フレデリカの眠りは浅い。  
 病弱な体質からか、彼女は規則正しい生活を心がけてはいるものの、その一日はベッドで横になっている時間がどうしても多い。自然、睡眠の時間も嵩み、深い眠りにつくことも少なくなる。  
 そのせいで、彼女の眠りは人一倍、周囲の環境の変化に影響を受けやすい。今朝のそれは、この上もなく穏やかではあったが、逆にそれが―――日常との齟齬が、彼女の目覚めを普段の時間より幾分早めたのかもしれない。  
 フレデリカは静かに浮上した意識のまま、うっすらと目を開ける。  
 見慣れない天井だった。ベッドや枕が自分の使うものとは別物であることも、目覚めの瞬間から気づいている。  
 いつもと違う目覚めは、それだけではなかった。彼女が寝ているのは屋内ではあったが、その湿度が、普段のそれよりも何倍も高い。  
 だが不思議なことに、彼女は全くそれが嫌ではなかった。寧ろその日の体調は、いつもよりずっと優れたものになるだろうことを、長年の経験から予感する。…その原因を、彼女は他の感覚より幾分遅れて、耳で知る。  
(…ああ、そうか)  
 ここの『水』が、澱んでいないからだ、と。彼女は目蓋を半ばも閉じ、深く息をついた。  
 遠く意識を外に向ければ、微かに聞こえる清流のせせらぎ。『普段』の生活であれば万に一つもありえない、彼女にとって爽やかとまではいかないまでも、穏やかな寝覚めのアクセント。  
 その音が彼女に、この心地よい齟齬の原因にいきつく記憶の糸玉を手繰らせる。  
 …ここは、水のラグーン・マハール。タイチョーやルキアらの故郷だ。  
 彼女が身を置くオレルス反乱軍は、このラグーンをグランベロス帝国から奪還するためにここに赴き、将軍・レスタットを退けた。  
 そうして後、神竜の伝説を追いかけて訪れたのが、神竜リヴァイアサンの神殿だった。このマハールの地底湖に佇む遺跡に眠るというリヴァイアサンに会うため神殿内に入ったヨヨ王女は、『神竜の想い』に身を震わせた。  
 
 だから、そんな彼女を第一に労わっての事なのだろう。マテライトが、『近頃は連戦だったからのう、みなも今のうちに羽を伸ばしておくのじゃー!』なんて、突然不似合いな提案を叫んで見せたのは。  
 ともあれ、仮に彼の突然の思い付きだったとしても、反乱軍の面々はこの美しいラグーンで一時の憩いを与えられ、昨日ファーレンハイトより雪崩れ込んできたのであった。  
「…ん」  
 仰向けの姿勢からゆっくりと半身を起こし、フレデリカは頭部に軽い血の気の引きを感じて小さく唸る。  
 未だ少しぼんやりと歪む視界に移る景色と、昨日眠りに着く前に見た部屋の記憶とを照らし合わせる。  
 決して粗末ではないが、反乱軍の寝室よりもやや狭い設えの部屋には、彼女の使っているものを含めて四つのベッドが横に並ぶ。フレデリカは視力の回復が終わるより少しだけ早く、自分以外のベッドが既に蛻の殻である事を認める。  
 …つい、と窓の外に視線を向ければ、風を感じさせない穏やかな空模様。それを眺めて、フレデリカは憂鬱な顔で小さな溜息をつく。  
 今日の自分はいつもより早く目覚めたのに。いつもより眠りが浅かったのに。いつもより周囲の変化に敏感だったのに。  
 だというのに、『自分は彼女たちが出て行くのを感じることが出来なかった』  
 同室した友人たち―――アナスタシアとエカテリーナ、ディアナらが、体の弱い自分を起こさないよう気を遣いながら、そろそろと出掛けていっただろうことは、フレデリカにとって想像に難くなかった。  
「…はぁ」  
「―――あ、フレデリカ。おはよ、起きてたんだ」  
 溜息を重ね、ほんの少し前まで確かにこの部屋で織り成されただろう一部始終を思い浮かべ、知らず知らずのうち憂鬱の堂堂巡りに嵌ろうとするフレデリカだったが。  
 それを止めたのは、無造作に開けられたドアの音と、同時に投げかけられた、何ともあっけらかんとした挨拶だった。  
「ディアナ」  
 フレデリカは目を丸くして、部屋に舞い戻った友人の名を呼ぶ。  
 が、呼ばれた当の本人はそんな彼女の反応を特に気にした風もなく、ばつの悪そうな苦笑を浮かべて、  
「置いてっちゃってごめんね。いや私も昨日はうっかりしちゃってたよ。  
 どうして忘れてたんだろうね、ここはあのオレルス一の水を誇るマハールなのにさ、水着の用意を怠るなんて!  
 今朝気づいて大急ぎでファーレンハイトに、皆の分も一緒に取りに戻ってたんだけど…」  
 そんな弁解をした。  
 
 話に出てきた水着が入っているのだろう、大き目の布袋を片手にぶらさげて、ディアナは尚も喋り続けるが―――その先の言葉は、フレデリカの頭には入っていなかった。  
 代わりに、ディアナのまるで遠慮のない、捲くし立てるようなそのいつも通りの口調に、先ほどまでの自分の憂鬱がとても些細なことに思えて。  
「…くすっ」  
 フレデリカは、堪えきれずに微笑った。  
 そんな彼女の顔色の良さに気づいたのか、ディアナはむむっ、と唸り猫のような目ざとさで喋りを中断し、彼女の枕元に歩み寄る。  
「なんだ、今日は調子よさそうだね。よかった、せっかくの休暇に外に出られないんじゃつまんないもんね」  
「うん。確かに、気分は大分落ち着いてるけれど…」  
 自分の健康を喜ぶディアナの言を肯定しつつ、フレデリカは言葉を淀ませる。  
「どうしたの?」  
「…ん。せっかくの水着だけど、運動してまた体調を崩したら皆を困らせちゃうし…それに、私、泳げないし…」  
 フレデリカの脳裏に、再び先ほどの『友人たちの気遣い』の光景が過ぎる。  
 確かに、今日の自分の体調はいい。だが、もし湖や川に入って調子を悪くして倒れでもしたら。  
 …きっとディアナたちは、二の句も告げずに自分を助けに休日の貴重な時間を潰すだろう、と。  
「だから私のことは気にしないで、楽しんできて」  
 フレデリカは、精一杯の、けれど他者から見れば明らかな、力のない笑顔で見送りの言葉を告げた。  
「…フレデリカ」  
 だが、それを聞くや否や、ディアナは口を不機嫌そうにへの字に結び、彼女の眼前へと顔を突きつける。途端、  
「ディアナ?」  
「…私、そういうの嫌いだな。ていっ」  
「えぅっ…!?」  
 ぺちん。フレデリカの額を、ディアナの指先が弾く。  
 可愛らしい悲鳴を上げて額を押さえるフレデリカに、彼女はしょうがないなぁ、という風な苦笑を浮かべ顔を離す。  
 
「あなたのことだから、どうせ私らに遠慮して貧乏くじ引くつもりなんでしょ。気持ちはうれしいけどね、いーの。  
 そりゃ、私はエスパーじゃないもん。エカテリーナやアナスタシアなんかがどう思ってるかは解らないよ?  
 でもね、少なくとも私に対しては遠慮しないで。私はそういうのも全部承知で、好きであなたと付き合ってるんだから」  
 ディアナはころころと表情を変えて、けれどやっぱり最後は彼女の十八番の快活な笑顔を湛えて、フレデリカに己が胸中を提示する。  
 そんな彼女の態度に、フレデリカは何だかまた申し訳ない気持ちで一杯になり、謝ろうとするが、  
「………ディアナ。ごめんね、私、」  
「――――――それに、フレデリカ。こういう時こそ積極的にアタックしなくちゃ。ほら、あなた最近はビュウとご無沙汰でしょ?」  
 ディアナの発した言葉に、出掛かった台詞を押し込められた。  
 まだやや貧血気味だった頭部―――主に顔面に、血液が集まっていくのを、フレデリカは確かに感じた。  
 ふふり、と意地悪そうに笑って、ディアナは俯く彼女を観察する。  
 …そう、ディアナは知っている。フレデリカが、反乱軍の戦竜隊隊長であるビュウに恋心を抱いていること。そして、緑の大陸・キャンベルの奪還からここに至るまでの連日の多忙で、ビュウが殆ど彼女の元に訪れていないことも。  
 作戦行動の合間の待機時間。ビュウはマテライトに雑用諸々を押し付けられ忙しいだろうに、それでも隊員たちの現状を少しでも把握しようと足繁く旗艦ファーレンハイトの中を普段から巡回している。  
 ベッドで寝てばかりで娯楽に乏しいフレデリカにとって、自分の元を訪れて雑談相手になってくれる彼がどれほど気晴らしになっているか。そしてそれが絶たれて久しい現状、どれほど彼女が寂しいかが、ディアナには容易に想像できたし。  
 噂好きの彼女にしてみれば、事が恋愛絡みで、それが親友のもので、しかも暫くの疎遠の後にまたとない絶好のロケーションが訪れたとあらば、大人しくしていろというほうが無理な話だった。  
「いつもは待ちの一手だからね〜。ここぞっていうチャンスでこっちから攻めないとね!」  
「う…でも、さっきも言ったけど私泳げないし…こんなところでビュウさんのところに行っても迷惑じゃ」  
「だーいじょうぶっ」  
 おどおどと危惧をいい連ねるフレデリカを、ディアナは指先を突きつけて制する。そして、にひっ、なんて少年じみた笑みを浮かべて、  
 
「状況は調査済み。策は練ってあるわけよ、フレデリカ♪」  
 
 ――――――持参した布袋から、『ソレ』を取り出したのだった。  
 
 

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