  
そう言って安藤さんは私の体を上から下まで舐めるように眺める。  
「じゃ、列の最後尾に行くんで、お二人ともごゆっくり……」  
なんだか意味ありげな笑みを浮かべ、彼女はくるりと反転して行列の後ろに加わる。  
 
「……なんだありゃ。変な奴だな」  
「安藤さんは、ちょっと掴み所のない人ですけど、いい人ですよ」  
「ふーん……」  
「あ、すいません、メールです……って、あれ?」  
送り主は安藤さんだった。  
すぐ近くにいる彼女を見つつ不思議に思いながらも内容に目を通す。  
『さっきの話ですけど、確かに料理は一緒に食べる人によって変わりますよね。  
親しい人はもちろん、“好きな人”、とか』  
 
「なっ……」  
「ん?どうしたんだ?」  
思わず声を上げた私を怪訝そうな顔で清村さんが一瞥する。  
「あ、いえ、なんでもありません!」  
「そう」  
清村さんはそれだけ言うと自分の携帯に視線と注意を戻す。  
 
『どういうことですか?別に清村さんは私のことを  
自分と同じ甘味好きとしか思ってないんですよ』  
私は汗をかきながら安藤さんにメールを返す。  
『いえいえ、清村さんではなくあなたですよ、好意を抱いているのは』  
『そんなことはないと思います』  
目と鼻の先にいる安藤さんは「ブラック出歯亀マニュアル」と書かれた本を読みながら、  
器用に片手で携帯を操り質問を投げかけてくる。  
『今日部活はあるんですか?』  
『ありますけどそれが何か関係あるんですか』  
 
10メートル離れた場所で、安藤さんがニヤ〜と笑った。  
『じゃあ何で私服なんですか?今まで部活がある時は着替えるのが面倒で制服のまま来てたのに』  
メールを打とうする私の指が止まる。  
そんな私をあざ笑うように、指先に液体が落下した。  
「雨か。天気予報どおりだな」  
後ろで清村さんの声と折り畳み傘を開く音が聞こえる。  
 
その後、列の人達が傘を開く音が連続で聞こえた。  
しかし行列の中で私だけはその音を発生させることができない。  
なぜなら私は傘を持っていなかったから。  
『あらあら、傘を忘れたんですか?朝からずーと降り出しそうな曇り空だったと言うのに。  
他の人も全員傘を持ってきてるのに。よっぽど慌ててたんですね。  
でもしょうがないですよね。早く来ないと朝一で来る清村さんの後ろに並べませんし』  
 
「あれ、傘忘れたのか」  
『でもよかったですね、おかげで』  
「入れよ」  
『相合傘ができますよ』  
 
「濡れちまうぞ」  
清村さんの手が私の肩を掴んで引き寄せる瞬間、  
「ひゃあっ」  
私は叫び声を上げてしまった。  
 
「……悪りぃ、いきなり女の子の肩なんか掴んだら、そりゃびびるわな」  
頭をポリポリかきながら清村さんが体を離す。  
「あ、違うんです」  
安藤さんのメールのせいで、清村さんを意識して顔が見れない。  
「その、蒸し暑い中長い距離自転車をこいだから、  
私の体が汗臭いんじゃないかな、と思って」  
携帯を畳みながら私は焦って言い訳をする。  
まあ半分は本音なんだけど。  
 
「あー、そっか。でもそんな匂わないぞ」  
「でも、その」  
「それにまあ、嫌いな汗じゃない」  
そう言って清村さんは私の首筋を指でなぞって汗を絡めとる。  
「な、何を」  
触れられた箇所がかーっと熱くなった。  
今度は声こそ我慢できたけど、顔が赤くなるのはどうにもならない。  
 
清村さんは私の汗を指先で広げる。  
「粘ついてないな。なんつーか、スポーツマンの汗だ」  
「スポーツマンの……汗?」  
「そう。運動してる人間の汗は、してない人間に比べてあんまべたつかないんだよ。  
こーいう汗は嫌いじゃない。匂いも感触も」  
 
「でも……」  
清村さんは苦笑する。  
「それともあれか、実は俺が匂うとか」  
「そ……そんなことないです!」  
つい私は大声を出し、背後の人達が視線を向ける気配を感じた。  
顔を真っ赤にしながら私は下を向く。  
「その、清村さんは悪くないです」  
「そっか、じゃあ」  
 
清村さんは笑いながら私の体を引き寄せる。  
「入れよ。年上の言う事は聞くもんだぜ」  
腕と腕が直に触れ合う。  
汗と汗が溶け合い混じり合う。  
ああ、本当だ。  
サッカーをしている清村さんの汗はべたついてなくて、全然不快じゃない。  
むしろ、なんだかどきどきする。  
 
「あの、清村さん……」  
そうか。だから私は朝早く起きるようになったんだ。  
「……ケーキを買ったら、その後……」  
午後から部活があるのに私服で来たんだ。  
「今日も、二人で一緒にケーキを食べませんか?」  
二人で食べたケーキがあんなに美味しかったんだ。  
「いいね、それ。あそこの公園なら東屋あったし、雨もしのげるだろう」  
密着していたため耳元で響く清村さんの声は、  
特製ショートケーキより甘くて体中から力が抜ける。  
今日食べるケーキは今まで食べたケーキよりもっと甘く美味しくなっているはずだ。  
私は心の中でそう思った。  
 

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