――――――「何かをしていた方が楽だから」と、『彼女』は言った。  
 
 
 クッキーの作り方を教えてほしい。…おずおずと部屋の扉を叩いた『彼女』はそう言って、部屋の主からメモ書きを受け取り、ここを訪  
れた。  
 フレデリカは一人、もう誰もいなくなった厨房で小さな溜息をつく。  
 少し前まで誰かがそこで何かを作っていたであろうことを容易に想像させる、未だ片付けられていない道具や玉子の殻の山。それを築い  
た『彼女』の弱弱しい笑顔を思い返しながら、作業台に歩み寄る。  
 …思い描く。  
 『彼女』のその不安を隠し切れない笑みが『彼』に向けられて。  
 『彼女』の作ったモノが、『彼』に差し出される。  
 その情景を閉じた瞼の裏に投影すると、ちくりと胸が痛んだ。  
 焦りか。嫉妬か。きまぐれか。はたまた体調不良が生み出した、吊橋効果のような勘違いの類か。  
 ともかく、きっかけはそんな些細なことだったのだろう。  
 フレデリカは、ボールに残ったバターの破片を指先で掬い、ぺろりと舐める。そうして、そんなわけのわからない感情を抱いている自分  
が少しだけ嫌になって下唇を噛んだが、やがて―――。  
 
 意を決して、バターと玉子を作業台に並べ始めた。  
 
 ***  
 
 キャンベルを発ってから、既に数日が経っている。  
 空が機嫌を損ねる中、ファーレンハイトが目指すのは、水の大陸マハール。  
 そこに至るまで、ホーネットが握る舵を挟んで両側に備え付けられた、一対の梯子付の見張り台にはそれぞれ一日毎に見張り役が二人ずつ割り振られた。  
 今日の当番は、マハールを故郷とするタイチョーと、マテライトだった。が、例によって飽きっぽいマテライトは変わり映えしない空に早々に嫌気がさし、今彼がいるべき見張り台の上には、偶々そこに居合わせただけで当番を押し付けられた青年が根を張っていた。  
 彼は別に、職務を丸投げされたことでマテライトを恨んではいなかった。  
 というより、恨むことにも怒ることにも飽きるほどの年月、マテライトと行動を共にし、その性質を誰より理解していたので「そういうもんだ、しょうがない」と割り切っているのである。そこには、僅かな親愛の情すら窺える。  
 そんなわけで、彼は内心で怒りを燻らせる事も、愚痴を呟くこともなく。  
 また、空を眺めることなど既に生活の一部であるためにこの仕事を退屈に思うことなどあるはずもなく。  
 強いて今、彼が脳裏に何か抱くモノがあるとすれば、それは唯一つ。「しょっぱい」だった。  
「…ビュウ」  
 丁度十枚目のクッキーをもくもくと咀嚼しながら、ビュウは自分の名前が聞こえた左側に首を向ける。反対側の見張り台に鎮座したタイチョーが、物憂げな横顔のまま愚図つく空を眺めていた。  
「自分を気にかけてくれる人が傍にいるというのは、それだけで幸せなことでアリマスよ…」  
 やはりそのままの姿勢で、タイチョーは鼻の下に蓄えた髭を動かしながら、含みのあるような言葉を呟いた。  
 …ビュウは口の中のモノを嚥下しながら僅かだけ逡巡し、それに無言で以って答えることにした。  
 まだ目では見ることの出来ない、されど確実に近づく己が故郷を見つめる彼の言葉に秘められた重み。それに、自分が安易な返事をするべきではないと思ったからだった。  
「…すまないでアリマス。お節介だったでアリマスね」  
 そんな彼の気遣いを感じ取ったのか、タイチョーは自戒するように首を振る。それが終わらないうちに、ビュウは再び正面に、ゆっくりと向き直る。そうして数拍おいてから、  
「………いや」  
 気にしていない、という風に、短く返事をした。  
 それからまた、『二つ目』の袋から、クッキーを一枚取り出して口に放り込む。先ほどから味覚を支配していた「しょっぱい」が、程よい甘みで和らいでいく。…ただ、そのしょっぱいはことの外難物で、完全に中和することは出来ないが。  
 そうして再び、もくもくとクッキーを食べながら、空に異常がないか警戒する時間が流れ始めた。  
 
 マテライトがセンダックとマハールでの作戦会議をするといって艦長室に閉じこもってからというもの、今にも嵐が吹き荒れそうな空模様をずっと眺めていたビュウ。  
 幸いにして今まで敵襲はなかったものの、積乱雲が視界狭しと立ち込める中を飛ぶ現状では、突然の奇襲に対応しきれるかどうかに不安が残る。  
 そんな懸念に、ビュウは何度目か小さく鼻を鳴らして、『一つ目』の袋からクッキーを取り出し、頬張る。しょっぱい。  
(悲しい色…か)  
 ふと、ビュウはこの数時間の出来事を思い返し始めた。  
 船の舵を握るホーネットはマハールの空が荒れることが珍しいと漏らした。…カーナ陥落以来、数年間オレルスを飛び回ったビュウも同意見だった。ビュウさん。  
 水の大陸と呼ばれるマハールは、水産による安定した国家経営を特徴とするラグーンである。  
 大陸に溢れる豊かな水のイメージに反し、気候自体は特別雨や嵐が多いわけではなく、寧ろ他のラグーンよりも落ち着いている。船の航行に支障が出るほどの気候の乱れは、それこそ年に一度あるかどうかである。  
 そんなことを考えていたところに、彼女が―――ヨヨがやってきたのだった。クッキー入りの『一つ目』の袋を差し入れと言ってビュウに手渡し、自分も見張り台に座ってみたいという彼女は、この空をして「悲しい色をしている」と評したのだった。ビュウさん。  
 ビュウも、戦竜隊の隊長となってから空を縄張りとした仕事をすることが多かったが、空に感情の起伏を見出したことはなかった。それはヨヨの独自の感性によるものなのか、或いは竜の声を聞くというカーナ王家の血の成せる業なのか。  
「…はぁ」  
 いずれにせよ。そう漏らしたヨヨの不安げな横顔をただ眺めることしか出来なかったその時の自分を思い出して、ビュウは微かに嘆息する。ビュウさん。  
 一言、ごめんね、という謝罪を残してブリッジを去ったヨヨ。その背中に声をかけることも出来ず、ビュウは見張り台に戻った。  
 センダックが来たのは、それから一時間ほどした頃だった。マテライトの隙を見て艦長室を抜け出し、やはりクッキー入りの『二つ目』の袋を差し入れてくれた。  
 その味のほどは中々のものだった。ビュウは率直にその感想と礼を口にし、見張り台に戻って―――、  
 
「ビュウさん」  
 
 突然。背後から名を呼ばれた。  
 瞬間、ビクン、と大きくビュウの体が跳ねた。少年の頃ならばいざ知らず、いくつもの苦難を踏み越え、騎士として成熟しつつある今のビュウのそんな大仰な反応は、彼をよく知る人間が見れば驚愕に値するだろう。  
「あ、あの…ビュウさん?」  
 彼の名を呼んだ主もまた例外ではなかった。  
 みっともない有様をみせたのも一瞬、すぐに普段の冷静な呼吸を取り戻し、ビュウは振り返った背後、すぐ眼下にある梯子に視線を向けた。梯子の終着から、ひょっこりと顔だけを覗かせるフレデリカが、目を丸くして呆然としている。  
 ビュウはむぅ、とばつが悪そうに短く唸って、体の向きを変える。  
「フレデリカ。どうしたんだ、ブリッジに来るなんて。俺に何か用か」  
 珍しい来客に、ビュウはもう普段どおりになった平静な口調で問う。  
 すると、フレデリカも落ち着けたのか、やや慌てながらも答える。  
「はい。少し」  
「そうか。でも、下から呼んでくれれば降りたのに」  
「え、と。何度か呼んだんですけど…返事がなかったので」  
 おずおずと、梯子に掴まったまま答えを返すフレデリカ。  
「…そうなのか、ホーネット」  
 その言葉に、ビュウは顔に小さく驚きの色を浮かべて、下にいる操舵手に問いかける。  
「…本当だ。おまえは何か考え込んでて気づかなかったみたいだが」  
 ホーネットは忙しなく舵を取りながら、気のない返事をする。…わざとらしいほどに、視線を二人から外しながら。  
「…呼んでくれてもいいと思うんだが」  
 ややじと目気味の視線をビュウが向けながら苦情を呈すれば、  
「…俺はそんなに野暮な男に見えるか」  
 やはり視線を向けるのを避けながら、ホーネットは微妙に会話になっているのか怪しい反論で言い返す。  
「タイチョー」  
「自分は空しか見てないでアリマス」  
 右を向いて抗議の矛先を変えれば、ヨヨやセンダックが来たときと同じ『気遣い』の言葉が返ってくるだけだった。  
 
「…成る程。つまり、俺が呆けていたせいで、余計な労力を使うことになったのか。すまなかった」  
「い、いえ、そんな、気にしないでください、私が勝手に来たんですからっ」  
 もういい、という風にビュウは諦めて、正面から相変わらず顔だけを見張り台に覗かせているフレデリカに謝罪するのだった。  
 頭を下げるビュウを見て、フレデリカは慌てて彼の言葉を否定する。顔の前でぶんぶんと、病弱な彼女らしからぬ速度で手を振りながら――――――そう、手を。  
 
「あ…?」  
 
 ぐらり。弱々しくも、それでも確かにフレデリカの半身を支えていた腕が梯子から離れてゆく。  
 背中を下に、綺麗な半月を描く軌道で、彼女は梯子にかけた足を軸に見張り台の下へと音もなく、落下し。  
 
 ――――――直前で。フレデリカの体は、半月を描ききることなく、その落下をぴたりと止めた。  
 宙を掻いた右腕は、力強い別の腕に掴まれ、その体ごと静止する。  
「…ビュウ、さん」  
 ブリッジの天井を見上げるフレデリカの視界に被さるように。  
 見張り台の上から、落ちそうなほど身を乗り出して。  
 それでも顔色一つ変えずに、無言で、彼女の腕をしっかりと捕まえ、支えているビュウがそこにいた。  
「―――上がれそうか」  
 先ほどの動揺が嘘のように落ち着いた口調で、ビュウは短く問う。頭の中が真っ白になっているフレデリカは声を発することも出来ず、やっとのことでこくん、と一度だけ、首を縦に振った。  
「よかった」  
 言うが早いか、彼は半身を引っ込めながら、ぐいとフレデリカの右腕を梯子に引き戻す。体を垂直に起こされた彼女は、真っ白な思考のまま、もう一方の腕もしっかりと梯子に取り付け、そのままビュウに引かれて見張り台の上に上がりこむ。  
「すまない。降ろしたほうがよかったんだろうけど、あの位置からだと、一度上に引き上げた方が安全だと思って」  
「っ、そんな。私の方こそ、本当に、ごめんなさい…っ!」  
「気にしなくていい。フレデリカがここまで上がらなきゃいけない原因を作ったのは、俺だしな」  
 フレデリカはしゅんと力なく肩を落とし、深く頭を下げて謝罪する。だが、ビュウは冷や汗一つ浮かべずにそれを許し、彼女の体に怪我がないかを窺う。  
 
「…傷は、なさそうだな」  
「はい。…その。お蔭様で」  
「よかった。でも、降りるのは念のため、もう少し落ち着いてからの方がいいだろう」  
 フレデリカの紅潮した頬から、彼女の脈が早まっているであろうことを読み取ったビュウは、彼女が再び慌てて梯子から落ちないよう、決して広くない見張り台を一瞥して思案する。  
 見張り台のスペースは、人二人が入るようには作られていない。実際、今のビュウとフレデリカはかなり窮屈に密着している。  
 そんな中で、ビュウは体の向きを正面に直しながら、どうにか台の左側に、人一人分のスペースを確保するよう、体を壁側に寄せる。  
「狭くて、嫌かもしれないけど。少しの間辛抱してくれ」  
 申し訳なさそうに、ビュウは足を抱えて座るフレデリカに提案した。  
 …そんな、自分よりも何倍も冷静なのに、それに不釣合いなくらい所在なさげな彼の物言いが何だかとても可笑しくて。  
「…じゃあ。お邪魔しますね」  
 くすり、と。たおやかに微笑んで、フレデリカは彼の脇に収まった。反対側のタイチョーはもう一度、自分は空しか見てないでアリマス、と念を押すように呟いて、そっぽを向くが、当のビュウ本人に『そういった意識』が皆無なことがまた滑稽である。  
「ふぅ…ところで、ビュウさん、何かあったんですか?私が呼んだとき、随分驚いてたようですけど」  
「ん。まぁ、さっきちょっと」  
 自分の顔を見上げるフレデリカの疑問。あれだけ大きな反応を見せれば、当然のことだろう。  
 そんな素朴な問いに、ビュウはつい先ほど途切れてしまった回想の『先』を反芻し、内心で身震いする。実に間が悪い、といえばフレデリカに失礼になるが、とてもではないがそうとしか表現できないタイミングで、彼は名を呼ばれたのである。  
「それより、フレデリカ。俺に用って言うのは」  
 誰にも見えないようにそっと自分の臀部を擦りながら、ビュウはいつもの真顔と平静な口調で話題を変える。  
 フレデリカは彼の問いに、あ、と短く感嘆し、今更のように自分がここに来た理由を思い出した。  
「はい、実は、クッキーを焼いたので…差し入れにと、思って」  
 言いながら、彼女は懐から袋を取り出した。彼女の僧衣と同じ鮮やかな水色をした、ヨヨやセンダックの持ってきたソレと同じくらいのサイズ。それを、ポンと膝の上に置く。  
 …それ―――『三つ目』の袋の増援が現れたのを見て、ビュウはまたもむぅ、と聞こえないよう短く唸り、冷や汗を浮かべる。  
 彼とて、フレデリカの厚意はとても嬉しく思うところなのだが、何分にも先客を平らげる算段をつけた上での更なる糖分―――ある面においては塩分もだが―――の摂取は、流石に体と脳が拒否反応を示しかねない。  
 どうにか『先客』を腹に収めた上で、フレデリカの差し入れも食べきってしまいたい。そう結論付けたビュウは、フレデリカに、  
 
  ・せっかくだから、一緒に食べる?  
⇒ ・フレデリカ、食べさせて!  
 
 
「――――――――――――え?」  
 
 
 ――――――真顔のまま。ビュウは、さらりと。一息に。その言葉を言い切った。  
 …数拍の、間。フレデリカは、自身の差し入れに対するビュウの思いもかけない反応に間の抜けた声を上げる。  
 自称・野暮ではない操舵手と、空しか見ていない男も巻き添えに、一瞬にしてブリッジの時が凍りつく。だが、みるみるうちに、空間の一部分が熱を取り戻してゆく。  
 いうまでもなく、当事者たるフレデリカだった。徐々に治まりつつあった鼓動は、再びばくばくと早鐘を打ちはじめ、小さく開いた口と見開いた目を顔に張り付かせたまま、頬を真っ赤に染め、戸惑う。  
「え、ビュウさん…あの、私…えぇ…?」  
「…ちょっと、先に差し入れがあってな。丁度、腹も膨れてきたし…それに、クッキーを食べるのに手を動かすのも疲れてきた。  
 気分転換もかねて、フレデリカの手で食べさせてほしい」  
 脇に置いた、『一つ目』と『二つ目』に視線をやりながら、やはり真顔で淡々と語るビュウ。  
 自分の体が糖分を摂ることを拒否するのであれば、人に食べさせてもらえばいい。…実に単純な発想である。彼の口にした『気分転換』という言葉は、極めて含みのある台詞だった。  
 
 ………さて。ビュウ、という青年は、その落ち着いた態度や物言いから、よく真面目で、几帳面で、冗談も言わないような人物であると誤解されるのであるが。実際には、彼はちゃんと人並みのユーモアを持ち合わせた青年なのである。  
 然るに、誓って保証するが。こんな突拍子もない提案を、大真面目に口にする昼行灯のような呆け者では、断じてない。この提案は、彼なりのジョークである。  
 ただ、彼自身自覚していない、とても甚大な誤算がある。  
 それは――――――彼は、どんな馬鹿げた冗談も、真剣な顔で口にするということだ。それが周囲に、どう受け止められるかも認識せず。…そういう意味でなら、彼は立派な呆け者であるといえるだろう。  
 
「………う」  
 視線を膝の上の袋に落とし、言葉を詰まらせるフレデリカ。手はきゅっと袋の口を括るリボンにかけられたまま、居心地悪そうに指遊びに勤しんでいる。  
「―――ふ」  
 そろそろいいだろう、と。一瞬だけ、僅かばかり口端を吊り上げて、萎縮するフレデリカを微笑ましくみつめ、笑みを漏らすビュウ。  
 からかって悪かった、今のは全部冗談だ、ただ差し入れは有難いけど、これだけの量になると俺一人じゃちょっと食べきれそうにないから少し手伝ってくれないか、ああでも勿論無理はしなくていい、元々俺が名指しでもらったものだしな。  
 ――――――そう、弁解しようとした時だった。  
 
「………………あの。わかり、ました」  
 
 静寂を、確かに破るように。静かだが、強い意志のようなものが宿った声が、紡ぎ出される。  
 …声の主―――フレデリカが顔を上げる。先ほどまで、明らかに過剰に血液が集まっていることが見て取れた真っ赤な顔は鳴りを潜め、代わりに頬には、程よい朱色が帯びている。  
 その変化は意外ではあったが、弁解の出鼻を挫かれたビュウを面食らわせたのは、彼女の目だった。  
 口元は怯えを噛み殺すように真一文字に結ばれ。眉は強がりのように頼りない逆八の字をキッと描き。  
 それでも彼女の瞳は、確固たる決意を湛えて、すぐ目の前にあるビュウの瞳を見据えていた。  
 …相変わらず、ビュウは表情を変えず、真顔のままフレデリカを見つめている。だが、普段は大人しい彼女の思いがけない豹変に直面した彼の内心は、まるで未知の生物にでも遭遇したかのように真っ白になっていた。  
 フレデリカの手が、リボンをしゅるしゅると解いてゆく。綺麗に折り畳まれた袋口が広がり、そこに彼女の白く繊細な指が音もなく入り込み、探るように一枚のクッキーを取り出す。そんな光景を、頭の中が真っ白なまま、ビュウは一部始終、見守っていたが。  
「………はい。どうぞ」  
 右の、親指と、人差し指と、中指に摘まれたバター色の丸いクッキー。破片や粉が衣服を汚さぬよう、気遣いで添えられた控えめな左の掌。フレデリカが、その両手を恐る恐るビュウの方へと差し出したのを認めた時。  
 彼の思考は漸く、錆付いた歯車のごとく、のろくさと回り始めたのだった。  
 
「………ぅ」  
 彼は呻き声が漏れそうになったのを、やっとのことで堪える。  
 張り付いた真顔の頬には、暑くもないのに一筋の汗。  
 そうしてやっと、フレデリカがまさか本当に自分の提案を実行するとは思っていなかった彼は、自分がとんでもないことを言ってしまったのではないかという可能性に思い至る。  
 …まぁ。厳密には言った内容より言った態度が不味かったのではあるが。  
「ビュウ、さん?」  
 クッキーを摘んだフレデリカの右手は、今丁度、彼女とビュウ、互いの顔の中間に差し掛かっている。  
 だが、そこまで近づいても、ビュウが口も開かず、微動だにしないことにフレデリカは一瞬だけきょとんとした表情を浮かべたが、すぐにその顔はそれまでの強がるようなモノへと立ち戻る。  
 …ビュウはそんな彼女と向き合いながら、鈍らのように切れの悪い思考をそれでも精一杯ぶん回しながら、この途轍もなく恥かしい状況を打破する手段を模索する。  
 密着状態の、狭い見張り台。ここでは彼女を残しての物理的な脱出自体が、不可能に近い。  
 いち早く事態の急変を察知した約二名に意識を向ければ、ホーネットは首を思いっきり左に捻って何もかもを視界に入れないよう尽力し、前を見ていない影響か、舵はじりじりと取舵へと傾いていっており。  
 タイチョーに至っては、自分は何も見てないでアリマス何も見てないでアリマスとすぐ左側の壁に向かって呪文のように繰り返しながら、警戒レベルを絶賛急降下中である。  
 見張り台に退路はなく、外部の助けも期待できず、ビュウの思考の指針は焦りで徐々に方向性を失い、悲鳴を上げ始め―――、  
 
 
「ビュウさん。―――――――――あーん」  
 
 
 ――――――フレデリカの一言で、盛大に空の彼方に吹き飛んだ。  
 
 
 それまで鋼の如く崩れなかった、ビュウの真顔が一瞬にして瓦解する。驚愕に口元は引きつり、目は見開かれ、顔中が火を噴くサラマンダーもかくやというほど紅潮する。  
 フレデリカはあーん、と。母親が子供の食事を促すように。恋人の逢瀬の一幕のように。目の前の青年に、明らかに慣れないであろう言葉と振る舞いで、「口を開けて」と求めたのだ。  
 今まで『そういった意識』でフレデリカを見たことがなかったビュウは、彼女の思いも寄らない不意打ちに遂に動揺し、言葉を詰まらせる。  
 …フレデリカは、クッキーを彼の眼前へと掲げ続ける。目の前の青年に、明らかな変化があったにもかかわらず、である。その頑なな様が、余計にビュウの混乱に拍車をかける。だが。  
「…?」  
 ふと、ビュウは目の前に迫るフレデリカの右手に違和感を覚える。視線を移した、クッキーを摘むその指先は、よく見れば、微かにふるふると振るえていた。  
 視線をフレデリカの顔に戻す。強がるような表情は崩れず。だからこそ、それが確かに『強がり』なのだと―――彼女なりの精一杯の力で怯えを噛み殺しているのだろう、そこだけ血色を失うほど強くきゅっと結ばれた唇が、伝えていた。  
 それがどういった意志に基づくものなのか、ビュウにはとんと見当がつかなかったが。  
 それでもそれを見て彼は、フレデリカが今決して平静でなどなく、何某かの決意を秘め、そして持ちうる限りの勇気を振り絞ってこの行為に及んでいるのだということを、直感的に理解した。  
 …ビュウは顔を真っ赤に染めたまま。自分の中の恥の感情を、全力で叩き殺す。  
 自分で蒔いた種だ―――いや。そもそも、そんな消極的な理屈で納得すること自体、フレデリカに対する侮辱だ。どんな理由があれ、俺のふざけた冗談に、彼女は全身全霊を懸けて応えてくれている。ならば俺も―――。  
「…ん」  
 そこまで考えて、ビュウはぐちゃぐちゃになりかけた思考も諸共、殺し尽くす。  
 いずれにせよ答えなぞ出ないのだ、今は成すべき事を成せ、と。彼はやはり真っ赤なまま、目を閉じ、口を広げてフレデリカの手を迎える。  
「…っ」  
 フレデリカは、静かに生唾を呑み込む。宙を泳いでいた両手が、進行を再開する。  
 彼女の色白の手がソレを運ぶ。真っ赤な顔でソレが届くのを今か今かと待ち構え、口を開けているビュウ。  
 その光景は、何の皮肉か―――普段、ドラゴンに餌付けをしているビュウが、逆に餌付けをされているように見えた。  
 …甘い香りが、視界を閉ざしたビュウの鼻腔をくすぐる。クッキーの端が、彼の舌へと近づく。  
 
 
 ―――――――――瞬間。轟音とともに、艦が激しく揺れた。  
 
 
「―――!」  
 敵襲―――ビュウの全神経が、一瞬でスイッチする。  
 片膝を立てて見張り台から身を乗り出し、鷹の如き視力で前方の空の全てを視界と意識の内に捉える。  
「あう…ビュウさん…っ!」  
 フレデリカはバランスを崩し、クッキーを見張り台に投げ出してしまう。咄嗟に見張り台の手摺に寄りかかりながら、ビュウを見上げ、名を呼ぶが、  
「帝国の補給部隊でアリマス!」  
「マハールに向かうのと鉢合わせたみたいだな…ビュウ、そっちから視えるかっ?」  
「…ガーゴイル中心の部隊だ。数はそんなに多くない。…いや、それより、今の衝撃。首魁のデカブツと…この規模の部隊でも恐らく、取り巻きがいくらか、一緒にいるはずだ」  
 既に彼は、騎士としての彼に変貌していた。  
 キッと瞼を開き、空の果てまで射貫かんばかりの眼光で、雲の切れ目をちらちらと横切るいくつもの影を確信を持って視認する。  
 再び巧みな操舵を取り戻し、見張り台の下から問うホーネットに、彼は淡々と、そして強く、己が見解を述べる。  
 その、静かに燃えるような闘志を窺わせる彼の横顔を、フレデリカは呆然と見つめる。  
「一つ…二つ…三つ―――」  
 ビュウの視線の先。雲の中から、ガーゴイルとは明らかに異質な、翼竜のシルエットが姿を現し始める。それを、息を殺すように数え、当たりをつけて、  
「――――――視えた。ブランドゥングかっ、奴が頭だ―――!」  
 雲の向こうに、一際張り出したシルエットが飛び出す。巨大な体に、雄大な翼、四肢の先には鋭い爪。帝国の飼いならすドラゴンの一だった。  
 叫び、その存在をブリッジ中に報せながら、彼は舌打ちをし、  
 
「きゃっ―――!?」  
 
 座り込むフレデリカを抱きすくめ、ブリッジへと跳んだ。  
 
「っつ!」  
 ビュウの両足に、強い痛みが突き上げる。いかに彼が鍛えた体躯を持っているとはいえ、流石に人一人を抱えて梯子付きの見張り台から跳躍するのは、相当の負担だった。  
 痺れを堪え、両腕に抱えたフレデリカの安否を確認する。彼女には振動は伝わっていたが、痛みはない。  
「すまない。大丈夫か」  
 フレデリカが目をパチクリさせながら、こくりと頷くのを見届けて、ビュウは彼女を静かに下ろしてやる。そのままぺたんと座り込む彼女を横目に、視線を頭上へとやる。  
「…躊躇なしにブリッジ狙い、か。やってくれる」  
 険しい目つきで、呟く。  
 視線の先には、半壊し、用を成さなくなった見張り台だったモノが佇んでいた。ビュウがフレデリカを抱えて飛ばなければ、二人共消し炭になっていただろうことが容易に想像できる光景だった。  
「なんじゃなんじゃ、何の騒ぎじゃーっ!」  
「兄貴あにきっ、今の揺れはっ?」  
「敵襲だ。…フレデリカ、立てるか。戦闘の準備を―――?」  
 騒ぎを聞きつけ、どやどやとブリッジへと雪崩れ込んでくる戦竜隊の面々。後には、甲板にいたはずのドラゴンたちまで続く。  
 意気揚々と出撃準備に入る彼らに続こうと、ビュウは傍らのフレデリカにも準備を促そうとするが、  
 
「………クッキー」  
 
 聞こうという意思がある者以外には、誰の耳にも届かない、消え入るような声で、彼女は誰にともなくそう呟いた。  
 悲しげに俯き。先ほどまで膝の上にあった袋を求めるように両手を虚空に重ね。…目には、微かに涙が潤んで見えた。  
 
「…あ。ビュウさんっ。はい、私は、大丈夫ですっ」  
 だが、それも一時。ビュウが自分を見ていることに気づくや否や、フレデリカは何事もなかったかのように、気丈な様子で自分の無事を主張した。  
 …一瞬。ビュウの脳裏に、真剣な顔つきで、クッキーを差し出してきた彼女の姿が過ぎる。何だか、無性に腹が立った。  
「あの…ビュウさん、ごめんなさい。クッキーは、また必ず焼きますから。そうしたら、今度はちゃんとお部屋の方にお持ちしますね」  
 申し訳なさそうに、力なく笑って謝罪するフレデリカ。…それを、ビュウは。  
「…必要ない。持ってこなくていい」  
 険しい表情で、彼女から視線を逸らしながら。一刀両断してみせた。  
「………っ」  
 一方的な拒絶の台詞。それに、返す言葉が見つからず、しゅんと俯くフレデリカ。  
 …そもそも、この敵襲も、自分が余計な差し入れをせず、ビュウの目を以ってしっかりと見張っていれば察知できていたかもしれない、という負い目。それが、更に彼女の罪の意識に拍車をかける。  
 ――――――けれど。彼女がそんな罪悪感を抱え込む必要は、別になくて。  
 
 
「――――――持ってなんて来なくても、俺の方から食べに行く。フレデリカはお茶でも淹れて待っててくれ」  
 
 
「………え?」  
 ビュウの言葉に、フレデリカは耳を疑う。  
 当の彼はというと、ああ、やっぱり柄じゃあないな、と。照れくさそうにそっぽを向き、鼻を鳴らして立ち上がる。  
 つかつかと舵を取るホーネットに歩み寄っていけば、気づいた彼がビュウへと指示を請う。  
「ビュウ、敵の部隊は陣を組み直して雲の中に隠れたぞ…奇襲に備えるか?」  
「そんな面倒はしなくてよいのじゃ!わしらは、」  
「必要ない。こっちから打って出る」  
 既にビュウの指示を待つばかりとなっている戦竜隊の面々がどよめく。マテライトの大声を切り裂き、かき消すような、強い闘志を剥き出しにした彼の宣言にいつもにはない『何か』を感じ取ったからだ。  
「ビュウ…勝算はあるの?いつもみたいに慎重にいかなくても…」  
「奴らの飛び方と雲の形から、凡その出方は解る。顔を出したところをぶっ潰す」  
 センダックのおどおどとした問いに、淡々と、だが確かな強い感情の篭った答えを返す。  
 ぶっ潰す、という彼らしからぬ物騒な物言いに、更にどよめきが広がる。だが、粒揃いの戦竜隊の面々はやがてそんな調子の彼がツボに入ったのか、囃し立てるような声がぽつぽつと上がり始める。  
 そんな光景を、まだ状況を掴みきれず、彼らから少し離れた場所からぽかんと見つめるフレデリカに、ビュウは向き直って。  
「…さ。一つも食べずに灰になったクッキーの仇。とりに往こう」  
 そう、恐らくは彼女にしか意味のわからない、静かな笑みを浮かべて、出撃を促した。  
 
「………はい!」  
 
 そうして、漸く―――フレデリカは彼の言葉の意味を全て理解して、花のように笑ったのだった。  
 
 
   
 
   
 ………………ところで、これは、余談となるが。この日の出来事には、小さな疑問が一つ残る。  
 それは、フレデリカから作り方を教わって作ったはずのヨヨのクッキーは、何故しょっぱかったのか、ということ。  
 料理の不慣れなヨヨが、妙なミスでも犯したのか。それとも、大元の土台が、そもそもから間違っていたのか。  
 真相は、後ほどフレデリカの部屋を訪れたビュウにしか判らない。  
 
  〜了〜  
 

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