はぁあ〜。
待機時間になって何度目かのため息をもらす。結果が恐いので、ビュウは回数を数えるのをやめた。
「どーすんだよ」
誰にともなく告げる。分かっている。これは自分のせいなのだから。
「ひょっとしてあいつ、ドラゴンとかの声まで分かるとかないよな。いや、くそっ!変態の条理を常識で考えるな!」
ファーレンハイトの男子宿舎から見る空はいつもと違って見えた。いつもと同じようにも見えた。
つまりは、いつもと同じような青空だった。
と、
「アニキ〜!」
「うわぁっ!?」
突然耳元で響き出した声に思わず一歩飛び退く。
驚きを隠さないままに振り返ると、舎弟のビッケバッケが、彼と同じくらいに息を切らしながら立っていた。
「ビッケ!いるんならいるって言えよ!」
ビッケバッケは少し面食らったような顔で答えた。
「でもアニキ、何回も声をかけたんだけど、僕に気づいてくれなかったんだな」
ビュウはようやく落ち着きを取り戻した自分の心臓に手を当てながら聞いていた。
「本当かよ」
「本当なんだな!最近アニキキノコ買ってくれないししかも毎日のように誰かに盗まれてっるし、ってこれ、艦首像のところにかけてあるんだけどこれ、アニキのシワザってことないよね!? 」
「いや、だから」
「そういやオイラ、そんなこと言いに来たんじゃなくて!ラッシュとトゥルースたちがんっ!?」
みぞおちに容赦のない一撃を食らい、ビッケバッケがうずくまる。
「悪い。イライラしてる。なんか今はお前のテンションに乗っかれそうな気分じゃないや。多分」
「そんな、多分ってぇ」
目に涙を溜めてこちらを睨んでくるビッケバッケに一瞬だけ同情した後、ビュウは再び窓に向かってため息をついた。
「アニキ、やっぱりまだ引きずってる?」
「いやあんまり。あいつら、俺からコソコソ逃げてるっぽいし」
「じゃあ、前向きな復讐心だね!なるほど、痛みを殺意に昇華できたんだ!おめでとうアニキごふっ!」
この日最大にして最長の嘆息とともにビュウが放った拳は、ビッケバッケの下顎を確実に捕らえ、この小太りの舎弟ほ体は石の床を派手に滑っていった。しばらく起き上がることはないだろう。
と、再び窓に向かい嘆息するが、それが何の解決にも結びつかないことは初めから承知していた。
「くそっ!みんな秘密持ち過ぎなんだよ。それとも俺だけがバカだったってのか」
弱々しく壁を叩く彼の拳の音は、興味なくみつめる掃除中のゾラの息子にしか聞こえていなかった。
それは、もう数日前のことだった。
同郷カーナ出身のヘビーアーマー、バルクレイに突然足を踏まれた。人がすれ違う通路のような場所ではなかった。
「失礼」
その一言を残してバルクレイは去っていった。
ビュウがその時何も言わなかったのは、単に情況が把握できなかったからにすぎない。あるいは、
「あれ、もしかして実はグンソーだったんじゃないのか?」
温厚なバルクレイの人柄を知るビュウは、いつも汚い声で自作の歌を聞かせてきたり、
寝ている間に勝手に人のベッドの中に入ってきたりする別の人間の顔を思い浮かべた(似ていて区別がつかなかったのだ)。
しかし、わざとらしい嫌がらせが回数を重ねるうちに、さすがのビュウも自分に対する露骨な悪意を受け止めざるを得なくなっていった。
「ビュウよ、お前の気持ちはワシが一番分かっておる。
じゃがな、今はガマンじゃ。姫さまを敵の将軍に奪われたなど認めたくない。ワシとてくやしさでいっぱいなのじゃ。それをバルクレイのような実直な騎士の中傷などで憂さ晴らしするなど、お前はそんな男だとは思っておらんかったわい。
なあビュウ、思い出してみろ。この空が赤く染ま…こらビュウ!話の途中じゃ、逃げるな!」
マテライトに相談したことを後悔しながらビュウは女子宿舎に向かっていった。
彼には何となく今回の災難の理由が分かりかけていた。
「バルクレイったらフレデリカとダンスしたんですって!」
前の晩、愚痴るようにそう告げてきた小柄なウィザード、アナスタシアの話は、酒も入りながら今朝まで続いたのだった。
「ああ、ビュウ。なんか言いたいこと言ったらすっきりしちゃった。ありがとね。まだ頭痛い?」
彼女なりに昨夜のことを気にしていたのだろう。部屋に入るなり目ざとくこちらを見つけてきたアナスタシアはこう言ってきた。
遠くで恨めしそうなドンファンの声が聞こえたような気もしたが、これはいつものことなので当然のように無視した。
「ビュウ、ごめんね。
なんだかフレデリカのことまで悪く言っちゃったかもだけど、私の中ではもう全部解決したと思うから。
そうだ、この前のパーティーからフレデリカ、なんだか体調悪いみたい。奥で寝てるからビュウもお見舞いしてあげてよ」
後になって思えば、日常の延長ぐらいに思えていたのはここまでだった。
正直、頭が痛いのは昨夜の酒のせいもありそうだった。
これを決定的な痛みにしたのはプリーストのディアナのかん高い声だったのだが。
アナスタシアによると、彼女とバルクレイはかなり前から恋仲になっていたらしい。
「えへへ。でも、みんなに知らせるのは二人いっしょの時って約束してるからビュウはフライングだね」
だからって、ヨヨにフられた自分は自暴自棄な無差別レイプ魔なのだと警戒する男もどうかと思ったが、
ビュウはあえて何も言わなかった。
すると、
ちくり
と、なにか引っかかるような視線を感じた。ルキアたちがホーネットにねじ込んで設えさせたバーのカウンターのほうからである。
どうせドンファンだろう。と、ビュウは気にしないことにした。
汚れ具合でいうと、女子宿舎は男子宿舎と大差なかった。
また女の汚い面を見た、と一瞬だけ絶望していると、背中に突然衝撃と重みを感じた。それは予測していたことだったのだが。
瞬時に細く白い二つの手がビュウの首に回る。
「大っ成功!ビュウ、メロディアもう自分の力だけでおんぶしてもらえるようになったよ!」
ビュウは迷わず、手近なベッドの足に頭から飛び込んだ。
軽い悲鳴と共に、背中にかかっていた小さな重みが体から離れていく。
「まだまだだな。体術じゃまだプチデビたちの言うことをよく聞いとけよ」
「も〜、今日は絶対チューできるって思ってたのにぃ」
白いベッドに落とされた少女が悪態をついてくるが、これには適当に微笑み返して、ビュウは目的のベッドへと視線を動かした。
「起きてるか」
「はい。あれだけうるさくされたら」
むっとしたフレデリカの答え。
「ごめん、体調悪くしてたんだな」
「うれしくないです。それよりも、私より先に話さなきゃいけない人がいるんじゃないですか?」
「えっ?」
慌ててあたりを見渡してみる。近くに見えるのは酔いつぶれて高いびきをかくジャンヌと、何か面倒くさそうな目つきでこちらを凝視しているミストぐらいだった。
「ディアナから聞いてるけど、俺は別にヨヨが誰とつきあってたって、それでおれが…」
こほっ
と、フレデリカが咳き込んだ。
「ビュウさん。…ビュウ、本当に気づかないのね。あなたの遊び心がどれだけ人を傷つけたのかって。しかも、よりにもよってあの子を」
再び激しく咳き込む彼女を介抱しようと伸ばしかけたこちらの手を目線で遮り、フレデリカほ今度こそ毛布に頭まで埋まってしまった。
「あの夜。カーナ再興のパーティーをやった夜、おかしいとは思ったんですよ。あの子、エカテリーナに恋人なんてできてるはずないって」
ビュウの背中に冷や汗が走った。
「かわいそうなエカテリーナ。憧れのホーネットが大好きなものを『うにうじ』っていったあなたとアナスタシアをいつまでも許さないでしょうね」
ホーネットに話しに行くこともできず、とりあえず男子宿舎に逃げてみたが、やはり騒ぎは絶えることはないらしい。
「ど〜すんだよ、って俺のせいか。エカテリーナの全身全霊の恋心だってわかってたら『うにうじです』なんて言わなかったのに」
かといって、アナスタシアを悪者にするわけにもいかない。嘘を教えてしまった自分が一番悪いのだ。
「う、うに、うにうに…」
よほどの悪夢だったのか、苦しそうにビッケバッケが目を覚ます。
感情に任せて暴力に逃げてしまった自分を思い、ビュウは後悔を改めて深くした。
「あっ、アニキ!なんかボク殴られたような痛みがあるんだけど、これってアニキのせいじゃないよね!」
「ビッケ、しばらく俺に近づかない方がいいかもしれない。俺は殺されるかもしれない、多分」
気絶から覚めたばかりのビッケバッケはまだ視点が定まっていないようであったが、
「アニキ、ラッシュたちが心配してたんだよ。なんかアニキの持ち物とか通り道に毒や薬が見つかったとかで」
「ありがとうビッケ。だいたい分かってる。ついさっきだけど」
ビュウはその会話から逃げるようにして、今は誰もいないはずの艦長室へと向かった。
悪いのは自分。困ったのは他人。ならば、裁きを受けるのも自分。
艦長室のベッドに横になりながらビュウは、この道理を少しでも不利でなくするよう考えていた。
(やっぱり、ホーネット本人に言うしかないか)
眠ってはいなかった。最初から見えていたその残酷な答えに向かおうと、ビュウは目を開けた。そして、次の瞬間また目を閉じ、そしてまた目を開けた。
そこには、異様なまでに青い肌をした少女エカテリーナが立っていた。
「もう、あなたでいいんです」
見えていながら気配なく近づく人影に、ビュウは戦慄を覚えていた。
「言い直します。もう、あなたでいいことにしたんです」
そう告げるエカテリーナの視線はビュウの少し上をさまよっていた。
「それは、結局はお前、」
何か言い返そうとするが、うまい言葉が浮かばない。青白い肌の少女はもう、彼の眼前にまで迫っていた。
「ビュウさん。わかりますか?私、何がしたいのかわからないです。でも、何かしたいんです」
ビュウは沈黙していた。言うべき言葉が見つからなかった。
少女の細い手が彼の首筋に伸びる。震える腕に戸惑いと背伸びを感じた。
「エカテリーナ、やめろ。もっと自分を大事にしろよ」
少女の手は止まらなかった。気がつくと、ビュウの上着は、辛うじて肘にかかっているほどに取り払われていた。
体温を感じさせない指が堅い胸に触れる。ぎこちない動きにビュウは、不覚にも興奮を覚えた。
「エカテリーナ、待て。絶対に後悔する」
気づかぬ間に多少上ずった声になってしまっている自分が悔しい。
「知ってます。だからこういうことやってるんです」
エカテリーナの声もまた震えていた。初めて見る男性の胸板に戸惑いを感じているようだ。
「お前だけじゃない。現に俺はもう後悔している」
「だったら、なおさらです」
全身の体温が一気に下がったような気がした。自分が、不意に口づけされたのだと悟ったのは一瞬後のことだった。
「男はなぁ」
エカテリーナの手が一瞬止まる。視線はあさっての方を向いたままで。
「聞いとけ。男はな、全部脱がなくてもいいんだよ」
エカテリーナの動きが完全に止まった。はじめてこちらを直視してくる。
「それは、私はまた嘘をつかれてるんですか?」
ビュウは答えず、ベッドから起き上がり、完全に乱れてしまった上着を直した。
無言でこちらを見つめてくる少女の手首を乱暴に掴み、静かに告げる。
「エカテリーナ、男は消去法で選ばれた時、こんな風に怒るんだ。俺が許せないのは分かる。でも次からは自分が何をしたいのかちゃんと理解してから行動してくれ」
エカテリーナは全くこちらの話に理解したようなそぶりはみせなかったが、素早くこちらの腕からのがれると、足早に艦長室を出ていこうとした。すると、
きゃっ
と、不意の悲鳴が聞こえて、ビュウはドアの方へ急いだ。
そこには、急病で安静中なはずの老艦長、センダックが倒れていた。
「あっ、ビュウ。いま、エカテリーナが急に走ってきて、それでワシを突き飛ばして逃げていったんだけど」
ビュウは無言で、ただ息を整えることだけを考えていた。
「ビュウ、ごめんなさい。まだみんなには言ってないんだけど、実はワシ、あれなの。仮病だったの。神竜の心が恐かったから」
勝手にしてくれ。ビュウは未だ激しく上下する胸を押さえながら言外にそう叫んだ。