カーナ王城。
神竜の王を懐に抱くその城の廊下で、一人の少女が廊下に倒れ伏していた。
名を、フレデリカ。年の頃は10代前半といった所だろうか。
路傍の花のような素朴な美しさを感じる美貌であったが、しかし今、その額にはじっとりと脂汗が浮かんでいる。
元々体の弱い彼女は薬に頼りがちで、普段なら薬を懐中に入れて忘れずに持ち歩いている。
だが、今日に限りそのストックを切らせてしまった。
仕事が終わって医務室に貰いに行こうかという、その矢先に倒れてしまったのだ。
その上、周りに人通りもなかった。急いでいた為に人通りの少ない廊下を使ったのが災いしてしまったのだ。
(誰か……助けて……)
苦しさのあまり声を出すこともできず、心の中で助けを呼ぶ声を発しながら。
彼女の意識は暗闇の中に落ち込んでいった──
(……ここは?)
フレデリカが目を覚ますと先ほど倒れていた場所とは全く違う場所にいた。
目に映るものは白い布と、天井。
身を包むベッドと毛布の感触。
(ここって……医務室? でも、誰が?)
疑問を頭に浮かべるフレデリカに声がかけられた。
「……目を覚ましたか」
「え……?」
フレデリカは飛び起きて声のした方向を向こうとして……
「カハッ! コホッ!」
思い切り咳き込む。
慌てて動いた為に起きたばかりの体が驚いたのだろう。
そんな彼女に再び声がかけられる。
「すまん、驚かせたか」
彼女の脇の椅子に座っていたフレデリカと同年代の少年──目にかかる程度に乱雑に伸びた髪と額当てが印象的だ──が、落ち着いた様子で謝罪の言葉を口にする。
鎧を着ているところを見ると、きっと騎士見習いか何かなのだろう。
「ご、ごめんなさい……」
「謝る必要はない。俺のせいだ」
思わず謝る彼女に、そっけなく少年は言葉を返す。
(……怒ってるのかな?)
そう思うが、もちろん面と向かって聞く事など出来よう筈もない。
会話が途絶えてしまい重苦しい空気が場を支配するかと思われた瞬間──
「ちょっとビュウ、少しは喋りなさいよ!
フレデリカが戸惑ってるじゃないの!」
仕切り幕の後ろからお盆を持って出てきた出てきたショートカットの跳ね髪の少女──彼女の同僚、ディアナが額当てをした少年──ビュウという名前らしい──に噛み付くように騒ぎ立てる。
「……そうなのか?」
「え、ええと……」
真顔でそう聞いてくるビュウに対してフレデリカがどう答えていいものか悩んでいると、ディアナが呆れた様に頭を抱える。
「ビュウ……あんたってさ、無愛想に見えるけど案外天然よね……」
「……随分な言い草だな」
「や、事実だし」
「むぅ……」
ディアナにやり込められて困ったような顔をするビュウ。
一見するととっつき難いが意外にかわいい所もあるのかも知れない、などと考えていると廊下から怒鳴り声が響いてきた。
「こぉの悪ガキ共ぉッ! 今日という今日は許さん! そこに直れぇぇぇぇぇぇっ!」
カーナの名物男、カーナ重装兵団長マテライトの怒声だった。そして、その声が響いた瞬間ビュウが大きな溜め息をつく。
「…………またやったのか、アイツらは」
そう言いながら、座っていた椅子から腰を上げるビュウ。
「別にあんたが怒られる必要はないんじゃない?」
事情を知っているらしいディアナがそう尋ねると、ビュウは苦笑しながら答える。
「そうもいかないさ。……面倒見ると約束した以上、約束は守らなきゃな」
「難儀な性分ねー……」
「俺もそう思う」
苦笑したまま、仕切り幕の向こうに消えていくビュウ。
それを見送ったところで、ディアナが脇の机にお盆を置いてフレデリカに語りかけてくる。
「……で、フレデリカ」
その眼はちょっぴり怒っていた。
「な、なにかな、ディアナ……?」
言いたい事は分かっているが、敢えて聞き返してみる。
「また無理したわね、アンタは! 体弱いんだから無理するなっていつも言ってるでしょうが!」
脳天に思いっきりチョップを食らった。
「うぅ、痛いよディアナ……」
痛さのあまりフレデリカ、ちょっぴり涙目。
「自業自得。いい薬になったでしょ……と、ハイ。こっちの薬も飲んでおきなさい」
机の上においたお盆から薬湯をフレデリカに手渡す。
「そう言えば、ディアナ。さっきの人って……?」
薬湯を飲みながら、疑問に思っていたことを口にする。
「あ、ビュウの事? アイツが廊下で倒れてたアンタを連れてきたのよ」
「ビュウ……そう、ビュウさんって言うんだ……」
確認するように名前を口にすると、ディアナが楽しそうな口調で声をかけてくる。
「あれあれー? フレデリカさんってば、なんだか意味深な反応ですなぁ?
もしかして一目惚れとか言うやつですか?」
「ちょ、ちょっと、ディアナ! からかわないでよぉ……」
赤面しながら反論するフレデリカ。こういう話に耐性がないのである。
「ふふふ、照れない照れない。そうですか、浮いた話がないと思っていたフレデリカさんにもついに……」
「だから違うんだってばぁ……」
親友のからかいに、どういうわけかドンドンと体の熱が上がっていく。……今日の薬湯は、随分と効き目が強いようだ。
数日後の昼過ぎ。
「あ、あのビュウさん。ちょっと宜しいですか?」
戦竜隊の訓練が終わり、遅い昼を取ろうとしていたしていたビュウに、手に包みを持ったフレデリカが声をかける。
「……俺になにか用か?」
「あ、あの、この前助けてもらった礼をしていなかったので……」
「別に大した事はしていない」
フレデリカがみなまで言う前にその言葉を遮られる。
だが、彼女はそこで負けはしなかった。
「で、でも、聞きました。本当はあの時、戦竜隊の訓練があったのにわざわざ連れてきて付き添ってくれたんだって」
「……誰に聞いたんだ、そんな事を」
「ディアナです」
ニコリと笑ってそう答えると、ビュウは「あの口軽女め」などと呟きながら苦虫を噛み潰したような顔をする。
「だとしても、俺が好きでやった事だ。お前が気にする事じゃない」
「ええ、ですからこれは私が個人的にお礼をしたいだけです。受け取ってもらえますか?」
フレデリカが笑顔を浮かべてそう切り返すとビュウが困ったような顔をしながら頷いた。
(やっぱりこの人、凄くかわいいかも)
思わず、そんな失礼な事を考えてしまう。
「で、そのお礼っていうのは……?」
「あ、はい……ええと、これです」
抱えていた包みを手渡すとフレデリカ。
ビュウはそれを受け取ると、少し驚いたような顔をする。
「ずいぶんと軽いな……ここで開けてみてもいいか?」
フレデリカが頷くとビュウは包みを開いた。
その中に入っていたのは一枚の布だ。
それもカーナにはあまり出回らない、寒さを防ぐ上質な生地でできた、首に当てる布──すなわち「マフラー」と呼ばれるものである。
「……いいのか、こんな上等な物を?」
「はい、勿論です……もしかして、気に入りませんでしたか?」
ビュウは首を振る。
「でしたら、受け取ってください……私にはこのくらいの事しか出来ませんから」
「分かった。だが、これだと少し荷が勝ちすぎるな……」
ビュウはマフラーを首に巻きながら考えるような顔をする。
そして、何かを思いついたのか、フレデリカにこう問いかけてきた。
「少し、時間を取れるか?」
フレデリカが頷くと、ビュウは「付いてきてくれ」と言い歩き始めた。……帰り道とは逆の方向に。
数分も歩いただろうか、木陰の向こうにレンガ造りの建物が見える。
ビュウは「少しここで待っていてくれるか?」と言い残すとその建物の中に入っていく。
一分もしないうちに、中から何かの叫び声が聞こえ……そして、その後すぐに空中から強い風が巻き起こった。
独特の匂い──不快ではないが鼻につく匂い──がフレデリカの鼻をつく。
カーナにいる者なら誰もが知る匂い──即ち、ドラゴンの匂いだ。
「どうどう……よし、良い子だサラマンダー」
手綱をつけた赤毛の竜──サラマンダーをフレデリカの前に着地させると、ビュウは地面に降り立って言う。
「あんな上等な物をもらって返礼しないというのも寝覚めが悪い。
こいつで家まで送らせてくれ。少し『臭い』返礼だが、受け取ってくれるか?」
「は、はい! 勿論です」
フレデリカがサラマンダーの鞍に乗り込むと、ビュウが彼女を抱え込むようにしてその後ろから手綱を持った。
何故だか酷く、心臓の鼓動が、早くなる。
「あ、あの、ビュウ、さん?
「……急な話だったので、あいにくと二人乗り用の鞍が無くてな。もし嫌なら止めるが……」
慌てて首を振るフレデリカ。
一瞬怪訝そうな顔をしたビュウだが、すぐに手綱を引きサラマンダーを空に浮かべた。
その得難い体験にフレデリカの心臓は高鳴り──そして、その心臓の鼓動はどういう訳か家に帰り着いて薬を飲んでも収まらなかった……。
共に空を飛んだその日から、時々ビュウとフレデリカは話をするようになった。
話の内容は他愛の無いことだ。天気の話であり、城下町に出来た新しい店の話であり、或いはビュウの舎弟三人組の話だったり。
その時間は、とても楽しくて幸せなものだった。
だがある日の事だった──たまたま時間の空いたフレデリカがビュウの所に顔を出そうと竜舎へ足を向けると、奇しくも竜舎の前にその本人がいた。
「ビュウさ──」
「ビュウ、今日はどこに連れて行ってくれるの?」
竜舎の中からフレデリカの声を遮るように女の子の声が響き、遅れてその声の主が現れる。
そこにいたのは、ビュウより2,3ほど年若い上等な服を着た少女。
フレデリカはその少女の名前を知っている。いや、このカーナに住む者で彼女の名前を知らぬ者は居るまい。
名をヨヨ。このカーナ王国の王女だ。
「……ヨヨ。勝手にここに来てばかりだとまたマテライトが怒り出すぞ……」
「もう、ビュウってばそんな事ばっかり言ってる。
せっかくビュウに会いに来たのに」
そんな様子を目にしながら、私の頭の中には疑問だけが駆け巡っていた。
何故だろう。何故、私はこんな風に竜舎の脇に隠れるようにしているのだろう。
何故だろう。何故、私の心臓はこうもひどく痛むのだろう。薬はいつもどおり飲んでいるのに。
何故、何故、何故、何故何故何故何故────
それから、どう家に帰ったのかは覚えていない。
ただ覚えているのは、とても苦しかった事。
ただ覚えているのは、いくら薬を飲んでもその苦しみが取れなかった事。
そして確かなのはその痛みがずっと続いている、その事だけ。
神様。どうか、教えてください。
──この胸の痛みを取れる方法を。この胸の痛みを治す薬を。