智は震えていた。顔は蒼ざめ、脂汗を流している。  
 この日、智は上の空であった。教室に入っても、そんな調子が続く。  
やがて朝の予鈴が鳴り響き、授業が始まる。しかし、そんなものは智の頭に入らない。  
 
 あの晩、智は山の中にいた。近所にある山。さびれた住宅地の最奥に裾野を広げている山。  
むしろ、山の裾野にまで住宅地が食い込んでいるといった方が良いだろう。そんなどこにでもあるような、  
名も無い山の奥深く。智は息を殺してそれを見つめていた。  
 
 穴を掘っている。顔ははっきりとは見えない。フードをかぶったやや細めの人物が、穴を掘っている。  
ザッ、ザッ、というスコップの音が、闇の中、木霊するように響いた。  
 
(一体、何をやっているんだ?)  
 
 智は訝しがった。だが、これだけは分かる。決して、自分が隠れていることを知られてはならないと。  
智の危険を知らせる本能がそう告げていた。その人物が、何やら陰から引きずり出した。黒い、大きなビニール袋のようだ。  
なにか重たいものが入っているらしい。力任せに引っ張ると、地面に投げ出した。その瞬間、みた。袋から勢いよくはみ出したものを。  
――すなわち、脳みそを垂れ流した人間の頭部を。  
 
「うわっ!」  
 
 ――しまった、と思ったときには既に遅い。フードを被った人物が、はじけたように振り向いた。  
 スコップを手に猛まじい速さで智に向かってくる。殺気がこめられた、あの凄まじい目。 あの目がすぐ目の前にまで…。  
 
「うわあああぁぁぁぁぁ!!!!!」  
 
 教室の生徒が一斉に振り向いてくる。気がつくと、智は自分の席に突っ立っていた。  
ようやく我に返る。自分は教室で授業を受けていたのだと。教室にしらけた空気が流れた。  
「す、すいません。寝ぼけてましたぁ!」  
 
 慌てて席につく。クスクスと、どこかから女子のあざ笑う声が聞こえてくる。さすがに、今回は智もばつが悪い。  
「まったく、智は能天気でいいわね」  
 女教師のいやみに、ドッと哄笑が巻き起こる。智は俯いて聞いていた。  
 
「気を取り直して…。えーと、あれ、今日、ちよちゃんどうしたの。分からないだって?じゃ、次は…」  
 
 
 
(はぁ、今日は散々だったな)  
 トボトボと帰路についた。夕日の中、智は一人で歩いていた。  
 
(あっ、そういえば。帰りに寄るところがあるんだっけ)  
 ふと思い出して、ポケットの中に手を突っ込む。  
 
「あれ…、ない?」  
 
 必死になってまさぐりはじめる。ポケットを裏返したり、上着を脱いでひっくり返してみたりするが、一向にみつからない。  
 
(無い! 生徒手帳が無い!!)  
 
 智の顔から次第に血の気がぬけていく。  
確かに昨日、ポケットに財布と一緒に入れてあったはずなのだ。それがないということは――。  
 
「まさか、落とした…?」  
 
 ――あの場所に。  
 
 間違いない。あのとき、逃げるうちに落としたのだ。生徒手帳には智の住所氏名と写真とが記載されている。  
もし、あいつが拾っていたら――  
 
 気がつくとあたりはすっかりと暗くなっていた。ぞっとする。いつのまにこんなに日が暮れたのだろう。  
黄昏はとうに追い払われて、闇がすぐそこまで忍び寄っていた。恐怖の始まりが…。  
 
 誰かの足音がした。自分を追って。まっしぐらに自分を目指してくる足音が  
 
「ひ、ひぃ!」  
 
 智は走り出した。  
(助けて! 誰か助けて!)  
 
 恐慌をきたし、涙・鼻水を垂れながして、ひたすら走りに走った。いつもの無鉄砲で気の強い彼女の面影は無い。ただ、走った。  
――しかし、足音は追いかけてくる。どこまでも、智を追って。  
 
 いつまで走り回っていただろう。もう、3時間は走っているようにも思われるし、まだ30分そこそこしか経っていないような気もする。  
わずかな街灯が照らす闇の中、走り回り、逃げ惑ううちに、方向感覚も、時間感覚も失われてきた。自分が誰なのかさえ薄らいでくる。  
 
 ただ、恐怖だけが後ろから追ってきた。その恐怖が、ひしひしと伝わってくる恐怖が、しだいしだい距離を縮めるたびに、  
自分の内なる感情が突き抜けていくのを感じた。智は、ほとんど笑いながら走っていた。  
 
「きえエエエエエエエエエエエエ!」  
 
 闇夜の中、ぼんやりと明かりが見える。――交番だ。あそこに駆け込めば助かる!  
 しかし、智は通り過ぎた。ある感情に歪んだ顔で。  
 
(あたしは、警察にはいけない。助けを求めることはできない。だって――)  
 その感情とは――、  
 
(あたしは、ちよちゃんを殺したんだから!)  
 即ち――――狂気。  
 
 
 あの晩、智は死体を埋めに来たのだ。自分が殺したちよの死体を。ほんの些細な事故だった。  
 
 ガードレール上の、段差になっているところ。下は十数メートルほどのコンクリートの断崖だった。  
いつものように、高いところが苦手なちよを脅かしてやろうと、かるく押しただけだった。  
 
 それが洒落にも冗談にもならないことに気づいたのは、下で砕けて脳を散乱させたちよの頭をみたときだった。  
しかし、智は少しも絶望しなかった。 かえって、どうしようもないくらいの愉悦がこみ上げてくるのを感じた。  
 
 憎んでいたのだ。私は、ちよのことを。そのことに気づき、智は胸がすっとするように感じた。  
 
 頭が良く、天才で、大金持ちで、家庭にも恵まれ、 友人にも親しまれ、謙虚なそぶりで、ひとなつっこく、  
誰からも好かれ、将来を約束された、あの糞餓鬼。あの糞餓鬼を  
 
ブチ殺してやりたい、 虐め殺したい、なぶり殺してやりたい、犯り殺したい、殴り殺したい、蹴り殺したい、刺し殺したい、突き殺したい、  
撃ち殺したい、轢き殺したい、 焼き殺したい、絞め殺したい、斬り殺したい、バラバラに殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、  
殺したい、殺したい、殺したい、 殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、  
殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、 殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい、殺したい!  
 
 密かに心のそこから渇望し続けていたのだ。そのことを知り、腹のそこから笑いがこみ上げてきた。  
 愉快で愉快でどうしようもなかった。  
 
「ひゃはあぁははっはあっはあははははああっはああ!」  
 
 智は絶頂のかなたにいた。恐怖が彼女の殻を壊し、狂喜の生々しいエネルギーを解放させていた。  
いつもは小出しに、 日常の暴走した振る舞いという装いで発散させていた狂気を。  
 
 
 目の前に石ころが転がっていたらしい。彼女は派手に転んだ。  
 腕や顔をすりむき、血が噴き出す。しかし、そんなことは意に介さない。  
 
「ひっひっひっ、ひひひひ」  
 
 うずくまり、しばらく痙攣したように笑っていた。意識は次第に沈静化してくる。いや、鈍化といった方がよいだろう。  
あのとき、本当ならすぐに警察に駆け込むべきだったのだ。だが、それには、あの山であんな時間に自分が何をしていたか  
説明しなければならない。 そんなことをすれば、ちよを殺したことまでばれてしまうのは目に見えていた。それで、一人で  
怯えていなければならなかった。彼女は今、恐怖から解放されつつあった。――狂気によって。  
 
「――滝野さん。そんなとこで何してるの」  
 
 ぼんやりと、智は振り向いた。  
 
「黒沢せんせい?」  
 
 黒沢みなもが立っていた。微笑みながら。  
 
「どうしたのよ、いったい。ああ、手だって擦りむいてるわ。顔だって。こっちいらっしゃい」  
ぼんやりと、言われたままにみなもに近づく。みなもが智を抱きとめるようにして手を伸ばす。  
 
 手にはハンカチが――  
 
 瞬間、智は喉にあついものが走るような感覚がした。次の瞬間には視界が赤一色に染まった。  
みなもはナイフを隠し持っていた。智の喉は真一文字にぱっくりと裂かれていた。  
 
「だめよ、覗き見なんかしちゃ。」  
 まるでやんちゃな男子生徒を叱るような口調でいう。例の微笑みを浮かべながら。  
 
「あ…ぁ……」  
 
 智は口をぱくぱくとさせて何かいおうとしていたが、声にならない。喉から噴水のように血を噴き出しながら、  
ただ、ヒューヒューと風を切る音がするだけだった。  
 
「滝野さんが悪いのよ。本当だったらあなたは殺さずにすんだのに。よりによって、あんなところをみられるなんて。  
彼ね、とってもいい人だったのよ。だけど浮気性だったの。それで、つい殺しちゃったのね。でも大丈夫よ。  
ゆかりもたまに嫌な相手を殺してるから。私たち、協力しあってアリバイ工作は完璧なのよ。それで今度、二人で  
木村を殺そうって話になってね。あなたのお陰で良い予行演習になったわ。――あら、もう死んじったの。」  
 
 みなもは智が聞いていないことを知ると、智の死体をまるで粗大ゴミでも扱うかのように黒いビニール袋に詰め込んだ。  
 その晩、例の山には新しい穴が掘られた。三つ目の穴が。  
 
 

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