もう疾うに日が沈みきり、女中にも先に休めと伝えた。  
暗い部屋の中、手元を照らす小さな明かりで、篤姫は生まれてくる曾孫の産着を縫っていた。  
気の早いこと、と自分でも思うが、何かをしていないと落ち着かなかった。  
ぼんやりと生きているだけでは、そのまま流されて消えていってしまいそうだ。  
明治という時代の血潮のたけりを、篤姫は肌で感じていた。  
新政府は、日本の夜明けと声高に叫び、西欧のものをなんでも吸収しようとしている。  
それがどうにも滑稽なことに、篤姫には思えた。  
だが、自分ももう五十路に手が届こうとしている。  
とうに古い人間になってしまったのかもしれないと思い、特に意味もなく一人で笑った。  
 
事実、自分と共に幕末を生きた人々は、次々と世を去ってしまった。  
小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、静寛院宮、養父斉彬、故郷の母。  
思えば、多くの人を見送ってきた人生だった。  
わずか数年の結婚生活で、夫とも死別してしまった。  
 
「もう、これ以上……か。」  
 
以前は、つい夫の位牌に向かって弱音を吐いてしまった。  
彼はどんな顔をして聞いていたのだろうか。  
 
「ひいおばあさんにもなるのかもしれぬな。」  
 
手元の産着を見つめ、しみじみと感慨にふける。  
もはや世は徳川の世ではない。しかしそれでも、脈々と続く血が嬉しかった。  
たとえ、そこに自分の血は混ざらずとも。  
 
「ひいひいばあさんの間違いじゃぞ。」  
 
篤姫の声ではない。聞き親しんだ声だった。  
そして、もう二十五年も聞いていない声だった。  
 
「……」  
 
あまりのことに、声が出なかった。そこには、夫家定の姿があった。  
篤姫はそれでも、ゆったりと微笑むと、そっとその目を閉じ、眠るように首を俯けた。  
漸くか、と、彼女は笑っていた。  
 
「………上様。」  
 
篤姫は立ち上がった。しかし今もなお彼女の体はうつむいたままで、まるで産着を縫いながら寝こけてしまっているようだった。  
一歩一歩、踏みしめるように、篤姫は微笑む家定に歩み寄る。その頬には、早くも堪えきれない再会の涙が流れていた。  
 
「お会いしとうございました。」  
 
深々と頭を下げると、はたはたと涙が落ちる。それは落ちてすぐ、淡い光を放って消えていく。  
彼女は、夫と同じく人ならぬ身になったのだ。  
 
「………遅い!!」  
「え?」  
 
驚いて篤姫は顔をあげる。そこには、生前に見せた笑顔を称え続ける家定がいる。  
それだけで、また涙が溢れた。  
 
「二十五年も夫を待たせおって。待ちくたびれたぞ。」  
「そんな。私は徳川の為に、上様の為に今まで……」  
「わかっておる。……だから、お主を叱るに叱れず困っておる。」  
 
表情を崩さないまま、家定は苦笑いをする。その様が、やはり彼なので、篤姫は笑った。  
 
「上様らしいお言葉でございますね。」  
 
その篤姫の笑顔。家定は、眩しそうに目を細めた。何か、苦しいものを堪えているようにも見える。  
むしろ、篤姫にとっては彼が眩しいほどであったのに。  
 
「しかしお主、随分と老けたのう!!」  
 
苦しげなその表情を振り払うように、明るく家定は言った。  
 
「それはもう、ひいおばあさんでございますから。」  
 
晧歯を覗かせながら、篤姫は朗らかに笑う。その姿は、全く老いを感じさせない。  
その目映さに家定は、また幽かに目を細めた。  
 
「ひいひいばあさんの間違いじゃ。」  
「左様でございましたな。」  
 
二人して、くすくすと笑う。幼子が、成功した悪戯に笑っているようだった。  
 
「二十五年か。日本国もすっかり変わってしまったものじゃ。端で見ていて、わしははらはらし通しじゃったぞ。」  
「……申し訳ございません。」  
 
世に、もはや徳川の栄えた跡はない。  
それどころか、古き時代の形跡は名残もなく押し流されんばかりだった。篤姫は、そのことを思い目を伏せた。  
しかし、家定は子供のように頬を膨らませて言った。  
 
「謝るならばあのように不用意に男と二人きりになったらするでない!!」  
「……は?」  
「なんじゃあの小松とかいう男は。本妻と側室まで持ちながらお主のところにもたびたび足を運びおってからに。」  
「上様、小松殿はただの幼馴染で。」  
「勝も勝じゃ。何かにつけて土産を持って現れおって。」  
「あれは親切で、本寿院さまもたいそう喜んで……」  
「井伊ともしょっちゅう茶を飲んでおったしな。」  
「……」  
 
ここまでくると、篤姫はだんだんおかしくなってきた。  
 
「だいたいそちは無防備に過ぎる。落飾したとてそうそう滅多に男などと会うてはいかん!  
わしが死ぬのが分かっていたならばそれをきつく言い聞かせてから逝くべきであった。」  
「上様……」  
「何じゃ!」  
 
ぷりぷりと怒りながら向けた顔があまりにも愛しくて、篤姫は笑おうとしたはずなのに、涙が出ていた。  
 
「……どうした。」  
 
きょとんとした顔が、それもまた、嬉しすぎて、ただ嬉しいだけで、言葉にできなかった。  
苦さだけが喉にこみ上げて、漏れたのは吐息だけだった。  
 
「急に泣き出しおって。何も言わんではわからぬではないか。死んだからなんでもできるという訳ではないのじゃぞ。」  
「いえ……ただ、あまりに。」  
「ん?」  
「上様は、嫉妬なさっておいでだったのですか?」  
 
笑いながら涙を流し、上目遣いに篤姫は家定に恐る恐る尋ねた。  
 
「……馬鹿を申せ!」  
 
と、叱られるかと思った。なのに、家定は急にまじめな顔をして、言った。  
 
「そうだ。」  
「え」  
「おぬしをずっと、待っておったのだ。嫉妬などと言う優しい言葉で片付くものか。」  
「上様……」  
「先に往ってしまおうかとも思ったがな。結局おぬしが心配で待っておったのだ。」  
と、家定は篤姫の目をじっと見つめて言った。篤姫はどう返事をしたものか分からなくて、ただ頬を染めていた。  
流れる涙も乾かんばかりの熱さだった。  
 
「長かったぞお、二十五年は。」  
「……お待たせいたしました。」  
「まさか、おぬしがひいひいばあさんとはな。」  
「本当に。」  
「二十五年か。それで、国はこれだけ変わるものなのだな。」  
「……申し訳ございませんでした。」  
「何がじゃ?先ほどから何を謝っておる。」  
「徳川の世を、私は、守りきれませんでした。」  
 
真摯な瞳で、篤姫は家定を見た。  
何なりと処分を受けよう。そういう顔をしていた。  
最早生を持つものではないと言うのに、彼女は。  
家定はあきれ半分、尊敬半分で微笑んだ。  
 
「そんなことか。」  
「そんなこととは。」  
 
抗議するような口調。いつの間にやらずいぶんと説教くさくなったなと、家定は口にせず思った。  
 
「おぬしが何を謝る必要がある。日本国は生きておるではないか。」  
「……え?」  
「今日のおぬしはよく顔を変えるのう。昔のようじゃ。」  
 
そう言う家定は欠片もかわっていない。  
当たり前なのだけど篤姫はまた不意に泣きそうになる。  
 
「日本国が、生きている」  
「今日はずいぶん涙もろいな。年のせいか?」  
 
茶化す家定と、軽くて重い彼の言葉にふっと体の力が抜けた。  
そうだ。この国は、生きているのだ。生きているどころか、生まれ変わろうとしているのだ。  
 
「おい」  
「申し訳……」  
 
自分の中に溢れ出るものを操縦し切れなくて、篤姫は言葉までも失いそうだった。  
 
「……何を、泣く必要があるか。」  
 
返事もできず、篤姫は、ただぽろぽろとなく。  
本当に心から安心したとき、人は言葉を失うようだ。  
 
「近う寄れ。」  
 
手招いても、篤姫は動くこともできないようだった。その細い双肩は、ただただ震えるばかり。  
仕方ない、と言うように、家定は歩み寄り、その肩を胸の内へ抱き寄せた。  
とん、と、彼女の肩が預けられた瞬間、家定もまた、急な寂寥に包まれた。  
彼女がどうしてこうまで泣くのか、分かった気がした。  
 
今までこの小さな両肩にすべてがのしかかっていたのだ。家定が死して後、大奥を切り盛りし、時には政治の表にも関わった。まして、江戸城を引き渡し、徳川の世が終わるのを見届けたのだ。将軍の妻として母として、彼女はずっと一人で戦ってきたのだ。  
今更ながらに、彼女を残して逝った自分が口惜しかった。  
 
「……すまなかった。」  
 
自然と、肩を抱く指に力が入る。たまらなくなって、彼女の体を抱きしめた。  
今こうして触れていられることの幸せを噛み締め、いつの間にか泣いている自分に家定は気づいた。  
 
「上、様」  
 
驚いた様子で、篤姫は夫を見上げる。  
 
「……わしとて、寂しかったのだ。」  
 
露骨に拗ねた声をして、家定は篤姫を抱く腕に力を込めた。  
 
「……私もにござりまする。」  
 
そっと、自分の両腕を夫の背に回す。  
こんなにも、広くて大きなものだったのかと、久方ぶりの感触を味わった。  
 
「もう、おいていくこともない。」  
「はい。」  
「待つことも、ない。」  
「はい。」  
「……本に、大儀であった。」  
「……これからは」  
「ん?」  
「まことの、夫婦でございますね。」  
 
にぱ、と笑った篤姫の顔。それはもう、奔り切って疲れ果てた彼女ではなく、家定に出会ったばかりの、弾けんばかりの若々しい彼女だった。  
 
「往くか。」  
「はい!」  
 
これから先の道が、いったい誰の歩むものなのか。  
それを思わず疑うほどに、二人の顔はまばゆく輝いていた。  
しっかと互いの手を握り締め、幼子のように二人は駆け出した。  
これから先常しえに途絶えることのない、分かたれることもない道を、ただまっすぐに。  
 
一途な淀みない心のまま、思うままに、二人は初めていくことができるのだった。  
 
 

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