「この俺に身を預けるか……それとも俺を切り刻むか……
お前は、どちらの願いを叶えてくれるんだい?」
鋭い視線に射抜かれて、過ぎった感情に私は息を呑んだ。
けれどそれには気付かない振りをする。戸惑いを押し隠して平然を装えば、ないも同じだ。
私は至極冷静に考えを巡らせる。とはいえ熟慮する必要もなかった。
私は快楽殺人者でも、ましてや武士でさえないのだ。
いくら憎むべき彼でも切り刻むことなんてできないし、だからといって身を預けるなど以ての外。
どちらの選択にしても無理難題だと、目の前の男は分かって言っているのだろうか。
怪訝な顔で大石さんを見返す。
彼は薄く笑った表情を崩さない。余裕を讃えたその笑みが空恐ろしい。
けれど同時に、なぜかあの時の表情が過ぎった。
俺は完成された。人を殺すことは、もはや快楽でしかない、と――
嘆くわけでもなく、いつものように笑みさえ浮かべながら言った時のあの表情。
皮肉気で嫌な笑いだという点は変わらないのに、今の表情はどこか……危うい熱を孕んでいる。
思い過ごしだろうと流そうとして、ふと疑問に思った。
――今はもう快楽でしかないというのなら、その前は?
完成するその前は、快感と共になにを感じていたのだろう。
そうしてほんの一刻、心にできた隙を突くように大石さんの腕が私に伸びる。
突然引き寄せられて、挙げ句きつく抱きすくめられてしまう。あまりのことに声も出ない。
はっと我に返るやいなや、驚きと非難の意味を込めて彼の顔を睨め付ける……暇もなく唇を塞がれた。
それはまさに塞ぐ、としか表現できないほど強くて荒々しい口付けだった。
「……んんっ、やめ……」
息を吸おうと身をよじり顔を背けても、彼の腕はその先を読んで私を閉じこめる。
それでも私は抗い続けた。
そうしなければ自分の気持ちを認めることになる気がして、恐ろしかった。
「へぇ、抵抗するんだ」
つ、と唇を離した大石さんはどこか意外そうに言う。
その笑いを含んだ顔を、私は睨み上げた。
初めてだったのに――そんなやるせない思いを口にしそうになったけれど、
この人にはできるだけ弱みを見せたくない。
見せたら最後、そこにつけ込まれるのは火を見るよりも明らかだ。
「……当たり前です。手を離して下さい」
「俺はお前の気持ちをくんだつもりだったんだけどねぇ」
「なにを……」
「それに本気で逃げようとするなら、これでも抜けばいいことじゃないか」
大石さんは何気なく手を伸ばし、私の腰に差してあった脇差しを抜く。
咄嗟に身を退こうとするも彼の手は私の腕を捕らえて離さない。
先ほど私が向けた刃は、彼の手の中で薄ら寒い光を放っていた。
……いや、彼の手の中だから、だろうか。どちらでも同じ事だが。
「……そんなこと出来るわけないじゃないですか」
「どうしてだい? さっきはお前が俺に向けたものを、わざわざ戻しておいてやったのに」
彼は大した興味もなさそうに脇差しを眺めながら言った。
それを振るわれたら、この距離ではまず避けられないだろう。
なのに問われた瞬間、私を支配したのは恐れではなく戸惑いだった。
「――命は惜しいですから」
それは自分でも腑に落ちない答え。でもそれしか考えられない。
貞操の危機を感じても刃を抜かなかった意味など、それくらいしかありえない。
そんな心情を知ってか知らずか……大石さんは含み笑いをして、
眺めていた脇差しから私に視線を移す。その目はまるで獲物を追い詰める狩人の目だった。
手に持った刃をなにげなく放る。
それは私の背後にある襖へと刺さって、スト、と軽い音を立てた。
「俺に殺されるかもって? それは通らないよねぇ」
彼の言葉は少しずつ私の逃げ場を奪っていく。奈落の底に突き落とそうと、迫ってくる。
聞きたくなかった。
耳を塞ぎたかったけれど、腕を戒める大石さんの指は力を増すばかりで――。
私は身じろぎもできず、ただ慄然と彼を見つめていた。
「言ったはずだよ。俺を切り刻むか、身を預けるか……好きな方を選べ、ってさ」
冷たく底光りする瞳にいつにない熱が帯びる。恐怖で背筋が凍るのに、身体の奥が沸騰しそうに熱い。
声が出せない。返すべき言葉が見つからない。
彼はそんな私を見て、心底愉しそうに笑った。
「俺を刺さなかったってことは、そういうことなんだろう?」
「ちがっ……!」
掴まれた腕をまたもや強く引き寄せられて、否定の言葉さえ遮られる。
開きかけた唇を引き結ぶ余裕もなく、たやすく舌の侵入を許してしまった。
ひっそりと思い描いた恋のような甘さは欠片もない。容赦ないその行為に目眩がする。
ときおり漏れる吐息と唇を貪られる音だけが宵闇に響いた。
拒絶したいのに、唇から伝わる熱さに力が抜けていく。抵抗する気が失せてしまう。
本当は顔も見たくなかった。大石さんさえいなければ、死ななくて済んだ人は大勢いる。
才谷さんや伊東さん……その他にも、数えきれない多くの人が。
人を斬ることで自らの欲求を満たし、そのことに躊躇いはない。
情も常識さえもこの人には意味がないと知っていた。
分かり合えないし、分かりたくもないとも思っていた。
なのに、私はそんな人に――どうしようもなく惹かれている。
厭わしいはずなのに気がつけば彼のことを考えている。
声を聞きたい、会いたい。けれどそれ以上に、認めたくない。
想いが募るのと共に、憎しみもまた育っていく。
だから私はあの時、刀を抜いてしまったのだ。
認めたくないことを一番知られたくない人に指摘されてしまったから……。
言葉にしなければ、ずっと知らない振りをしていられたのに。
微かな衣擦れの音さえ私を追い詰める。
呼吸がままならないから苦しいのか、
思考の渦に囚われているからなのか……もう、それすら分からない。
「ねぇ……倫」
囁くように呼んだ声が頭の中で反響して、心が乱れる。
いつのまにか唇は離れ、私は畳を背にしていた。
精一杯の虚勢を張って睨みあげるも、果たしてどれだけの意味があっただろうか。
こんな思いをするくらいなら、いっそ恋情など知らない方がよかった。
恋に憧れを抱いたままでいられたらどんなにか良かっただろう。
矛盾した感情に引き裂かれそうになる苦しみを消すことはおろか、やり過ごす術さえ私は持たない。
今やできるのは、溺れそうになる自らの心に嘘をつき続けることだけだった。
けれど……。
うっすらと口元に笑みを浮かべた大石さんの顔が、焦れったいほど緩やかに近づいてくる。
耳元に寄せられた唇。頬に彼の長い髪が触れ、それだけのことで心臓がびくりと跳ねた。
「返事はどちらか……俺に聞かせてよ」
吐息と共に紡がれた言葉が、燃えるように熱い。
なにかを狂わせる蠱惑的な囁きが身体の奥底を揺さぶる。
彼の冷たい指が艶めかしく肌をなぞり、全てが暴かれてしまうような恐ろしさを
覚えると同時に……身のうちに灯った情火が、微かにゆらめいたのを自覚した。
――私はこれ以上、偽ることができるのだろうか。