古びた石造りの建物の中から人が出てくる。
一人、また一人。偶に夫婦や子連れ、家族らしき一組も混じっている。
人の流れは決して多くはなく、疎らだったが、彼らは皆、一様に微笑み、和やかな空気を纏っている。
そんな人々が町へと下る階段を降りてゆく様子を、ビュウは正門近くの縁石に座ってぼう、と眺めていた。
…つい今しがたまで聴こえていた賛美歌が聞こえない。その変化で、彼は自分が暫し寝入ってしまっていたことに気づく。
白い息を吐き出して目を瞬かせると、彼をその翼で包むサラマンダーが首を上げ、心配そうに主人の顔を覗き込む。
ビュウは微笑み、自らの愛竜の顎を撫でてやる。サラマンダーはくう、と嬉しそうに唸り、持ち上げた首を地に下ろした。…それを、まるで我が子を慈しむ様な眼差しで見届け、彼は眼前に聳える建物を見上げた。
…荘厳、という言葉すら色褪せる様な建造物だった。ちょっとした砦ほどはあろうかという佇まいを見せるそれは、その実、人々からは教会と呼ばれる代物である。
いつからここにあるのかは、ビュウは知らない。ただ、かつて自身の主が語った二つ名だけが、彼のこの教会に対する記憶だった。
更に首を動かし天頂を見上げれば、恐らくは満天の星空を覆い隠しているのだろう、一面の曇天。
ここに来る時はいつもこんな空だ、と、ビュウは皮肉めいたことを考える。三度訪れて、そのいずれの時も、彼が大好きな空を臨むことを許してはくれなかった。
今日、過去二度の訪問と違うのは、彼の主である女性が共にいないこと。そして、この教会に人が満ちていることだけである。
明かりの灯った教会から、町へと視線を移す。…見慣れたはずのカーナの町並みを、驚くほど小さく感じる。
町から外れた丘の上にあるこの教会からあの町を見下ろそう、などという考えは、ビュウにとって実は初めてのことだった。
一度目も。二度目も。その状況が、彼にそんな思考をする余裕を与えなかったのだった。
…今、彼が思い返すのは、数多の魔物。それに立ち塞がる様に、満身創痍になりながらもこの門を動かなかった一人の騎士の姿だった。
後に続くのは、その騎士を庇う、彼の主の―――。
「ビュウさん」
そこまで考えて、ビュウは、背後からの声で我に返った。
振り返ると、彼の待ち人がそこにいた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
長く美しいブロンドの髪を束ね、防寒のためだろう、ストールを纏った若い女性。
フレデリカは、無言で振り返ったビュウに謝罪した。
「…気にしなくていい。いい子守唄だった」
それに対して小さく欠伸をし、自身が寝こけていたことを主張するビュウ。
フレデリカは頬を僅かに紅潮させて微笑み、ありがとうございます、と礼を述べた。
その、彼女の紅潮が照れや羞恥の感情から来るものでないことは、やはり白く色づく、彼女の吐息が物語っていた。ビュウはひゅ、と短く口笛を鳴らして、サラマンダーの翼を開かせる。
「じゃあ、急いでファーレンハイトに―――ビュウさん?」
「…座って」
外套を翻し、ビュウは徐に縁石から立ち上がった。そして、きょとんとするフレデリカに自分が今まで座っていた場所を示す。
「え、と…?」
意図を掴めない彼女に、ビュウはもう一度、座って、と同じ言葉を告げる。
そうして漸く、いわれるままにフレデリカはサラマンダーの懐に収まる。
それを確認して、ビュウは再度、同じように口笛を鳴らした。
「あ。………暖かい」
サラマンダーの赤い翼が、ビュウにそうしていたように、フレデリカを包み込む。彼女の口から、感嘆の言葉が漏れた。
炎の化身であるレッドドラゴンを起源とするサラマンダーの翼は、この世のどんな冷気にも侵されない。それが今、彼女の白く華奢な身体を外気から守っているのだ。
「…この雲だ。多分、帰りは雪の中を飛ぶことになる。身体が冷えたままだと、健康に障る」
仏頂面のまま。ビュウは彼女に、十分に温まっていけ、といったのだ。
やがて、フレデリカはそんな彼の内外不釣合いな気遣いが可笑しくて、くすりと笑いを漏らした。
「…え、でも、これだとビュウさんが」
しかし、すぐに慌しく、一人温室から追い出された青年の状態に気づく。
ビュウが纏う防寒具といえば、薄い外套一枚だけである。寒さに関しては自分と大して変わらないだろう格好であるにも拘らず、居心地のいい場所を自身に提供した青年が平気なはずがない、と、フレデリカは気遣う。
「…大丈夫。ドラゴン乗りは、寒さには慣れてる」
そんな彼女の心配に、ビュウはさもどうでもいいという風に、そっぽを向いて答えた。
慣れてる、とはいうものの、寒くない、とは言い切れないのが、彼の性分を物語っていた。
それを読み取ったフレデリカは、翼越しにビュウに遠慮の言葉を投げかける。
「ビュウさん、そんな、私だけ悪いです」
「俺は散々温まった。フレデリカだけじゃない。だから大丈夫」
「…屁理屈です」
「そうか」
そっぽを向いて、気のない返事をするビュウ。初めから取り合う気はない、という姿勢だった。
「…それじゃあ、一緒に入りましょう」
フレデリカはそれならば、と意を決して、折衷案、兼譲歩案を提案した。
「…俺はいいけど。フレデリカは」
「ビュウさん。私のこと、そんなに酷い女にしたいんですか?」
むぅ、と唸ったフレデリカに恨めしそうに睨まれ、ビュウは目を閉じて思案する。
こういう気遣いって迷惑なのかなぁ、などと、騎士としては一流の風体であるものの、女性に対して余り免疫のない彼は思うのだった。
「…だけど、サラマンダーの翼には一人しか」
「そうでしょうか。…ねえ、サラマンダー、もう一人くらい入れないかしら?」
それまで傍観者に徹していたサラマンダーは、くぅ、と小さく鳴いて、彼女の呼びかけに応えてみせた。その立派な翼で、二人分≠包み込めるだけの空間を作りながら。
苦し紛れの思いつきの反論も、第三勢力の介入によりあっさりと打ち落とされたのだった。
「…おまえな」
頭を抱えたくなるのを堪えながら、ビュウは呆れた目つきで長い付き合いの相棒に抗議の視線を送った。
返すサラマンダーの視線は『往生際が悪いぞ、マスター』といいたそうな、これまた呆れたもののようだった。
◇ ◇ ◇
真冬の空の下、誰もいなくなった教会の前で、赤い竜の片翼の中で身を寄せ合う二人。
やっぱり少し狭いんじゃないか、とビュウはなんとかフレデリカの場所を広く確保しようと、腰の居所を頻りに直そうと試みる。
だが、やがてそんな余裕はないことを思い知り、彼は観念して大人しく彼女と肩を密着させるのだった。
二人の間には、長い沈黙。だが、重苦しい、という空気はない。
ビュウは特に感慨もなく、彼女の身体が温まってくれればそれでいい、という風に鎮座し。
対するフレデリカは、どこか嬉しそうにサラマンダーの翼とビュウの体躯の間に大人しく挟まっていた。
「…今日は」
と。フレデリカが、その沈黙を破った。ビュウが、頭ひとつ分下にある彼女の横顔を見遣る。
「今日は、ありがとうございました。私の我侭に付き合って下さって」
「…構わない。俺も、今日は何となく空を飛びたい気分だった」
やはり、仏頂面のまま。微笑んで礼を言うフレデリカに、ビュウは気にするな、と答えて返す。
「ところで、今日のこれは、何の集まりだったんだ?」
ふと、ビュウは夢見心地に耳にしていた賛美歌を思い返しながら浮かんだ疑問を、他に話題もないかと口にする。
彼はただ、フレデリカが外に出る用事があるものの移動の足がなかった、という状況に遭遇したために、偶さか送迎を買って出ただけで、彼女の事情はろくすっぽう聞いていなかったのだった。…それで指定された行き先がこの教会、というのは、因果な話ではあるが。
「はい。えと、今日はクリスマスイヴっていってですね。メシアの聖誕祭なんですけれど…聞いたこと、ありますか」
「…いや」
首を横に振るビュウに、フレデリカは聖誕祭に教会で行われる行事について身振り手振りも交えて説明する。
だが、そもそもあまり教会の知識を備えないビュウは、終始よくわからないという風に首を傾げていた。
「カーナでは神様といえばバハムートのことですから、私達の宗教はここでは異端の部類かもしれません。
だから、ビュウさんが知らないのも無理ないですね。でも、他のラグーンなんかでは割と一般的なんですよ」
プリーストであるフレデリカは、いつも話をしてくれる側であるビュウに逆に話を出来るのが楽しいのか、嬉々として説明する。
「本当は毎年参加しなくちゃいけないんですけど…テードには、教会ありませんでしたから。
だから、ビュウさん達が帰ってきて、戦竜隊が復活して。カーナも取り戻せた今年こそは、って思って」
「…なら、ディアナには悪いことをしたな」
静かなビュウの相槌に、フレデリカはこくん、と残念そうに頷いた。
命に別状はないものの、彼女の親友であるプリースト・ディアナは今、ベッドで療養中である。帝国の空中要塞との一戦でついた傷の具合が、芳しくないのだ。
とはいえ、当人の精神は健康そのもので、今頃はラッシュ辺りに暇だ暇だと愚痴を垂れている時分かも知れない。
因みに、病弱なフレデリカが外出するときは大体がディアナと一緒で、ドラゴンの手綱を握るのも彼女の仕事である。それ故、彼女がそんな状態であれば、フレデリカは身動きがとれない。今回はそこに通りがかったのが、ビュウというわけである。
「でも、その代わりにディアナの分もお祈りしてきましたから」
一転して、和やかに微笑むフレデリカ。しかしビュウは、彼女の言葉に再び首を傾げる。
「祈る?…何を?」
「…帝国との最後の戦いが、近いですから。それに、空から現れた魔物のこともあります。
だから、皆が最後まで無事でありますように、って」
「…神頼みは、好きじゃない」
フレデリカの願いに、ビュウは視線を正面に戻して難色を示す。
…彼が歩んできた道を知る彼女は、そんなあからさまな嫌悪にも、残念です、とだけ口にして、力なく笑った。
「あ、そうでした。ビュウさん」
と、突然。思い出したように、フレデリカは自身の服の、ゆったりとした袖の中を探り始めた。
何事かと再び眼下の彼女の仕草に視線を移す。…もぞもぞと動くたびに揺れる、彼女の束ねた髪をくすぐったく思いながら。
「こういうのも、あるんですよ」
苦戦していた様子だったフレデリカが右手に摘んで取り出したものは、畳まれた白いナプキンと、二つの小さな小瓶。小瓶には血のように赤い液体が湛えられている。
「これは?」
「私、戦争が起こる前は、聖誕祭はいつもこの教会で過ごしてたんです。
それで、久しぶりに来たら神父様が私のことを覚えていてくださって。
事情を話したら、ミサ用のワインとホスチアを親切なご友人に振舞うように≠ニ、少し分けてくださいまして…はい」
彼女はビュウに片方の小瓶を持つように促し、彼はいわれるままに手渡されたモノを受け取る。すると、彼女は今度は、畳まれたナプキンを広げる。中から現れたのは、薄いパンのような欠片だった。
「ビュウさん、聖餐、というのをご存知ですか?」
知らない、とかぶりを振るビュウに、フレデリカは教会のミサについて最低限の説明をする。案の定、ビュウは首を傾げるのだった。
「よく、わからないが。…とにかく、これは嗜好品や娯楽品じゃなくて、儀礼の道具の類なんだろう。
俺はともかく、フレデリカがこんな風にして使うのは、不味いんじゃないか」
ビュウの言葉に、フレデリカはう、と言葉を詰まらせる。彼女の中の信仰と義理が交錯する。
「い、いいんですっ。ビュウさんには無理を聞いてもらったんですから、私も譲歩しないと、不公平ですっ」
結局、勝ったのは義理のほうだった。むん、と気合を入れて、フレデリカは小瓶の蓋を開ける。
そんな彼女の仕草が何だか可愛らしく思えて、ビュウはく、と口元を緩ませた。
「それでは」
「…頂きます」
ホスチア、と呼ばれた欠片を頬張り、二人はワインを一口に煽った。
フレデリカはこくり、と小さな音を立てて飲み下し。ビュウは口に含み、やがて音もなく喉へと流し込んだ。
「………甘いな」
「ミサには小さな子供も来ますから。飲み口がいいものを選んでいるのだそうです。ビュウさんは、苦いほうがお好きですか?」
どちらかといえば、と答えて、ビュウは自分も昔は甘いものが好きだったことを思い出す。
そして、苦いワインを好むようになったのはいつからだったかな、などと考える。
「―――フレデリカ?」
そんな矢先。ビュウは左の肩に寄りかかる、微かな体温と重みを感じた。
見下ろすと、フレデリカが自分に凭(もた)れていた。頬を、先ほどよりも濃い朱色に染めて。
「酔ったのか」
「…ううん。少し、温かくなっただけ。…大丈夫、ほら、よく言うでしょ?酒は百薬の長≠チて」
それを酔っているというんじゃないか、とビュウは内心で苦笑する。
…それにあれだぞ。あんまり知られてないけど、その言葉の後には万の病も酒からこそ起こる≠チて続くんだぞ。
都合のいいことにしか耳を貸さないのは人の深い業だぞ―――というようなことを、彼は口調が砕けてきたフレデリカを見て思うのだった。口調の変化は、薬を服用した際の彼女の特徴なのだが。
「ああ―――だから百薬の長=c」
「?何かしら、ビュウ」
何かを悟ったように、ビュウはちらりと眼下のフレデリカを見遣った。
顔をほんのりと上気させ、彼女は暫く小犬のように頭上の彼の顔を窺っていたが、やがてゆっくりと目を伏せた。
…まあ、今日くらいは彼女がどうあろうと最後まで面倒を見よう。そんな風に、ビュウは覚悟を決めた。
「―――ねえ、ビュウ。ビュウは」
だからだろうか。
「ビュウは―――この教会が、なんて呼ばれてるか、知ってるよね?」
そんな、彼女の予想もしなかった問いかけに。
「もし、本当に、もし、よかったらなんだけど。今から、私と―――」
驚くほど、冷静に答えられたのは。
「…やめておく。あの言い伝えに振り回されるのは、一度で十分だ」
ビュウはただ、本心だけを口にした。
………フレデリカは、目を伏せたまま動かない。ビュウは、彼女に目を向けず、ただ、そのまま彼女の拠り所として動かずにいる。
そうして―――聞こえるか聞こえないかという声で。一言、ごめんね≠ニいう言葉を、ビュウは耳にした。
「…うん。ありがとう、ビュウ。今のは忘れて。…どうしちゃったんだろうね、私」
顔を上げて、フレデリカは笑った。精一杯の力で。
「そろそろ帰ろう、ビュウ。ほら、もう十分温まったから。ね?」
「…そうだな」
気まずさを払拭するように振舞うフレデリカ。ビュウはやはり最後まで彼女を見ることはせず、また口笛を鳴らす。同時に、サラマンダーが咆哮し、翼を大きく広げる。
二人は翼の温室から抜け出て、密着していた身体を離す。外気の寒さが、二人の高まった体温に適度な刺激を齎した。
…と。空から、白い綿のようなものが降りてきて、ビュウの外套に黒い染みを作った。
「…降ってきたな。急ごう」
雪の気配がすぐ近くまで来ていることを悟り、ビュウはサラマンダーの背に跨り、手綱を握る。
そのまま、彼は動かない。後にフレデリカが続くのを待っている。
「………っ」
けれど。フレデリカは、動けなかった。続かなければ出発できないのが、分かっているのに。
見上げて、すぐ目の前にはビュウの背中。つい今しがたまで隙間もないほど寄り添っていた人の身体。
それから離れてしまった今、どうして、自分の身体は近づこうとしないのか。フレデリカは理解できなかった。
彼は、何も言わない。じっと、微動だにせずに。
…そっと、サラマンダーの赤い背中へと、静かに足を踏み出す。まだ、これでは足りない。振り落とされないよう、彼に掴まらないと。
「っ!」
強く思い、やっとのことで彼のベルトを掴む。
「フレデリカ」
すると、ビュウに名を呼ばれる。振り向かず、手綱を握って空を臨んだまま。
「な、なに?」
「本降りになる前に…は多分無理だけど。出来るだけ早く着けるように急ぐ。
だから、振り落とされないように、もっと強く、ぎゅっとつかまって」
淡々とした、けれど強く確かな、ビュウの言葉。
フレデリカの口から『いいの?』という確認の言葉が零れ掛けた。…ドラゴンを急がせるというのなら、そうするのが当然だというのに。今はそれが、許されないような、そんな予感がしたからだ。
彼女は、いわれるままに彼の胴に手を回す。これならば、彼自身が落ちない限り振り落とされはしないだろう、という力で。
ビュウの背中と、フレデリカの半身が密着する。先ほどよりも、更に強く、確かに。
「…いくぞ。サラマンダー…!」
それを確かめるように、一拍の間をおいて。ビュウは自らの愛竜の名を強く叫んだ。
…赤い竜は、古い教会を背に飛翔する。見る見るうちに小さくなっていくその場所を、その二つ名の通り『思い出』として心に仕舞い込んで。フレデリカは、ビュウと共に聖夜を後にした。
――――――そうして、暫くの後。戦いが終わってから彼らは二人、薬屋を営むのだが。
それが果たして、この夜の思い出とどんな関係があるのか、或いはそもそも何の関係もないのかは、誰にも分からない。
………ただ。一つだけ、間違いなくいえることがあるとするならば。
『彼』がドラゴンに騎乗する際、自ら『ぎゅっとつかまって』などと口にした相手は。
―――――――――後にも先にも、『彼女』ただ一人だけだったということである。
〜了〜