その後の事を少し語ろう。
「…そう、ですか。ヨヨ様が」
ヨヨの容態を伝えると、フレデリカはそう呟いて俯く。
ファーレンハイトの寝室のベッドで半身だけを起こし、枕元の席に座る俺の話を、心配げに、それでも彼女は黙って聞き届けてくれる。
「………ああ。命に別状はないみたいだが、とても戦える状態じゃないらしい」
「でも、やるしかないんですよね」
俺は、フレデリカの言葉に頷く。…洞窟で倒れ、苦しげに魘されるヨヨの顔を思い出し、強く拳を握る。
魔法都市のラグーン、ゴドランドの神竜ガルーダ。それを受け入れた瞬間、ヨヨはその激しい憤怒に耐え切れず昏倒し…今は、病床に伏している。自力で立つことも侭ならず、戦場に出るなど以ての外の状態だ。
「ダフィラでは、サウザーが軍を率いて待っている。激しい砂嵐が吹くラグーンだ、酷い乱戦になるのは間違いない。
…奴は、本腰で来るつもりだ。事が始まれば、パルパレオスも出てくるだろう」
視線を落とし、握った拳を更にぎゅっと締め付ける。自分でも、二人の強敵の名を紡ぐ声が僅かに震えているのが解る。
ここまで、数で劣るグランベロスとの戦いで勝利を収めてこられたのは、ヨヨの神竜を召喚する力に依る所が大きい。その力があるのは、彼女の他にはセンダックだけだ。戦力の大幅な低下は否めない。
「…ちっ」
手の震えが、止まらない。
…俺は。俺たちは過去に一度―――カーナ陥落の時も数えれば二度。既にサウザーに敗北している。そのいずれもが、言い訳の余地もない、惨敗だった。
個人の力量としても常軌を逸している、そのサウザー率いる軍勢に挑む、という大事な局面で背負わなければならないハンデ。俺は、それを恐れる自分に、隠そうともせず舌打ちする。と。
「…ビュウさん」
「―――!」
突然、唇に柔らかく、ひんやりとした感触。驚いて思わず息を呑めば、鼻先をふわりと心地よい香りが擽る。
ベッドから身を乗り出して俺に口付けしたフレデリカが、体を離し、穏やかに微笑む。
「落ち着きましたか?」
「…ん」
視線をあらぬ方向へ泳がせながら、俺は僅かだけその問いに頷く。いわれて、手の震えがフレデリカの行為の驚きで掻き消され、静まっていることに気づく。
「駄目ですよ。ビュウさんが不安そうにしてると、みんなも弱気になります。
だからビュウさんは、いつもみたいに真面目な顔で、どんと構えててください」
「…不謹慎だな。主君が寝込んでいるのに、それに仕える騎士がとっていい行動じゃない」
答えに窮し、相変わらず明後日の方を見ながら自戒の言葉を口にする。だが、殆ど間髪入れずに、
「はい。ですから、悪者は不意打ちした私だけです」
ビュウさんは全然悪くありません、なんて、得意げに彼女は笑った。
「………卑怯だな」
「そんなことないですよ。誰でも不安になるときはあります。それを誰かに励ましてもらうのは、全然ずるいことじゃ、」
「違う」
俺は―――左手でフレデリカの右手を掴み、ぐいと引き寄せる。
不意打ちなんかじゃない。真正面からの、純粋な力での拘束。空いた右手で、彼女の肩も抱き寄せる。
そうして、強引にフレデリカの唇を奪う。…彼女は、やはりさっき俺もそんな顔をしたのだろう、目をぱちくりと、驚きで瞬かせる。
「これで、同罪だ。…フレデリカ一人に、背負わせてたまるか」
ほんの少しだけ唇を離し、顔を肉薄させたまま。見つめる視線だけで、そういう約束だっただろ、と告げる。
「…ん」
顔を真っ赤に染め、恥ずかしそうにこくん、と頷く、俺に抱かれたままのフレデリカ。
俺はもう一度、彼女に唇を重ね、貪る。彼女は、触れている俺にしか分からないほど、静かに呼吸を乱しながら、それを受け入れてくれる。
心地よい息苦しさに苛まれながら、互いの吐息を直に感じあう。俺が舌でフレデリカの舌を求めて押し入れば、彼女も控えめにそれに、ちゅ、ちゅ、と触れ返し、応えてくれる。遠慮がちに二つの舌を触れ合わせながら、俺はあの日のことを思い出す。
「――――――私、不安だったんです。ビュウさんが、私を女として、魅力を感じてないんじゃないか、って」
自室のベッドで目を覚ました俺を見舞ったフレデリカは、力なく笑って、ぽつりぽつりと語りだした。
…俺が、フレデリカを残して気を失ったすぐ後。やはり俺たちの遭難を目撃していたディアナが、ムニムニと共に現れ、助けてくれたのだそうだ。
フレデリカがいうには、事情を察して代えの服まで持ってきてくれたらしい。噂好きのディアナにしては珍しく、俺たちにその時見聞きしたことの他言無用を約束してくれた。おかげで俺たちは、今も艦内であらぬ噂を立てられる羽目にならずに済んでいる。
そうして、最後に残ったのは、そもそも何故『彼女がディアナの誘いを聞き入れたのか』という、俺が結局訊かなかった疑問。それを、フレデリカは察し、自ら告白しに来てくれた。
「私は、ヨヨ様みたいに綺麗じゃありません。ディアナみたいに明るくないし、ルキアみたいにスタイルもよくありません。
だからそんな、女の私から見ても魅力的な女の子がいっぱいいるのに。
こんな体が弱くて、肌が白くて、体も細いばっかりの私なんて、ビュウさんは何とも感じないんじゃないかな、なんて。
…だから、ごめんなさい。私、ビュウさんを誘惑しました」
枕元のフレデリカが、弱弱しい微笑みを浮かべたまま、謝罪する。
それを前に、俺は、何も考えられず―――ただ、何故かも分からぬまま、ふつふつと溢れて来る感情の波に、胸を熱くしていた。
フレデリカがここに来るまで、俺はずっと彼女に乱暴な真似をしたことで自己嫌悪に陥っていた。だが、そんな安い矜持なんてどうでもよくなるほどに、俺の目の前にいるフレデリカは、『自分というものを粗末にしていた』
「…私、考えました。ヨヨ様にとってビュウさんが支えであるように、ビュウさんにも支えが要ると思うんです。
ビュウさんは優しい方ですから、誰も彼も支えようとして、それで最後は駄目になってしまうような、そんな気がするんです。
私、そんなの嫌ですから。ビュウさんが溜め込んだもの、我慢できなくなったもの。また、いつでも私に吐き出してください」
………彼女は、何を言っているんだろう。そんな、自分のほうが今にも泣き出しそうな笑顔をしているくせに、どうしてソンナコトを平然と口に出来るのか。自分を、欲望の捌け口にした男を前に―――。
ふつふつと溢れて来る感情が、やがて抑えきれないぐつぐつとした沸き立つものに変わっていき。
「今日のことで、安心したんです、私。
ビュウさんは、私のこと、ちゃんと女として扱ってくれてるんだ、ってこと、分かりましたから。
だからビュウさんは、私のこと――――――!?」
――――――気がつくと、俺はフレデリカに唇を重ねていた。
ただ触れるだけのキスだった。その時間も、ほんの数秒だけだった。それでも、俺と彼女にとっては確かに、初めての口付けだった。
「ビュウ、さ、」
「しない。俺は、フレデリカが考えてるようなことは、絶対にしない。して、たまるもんか」
湧き上がる感情に押され、激情がそのまま言葉になって吐き出される。頬を染め、フレデリカは呆然と俺を見つめる。
「フレデリカにはもう、あんな事までさせたのにな、今更、何で自分がこんな気持ちになってるのか全然分からない。
でも、俺は今、すごく、フレデリカを大切したいと思ってる。けど、その気持ちと同じくらい強く、俺はフレデリカが欲しい。
これが好き、っていう気持ちなのか、自信なんてない。まだ俺にフレデリカの誘惑が効いてて、頭がどうかなってるだけかもしれない。
だから、俺はフレデリカを抱かない。そんな中途半端な気持ちで、抱きたくない。
だから、俺は、俺が今フレデリカにしたいことをする。これから、フレデリカに会いに来る度に、今みたいにキスする。
何回でも、何十回でも。俺のこの気持ちが覆らないって胸を張って言えるようになるまで、俺はフレデリカを大切にする」
言葉が、止まらない。次から次へ、感情が声を後押しする。
自分で、自分の変貌に混乱する。こんなに必死に喋ったのも、こんなに纏まりのない理屈を人にぶつけたのも、一体いつ以来だろうか。
俺は、いつの間にか目を伏せていた。俯く自分の顔が、赤くなっているのが、鏡を見ずとも分かる。
「ビュウ、さん」
「っ…悪かったな、子供みたいな我侭で。俺は、女性経験ないようなものだし、どうせ、童貞の偽善だよ。
でももう、決めたからな。説得しようとしたって無駄だぞ」
駄目押し、とばかりに、まるで見当違いの宣言を、フレデリカにぶつける。
…暫しの沈黙。俺は、言いたいことだけ言い切って引っ込んだ自分の感情に、今更のように恨めしさを覚える。だが。
「………………………ふぇ」
やがて聞こえてきた、フレデリカの泣き声で、顔を上げた。
「…何故泣く」
最初から既にそうなりそうだった力ない笑顔が、本物の泣き顔に変わっていた。…それに、照れ隠しとはいえ野暮な反応を返す俺も俺だが。
フレデリカは流れる涙を手で拭おうともせず、心底からそうしたいのだろう、そんな風になりながらも、真っ直ぐに俺を見据えてくれる。
「だって、私…嬉しくてっ。ビュウさんの、隣には、いちゃいけない、いられないんだって…諦めてたから」
…俺は、しゃくりあげる彼女をそっと抱き寄せる。
無責任な愛の言葉なんて、今の俺には言えない。言おうにも、経験がないから言葉の持ち合わせもない。
「…俺のことを支える、か。有難い申し出ではあるけどな。これじゃあ、フレデリカを支える奴も必要だな」
だからやっぱり、照れ隠しくらいしか口に出来なかった。
けれど、フレデリカはすん、と鼻をすすり、目に溜まった涙をそのままにして。
「私は――――――もう、今のままで十分、支えてもらってますから」
俺の照れ隠しに、満面の笑みで、心からの言葉を返してくれた。
それが始まり。俺がフレデリカを、フレデリカが俺を支える関係。誰に、いつ知られるとも知れない、奇妙な蜜月関係は、こうして幕を開けた。
…宣言のとおり、俺と彼女には未だ明確な肉体関係はない。性欲の処理をしてもらったのも、あの日が最初で最後だ。けれど、キスの回数だけは、そろそろ百に届く勢いで重ねられている。何とも奇妙な間柄だった。
「…じゃあ、行って来る。出撃準備、しておいてくれ」
俺は、嬉しそうに微笑むフレデリカの頭をくしゃくしゃと撫で、寝室を後にする。もうすぐダフィラに降下する。その前に、甲板のドラゴンたちにも力のつくものを食わせておかなければならないからだ。
「―――ふぅーん、そうかあ。そうなんだー」
寝室を出て、ドアを閉めると、閉めたドアの裏側から、わざとらしい声が聞こえた。
「…何がそう、なんだ。故意犯の癖に、趣味が悪いぞ、ディアナ」
俺は、首だけ声のするほうに向けて、嘆息と共に悪態をつく。壁に寄りかかり、さも『計画通り!』といわんばかりの笑いを噛み殺してにやつくディアナがそこにいた。
「いやいや、二人を引き合わせたキューピットとしては、やっぱり結末が気になるわけよ」
「自分が引き合わせたのでなくても見境なしに追いかけまわすくせに、何がキューピットだ。柄を考えて言え、柄を」
騒動の発端であり、フレデリカとの蜜月のきっかけたる彼女の同僚の軽口に、再び悪態で返す。ディアナはそれに、えー、いーじゃない、キューピット、恋愛の神様よー、神様って気ままにやりたい放題が自然体だし、私にぴったりでしょー、なんて、不満を漏らす。
いやディアナ、確かにそんなものかもしれないが、プリーストのお前がそれを言うのはどうなんだ。
…だけど、まあ。ディアナの意図はともかくとして、俺が今、フレデリカと日々を過ごし、またあの日から変わらず、彼女を大切にしたいという思いを抱き続けているのは、紛れもない真実だ。
「まぁ、何だ」
「なに?」
「有難うよ。…一応、礼は言っておく」
「…どーいたしまして♪」
それだけ言って、返事をするディアナの顔を見ないまま、俺は足早に甲板への道を急ぐ。
つい先ほどまでの恐怖は、なぜか殆ど消えている。代わりに、呆れるほどに有り触れた危惧が、俺の思考の中で台頭する。
―――ああ、今日は暑くなりそうだ。
甲板へと階段から足を踏み出し、全身に照りつける日の光に目を細めながら、俺は―――元気一杯に突っ込んできたサンダーホークにぶっ倒されたのだった。
〜了〜