『Docta Ignorantia』
マテライトは一頻り勿体つけた後、彼に振り返って叫んだ。
「――――――フレデリカが退職金の代わりじゃ!」
…付き合いきれん、と独り言ち、ビュウは荷造りの仕上げをするために自室へと踵を返す。
噂を聞きつけ、マテライトの部屋の前で聞き耳を立てていたディアナやアナスタシアは、その出鱈目な宣言を聞くや否や中に押し入り、彼を問い詰めた。
おそらくは今でも、部屋では彼らの口論が繰り広げられているはずだ。
「…やれやれ」
とんだ退役になってしまった、とビュウは嘆息する。
だが、いずれにせよこれで義務は全て果たした。
戦竜隊の隊長の引継ぎはビッケバッケに。
各所の他の責任者にも事情は既に話してある。…センダックは甚く残念がっていたが。
…話は三日前に遡る。
「―――何じゃと?軍を抜けたい?」
カーナ宮殿のマテライトの自室。
眉を顰めるマテライトの前に立ち、ビュウはああ、と首肯する。
「…戦争も終わって、カーナの復興もやっとこれからという時に…わけを聞かせるのじゃ」
「戦争が終わったからこそ、だよ」
「………」
ビュウの言葉に、マテライトは低く唸る。先を続けろ、という素振りだった。
「これから、空≠ヘ荒れるはずだ。グランベロスっていう、恐怖…そして同時に、その強大な秩序が失われたことで」
…そう。グランベロス帝国―――皇帝サウザーの行いは、確かに武力による征服だった。
だが、それは民衆の恐怖と同時に、圧倒的な力に裏打ちされた、決定的な秩序の完成でもあったのだ。
しかし、帝国の崩壊によって、築かれた支配は崩れ―――それは秩序を良しとしないしない者を、野に放つことをも意味する。
「あんたも知ってるだろう。この世界で一番恐ろしいのは、竜でも魔物でもなくて…人間だって言うことを」
「…守るべきものは、カーナだけではないと。…そういいたいのじゃな」
無言で、ビュウは窓の外の青空に視線を向ける。
誰に応えるともなく、彼は静かに語る。
「俺に、やらせてくれないか。オレルスの守り手を。…バハムートと一緒に」
ビュウの言葉に、マテライトはどこか不機嫌そうに頭を振った。
「全く。ひよっこが大層なことをいいおって。うにうにの手も借りたい時じゃというのに」
「意外だな。あんたのことだから、
『おまえのような若造の手など必要ない!わしの手でカーナを復興して見せるのじゃー!』くらい言われると思ってたんだが」
「!勿論じゃ!べ、別にわしは困らん!ああ、全然全くこれっぽっちも困らんのじゃっ!!」
眦を緩めて笑うビュウに、マテライトは慌てて語気を荒げる。…数秒前に、手を借りたい、といったことも忘れて。
ビュウは敢えて、それには触れずにおく。
話を面倒にしたくないというのもあったが…何より、彼が自分を評価していてくれたのが嬉しかったからだ。
「―――じゃが。ヨヨ様が、気の毒でのう」
「――――――」
だが。次にマテライトの口から転がり出た呟きは、じくり、と、ビュウの心に刺さった。
「お前も知っておるじゃろう。パルパレオス将軍はグランベロスに戻り、ヨヨ様は寂しいのじゃ。せめて、おまえがいてくれれば…」
「…すまない」
ビュウは目を伏せて、マテライトに頭を下げる。
彼の謝罪に言葉を遮られ、マテライトはかぶりを振って自戒する。
「いや、悪かった。卑怯な物言いだったのじゃ。これでは、わしもあの男のことをいえんのう。
本来なら、わしがいの一番にヨヨ様の支えにならねばならんというのに。
…わかったのじゃ。お前が自分の意思で決めたのなら、仕方ない。
処理はわしとセンダックで進めておくから、お前は仕事の引継ぎのほうをするのじゃ。
退職金の件もあるから、三日後にまたここに来るようにな」
そう、許可と今後の手筈をもらい、ビュウはマテライトの部屋を後にした。
…直後。口を閉じた扉に背中を預けて、彼はく、と自嘲気味に笑った。
(…自分の意思で、か。確かに、そうなんだがな)
脳裏に浮かびかけた『彼女』の顔を振り払う。
自分を落ち着かせるように、ビュウはこの国での最後の仕事を片付けるために歩き出した。
―――そうして。約束通り全ての引継ぎを終え、三日後にマテライトを訪ねてみればこの有り様だったというわけだ。
「全く…妙に聞き分けがよかったかと思えば。マテライトも何を考えてるんだか」
戦後復興で金がない、という理由はわかった。退職金の現物支給も、この際止むを得まい。
だが、何も人をモノ扱いすることはないだろう…と。ビュウも色々と思うところはあったのだが。
結局のところ、彼にしてみれば、マテライトが軍の退役を許してくれた時点で、目的は果たされてしまっていたのである。
だから、退職金の代わりが、例えうにうじだろうが竜の糞だろうが、初めからどうでもよかったわけで。
(さて…とばっちりを食う前に、退散するか)
足早に自室に向かい、ドアノブに手をかけて引く。と。
「あ、ビュウ」
―――だから。まさかそこに、マテライトの言葉通りの女性が待っていた、なんて状況は。全く、想定していなかったわけで。
「………フレデリカ。何をしてる」
「え、と?…あれ、マテライトからお話、聞いてないのかしら」
数秒。ビュウは停止した思考を取り戻すまでその場で固まり、抑揚のない声で問う。
綺麗に片付けられた部屋に残されたベッドの白いシーツの上にちょこんと行儀よく腰掛けたフレデリカは、さも不思議そうに首を傾げる。
「…聞いてるが。退職金の代わり、か?」
ビュウが頭を抱え、渋々答えを口にしてみれば、フレデリカはほっとしたように微笑み、こくりと頷く。
(ちっ…マテライトめ。いつになく手回しがいいじゃないか。どういうつもりだ。
というか、そもそもどうしてフレデリカなんだ。
確かに戦争中は、病弱なせいで戦闘以外では殆どベッドに伏せている彼女の話し相手になったりして、傍目にはそういう仲≠ノ見えないことはなかったかもしれないが―――それは純粋に、隊長として彼女の体が心配だっただけで―――ああ、くそっ)
内心で舌打ちをしながら、元上司に皮肉と愚痴を垂れるビュウ。
「…はぁ。フレデリカ、真面目なのはいいが、マテライトの言うことを一々真に受けていたらきりがないぞ。
どうせ思いつきで言い出したんだろうし、何も本気にしなくても」
何かを期待するように自分を見つめるフレデリカに、ビュウは嘆息と共に忠告を投げかける。
「思いつき?」
「ああ。きっとそうだ」
あいつとは付き合いが長いからな、と、ビュウは肩を竦めて机の上に残った書物類をまとめ始める。
戦竜隊の中でも比較的常識人のフレデリカであれば、これで納得することだろうと彼は思った。が。
「―――でも、困ったわ。マテライトは、もう私の除籍処分をしてしまったから」
ドサドサッ。ビュウの手から、抱えられていたドラゴンの飼育ノートの束が床にぶちまけられる。
―――除籍処分。…つまり、もう、カーナ戦竜隊には、フレデリカの居場所はないということだ。
「わ、大丈夫?」
「ああ…」
思わず、ビュウは眉間に手を当ててその場で頭痛を押さえる体勢に入ってしまう。
ああ、あの金ぴか鎧は、本当に今回に限ってどうしてここまで手回しがいいのか!…などと口から飛び出そうになった文句を押し込めながら。
「…フレデリカ。それ、マテライトからちゃんと事前に確認されたのか?」
「え?…それは、その…ん、と」
「ああ、いやいい。聞いた俺が馬鹿だった。アレがそんな几帳面なことするわけないか」
問い掛けられ、困ったように口篭るフレデリカの言葉が遮られる。
彼女はその呆れたようなビュウの態度に、苦笑いで返す。
(最後の最後にこれか。…やれやれ)
今日何度目かの溜息を吐き、散乱したノートを回収しながらどうしたものかと思案する。
…と。ビュウの記憶の片隅に、過去の彼女の、ある言葉が引っかかった。
妙案か、と、彼はそれを口にしてみることにした。
「そうだ。フレデリカ」
「なにかしら?」
「前に…アルタイルに行った時、薬屋を開きたいっていってたな。
どうせマテライトの思い付きだ、俺に律儀に付き合うことはない。いい機会だし、自分のやりたいことをしたらどうだ」
アルタイル。バハムートを初めとする、オレルスの神竜たちの故郷。
空の扉の向こう側に広がる異世界に導かれ、最後の戦いを前に、フレデリカは己の望みを、ビュウに語っていた。
「ん…それは、そうなのだけれど」
ビュウの提案した選択肢に、フレデリカは短く唸って、指をむじむじと組みながら視線を床に落とす。
「今は、ビュウのことが心配だから」
「心配?俺がか?…ん、こっちもか」
微笑みながら語る彼女に、何の気なしに問い返しながら、ビュウは机の下に飛んだ一冊に手を伸ばす。
…その言葉が。彼女の―――フレデリカの、確固たる意志であるとは知らずに。
「うん。だって、ビュウ―――――――――でしょう?」
「………っ…?」
――――――吐き気が、襲う。
それは、突然にやってきた。
ビュウには、フレデリカの言葉が聞こえなかった。否、聞こえていたが、それを認めることを、彼の理性が拒んだ。
…自覚は、あった。だが、考えないようにしていた。それはいい。
けれど―――それを、まさか、彼女が口にするはずがない、と、
「ビュウ?…あ、ごめんなさい、声が小さかったかしら」
フレデリカは、そんなビュウの内心を知ってか知らずか、彼の内へと更に踏み込む。
今度こそ、逃れられない。逃れるわけにはいかない、彼女の言葉が彼へと届いた。
「ビュウ。貴方、ヨヨ様から逃げようとしているでしょう=H」
「―――っ」
喉が、熱い。フレデリカの言葉は、まるで焼き鏝のように、彼の中を焦がすように、抉りぬく。
「…馬鹿な。マテライトから、聞いてないのか。俺は、オレルスを守るために、」
「うん。ビュウは誠実な人だから。確かに、それもあるのでしょうね。
…けれど、それは同時に、ビュウが、弱い自分を、自身で納得させるための口実でもあると思う。
嫌なのでしょう?このままヨヨ様の近くにいて―――そして、またヨヨ様に傷つけられるかもしれないのが」
「…フレデリカ。少し、黙ってくれ」
どくん、どくん、と。ビュウの鼓動は、秒毎に、苦しいほどに早まっていく。
彼の制止の懇願も、フレデリカは意に介さぬかのように続ける。
いつからそうだったのか、彼女の視線は、昂ぶる彼を射抜くほど強いものへと変わっていた。
「貴方のこと、ずっと見ていたから。私には解る。
…ビュウ。人の弱いことは罪じゃないし、それを周囲に悟らせまいとすることも、強さなのだと思うわ。
けれどね。隠そうとするその弱さが人に理解ってしまうと、それはその人にとって、見ていて痛々しいだけ」
「…頼む。黙って、」
「貴方が自分でどう思っているかは知らないけれど―――グランベロスや、魔物たちとの戦いの合間に。
ベッドに臥せって、弱気になっている私を貴方が訪ねて来てくれたことは、私にとって、すごく心強い支えだった」
どくん―――。
(違う…俺は、そんなつもりじゃあ、)
「黙って、って、いってるだろ…」
「ねえ。あの時、私、こうもいったわ。『今のままじゃ駄目だ、戦争が終わったら、元気になるように頑張りたい』って。
…私、頑張る。元気に…強くなれるように。私をそう思えるようにしてくれたのは、ビュウだから。
今度は私が、ビュウが強くなれるように支えになってあげたい。だから、」
刹那―――フレデリカの身体は、ビュウの手でベッドへと仰向けに押し倒された。
「黙れ…っ!」
息を荒げ、目を血走らせて。苦しげに、ビュウは直下のフレデリカを睨めつける。
両腕で彼女の肩を押さえつけ。拾い上げた書物を、再び床に散らかして。
それでも、フレデリカの視線は尚も眼前の彼を射抜き続ける。
「………だから。ビュウ。自分の弱さを認める強さを…勇気を持って。私のこと、酷い女だと思ってもいい。今すぐじゃなくてもいい。
私、ビュウに弱さを打ち明けてほしい。そうなれるように、私、頑張るから」
「黙れ…黙れよっ!!」
希うように―――フレデリカの視線から逃れるように―――強く、目を閉じて。ビュウはうわ言のように繰り返す。
その手に掴んだ彼女の肩を、万力のような力でぎりぎりと締め付ける。
「―――いい。わかった」
脅しつける声で、ビュウは彼女を押さえ、圧し掛かったまま言葉を紡ぎ始めた。
「退職金の代わりだからな。…俺が、フレデリカをモノみたいに扱っても、文句はないはずだろ」
―――お前を慰み者にする=\――と。ビュウは語気を荒げ、強く、脅迫する。
フレデリカが、いかに過酷な戦場を生き抜いたプリーストだとしても。
女性である以上、男にこういう類の言葉で迫られ、怯まぬはずがない。
そう、彼は、矜持も理性もかなぐり捨てて。騎士としては勿論、人として最低の選択肢を選んだ。
「――――――うん。いいわ。気の済むように、すればいい」
けれど―――彼女の意志は、塵ほども揺るぎはしなかった。
「けど、一つだけ言い切れる。今の貴方が私に何をしようと、私は汚せない、壊せない」
「なん、だって―――?」
淀みのない瞳で見つめ返すフレデリカに―――圧倒的優位な立場にあるはずのビュウが、逆に怯む。
それに呼応するように、彼女を押さえつける腕から力が抜け、がくがくと揺らいでゆく。
「ほら…手が震えている。
怖いんでしょう。人に、踏み込むのが。踏み込んで、傷つけられるかもしれないのが。
今の貴方は―――ヨヨ様だけじゃない。自分以外の、全ての人に踏み込むのが、怖くて仕方がないのでしょう?」
清水のように淀みなく紡がれる問い掛けには、少しの同情も、哀れみも篭らない。
ただ、フレデリカの、ビュウと真っ直ぐに向き合おうとする決意だけが、そこにあった。
「…お願い。その弱さを認めて。大丈夫、今まで弱音を吐かず、耐え抜いて、戦ってきた貴方を、誰も責められはしないから」
フレデリカの、確信に満ちた言葉。
それらは一つの例外もなくビュウの最奥に響き―――その心を、完膚なきまでに、へし折った。
「………」
「………」
………上下の関係をそのままに、睨み―――否。見詰め合ったまま。
長い、長い沈黙が部屋を満たす。
だがやがて、ビュウは目を伏せ、組み敷いたフレデリカを解放した。
「ビュウ」
「フレデリカ」
ビュウは彼女に背を向け、床に落ちた書物を再度、集め始める。
ゆっくりと半身を起こしたフレデリカに名を呼ばれ。彼もまた彼女の名を呼び返す。
「今じゃなくてもいい。そういったな」
「うん」
「もしかして、ついてくる気か。…俺が、認めるまで」
「勿論よ」
「俺は、強情だぞ」
「…知ってる。こんなに頑固だとは、思わなかった」
「失望したか」
「ううん。やっぱり、私がビュウを支えなくちゃって。危なっかしくてしょうがないもの」
「………一応言っておく。ついて来るな」
「わかった。その代わり、ここで、私を殺して」
「………はぁぁぁぁ」
長い、嘆息。ビュウは本を集める手を止め、きょとんとするフレデリカへと、振り返る。
「―――全く。降参だ、もう、好きにしてくれ」
その目には、最早僅かの怒気も狂気も、含まれてはいなかった。
フレデリカは破顔し、ビュウの緊張の抜けた呆れ顔に嬉しそうに微笑み返した。
「しかし、分からないな。どうしてそんなに、俺を気にかけるんだ」
いくら何度もお見舞いに来た恩とはいえ度が過ぎているのではないか、と、ぽりぽりと頭を掻きながら、ビュウは溜息と共に問う。
すると、フレデリカの表情が一転し―――恐らくは、今日ビュウが見る初めての、明らかにそれと解る不機嫌なものに変わった。
「ビュウ。…もしかしたらと思ったけど。やっぱり忘れているのね」
今度は、フレデリカが眉間に皺を寄せる番。
むーっと唸る彼女を前にし、ビュウは狼狽する。
「はぁ。…ビュウ。私がアルタイルでいった言葉。もう一度、よく思い出してみて」
「ん?」
フレデリカに問われ、ビュウは頭を捻る。…確か、先ほどの彼女との会話でも何度か使われたはずだ。
『今のままじゃ駄目だ、戦争が終わったら、元気になるように頑張りたい』…これだ。
「その後よ」
「………薬屋を開きたい、か?」
そう。あの言葉の後には、そう続いたはずだ、とビュウは一人納得する。
だが、フレデリカは不服そうに眉をハの字に曲げて睨んでくる。
(まだ、何かあったか…?)
自分が見逃しているらしい単語を、必死に脳の記憶中枢を引っ叩いて引きずり出そうと試みる。と―――。
「あ――――――」
そういえば、いっていた、と。
「思い出した?」
「いや、まさか、そんな、おい、待て、待てまてマテ」
だが、それを口にするにはビュウは少し羞恥心が勝ってしまったらしく、しどろもどろと呂律が回らない様を晒す。
それでも、フレデリカは彼が自身でそれを口にするまで許さないという風にやんわりと微笑む。
…やがて、ビュウも覚悟を決めて、抜けていた′セ葉を、先ほどの台詞に補填する。
「…元気になったら。その時は一緒に*屋を始めたい…」
直接、口に出し、ビュウは自身で自身の顔が真っ赤に火照ってゆくのを実感する。
彼の呟いた言葉を確認し、フレデリカもまた、もじもじと恥ずかしそうに、ベッドに座ったまま頬を染める。
「うん…そう。だから、その…ビュウが、人の内に踏み込むことが怖いままでいられると…困るの」
その、フレデリカの態度に対峙して。ビュウはぐるぐると詮のない思考を巡らせる。
…実際。ビュウはアルタイルで彼女のその言葉を聞いた時は、それが本気だとは思わなかった。
彼女は体調が悪くなると、ネガティブになり誰彼構わず敬語を使うようになる癖がある。
それを話した時の彼女はその癖が出ていたため、ビュウはそれを、異世界で不安になる自分自身を落ち着かせるための、一時的なものだと決め付けていた。
だが、思い当たる節は確かにある。
先ほど自分が、退職金の代わりだという彼女に苦し紛れに口にした『薬屋を開いたらどうだ』という提案。
さらりと流してしまったが―――彼女は、それを自分の意思で口にしたものと、しっかり記憶していた。
そして、彼女は更に『今のままでは駄目だ』という台詞も自ら口にした。つまり、
「…まいったな。本気だったのか、アレ」
「一応…私なりの、精一杯の告白だったのだけれど。ビュウってば、忘れてるんだもの」
駄目?という風に、おそるおそる訊ねるフレデリカ。
ビュウはむぅ、と唸って赤面しながら、応える。
「フレデリカ。俺は、―――!?」
突然。フレデリカが、吸い込まれるように、ベッドに倒れこむ。
ビュウは本を元の机に乱暴に置き、仰向けに微かな呼吸をする彼女へと駆け寄る。
「フレデリカっ」
「ん…大丈夫、です。ごめんなさい、ちょっと、頑張りすぎちゃったみたい、ですね」
フレデリカは血の気の引いた顔で、無理矢理作っていることが明白な微笑を浮かべる。
「大丈夫ってな…っ!」
とてもそうは見えない、とビュウはベッドに膝を突き、彼女の体を抱き起こそうとする。
が、彼がフレデリカの肩に触れるや、彼女は苦しそうに悲鳴をかみ殺す。
(………当たり前だ。痛くないわけが、ないだろう…!)
そこは、先ほどまで他でもない、ビュウ自身が全力以上の力で握り締めていた場所。
彼が掴んでいる間、彼女が想い人に言葉を伝えるために、どれほどの痛みに耐えていたか―――。
ビュウは、生まれて初めて、自分自身を殺したいほど憎み、歯噛みする。
「…寒い」
一度だけ、小さく震えて、フレデリカはもぞもぞと覚束無い手つきで脇にのけられた毛布を探ろうとする。
「すいません、ビュウさん。少し、借りますね―――!?」
それを、遮って。
ビュウは毛布で自身を。そして、その腕で、フレデリカの身体を、後ろから包み込んだ。
彼が抱きすくめた彼女の体はとても軽くて、そしてひんやりと冷たかった。
「あ、あの、ビュウ、さん」
「…やれやれ。強くなる、というわりに、その癖は直らないんだな。呼び捨てでいい」
呆れたような―――けれど、どこか温かい口調で、ビュウは穏やかにフレデリカの顔を見下ろし、囁く。
「あぅ…い、いいんです。これから、もっと頑張って、直しますから」
「そうか」
いつもの調子のフレデリカに、ビュウは毒気を抜かれ、先ほどまでの羞恥が不思議なほどあっさりと消え去ってしまっていることに気付く。
ああいや、全く―――フレデリカの言うとおりだ、と。ビュウは自分の弱さを妙な形で実感させられることに苦笑する。
(…俺とフレデリカの距離は、今はこのくらいが相応らしい)
「ビュウさん?」
「いや。何でもない。…それより、さっきは、すまない。薬は飲まなくていいのか」
「…謝りながら意地悪なこと、言わないで下さい。それとも、わざとですか?」
フレデリカは共に毛布に包まるビュウを、恨めしそうに見上げる。
「薬がなくても、少しだけなら元気に振舞えるようになりました。そこは誉めてほしいです」
子供っぽく意地を張るフレデリカに、ビュウは内心で感心する。
体調を崩してもこれだけ言えるようになったのか、と。彼は戦後間もない期間での、自分は知らない彼女の努力を想う。
(俺も…少し、頑張ってみるか)
「あ…そうだ。ビュウさん、今日発つ予定だったんじゃ」
「ん、気が変わった。…それに、どちらにしても、その調子じゃ今日は無理だろう」
眼下の女性を見遣り、渋々、という風に、わざと素っ気無く言い捨てる。
ビュウの腕の中で申し訳なさそうに萎縮するフレデリカ。
彼は、そんな彼女を静かに抱きしめる。痛まないように、そっと、そして、しっかりと。
「っ、ビュウ、さん…?」
胸と、背中が密着する。…静かだけれど、確かなフレデリカの鼓動を感じる。
編まれたブロンドの髪と、ローブの襟元の間に覗く首筋から香る、微かな汗の匂いがビュウの鼻腔を擽る。
そうして。彼は意を決して、一歩を踏み出した。
「フレデリカ。――――――キスして、いいか」
肩越しに、耳元で囁く。
…彼の位置からでは、フレデリカが今、どんな顔をしているかは見えない。
だが、彼女の体の血液という血液が顔へと集まっていくことは、はっきりと解った。
だって―――フレデリカの頬から、耳元まで。すっと朱を帯びていったから。
「…うん。ビュウ」
小さく。ともすれば聞き逃してしまいそうな、消え入るような承諾を受け取って。
二人は目を閉じて、触れるだけの口付けを交わした。
…その後。そのまま、まどろみに落ちたフレデリカを抱きとめながら、ビュウは苦笑して思うのだった。
(大空を駆ける薬屋か。まぁ…もう少し捻りがほしいか)
――――――彼が自身の抱える弱さを認め、乗り越えるのは、そう遠くない未来かもしれない。
〜了〜