明かりが射したような気配がして、篤姫は不意に目を覚ました。
「あ、」
すぐ傍から聞こえる衣擦れの音と優しい気配に、思わず跳ね起きる。
静まり返った未明の自室に目を凝らすと、じきに闇に目が慣れて、見慣れた人影があらわになった。
「上、様!?」
「なんじゃあ、もう気付かれてしもうた」
つまらぬのう、と漏らす声は、反して随分と楽しげだ。
「ああ、びっくり致しました」
驚きを込めてこぼす篤姫に、家定はシッと指を口に当てて辺りを伺う。
「大きな声を出すな、気付かれてしまうではないか」
「も、申し訳ございません」
注意されて咄嗟に謝ってはみたものの、そもそも家定に脅かされたようなもので、篤姫は小首を傾げた。
不服そうな表情に気付いて、家定が忍び笑いを漏らす。
「せっかく寝顔を見ておったのに」
「そんな、おやめください。恥ずかしゅうございます」
「久し振りなのだ、良いではないか」
頬を膨らませた篤姫の怒り顔も、愉快そうに笑う家定には全く効き目がないようだ。
「そちがなかなか会いに来ぬゆえ、また儂が来てやったのじゃ」
冗談めかした言葉に、どこまで本気なのか測りかねてしまいそうになる。
「二度とあのようなことはしてはならないと、随分と幾島や滝山に叱られたのです。それに、」
「『上様はご公務に忙殺されております』」
篤姫の言葉を引き取って、家定は眉を下げて頷く妻に呆れ顔を向ける。
「――昼間は何かと邪魔立てされるからな。皆が寝静まった頃なら幾らか良かろう?」
「ですが、こんな夜更けに…お体は」
家定を案じるあまり、なかなか寝付けぬ日々を過ごしていたのだ。
思えばいまも、漸く眠りに落ちかけたところであった。
「御匙からは、上様はお忙しいと聞かされるばかりで…もしやお加減でもと」
「加減なら悪いに決まっておろう。寄越す薬などちっとも効かぬし、そちは待てど暮らせど一向に来ぬし」
待ってなど居れぬわ。
さも不満そうにこぼした家定は、懐に手をやると、小さな懐紙の包みを取り出した。
包みを開けると、中から白い碁石がころりと顔を出す。
「こんなものを寄越して」
「あ…」
「ますます会いたくなるではないか」
くしゃりとした笑顔を向けられて、篤姫は目を潤ませて思わず口元に手をやった。
嬉しさと切なさが一緒になって押し寄せてきて、うまく言葉が出てこない。
胸元に手をやると、篤姫もまた小さく畳まれた懐紙を取り出した。
「わたくしも、お会いしとうございました…!」
零れそうになる涙を堪えて、黒の碁石を片目に見立て、満面の笑顔を家定に向ける。
「随分と心配をさせたようじゃな」
「上様を案じるのは、妻として…」
妻の得意げな心得顔に、家定は小さく吹きだして水を差す。
「会いたいと夢でも泣くほどだ、まったく妻の鑑じゃな」
「そ、そんな泣いてなど…っ」
両手で頬を覆って慌てて否定する篤姫だが、意地悪な夫は見たぞ見たぞと囃し立てる。
「こんな淋しがりの御台では、先が思いやられるのう」
「上様も淋しがりではございませんか。こんな無茶をなさるくらい」
恥ずかしさに任せて、可愛げなく言い返してやる。
「……たまにはお顔を見せてくださりませ」
家定の膝にそっと手を乗せて、思わず我侭を口にした。
「そうしたら、わたくしも泣かずに済みますのに」
「…そうじゃな」
困り顔ひとつ見せず、家定は篤姫の手をとって頷いた。
「儂もそちの顔が見えぬと心配じゃ」
「わたくしが?」
「また泣いておるのではないかと、な」
「まるで私が、赤子のようではありませんか」
嬉しさに思わず笑みを浮かべていた篤姫は、またからかわれて再び頬を膨らませた。
「…泣いてしまうのは、上様の所為にございますのに」
「儂の所為じゃと?」
「もう、知りません」
恥ずかしげにぷいと顔を背ける篤姫の頬に手を添えて、こちらを向かせる。
「逸らすな。……儂はな、御台」
「そちの笑った顔が好きなのじゃ」
「許せ。また暫く、そちの顔が見られぬようになる」
「――しばらく?」
そうじゃ、此度よりも長くなるかも知れぬ。
「寂しゅう、ございます」
案ずるな、
「儂らは夫婦、一心同体だ。そうであろう?」
幼子に言い聞かせるように、篤姫の両の目を覗き込む。
にこりと笑んで頷いて、篤姫はくすぐったそうに目を細めた。
「いつでも一緒」
「ああ」
白と黒の石を握った手が、それぞれ互いの背に回る。
篤姫の背に回された両の手は、確かめるように体をなぞると、やがて堪えかねたように小さな体を掻き抱いた。
驚きのあまり声が漏れそうになるのを何とか堪えたものの、あまりの力強さにやがて微かに身じろぎをした。
「う、上様? すこし苦しゅうございます」
「ああ、済まぬ」
「いえ、…あの」
すぐに腕を緩めた家定の思いつめたような切ない表情に、篤姫の胸がどきりと疼いた。
よく晴れた空の彼方に暗雲を見つけたような不安感に、咄嗟に家定に縋りつく。
「ん、どうした」
「やっぱり、苦しいのが良うございます」
「何じゃと?」
ならばこちらからとばかりに、家定の背にきつく腕を回すと、ぎゅうとその身をくっつける。
妻の突然のおかしな素振りに目を瞬かせた家定は、そのままくっくと笑い声を漏らした。
「まったく面白い女子よのう、そちは」
「今宵はこのまま――」
囁くような声で請う篤姫の眼差しに、家定は愛おしげに微笑を浮かべると、華奢な体を再び抱き締めた。
願いどおりに抱く腕をいくらか強くして、篤姫の温かさを全身で味わう。
「次のお渡りの時には、また五つ並べをしてくださりませ」
「ああ、そうじゃのう」
床に二つの体をゆっくりと身を沈ませながら、家定が答える。
「次こそは負けぬぞ、覚えておけ」
「ふふ、楽しみにしております」
二つの碁石を包むように手を握って、互いの指がしっとりと絡まる。
息が掛かるほどに頬を寄せ、面映さを浮かべて微笑みあう。
「それから、たくさんお話もしとうございます」
「今はしなくて良いのか?」
「いまは…いまはただ、こうしていとうございます…」
そう言うと、篤姫はぴたりと身を寄せて、家定の胸元に頬を埋めた。
幼子をあやすように家定にとんとんと背を叩かれて、その心地よさに自然と篤姫の瞼が重くなる。
「ん…、だめ…まだ起きて…」
言葉と気持ちに反して、その声は睡魔に抗えず尻すぼみになる。
「構わぬ、休むが良い」
「でも…」
「朝までずっとこうしておる」
傍に居るから安心せよ。
「…うれしい…」
篤姫はひとつ大きく瞬きをしてから、安堵したように笑みを浮かべて瞳を閉じた。
やがてすやすやと寝息をたて始めた篤姫の背を、家定はいつまでもさすり続けていた。
上様と呟く穏やかな寝顔を、しっかりと目に焼き付ける。
「いつでも、そちを想うておるぞ…」
目を覚ました篤姫が跳ね起きたときには、もうすでに家定の姿はそこになかった。
朝の光が差し込む自室をぼんやりと眺めていると、まるで昨夜の逢瀬がよく出来た夢のような気がしてくる。
奥泊まりの触れもないのに、錠の閉まった奥にどうやって忍び込んで、どうやって戻っていったのか。
思えば妙だが、家定のことだ、何か"抜け道"でも拵えているのかもしれない。
「もう、上様…」
手のひらの黒い碁石を見詰めながら、篤姫はにっこりと微笑んだ。
「瀧山や幾島に見つかっても知りませんよ」
微かに鳥のさえずりが聞こえるばかりの大奥に、表のさざめきはまだ届かない。