王国カーナの永き歴史の最後の一日となるその日も、もうすぐに終わろうとしていた。  
世界を落日が赤く照らす。  
やがて闇夜へと続くのであろう黄昏の中。戦火の街路を駆け抜けていく二つの人影があった。  
辺りを警戒しつつ、それでも素早く前を走っていくのは一人のナイトである。  
いかにも騎士然とした造りの盾を背負い、左腰には長剣を提げている。  
そのなりで鋼鉄の鎧をまとった重装であるにも関わらず、彼の足取りは速くそして強かった。  
勇壮な甲冑姿の割に顔立ちは随分と若い。まだ少年兵と呼ぶにふさわしい年齢だろう。  
視覚と聴覚を著しく妨げる兜は既に捨てたのか、普通は戦場ではあらわにならないはずの短い髪が、  
走る動作に合わせて揺れていた。  
もう一つの人影は彼よりいくらか背が低い。  
魔法使いたちの使う長いロッドを持ち、ナイトの後ろを遅れがちに、つまづきがちに追っていく。  
フードつきの白いマントを被っているため姿は定かでないが、どうやら女性らしい。  
 
不意に、崩れるように彼女が膝をついた。金属音をたててロッドが石畳に弾む。  
ナイトがはっとして振り返った。  
彼女のフードが落ち、透き通る琥珀の髪が乱れて肩の上に散らばっている。  
その肩を激しく弾ませて息を継ごうとするのは、容貌にあどけなさの残る少女だった。  
年頃はナイトとさして変わらない。淡いレモン色の服にカーナの司祭位を示す紋章がついている事から、  
彼女がプリーストである事が見て取れる。  
陽光や笑顔が似合いそうな可憐な面差しには、しかし今は絞め殺されかけた小鳥のような絶望が  
色濃く滲んでいた。  
ナイトが差し出した右手にすがりつき、少女はようやく上体を支えた。  
肺を破らんばかりの呼吸の下から、弱々しい声を絞り出す。  
「もう、駄目。わたし、走れない……  
 あなた、ひとりで……にげて」  
「バカ言うな、栄光ある戦竜隊のナイトが女の子見捨てて自分だけ逃げられるかよ!」  
怒ったような口調でナイトが言い放つ。  
その戦竜隊という組織も、それどころか彼をナイトたらしめるカーナという国家すらも  
永遠に滅び去りつつあるこの夕刻の中にあってなお、彼の目からは昂然たる光がいまだ  
失われてはいなかった。  
 
プリーストである彼女は、ナイトと比べて走力に劣る。  
戦場で随伴行動する際には速い者が遅い者に合わせるのが鉄則なのだが、それさえ忘れて  
相手に限界以上のペースを強いてしまったと気付き、ナイトは自責に唇を噛んだ。  
しかしそれも一瞬だった。  
決然とした動作で、盾を吊るベルトを肩から外して放り落とす。  
軽くはないそれを今まで携えていた所からして、彼にとって価値の薄い物ではなかったのだろう。  
だがもうその鉄塊を一顧だにせず、ナイトは即座にロッドを拾い、それから少女を強引に背の上へ  
ひきずり上げた。  
力尽きた細い体は容易になすがままになる。  
「あ……!」  
有無を言わさず背負われ、少女が小さく声を上げた。  
その間にもナイトは彼女の両膝を脇腹で抱えこみ、一度揺すり立ててから走り出した。  
「い、いけない……  
 あなたまで、逃げられなく、なる、ってば」  
「うるせえ、黙ってろ!」  
か細い制止は地を蹴るリズムに寸断され、その上で怒声に撥ねつけられた。  
言葉と動作は乱暴きわまりないが、少女を離すまいとするナイトの腕には真摯な意志が満ちている。  
何を言ってもきっと無駄に違いない。  
ふうっと息を吐き、彼女は相手の肩に頭をもたせかけた。  
 
遠い昔、こうして母親に背負われて、夕日に輝くカーナの街を見ていた時があった気がする。  
それは今の状況ではあまりにも物悲しく場違いな連想ではあったが、はかない金色の幻は少女に一瞬だけ  
現実を忘れさせた。  
心を縛っていた茨の蔓がふわりとほどけていく。  
力を抜いてナイトに全身を委ねると、彼の体が揺れるぶっきらぼうな動きすら、不思議に懐かしく快かった。  
 
「…………ありがと……」  
聞こえなかったのかわざとなのか、かすかな呟きにナイトは応えない。  
ただ己を叱咤するようにもう一度少女を背負い直し、速度を落とさず走り続ける。  
最後の残照が、二人の姿を茜色に染め上げていた。  
少女のすんなりとした両脚は、司祭服のスリットから割り出されて腰の際まであらわになっている。  
その格好で膝の間に異性の体を抱いた姿勢は、見ようによってはかなり際どい有様と言えなくもない。  
が、今は二人とも、そんな事に気付く余裕も構う余裕もまったく持ち合わせてはいなかった。  
 
 
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彼らとて、戦う術をろくに知らぬ子羊ではない。  
その立場に充分足るだけの訓練を受け、一線の軍人として戦場に立つ、れっきとしたカーナの精兵だ。  
現に、見かけから二人を侮って後れを取った敵兵を、既に何人も倒してここまで逃げてきている。  
実戦経験に劣るとはいえ、戦闘力では大人と比べてもほぼひけを取らないだろう。  
そしてこの若年でそこに達しているという事は、彼らが高い素質を備えた逸材である事を語るものでもあった。  
そうではあるが。  
やはり、軍人としてはこれほど幼い男女を最終防衛戦に投じなければならないという選択そのものが、  
カーナの追いつめられた窮状をあからさまに示している。  
そしていまや炎上する祖国の王都と共に、二人の命運もここで尽き果てようとしていた。  
 
けれどそれを知ってか知らずか。  
少女はかろうじて、少年は頑なに、彼らはこの状況下で一縷の望みを捨てきってはいなかった。  
 
ずいぶん走った末、ようやくナイトが歩調を緩めた。  
その頃にはもう日は落ち、西空のわずかな明るみも宵に食われて、空は刻々と藍へ変わっていく。  
彼は狭い横道へ身を滑り込ませると、犬のように荒い息をつきながら足を止めた。  
目につきにくい物陰を選び、少女をそこへ下ろす。ついで自分も傍に座り込んだ。  
少女ほど消耗が激しくないとは言え、彼の呼吸も今は相当に上がっている。  
目を閉じて息を整えようと専念するナイトに、しばし経ってから少女が声をかけた。  
「あの、ごめん……ね」  
ナイトがぱっと目を開いた。  
少女に顔を向け、気にすんな、と短く答える。  
その眼差しは、怒気に燃えた時の迫力が烈しいだけに、こうして凪いでいると意外に雰囲気が変わって見える。  
よく見るとけっこう子供っぽい目だなと今初めて少女は思った。  
「走るのは慣れてる。どうって事ねえよ」  
そう続けてから元の姿勢に戻った彼の息づかいは、確かに短時間でだいぶ治まってきていた。  
 
少女はロッドを握ってうつむいた。負傷ならばともかく、疲労は自分の魔法で対処できるものではない。  
ふと、司祭服の裾が激しく乱れたままなのが目に入った。  
慌てて服装を整え、布地の下に足を隠す。  
ついでに背負われていた時の事を思い出し、今更服の乱れを気にするのはあまりにも遅すぎた事実を悟った。  
が、上目づかいにこっそりナイトの横顔を見ると、相手はその件について完全に気付いていない様子だ。  
(良かった)  
肌を見られたのどうのと騒いでいる場合でないのはわかっていたものの、少女は内心ほっとした。  
あられもない自分の姿を彼に意識されていたら、尚更いたたまれなかっただろう。  
今は逆境の中に二人きりで、頼れる同胞といえばこのナイトだけなのだ。  
 
 
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薄暗い路地でじっとしていると、今までは想起する余裕もろくになかった数刻前の恐ろしい記憶が、  
にわかに少女の意識へと忍び寄ってきた。  
あれほど美しかったカーナ王宮が炎に包まれる光景。  
白亜の竜牙と讃えられたその城の、無惨にして壮麗な最期が瞼によみがえる。  
 
あの時、敗北が決定的となって城から離脱する際に、少女は友軍とはぐれ一人になってしまったのだ。  
カーナの下町の小道は煩雑に迷走する。帝国兵から逃げるうち、自分がどこをどう走っているのか、  
彼女にはまったくわからなくなっていた。  
背後からレギオンの足音が追跡してくる。  
それは路地にこだまして距離感を失い、遠くにいるようでも、すぐ近くに感じられるようでもある。  
だが決して聞こえなくなりはしない。  
──ああ、神様。  
その祈りはどこへ届くのか。  
プリーストは主に仲間の回復と補助を担う職種である。したがって、単独では敵に対して決定打となりうる  
抵抗手段をほぼ持たないと言って良い。  
高位の白魔法には攻撃的な術もあるにはあるが、まだ駆け出しの彼女にとっては無縁の話だ。  
追いつかれればそれまでだろう。  
 
不意に、疲れきった足がもつれた。  
「!!」  
目前の塀にすがりつく。なんとか転びはしなかったが、四肢が軋んで姿勢を立て直せない。  
やや離れた角にレギオンが姿を現し、今や王手をかけようとこちらへ走り寄るのが見えた。  
しかしどうする事もできなかった。少女の青い瞳が苦しげに瞑られる。  
その時。  
塀に当てられたままの彼女の耳に、高速で迫り来る別の足音が届いた。ただし頭上の方で。  
──上!?  
ぎょっとして見上げた瞬間、呆れるほどのスピードで塀上を疾走してきたそれが、最後の足場を蹴った。  
急降下する火竜の翼さながらに、空中で翻る赤い戦衣。  
ものものしい金属音をたてて着陸し、少女を背にかばって間髪いれず抜刀する。  
まるで非常識な冗談のように突拍子もなく、そこにいたのは甲冑姿の一人のナイトだった。  
 
レギオンが立ち止まった。  
文字どおり降って湧いた新手に道を阻まれ、怯むというよりあっけに取られている様子だ。  
猶予を与えず、畳み掛けてナイトが間合いを詰める。  
狼狽しきってレギオンも剣を抜いたが、彼の構えはまともな形にすらなっていない。  
でたらめに振られた刃は、あっさりと盾で弾かれた。  
掲げた盾の陰から、ナイトの剣が流麗に一閃する。腕を傷つけられてレギオンが剣を落とした。  
ひっと悲鳴を上げると、帝国兵は戦意をくじかれて闇雲に逃げ出した。  
それをナイトは追わない。飛燕のようにくるりと刀身を反転させ、一動作で鞘に収める。  
シャン!と小気味よい音が煉瓦壁に反響した。  
あまりにも瞬時に片付いた事態を前にして、少女は助かった事を自覚する間もなく、  
ただ唖然として一部始終を見守っていた。  
「来い!」  
鋭い目を少女に向けてナイトが一喝した。それでびくっと我に返る。  
ナイトは彼女の手を強く引き、先に立って路地を駆ける。  
王宮に上がるような軍人にしては珍しい事だが、彼は下町の地の理に実に詳しかった。  
敵兵の多そうな箇所を巧みに迂回しながら、入り組んだ小道をすり抜けていく。  
逃げる合間、彼も少女と同じように仲間を見失ったのだと手短に語った。  
そして、偶然に彼女が追われている場を見かけたからああしたのだと。  
 
どのくらい走り、追撃を退けただろうか。そうやって今、二人はここにいる。  
 
 
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これまでの人生で、今日よりも酷い一日なんてありえない。  
少女の「これまでの人生」の長さは老兵と比すればほんの短いものでしかないが、それでも今の彼女は  
そう思わずにいられなかった。  
グランベロス帝国将軍たちを前にして、彼らの力はまるで歯が立たなかった。  
国王陛下はなすすべなく殺された。  
ヨヨ王女はどこかへ連れ去られ、生死もわからない。  
少女やナイトたちが生まれ育ったこの故郷、カーナという国は今日で消滅する。  
仲間たちは、彼らと同様に年若い者も多かったカーナ軍の皆は、いったいどうなったのだろう?  
ビュウは、フレデリカは、アナスタシアやエカテリーナは、ミストさんは……  
次々と脳裏に浮かんでくる者たちも、既にこの世にはいないのかも知れない。  
ふたたび暗い潮のうねりに心が呑まれそうになり、少女は両手で自身を抱きすくめた。  
 
「……大丈夫か」  
軽く肩を揺すられ、はっと相手を見る。  
ナイトが心配そうに彼女の様子をうかがっていた。  
「顔、まっ青だぞ」  
「あ……うん、平気」  
答えた声は、しかし嘘だと自ら明かさんばかりに震えていた。  
少女は気力をふるい起こして怯えを戒めようとしたが、自分の心が折れそうになっている事実は  
ありありと彼に伝わってしまっているに違いない。  
そんな彼女を前に、ナイトは辛そうに目を伏せる。次に口を開くまでに長めの沈黙があった。  
「心配するな。  
 今は──オレが、守るから。約束する」  
荒削りな口づかいで言う彼の面持ちは、ひどく真剣だった。  
少女を安心させるための言葉を懸命に探して、そんな体当たりな言い方しか見つからなかったのだろう。  
こんな状況で言われたのでなければちょっとロマンチックな錯覚を招きそうな台詞だな、  
と少女は心の片隅で思った。  
「何ができるかわからねえけど、オレはあきらめない。  
 最後まで、きっとお前を守る。  
 だから……もう、そんなふうに……」  
あとは言葉をうまく掴まえられず、焦れた様子でかぶりを振る。  
空白を破ったのは少女の方だった。  
「最後なんて言わないでよ」  
やや跳ねっ返り癖のあるマリーゴールド色の髪を後ろに払うように、彼女ははっきりと顔を上げた。  
その髪の佇まいに似つかわしい芯の強さが、まなざしに戻りかけている。  
ナイトはわずかに目を見開き、やがて表情を和らげた。  
「ああ。そうだな」  
「ね」  
彼を支える内なる炎が、自分にも移ってきたように少女には思えた。  
戦場では、ナイト達と共にいると常ならぬ戦意と鋭気が一撃に宿る事があるという噂だが、  
「クリティカル」と呼ばれるその不思議な力の本質がこれなのだろうか。  
そう考えてから、彼女はそっと打ち消した。  
(ナイトだからじゃなくて、多分、この人だからなんだ)  
 
確かに酷い一日ではあった。そして状況は今も変わらない。  
けれど少なくとも、まだ自分が生きてここにいて、隣に一人の仲間が存在してくれている事には  
感謝すべきなのかも知れない。  
そう思えばこれが最悪の時ではないような気がした。  
「大丈夫。私だって軍人だもの」  
喉の奥に力を込める。今度はしっかりした声が出せた。  
 
 
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少女と並んで座るナイトの呼吸は、既にほとんど落ち着いてきている。  
重力への反骨心を旺盛に示す彼の髪の枯草色を眺めながら、少女は頭の中のメモ帳をめくった。  
このナイトは確か、戦竜隊長ビュウの部下のうちの一人だ。  
先程の城での防衛戦でも、彼女と別の小隊に所属して戦っていたはずである。  
名前は……なんといっただろう。  
 
顔には確かに見覚えがある。しかし戦竜隊とプリースト部隊は王国軍内での所属が違うため、  
実戦以外の場で行動を共にする機会はそう多くない。  
さらに少女は軍内でも実戦経験が浅い方なので、目前のナイトとは大したつき合いがあるでもなく、  
彼の名をすぐに思い出す事ができなかった。  
きっと、気が動転しているせいだ。  
そう考えて少女は額を押さえた。  
彼女は普段から噂好きな性格で、本来ならば人の名を覚えるのは得意な方である。  
現にこのナイトについても、軍規の枠にはまりきれず頻繁にトラブルを起こしているとか、  
先月も激怒したマテライトの雷に吹っ飛ばされて城門前の川に派手に放り込まれていたはずだとか、  
他愛もない噂ばかりが今は頭に浮かんでくる。  
もとは市井の不良上がりだと聞いていたので、本音を言えばこれまで、彼に対して不信や用心に  
似た気持ちをわずかに抱いてもいたのだが。  
こうして行動を共にする中で、その感情はすぐに消え去っていた。  
 
ふと、彼の日頃の噂や先程の芸当を思い出して、少女の心に一ひらのおかしさが浮かんだ。  
「さっきの、びっくりしちゃった」  
「ん?」  
不思議そうにまばたきするナイトの仕草は、無心でいる時の戦竜のそれとどこか似ている。  
「いきなり空から助けが降って来るなんて思わなかったから」  
「ああ、あれか」  
彼女がやや明るさを取り戻した事に心慰められたのか、ナイトもにやりと笑みを見せた。  
「あのへん、道がすげえゴチャゴチャしてんだからさ。  
 誰か見つけるのも近づくのも、高いとこからの方が簡単に決まってるじゃんか」  
「そう……かな」  
下町慣れしている彼が言うのだから、一利ある話なのかも知れない。そう納得しようとしたが。  
それにしても重鎧を着たままその軽業を試みる事に一抹の疑問も抱いていないらしいナイトの行動には、  
やはり何か常規を欠いた点がある気もする。少女は首をひねった。  
「それに、あれやると大抵のヤツは一瞬隙ができるからな。  
 意外と使えるんだぜ」  
ビュウに仕掛けた時は効かなかったけど。  
と、悔しさと敬服の混ざった口調でつけ足してから、ナイトは言葉を切る。  
軍の上司であるはずのビュウに対し、どういう顛末で彼がそんな奇襲を挑むはめになったのだろう。  
少女は持ち前の好奇心を起こしたくなったが、遠く追憶を馳せるような今のナイトの沈黙には  
どことなく口を挟みかねて、それはまた今度尋ねてみようと決めた。  
 
「さてと」  
手近に落ちていた酒瓶の破片をナイトが拾い上げた。  
「あと少し先の橋の所から地下水路に降りれば……  
 敵の下をくぐって、北の街外れまで行けるはずだ。  
 あそこの竜舎の事は多分まだばれてないから、そこで竜が手に入れば逃げきれる」  
頭を使うのは苦手らしく、読みにくいものを辿るような調子で言葉を続ける。  
そうしながら彼は、路地のむき出しの土の上にガラスで“T”の形を刻み、その左肩を指でトンと叩いた。  
「水路に入ったら脇道はほっといて、突き当たるまでずっと道なりだからな。  
 分かれ道のとこに来たら左に曲がって、あとはもう一度外に出るまでまっすぐだ。  
 北にある軍の竜舎の場所、知ってるだろ?あそこだ」  
少女も頷き返す。  
そこまで一緒に行くはずなのに、自分に道順を覚えさせるような彼の口ぶりを訝しみながら。  
「わかったわ」  
彼女の確かな仕草を認めてから、ナイトは安堵した様子でTの文字を消した。  
 
それからやおら背筋の力を抜く。  
いっときだけ気が緩んだらしい。ゆっくりと物憂げな動作で壁にもたれかかる。  
ずっと瞳に煌めいていた気魄が弱まり、何かを求めるような哀切な色がわずかに差した。  
「あいつが今いてくれたらな」  
そう独りごちた声は、傍の少女にすらようやく聞こえたくらいに小さかった。  
恐れ知らずな挙動の裏にある弱気さを隠しきれなくなるほど、さしものナイトの心も  
追いつめられているのだろう。  
それを知るのが彼女にはわけもなく辛かった。  
「……私が、こんなふうに足手まといにならなければ」  
「だから気にする事じゃねえって」  
彼の物言いはつっけんどんだが、根には不器用な気遣いがうかがえる。  
「オレだって、お前がいなけりゃここまで逃げる前にとっくに死んでたよ」  
その言葉は嘘ではない。  
乱戦の中で、既に斃れていて当然なだけの傷をナイトは幾度も敵兵から負わされている。  
しかしプリーストの少女がそれを魔法で癒すことで、二人は状況を切り抜けてきたのだ。  
 
そうしようか否か、迷う様子をしばし見せた末、ナイトは励ますように少女の手を握った。  
最初はおずおずと軽い力で。  
しかし少女が彼以上の力で握り返すと、ふと驚いた顔になり、それからぐっと確かな力を込めて  
もう一度彼女の手を握り直した。  
こんな時だというのに彼が顔を赤らめたのがおかしくて、少女は微笑んだ。  
革と鉄で無骨に作られた篭手を通してではあるが、ナイトの手の感触はどこか温かく、  
心が安らぐのを感じた。  
 
彼の名を尋ねようと、少女は口を開きかけた。  
が、それを忘れている事が相手に失礼な気も、もうほんの少しで思い出せそうな気もする。  
躊躇したその間に、明らかに照れ隠しじみた唐突さでナイトが立ち上がった。  
「そろそろ行こうぜ」  
確かに、あまりのんびりしていて良い状況ではない。  
「そうね」  
少女も気を引き締め直すと、ロッドを取ってナイトに倣った。  
 
 
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ほとんど並ぶようにして二人は走る。  
ナイトは、今度は無理をさせすぎないよう注意しているのだろう。しばしば少女の様子を  
振り返りながら先導していく。  
敵が手薄な方へ向かっているのか、あれから帝国兵と一戦を交える事はなかった。  
 
やがて路地の前方が、運河に面した幅広の通りに行き当たるのが見えた。ナイトが足を止める。  
「あそこだ。  
 橋の横の階段から降りれば、下に水路の入り口がある」  
やや離れた所にかかる石造りの橋を顎で指す。  
開けて見通しのよい橋の周囲はしんと静まりかえり、暗がりで目の届く限り人気はない。  
──あと少しだ。  
少女の胸にその思いが浮かんだ。  
ナイトも同じ心境だったようだ。かすかに緊張を解き、彼女へと顔を向ける。  
「そういやお前、名前なんていうんだっけ?」  
「私は……」  
 
そのとき、静寂を貫いて甲高い呼び子の音が響き渡った。  
背後の遠方から帝国兵の声が飛ぶ。  
「いたぞ、あいつらだ!」  
近づきつつある敵の気配は明らかに一人ではない。ナイトの顔色がさっと変わった。  
「走れ!」  
少女の背をぐいと押すようにして叫ぶ。  
同時に、二人は最後のわずかな距離を一気に駆け出した。  
しまった、とナイトは心中で舌打ちした。  
どこかで気付かないうちに敵兵は彼らを見かけ、探しながら追ってきたのだろう。  
彼は不良として喧嘩に明け暮れていた頃から、危機への勘には自信があった。だがそれが長時間の  
極限状態と疲労によって、自覚できないまま鈍っていた事を今になって知る。  
それでもナイトは敵との距離を目測し、ほぼ直感的に判断を叩き出した。  
追いつかれる前に水路に入れれば、迷宮のような構造と自分の剣で敵を切り返せるはずだ──。  
 
だがその考えは、一瞬後ろを見た彼の視線が、青いローブ姿の兵士を認めると同時に破れた。  
レギオンの向こうに混ざるその姿に、ナイトの歯がギリッと噛み締められる。  
(ユーベルビュント……ちくしょう、あんな奴が!)  
氷の術を操る魔法使いだ。その攻撃魔法が捕捉しうる領域の広さはレギオンの剣の比ではない。  
直撃を受ければ、自分はともかく少女は、橋まで走破できなくなるほどの痛手を負う危険が高い。  
 
その瞬間に彼は今までの目算をすべて捨て、なおも残された一つの覚悟を選択した。  
踵を返し、後ろを走っていた少女とすれ違うように敵へ向き直る。  
「え……」  
突然の行動に戸惑い、少女が足を止めかける。  
その体をナイトはドンと突き飛ばして橋の方へと押しやった。剣を抜き放ち、帝国兵から目を離さずに叫ぶ。  
「先に水路から逃げろ!  
 もしオレが後から行かなくても、立ち止まるな!」  
「!!」  
少女は息を呑んだ。  
一人でも行けるような道の教え方をしたのはそのためだった事に気付く。  
最悪の時には彼女だけでも逃がす決意を、ナイトは初めから固めていたのだ。  
そのために今、彼はここで盾となる気だ。  
 
相手の意図を察し、少女は必死に言い募ろうとする。  
「だめよ!そんな事できるわけ──」  
しかしその言葉は半ばで立ち消えた。  
振り返った彼が、殺し合いの中で敵に向けるのと同じ目で、容赦なく彼女を恫喝したからだ。  
「何度も言わせるんじゃねえ!  
 行け!!」  
牙を剥く竜のようにナイトが吠えた。それはまさしく声ではなく咆哮だった。  
先刻までの子供じみた少年はもうそこにはいない。少女すら恐怖に打たれるほどの、壮烈な鬼気だけが  
いまや彼を支配する全てだった。  
彼女は思わず数歩あとじさる。  
何か言わなければと思った。が、頭が混乱して何も言葉は出ない。  
そうしているうちにも、ナイトが捨て身で稼ごうとしている時間は刻一刻と失われていく。  
今は、それを無にしない事だけが自分にできる全てだ。  
少女は意を定めた。  
そして、なおも後ろ髪を繋ぎ止めようとする迷いをふり切り、いっさんに橋へと駆け出した。  
 
その彼女を狙う者がまだ他に存在していた事に、二人は気付いてはいなかった。  
 
ナイトは路地と通りの境に立ち、そこで迎え撃つ構えを固める。  
広い場所で多勢の帝国兵に包囲されれば勝ち目はない。一人で食い止めるためには、相手を路地から  
出してしまったら終わりだ。  
──突破されてなるものか!  
まだ剣の間合いには遠いが、迫る敵勢を見据えるナイトは既に攻撃の準備を開始していた。  
 
彼の心の裡に気が満ちてくるにつれ、掲げた剣が光を放ち始める。  
初めは燐光に似た淡い色だったが、見る間に燃えさかるばかりの強さを帯び、やがて正視もできないほど  
まばゆい輝きが火花を散らし始めた。  
刀身の回りで微細な星の雨がはじけてこぼれ落ち、歌うような澄んだ音を響かせる。  
ともすれば見とれるように美しいそれは、しかし一撃で敵を葬り去る非情な力の発動の前触れだった。  
バチバチと明滅する閃光が路地を照らす。その中で、先頭のレギオン達の顔に怯懦が浮かんだ。  
カーナ軍の中でも最も一点集中の攻撃に特化したナイト部隊。彼らを軍の尖鋭な剣となす最大の切り札が、  
パルスと呼称されるこの技だ。  
帝国兵の間でさえ悪名高いその業火の目覚めを前にして、敵の先陣は見るからに浮き足立つ。  
しかしナイトの狙いはレギオンではない。  
パルスは並はずれた破壊力を誇る代償に、そう幾度も乱用できるものではないのだ。  
刃に宿る光が渦を巻いて一点になだれこみ、球形に変わって凝集した。  
剣の切っ先を後衛のユーベルビュントへと定めて、彼が全ての力を撃ち放とうとした時。  
 
突然ナイトの背後で、争う物音と少女の声が集中を破った。  
ぎくりとして肩越しに視線を向ける。  
臨界近くまで純度を増した光弾は、彼の心の動揺に呼応してたちまち闇へと霧散していく。  
橋の方を見たナイトの目に、突如現れた複数のレギオンが、少女の前に立ちはだかる光景が映った。  
一体どこに潜んでいたものか。レギオン達は激しく抵抗する少女を数人がかりで抑えこもうとしている。  
だが容易に思うままにならない彼女に業を煮やし、一人が何か罵りながら拳を振り上げた。  
手加減なく少女の横顔を殴り飛ばす。  
細い体がよろめき、路上に倒れた。  
地に落ちる花びらのように、白いマントがふわりと後を追う。  
 
その時にナイトは、自分が完全に敗北したのだと悟り──  
自分の外界に存在するあらゆる状況と不運と、そして己の失策を呪った。  
 
少女を阻んだレギオンは、実際には地下水路を封鎖していたのではなく、橋を渡る敗残兵を待ち伏せるため  
近くの建物から周囲を見張っていた一群だったのだが。  
そんな事はナイトの知る由もなかったし、また仮に知った所で何の意味もない事だった。  
彼が愕然として我を見失った、その隙がとどめだった。  
注意を逸らしたナイトの、兜で覆われていない頭めがけてレギオンが盾を振り下ろす。  
すさまじい衝撃とともに視界が暗転する。  
自分の体が力を失ってくずおれていくのをナイトは感じたが、何もかも、もうどうにもならなかった。  
 
 
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これまでに今日より酷い一日は無い、と少女が考えたのは、まぎれもなく正しかった。  
しかしその時、まだ最悪ではないのだろう、と考えたのは正しかったとも間違っていたとも言える。  
なぜなら、真に最悪と呼べる事態はその後で始まる所だったから。  
そして、もっと早くに二人が息絶えていればその悲劇の餌食とならずに済んだはずだったからだ。  
 
月と呼ばれる夜の女王が、いつしか中空で弓形に光っている。  
それは無慈悲に、本当にただ無慈悲に、小さな希望が砕ける情景を白く細い目で見下ろしていた。  
 
 
 

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