ファーレンハイト現艦長、ホーネットには最近非常に気になることがあった。  
クルー達が給料アップを求めて組合をつくるという賢しい知恵をつけだしたことや、ドラゴンの糞害がひどいこと、ファーレンハイト艦の排水機能が馬鹿になってトイレが逆流していることさえ、今自分が直面している、身に差し迫った恐怖にくらべればどうでもいいとさえ思えた。  
朝、目をさまして鏡に向かって髪に櫛を通す瞬間。  
昼時にコーヒーを飲みながら新聞を読む瞬間。  
クルー達とともに食堂でまずいシチューを流し込む瞬間。  
ことあるごとに、ねっとりとした視線を感じるのだ。  
態度だけは平静を装って振り返り、視線の感じる方向に顔を向けると、そこには決まって金髪の髪をポニーテールにくくった、小柄な金髪の美少女が立っている。  
またあの女か!  
ホーネットは見なかった振りをして、顔を前方に戻すと、食事に集中している風を装った。  
ホーネットだとて朴念仁ではない。  
大きな仕事が終わった後は、寄港先の高級娼館で娼婦も抱くし、あちらこちらに女友達(時には身体の関係)がいる。  
あの少女のブルーの濡れた瞳が語りかけるところの意味も、とうに悟っている。  
だが、それでも、あの女だけは駄目だ。  
空の皿を乗せたトレイを乱雑にカウンターに戻すと、足早に食堂を出ながら、ホーネットは思った。  
人の女だからとか、決まった女がいるからとか、明確な理由があるわけではない。  
生理的にあの女はマズい、そういう気がするのだ。  
 
ホーネットの少女に対する印象は、オレルス解放軍時代から変わることはない。  
もっとも、自分に向けられた視線に彼が気付いたのは、戦争終結直前という、周囲から見れば何故今更になってというタイミングであったが。  
元来、ホーネットはそちらの道には淡白な男なのだ。  
当時、忙しい船での移動の合間を縫って、少女から彼の元へ好物のワインが届けられることが何度かあった。  
「"E"より」と書かれたメッセージカードの差出人が誰かなど、ホーネットは考えることもせずに、手放しに贈り物を喜んだものだった。  
今にして思えば、あそこで贈り物を素直にうけとってしまったことが、彼女の思慕を煽ってしまったのか。  
やりなおすことができるならばやりなおしたい。  
過去を後悔することの嫌いなホーネットだったが、この件ばかりは非現実的な想像を働かせざるを得なかった。  
というか何かへんなものが混入されていたのではあるまいな。  
ホーネットはゾゾッと背筋を駆け上がる悪寒を、頭をふって払いのけた。  
足早に艦長室に滑り込むなり、素早く戸締まりを確認して、彼は思わず安堵の息をもらした。  
どっかりとソファに腰を下ろして、目を閉じる。  
そもそも、あの女は何故まだ俺の船に乗っているのだ…  
いわれもない恐怖に追い立てられた自分を恥じる気持ちを、少女に対する腹立ちで紛らわそうとしていることはわかっていたが、ホーネットは考えざるを得なかった。  
 
 戦争終結後、ホーネットはカーナ軍を抜けて、気ままな運送業を始めた。  
もう戦争の存在しないオレルスで軍隊生活に縛られるよりは、例えクルー達の食い扶持を自分の手で稼ぐ必要があろうとも、自由に空を飛び回れる方が自分の性に合っている。  
そう、ホーネットは考えたのだ。  
幸いにも、ファーレンハイト艦は、戦争の慰労金代わりにホーネットの手に残された。  
その節は、裏でかつての友人ビュウが尽力してくれたこともある。  
ホーネットもあの若い友人には非常に感謝している。  
一方で、クルーの中でも軍に残りたいものは残り、艦に残りたいものは残るに任せた。  
結局、クルーの大多数が艦に残ってホーネットについてきた。  
そして、その中に、あの少女もいたのである。  
現在、少女はファーレンハイトの中でも経営の仕事をしている。  
細かい計算仕事は大雑把な俺たちには向かないし、彼女はその点よくやってくれますよ。  
それに職場に花があっていいですしね。  
そう言って屈託なく笑うクルーは、ホーネットの心境をしるよしもない。  
自分の信用している人間達がこうやって懐柔されてゆくのを見るのは、好物のチーズにうにうじが湧くのを見ているような気分がした。  
どうしてあんな不気味な魔女を信用できるのだ、とホーネットは彼に似ず理不尽なことを考える。  
第一、容姿も気に入らない。  
別に彼女がことさら醜いというわけではない。  
いや、それどころかかなり目立つ美少女と言ってもいいくらいだ。  
小柄な身体に細い手足。  
目だけが大きい小作りな顔立ちは、表情の少ないことも相まって、可愛らしいフランス人形のような印象を見る者に抱かせる。  
その身にまとった神秘的な雰囲気は、魔術をよく使う女と聞いて成る程道理でと思えたものだ。  
 
くすんだ感じの暗めの色の金髪。  
それによく似合う、青と黒を基調にした服。  
タイトな黒い袖無しのシャツからすらりと伸びた二の腕は白く、日の光など一度も浴びたことのないようだ。  
そんな彼女に、艦内にもファンは大勢いる。  
だが、ホーネットの好きなタイプは円熟した印象の大人の女である。  
求められれば抱かれるし、さりげない気配りで疲れた男を癒しもするが、彼に多くを求めることもしない、そんな女。  
オレルスの空を飛び回ることが何よりも好きなホーネットにとっては、そんな(見ようによっては都合の良い)女が理想的だった。  
対して、あの少女はおそらく男を束縛するタイプだろう。  
恋というものに過剰な期待を抱き、自分の恋する恋愛を男にも演じさせようとして、疲れた男をさらに疲れさせるタイプだ。  
さきほどの自分を見つめ続ける様など、その良い例ではないか。  
一体自分に何を期待しているのだ、言いたいことがあるならさっさと言えお嬢ちゃん、とホーネットは苛々する思いである。  
夢見る少女につきあってなどいられないというのが、つづめるところ、ホーネットの考えだ。  
そうさ、気にすることなどない。  
何も言わないなら永遠に言わないでいればいいだろう。俺は死ぬまで知らない顔をしていてやるさ。  
ホーネットは、弱気な自分を叱咤するように両頬をぴしゃりと打つと、ソファから勢い良く身を起こした。  
今抱えている大口の仕事が大詰めの段階に入っているのだ。  
本来なら、艦長たる自分に、こんなところで悠長にしている暇はない。  
ファーレンハイトのコンテナには、現在、軍用のドラゴン達を数十匹乗せており、世話に掃除と、クルー達はてんてこ舞いの忙しさである。  
中には、ドラゴンに噛み付かれて怪我をする者も出ており、クルー達には、用心せよと毎日うるさいくらいに言って聞かすホーネットである。  
その仕事も今日で終わりで、あと数時間もすれば目的地に到着する。  
 
だがそこからの作業がまたひと苦労で、ドラゴンを入れた檻を軍の施設へと搬入しなくてはならないのだ。  
今から作業の手順をもう一度確認して、ドラゴン達の状態を見回っておく必要があるだろう。  
その仕事が終われば、昔なじみの女友達が近くバーを構えているから、そこで一杯やるとしよう。  
ホーネットはそう考えると、気を取り直した。  
軽く息を吐いてコートの襟を正し、手ぐしでその癖のない銀髪をかるく整えると、艦長室のドアノブに手をかけた。  
 
扉を開けると──そこに件の少女、エカテリーナが、正面を向いて立っていた。  
ホーネットは、思わずヒッと喉をならして後ろに後ずさった。  
対してエカテリーナは、そのフランス人形のような愛らしい顔に何の表情も浮かべない。  
「副艦長がお呼びです…ホーネット艦長…。」  
魔術を紡ぐその形の良い唇を動かして可愛らしく、だが淡々として、エカテリーナは言った。  
ホーネットはごくりとつばを飲みこんで、彼女の顔をまじまじと見つめた。  
「今度の荷物搬送の件で」  
そう言いながらエカテリーナがこちらに一歩足を進めたため、ホーネットはつられて後ろへ一歩後ずさってしまった。  
一瞬、気まずい沈黙が落ちたようにホーネットは思った。  
だがそう思ったのはホーネットだけのようで、エカテリーナは眉一つ動かさず、ただ小さく肩をすくめて一歩後ずさった。  
「至急とのことです。」  
「…ああ…わかった。」  
ホーネットが絞り出すように小さく答えると、エカテリーナは身を翻してさっさと歩み去り、廊下の角を曲がって見えなくなった。  
途端、ホーネットは足腰の力が抜ける思いがした。  
 
と同時に、自分は何をこんなに怖がっているんだ、と情けない。  
ベロス人らしい素晴らしい長身。  
元クロスナイトらしい筋骨たくましい体躯。  
いくつもの戦場を巡り歩いて来た経験は、こけ脅しではない、巌のようなどっしりとした風格を彼に与えている。  
その自分が、例え魔導師とはいえ、ひとりの小柄な細身の少女を恐れるとは。  
一体どうなっているのだ。  
まるで、蛇ににらまれた蛙、蛙ににらまれたバッタ、バッタにかじられる草にでもなったような気分だ。  
そんな馬鹿な、とホーネットは思う。  
仲間達が多く死んでいった戦場にあっても一人生き残ってこれたのは、自分の生存本能が人並みはずれて強かったからだ、とホーネットは自負している。  
その生存本能が、あの女はヤバいぞ、とレッドランプを力一杯点滅させて告げているのだ。  
いつもならば、敵を前にして逃げ出す構えに入らなくてはならないところだが、今回は困惑するばかりである。  
本能が告げる敵の危険度と、視覚から入る相手の情報とが、どうやっても噛み合わないのだ。  
カタパルトがこちらを狙っているぞという警報が入っているのに、目の前に居るのはレギオン一体、という状況に似ている。  
確かにあの女の存在は不愉快ではあるが、生命の脅威ではない。  
そう自分に言って聞かせると、なんとか足に力をいれて、理性だけで身体をひきずるように操舵室へと歩き出した。  
結局、彼は自分の第六感を否定することにしたのだ。  
それが悲劇を身に招くとも知らずに。  
 
「はい、それではドラゴン25匹。確かに受け取りました。」  
責任者らしい男はカリカリと頭を鉛筆で掻きながら、ホーネットにそう言って書類を手渡した。  
「そちらに言われた金額、たしかに銀行のほうに振り込んでおきましたよ。  
あ、領収書の方、後で送ってください。」  
おつかれさまでしたー、というのんきな声を背にして、ファーレンハイトは再び飛び立った。  
今度は整備工場の方へ降り立つと、そこで燃料の調達、機体の整備。  
一方で部下を走らせて、銀行に無事金が入金されているか確認にやらせるなど、まだまだホーネットの仕事は終わらない。  
「お疲れさまです、艦長」  
そう言って蜂蜜とブランデーのたっぷり入った紅茶を運んで来たのは、副艦長である。  
「すまんな。」  
ホーネットは湯気の上がる紅茶を受け取り、その香りを鼻腔一杯に吸い込んだ。  
アルコールの香りがかぐわしかった。  
そう言えば、今年のキャンベルワインの解禁は昨日だ。  
一日遅れだが、今から買いに行って女の土産にするのもいいだろう。  
「入金、確かにされていたそうですよ。これでようやく一息つけますね。  
あ、そうそう移動中に怪我をした3人は病院に担ぎ込みました。  
破傷風菌にでも感染してなければいいんですが。」  
「一応、後で見舞いに行くさ。  
1週間はファーレンハイトも動かせないことだし、のんびり養生させてやろう。」  
「クルー達はもうとっくに街へ遊びに出かけましたよ。  
残ったのは私たちだけです。  
私はもう疲れたので今夜はここで休むつもりですが、艦長はどうなさいます?」  
 
「俺は寄るところがある。」  
「あ、ターニャさんのところですね?」  
心得たというふうに、副艦長はにやりと笑って言った。  
「艦長もマメですねえ。でも駄目ですよ。  
あんまりハメをはずしちゃ。  
明日は朝からふたりで整備工場の方に替えのパーツを見繕いに行かなきゃならんのですから。」  
「分かってるさ。」  
そう言って紅茶のカップソーサーをかちゃりとサイドテーブルに置くと、ホーネットはさりげなく聞いた。  
「クルーは皆遊びに行っただと?  
経理の奴らもか?  
つまり…その、サインした領収書をチェックしてもらったほうがいいと思ったんだが…」  
「あ、忘れてました。エカテリーナがまだ残っています。」  
ガチャン、と肘が紅茶のカップに当たって、こぼれた紅茶がコートを濡らした。  
「熱!」  
「あ、大丈夫ですか艦長!?」  
副艦長は慌ててハンカチを取り出すと、ホーネットの肘にできた紅茶の染みに当てた。  
「そそっかしいですよ、艦長。どうしたんですか。」  
「すまん…。で、なんだったかな…。」  
「領収書の話でしょう。今からエカテリーナに頼んでチェックしてもらいましょう。」  
「い、いや!いい!」  
早くもテーブルに置いてあった領収書を取り上げて歩き出した副艦長を、ホーネットは慌てて引き止めた。  
「早い方がいいのでは…」  
「クルー全員休日モードに入ってるのに、彼女ひとりに仕事をさせるのはマズいだろう。」  
 
「そうですかあ?」  
副艦長は領収書を眺めながら言った。  
「ここで逃しちゃうと次に集まるのは一週間後だし、なるべく今のうちにチェックしてもらった方がいいと思いますが…」  
「いいんだ!それよりお前も早く休め。明日は早いんだからな。」  
「それもそうですね。」  
咳き込んで言うホーネットに、副艦長はあっさりとひきさがると、領収書をサイドボードに置いた。  
操舵室の広い窓から目に入る空の色は、既に赤。  
ちょうど西日が真正面から射し込む操舵室は、壁一面が赤く染め上げられていた。  
何かそれに落ち着かないものを感じながら、ホーネットは素早く残った書類にサインを入れた。  
そして、副艦長に手渡すと、椅子から立ち上がって言った。  
「それじゃあ後はよろしく頼んだぞ。」  
「わかりました。楽しんできてください。ターニャさんによろしく。」  
操舵室を出ると、今は事務室と化している、かつての解放軍の控え室の横を通り過ぎた。  
すでに室内灯を付けているらしく、事務室のドアの下の隙間からランプの明かりが漏れている。  
かすかだが、ペンの走るカリカリという音が、部屋の中から聞こえて来た。  
ホーネットは、息を詰めると、なるべく足音を殺すようにして廊下を通り過ぎた。  
 
船を降りるとまず酒屋に向かい、目当てのキャンベルワインを数本購った。  
そのまま部下の収容されている病院へ赴くと、折角の休暇をベッドの上で過ごさざるを得ない彼らを見舞った。  
プリーストの白魔法で傷の方はあらかた塞がっていたが、幸い破傷風菌ではなかったものの、ドラゴンのヨダレから変な菌を貰ってしまったらしく、クルー達は揃ってベッドの上でうんうん唸っていた。  
 
折角差し入れに持ってきたワインも看護婦に取り上げられてしまい、ホーネットは彼らを気の毒に思いつつも、病院をあとにした。  
病院を出ると、既に、空は墨を流したような闇空。  
あちこちの店に梯子して酒を飲んでいるクルー達の一団とすれ違い、彼らに冷やかされながらも目的地へ向かった。  
 
女がいるのは繁華街の少し奥まったところにある、高級感漂う店だった。  
「あら、ホーネット。そろそろ来ると思ってたところよ。  
ファーレンハイトが降りてくるのが見えたから。」  
カウンターでけだる気にピアノを聞いていた、艶やかに美しいブルネット髪の女が、ホーネットの姿をみるなり、ぱっと目を輝かせて立ち上がった。  
「ターニャ、久しぶりだな。」  
挨拶代わりに、軽く互いの頬にキスを交わした。  
「本当に。あなたと来たらあちこち飛び回ってばかりだもの。  
もうすっかりお見限りかと思ったわ。」  
そう言いながらツンと拗ねたようにおとがいを反らしたが、むろん本当に拗ねているわけではない。  
ホーネットもそこのところはわきまえているから、土産の酒をボーイに手渡すと、陽気に笑いながら女の肩を抱いて勝手知ったる店内の、奥の特等席へと移った。  
少し明かりを落とした店の中で、静かなピアノのメロディーと、女達の内緒話をするような低いささやき声、客の楽し気な笑い声とが、バランスよく混じり合って、落ち着いた空間をつくりあげていた。  
「ねえ、また面白い話を聞かせてよ。今度はどんなものを運んだの?」  
ホーネットのすぐ隣に腰掛けて、膝を寄せると、甘えるようにターニャが言った。  
「大して面白いニュースは持ち合わせてないぞ。  
さっきまでは、カーナで軍隊用に交配されてできた新種のドラゴン数十匹、苦労して運ばされた。  
その前は、ダフィラ産の鉱石二十数トン。  
ドラゴンと違って餌やらフンの世話が要らない分、楽だったがな。  
おかげさまで空賊に付け狙われた。  
撃退できたはいいが、大砲を喰らって、よりにもよって船の排水機能がイカレたことがおもしろいと言えばおもしろい。」  
「あらまあ。」  
ターニャが口に手を当てて笑った。  
 
「その前はキャンベル女王の娘さんとE氏との恋の逃避行を手伝わされた。」  
「E氏?  
やっぱり噂のエリオット卿との恋仲は本当だったわけね。」  
「違う。アレはフェイント。本命は他に居る。俺も驚いた。」  
「あ、待って!言わないで。当ててみるから。」  
和気あいあいと2人で話をしていると、彼らに向かって面白くなさそうな目をちらちらと向けて来る客がいることにホーネットは気付いた。  
少し離れたテーブルに座っている中年の肥満した男で、女の肩を抱きながら、酒をちびりちびりと飲んでいた。  
ムチムチと音のなりそうなほど太い指の全部に、酷いデザインの指輪をずらりとはめている。見るからに成金風の男だった。  
ホーネットは、女の耳元に口を寄せると囁いた。  
「ターニャ、ピアノの側のテーブルに座っている、あの太った男は誰だ?」  
「ああ、あのお客。」  
ターニャはその美しいくっきりとした眉をひそめると、今度はホーネットの耳にその朱唇を寄せてささやき返した。  
「自称、ダフィラの元王様よ。」  
ホーネットは目を丸くした。  
そう言われると、あの顔はどことなく見覚えがあった。  
ハーレム作りに血道をあげて、女をさらうなど無道な真似を繰り返した結果、革命軍に追い出されたアホな王様。  
革命の際には、友人のビュウが一役買ったらしい。  
その後、宝石をいくつか持ち逃げして亡命したとは聞いていたが、まさかこんな場所でまたお目にかかるとは。  
「ヒゲがないから気付かなかった…。剃ったのか?」  
「あら、元王様ってはなし、本当なの?  
まあ、だからといって何が変わるってわけでもないんだけど。  
嫌んになっちゃうくらいケチだし、本当に趣味が悪いのよ。  
見て、あの指輪。  
私に気があるみたいで、しつこく言い寄ってくるの。」  
 
「君に気があることに関してだけは趣味がいい。」  
「あらお上手。」  
ターニャはくすくすと笑いながら、ホーネットのコートの下にその白い腕を差し入れて、その逞しい胸筋をなでた。  
ホーネットはにやりと不敵な笑みを浮かべると、女の肩を深く抱きこんで、そのブルネットの柔らかい髪に唇を当てながら、元・国王に向かって挑発的な視線を向けた。  
その視線に気付かないわけもなく、肥満男は獰猛な怒りを顔に浮かべると、通りすがったボーイを呼びつけて何事か命令した。  
命令されたボーイは、ひどく困ったような表情を浮かべて、ホーネット達の座っているテーブルへとやってきた。  
「ミストレス。あちらのお客様がミストレスにこちらへ来いとおっしゃっているのですが…」  
「こちらの大切なお客のお相手があるから、今夜はおつきあいできないと伝えてちょうだい。」  
ターニャは呼びつけた客の方をちらりと見遣ることもせずに、ホーネットの胸に顔を埋めたまま、すげなく言った。  
ボーイはますます困ったような顔で、何か言いたそうに口を2、3度開閉させたが、結局観念すると怒れるお客のテーブルへと帰って行った。  
ホーネットの目に、可哀想なボーイがペコペコと頭を下げて謝罪している様子が見える。  
だが、肥満男はそれでは治まらなかった様子で、その手をテーブにバシン叩き付けると、  
「あの役者崩れのような男とこの儂と、どっちが大切なお客だ!」  
と大声で怒鳴った。  
途端、ピアノの音が止んだ。  
他の客や、店の女達もびっくりしたような表情で、ぴたりとおしゃべりをやめると、一斉に肥満男のテーブルに注目した。  
衆人環視の気まずさを逆に追い風にした様子で、肥満男は先ほどまで肩を抱いていた女を乱暴に突き飛ばすと、立ち上がってホーネットに指を突きつけて叫んだ。  
「貴様だ貴様!さっきから儂の女にべたべたと触りおって!」  
 
いつからあなたの女になったのよ…と、呆れたようにターニャが呟く声を聞いて、ホーネットは思わず笑ってしまった。  
それを見て馬鹿にされたと思ったのか(事実馬鹿にしているのだが)、肥満男は顔をトマトのように真っ赤に染めあげると、隣の人物に向かって顎をしゃくった。  
ピアノの影になって見えなかったが、肥満男の隣に用心棒らしい男がひとり、控えていたらしい。  
それがすっくと立ち上がると、ホーネットに勝るとも劣らない長身の男だということがわかった。  
「へえ、これは…」  
ホーネットは口の端をにやりと上げると、好戦的な表情を見せた。  
そして、腕に抱いた女を離すと立ち上がり、テーブルを回ると、近づいてくる男と相対した。  
男はホーネットの3歩手前あたりまで近づくと、立ち止まった。  
差し向かって立つと、相手の男のほうがわずかに背が高いことがわかった。  
周りの者が皆、息を詰めて見守る中、肥満男だけが手下をけしかけるように、唾を飛ばしてわめいている。  
いきなり男が動いた。  
拳で横殴りに殴りにかかったのを、ホーネットは頭を低くして避ける。  
拳のうなりをすぐ頭上に感じると同時に、男の足が動いて、低く伏せたホーネットの顔面を狙った。  
どうやら拳での攻撃はフェイントだったらしい。  
固い膝の皿が、ホーネットの顔面を直撃するはずだった。  
が、攻撃をすでに予想していたホーネットは、軽く横に重心をずらして身体をわずかに逸らすと、攻撃を避けた。  
男の足の勢いをそのまま流すと、男の襟首を掴んで後方にひきずるようにして、さらに右の足で男の軸足をひっかけた。  
男はきれいに転倒した。  
が、すぐに立ち上がると、今度はがむしゃらに拳で突いてきた。  
ホーネットは、バックステップで軽く攻撃を避けて、歯を噛み締めて拳に力を込めると、男の横っ面に思い切りパンチを叩き込んだ。  
 
男は放物線を描いて飛ぶと、違う客の座ったテーブルへと叩き付けられた。  
そして、テーブルの上に並べられたグラスや料理を派手に巻き込んで、テーブルの上をスライディングすると、そのまま床にどさりと落下した。  
そのままぴくりとも動かない。  
ホーネットは軽く息を吐くと、身体を反転して、肥満男の方を向いた。  
「で?」  
肥満男は、呆然とした表情でホーネットと手下とを交互に見ていたが、すぐに恐怖の表情へと切り替わり、次に背を向けると店の扉に向かって走り出した。  
蛙の悶絶するような声で、助けを求めながら。  
「助けてくれ!殺される!助けて!」  
彼の目には、かつて王宮に押し寄せた民衆達の怒れる姿が、恐怖とともにフラッシュバックしていたのかもしれない。  
客や店の女達は、あぜんとした表情で、髀肉をゆらして走り去る肥満男の後ろ姿を見送った。  
後には、床に伸びた手下の男がひとり残されたきり。  
「まずかったかな?」  
「私は大助かりだけど、あなたはまずいわね。  
あの男、このラグーンに駐留してる軍のお偉いと昵懇なのよ。  
警邏を沢山呼んで来るかもね。」  
「そりゃ面倒だ」  
「早めに逃げた方がいいかもね。どうする?」  
結局、ホーネットは店の裏口から抜け出すことにした。  
厨房横の小さな木のドアを開けると、そこは入り口に面する道路とは1ブロック離れた道に続く、細い路地である。  
ホーネットは去り際に振り返ると、見送りに出たターニャに聞いた。  
「俺がいなくて大丈夫か?」  
「あら、大丈夫よ。  
あなたのことは適当に言い繕っておくわ。  
あのでぶっちょも、あんな恥をかかされちゃあ、流石に二度とこのお店に顔出せないでしょうよ。  
ああ、これでせいせいした!」  
「君、さては体よく俺を利用したな?」  
 
「あら、わかってて利用されてくれたんでしょう?  
おかげさまでイヤな客を一人追っ払えたわ。  
ありがとう、愛してるわホーネット。」  
できればお礼はベッドの上でじっくり聞きたかった…とホーネットは恨みがましく思ったものの、女にさあさあと背中を押されて、あっけなく裏通りへと閉め出されてしまった。  
暗い路地裏にいつまでもつっ立っているわけにも行かないし、面倒ごとに巻き込まれるのも嫌だったので、そのままさっさと歩き出す。  
結局、今夜はファーレンハイトでつまらない独り寝をすることになりそうだった。  
ホーネットは溜め息をつくと、星空を仰いだ。  
 
ホーネットが帰って来ると、ファーレンハイト艦内は、どこもかしこも照明が落とされていた。  
左右対称につけられた天井の明かり取りから、月明かりがしらじらと射し込んでいる。  
ホーネットが歩き慣れた廊下を歩けば、人気のない艦内を固いブーツの音がカツーン、カツーンとこだました。  
操舵室へと続く大きな扉を開くと、暗い廊下にギギギッという音が、不気味に高く響いた。  
おや、飛行している際や人の大勢いるときは気付かなかったが、こんな音を立てるのか、とホーネットは妙なところで感心した。  
さて、操舵室の椅子にどっかりと腰を下ろすと、ホーネットは疲れた溜め息をついた。  
全くなんて一日だ。  
ストーカー女に怯え、ドラゴンには大便小便をふり掛けられ、元国王に因縁を付けられ。  
しかも、酒まで飲み損ねた。  
ファーレンハイトの操舵室にある大窓から、ちょうど雲の切れ間に覗いたらしい、大きく満ちた月が見えた。  
月明かりに照らし出された手元をふと見ると、サイドボードの上にワインが置かれていた。  
 
中身はすでに半分ほどない。  
副艦長が飲んで置きっぱなしにしていったのかな、とホーネットは思った。  
やけっぱちでワインコルクを抜くと、ラッパ飲みに中身を煽った。  
今年収穫されたばかりのブドウから作られたワインらしく、さっぱりとしたフルーティな味わいだったが、その中にかすかな苦みが感じられた。  
ワインをサイドボードに置く。  
すると、瓶底がかさりと小さな紙片に触れた。  
なんだ?と、その紙を引き抜いて見てみると、それは香水を染み込ませたギフトカードだった。  
青いインクで、「"E"より」と書かれてある。  
刹那、ホーネットは顔中の血が下る音を聞いた気がした。  
それと同時に、何故か、視界がホワイトアウトする。  
ホーネットはそのまま意識を失って、椅子の背に昏倒した。  
 
 気がつくと辺り一面真っ暗だった。  
見覚えのある天井。  
良くなれた枕の感覚。  
そこは、なんのことはない、自室のベッドの上だった。  
だが一体何故、と思いつつ、枕元にあるはずのランプを点灯しようとして、ホーネットはぎくりとした。  
腕が動かないのである。  
無理に腕を動かそうとすると、金属製のベッドの柵が、なぜかギシリと軋んだ。  
首の角度を変えて懸命に頭上を見ると、白い麻縄が二本のたくましい腕を、手首のところでギッチリと固定しているのがわかった。  
「なんの冗談だ、これは…」  
乾いた声でそう呟くと、自分の発した声はあまりに寒々しく、静寂の中でひやりと耳を打った。  
「気がつかれたんですか…。」  
闇の向こうから、澄んだ少女の声が聞こえて来た。  
 
この声は…間違いようがない、エカテリーナだ。  
暗闇の中ではっきりとは見えなかったが、声の高さからして、ソファに腰掛けているらしい様子である。  
それに、自分がどうやらズボンだけを残して、一切の服を脱がされているらしいこともわかった。  
「気絶した人間を裸にしてベッドに縛り付けるのが、カーナ流の介抱の仕方とは知らなかった。  
俺が怒らないうちにさっさとこの縄を解きな、お嬢ちゃん。」  
「それはできない相談です。」  
怒りを含んだホーネットの声にもまるで動じることのないような、淡々とした声で、あっさりとエカテリーナは答えた。  
「あのワインに何かしこんだな。」  
「大丈夫、後遺症の残らないものを使いましたから。」  
会話するうちに目が慣れてきて、数メートル先のソファに、エカテリーナが膝を丸く抱いて座っているのが見えた。  
ブーツを履いた足をぶらぶらさせて、この状況においても、全く平静な様子である。  
やはりこの女は頭がおかしい、ホーネットは改めて認識した。  
エカテリーナは、左手で作った輪に向けて右手で何か流し込む仕草をすると、囁くように言った。  
「窓の外を見るとあなたが帰って来るのが見えたので、ちょっと薬をワインに溶かし込みました。こう。」  
飛んで火にいる夏の虫ですね。  
そう言うと、手の甲に呪文を縫い取った魔導師用の青い手袋をおもむろに脱ぎ、ぱさりと床に落とした。  
立ち上がる。  
「それで?どうするつもりだ?  
まさか、この俺をレイプしようっていうんじゃないだろうな?」  
ホーネットは鼻でせせら笑うように言ったが、片頬は軽く引きつっており、どうにも虚勢を張るのに失敗した感があった。  
エカテリーナは、小首をかしげて答えた。  
「この状況、他に何か考えられます?」  
「生憎と俺は健常な思考の持ち主なんでな。  
こんな状況、今までの人生で想定したこともなかったよ。」  
 
減らず口を叩きながらも、ホーネットは真剣に焦った。  
さっきから懸命に腕を動かそうとしているが、手首に巻かれた麻縄は、一向に緩む気配を見せなかった。  
まずいかもしれない。  
身の危機を感じて、ホーネットは額に冷や汗がにじむ思いだった。  
そんなホーネットの胸中を知っているのかいないのか、エカテリーナは相変わらず何の表情も浮かべてはいない。  
と思うと、腰のベルトをベルト穴から引き抜いて、その黒いズボンをするりと脱いだ。  
そのまま、ぱさりとズボンを脇に捨てた。  
暗闇のなか、青いノースリーブのロングシャツの下から白い太腿がすらりと伸びているのが見える。  
シャツを脱ぎ捨て、ブーツを脱ぐと、あとは肌着を残すのみだった。  
黒いレースのシミーズは闇に溶けるようなのに、露出した細い手足は発光するように白い。  
エカテリーナは、そのままホーネットの寝ているベッド脇へと歩み寄ると、ベッドの端に静かに腰掛けた。  
ベッドは2人分の重みを受けて、ギシリと軋んだ。  
ホーネットの目から、いつもは白い少女の顔が、興奮して紅潮しているのが見てとれた。  
幼い外見に不釣り合いな赤いルージュが、ひどくアンバランスな印象を与える。  
そう言えば、この少女は一体いくつなのだ。  
思えば自分はそれさえも知らない。  
ホーネットは、精一杯嫌そうな顔をしてやると、目をそらした。  
少女の白くひんやりとした手のひらが、ひた、とホーネットの頬にあてられた。  
「やめろ、お前は俺の趣味じゃない。」  
「知ってます。  
昔、あなたに告白しようとしたけど、寸前であなたに嫌われていることがわかったからしなかった。  
最初は船に乗ってるみんなも巻き込んで、あなたと一緒に死のうかと思ったんだけど、それって無意味なことだと考え直したの。  
もう少しあなたと一緒の時間を作れば、私にもチャンスができるかもしれないって。  
だけど駄目だった。  
あなたはいつも私を冷たい目で見るだけ。  
だから、どうせ望みがないなら、一発ヤっちゃおうかなって。」  
 
この恐ろしい台詞を、淡々としてその可愛らしい顔と声で言ってのけたものだから、ホーネットは心底肝が冷えた。  
一発ヤっちゃおうかな?  
どうやったらそういう発想ができるのか、この女は…。  
まさしく自分の第六感が告げた通り、危険度カタパルトクラスの女である。  
しかも、今、自分はその女の目の前で、自由に身動きとれない状況だ。  
世の中にはこの状況で興奮する変態が、ラグーン100個も探せば一人は居るかもしれないが、生憎と自分はそうではない。  
ホーネットがそう思う間にも、エカテリーナはベッドの上で膝を進めると、彼の大腿部に股がった。  
黒いレースのシミーズがまくれて、白い太腿が深いところまで見えた。  
ただし、ホーネットはちっとも興奮しなかったが。  
「おい、やめろ。洒落にならんぞ。」  
「ご心配なく。至って真剣にやってますから。」  
「いっそ洒落にしておけ!」  
ホーネットは吠えると、腰に力を込めて思い切りよじり、足の上に座った女を跳ね飛ばした。  
少女はキャッと悲鳴を上げると、ベッドから転げ落ちた。  
まずいか?と一瞬、ホーネットはイヤな汗をかいたが、次の瞬間白い腕がぞろりと伸びてベッドに掛けられるのを見、下手に手加減したことを逆に後悔した。  
「無駄です。」  
起き上がったエカテリーナはホーネットの足をはしっとつかむと、素早くベッドの上に乗り上げた。  
そして、彼のベルトに手をかけると、ホーネットが止める間もなく、留め金を外して一気に引き抜いた。  
「やめろ!やめんか!」  
こうなるともう、ホーネットは恥も外聞もなく叫ぶほかない。  
だが、一旦こう覚悟を決めた女ほど怖いものはない。  
ホーネットの叫び声に頓着も見せず、ズボンのホックを外すと、下着ごと一気に下に降ろした。  
そして、現れたそこをまじまじと見つめた。  
「これがそうなの…へえぇ…」  
「見るな!変態女かおまえは!」  
 
ホーネットも必死である。決して自分のイチモツに自信が無いから見られるのが嫌とかそういうわけではなく、ただひたすら目の前に居るこの女の目にさらすのが嫌だった。  
喰いちぎられかねないという恐怖がある。  
ホーネットが再び足を蹴りだそうと暴れるのを制して、エカテリーナは素早くホーネットの上に覆いかぶさった。  
そして、そのふっくらと柔らかい唇を陰茎の竿部分に当て、触れるか触れないかの軽いキスをした。  
さらに、赤い舌をちろりと出すと亀頭にむけてツウッと舐め上げる。  
途端ぞわぞわっと、あの慣れたが感覚が、脊髄を勢い良く駆け上がって脳へとシナプスした。  
ホーネットは歯を食いしばって、必死で叫んだ。  
「いい加減に…!」  
しろ、というホーネットの言葉は言葉にならなかった。  
エカテリーナがその口一杯に彼のペニスをくわえたのだ、  
先端が少女の暖かい口蓋の感触を、竿部分が少女の柔らかい舌の感触を、一瞬味わった。  
が、エカテリーナは咳き込んですぐに吐き出した。  
「当たり前だけど…おいしいものじゃないのね…」  
と、けほけほと咳き込みながら言う。  
「でも大丈夫…できるわ。やってみせる。」  
「いらん!やらんでいい!」  
そんなところで一生懸命になられてもホーネットはちっとも嬉しくなかった。  
が、ホーネットの制止が耳に届いているのかいないのか、エカテリーナはその小さな暖かい口内に、もう一度それをくわえ直した。  
少女のビロードのように滑らかな舌が、ぬらりと竿の背を舐めた。  
亀頭部分に、飴でもねぶるかのように何度も舌を這わせる。  
ああ、まずい。  
ホーネットは額に汗を滲ませて焦った。  
彼の中心は、少女の舌に執拗に攻められて、とっくに変化をはじめている。  
少女の小さな口を内側から圧迫して、先端が口蓋の奥の方の柔らかな部分をコツンコツンと突いた。  
エカテリーナは、んんっ、と苦し気な声を出して、口から引き抜いた。  
はああっと苦し気に息をつくと、大きく息を吸って、再び、今度はカリだけを口に含んだ。  
一方で思い出したように、その白魚のように細く滑らかな指で握り込むと上下にしごいた。  
すでに竿部分は唾液や先走りの液でぬめっており、手の中でヌチャヌチャと湿った音がした。  
 

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